2018-04

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懐かしい学校 その4

 中國青島の旧日本人小学校の様子はかって在学したことのある人にとっては忘れられぬ存在だと思います。
 第一、第二、第三は市内。少し離れた所に四方、滄口と五校ありました。
 私の在f学した第一日本小学校の校庭の広さは「その3」で紹介しましたが、校舎は重厚な作りの立派な建物でした。
 教師は日本から派遣されて来ていたようですが、立派な先生ばかりと言っても良いでしょう。
 教育のレベルも高く、当時東京が100とすると青島は105などと言う言葉も耳にしておりました。

 教室は靴のまま入って行きます。日本の小学校で教室には下足ではダメでしたから、私は何か外国に行ったような気分になったものです。
 校舎には暖房設備が施されており、教室の中では冬でも寒さを感じることはありませんでした、
 スチームの上にお弁当を載せて置き、温かいお弁当を食べることが出来ました。
 お弁当を持って来てない生徒は正面入り口に近い所に設けられたパン売り場でパンを買っていました。
 その場所では時々運動靴の販売もされたのです。

 校舎に囲まれた中庭では朝礼が行われたものです。その中庭には生徒が日射で倒れないようにと、アカシヤが植えられ、夏は日陰になっておりました。
 
 昭和15年 紀元2600年と言うことで日本では様々な祝賀行事がありました。
 そのことからでしょうか。校庭に立派な遊具が設置されました。

        
         昭和15年運動具

 私はこの校庭方向から帰宅するのですが、毎日のように此処でランドセルを放りだして遊んだものでした。

 中村校長先生は、日本人社会に信頼されていたのでしょう。
 この遊具の設置の内容までは知りませんが、日本人社会も寄付をされたのだと思います。
 
 この昭和15年に校内放送の設備も出来ました。お昼になりますと音楽が流れたり、生徒の朗読の声が聞こえたりしました。
 先進的な学校と言えましょう。

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懐かしい学校 その3

 日本の半農半漁の田舎の学校から転入した中国青島の学校に私は驚きましたが、直に皆さんの中に溶け込むことが出来ました。 
 青島は中国の中でも海あり山ありの風光明媚な都会でした。
 子どもたちも大らかだったのでしょう。私は活発に学校生活を過ごしていました。
 第一日本尋常小学校の規模は、「その2」に参考に入れました青島満帆さんのブログにもありましたが、彼は自慢は校庭だと言っております。

         一小校庭905

 これは昭和16年の3月のことだと思います。第一から4月に開校する第三に移って行く生徒ととの最後の集合写真ですね。
 生徒は1000人を超えていたのです。
 ですが校庭は未だ余裕がありますね。この写真を拡大したものは現青島日本人学校の校長室にも掛けられております。

         一小全校生徒906

 この写真は昭和13年のものです。校庭の上に作られていたスタンドに並んだ生徒と兵隊です。
 凄い人数ですね。運動会の時にはこのスタンドに家族が座り子どもに応援をします。写真は+-で大きくしてご覧になって下さい。

 第一から第三に移る生徒とのお別れが近くなった春 第一公園(現中山公園)にお別れ遠足と言う遠足に行きました。

         一小2年遠足085

 先生は古賀先生です。私は前から三列目の右から四番目に並んでおります。
 いさむちゃんも桜島さんも最後列に並んでおります。
 懐かしい写真です。引き揚げで子どもの時の写真は本当に少ないので、こうして自分を見るとなお思い出が募って来ます。

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懐かしい学校 その2

 中国青島の学校は私が想像していたより早くに出来ていたようです。
 それは第一次世界大戦まで遡って知ることが出来ます。 「ここに」詳しく出ております。
 第一日本尋常小学校は「その1」で書きましたように、当時の日本の小学校とは想像を超えた規模のものでした。

        青島第一校舎面積

 この写真は既に目にしておりましたが、今回の一枚は中村八大さんの妹さんの手元にあったものですから、書き込みは中村校長先生が記されたものでしょう。
 校舎の上に坪数が書かれております。学校も立派ですが、官舎も立派な洋館でした。
 同じ構図の絵葉書があります。以前掲載致しましたが、再度掲載致します。

        青島一小絵葉書

 この美しい校舎は日本人の手により建設されたものです。この校舎のことは「ここで知る」ことが出来ます。是非ご覧になって下さい。

 私がこの学校に転入したのは昭和14年9月です。既に生徒数は1.000名近くになっていたようです。
 生徒数が増えて新しい学校が出来ました。
 それは第三日本尋常小学校ですね。
 第三は昭和16年4月に開校されました。
 時々コメントを下さる桜島さんも第三に移って行きました。
 
 昭和15年2月の大青島市の人口は1.887.000余り
 市内人口は530.444人 大都市ですね。外国人も多く、国際都市とも言えましょう。

  当時の在留邦人の数を記して置きましょう。
 昭和14年9月末  日本人戸数 5.995戸 在留日本人 23.647人
 昭和15年2月    日本人戸数 7.732戸 在留日本人 28.683人
 
 これを見ましても子ども数が増えたことが分かりましょう。

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懐かしい学校 その1

 昭和14年4月 小学校の2年生になりました。一学期の終わりに田舎の学校から中国青島の学校に転校することになりました。
 2学期から青島第一日本小学校に転入しました。
 学校の規模は日本の学校とは桁違いで驚きの連続でした。
 
 先頃 鹿児島在住の瀬戸山敏子さんと言う方から貴重な写真が送られて来ました。
 瀬戸山さんは中村八大さんの妹の旺子さんと親しくなさっているそうです。
 瀬戸山さんは日本に帰国後、 昭和28年と仰っていましたが、雑誌に八大さんのビッグフォーの記事を見つけ、出版社に八大さん宛の手紙を送ったそうです。
 青島の小学校で仲良しだった旺子さんのことを知りたかったからだそうです。
 手紙は旺子さんに届き、以来今日まで親しく交流なさっているそうです。
 旺子さんから送られて来たと言う写真を何枚も私にも届けて下さいました。

        青島第一先生

 この写真は昭和14年3月 春ですね。書き込みは八大さんのお父様の中村和之校長先生が記されたようです。
 最前列中心は中村先生です。
 三列目の左端は私の青島での最初の先生。古賀光一先生です。
 古賀先生は作家の南條範夫さんの弟さんです。先生はダンディーでしたね。
 奥様もモダンな素敵な方でした。学校の近くの洋館に住まわれておりました。

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友人のメール

 8月24日に青島便りをアップしました。
 それを見て下さいと青島羊会の友人にメールを送りました。
 友人の何人かがメールを送って下さいました。その中の一人が以前「友人の挨拶」ということで紹介しました武藤直大さんです。
 今回頂いたメールがとてもユニークなお話で、私も小学生の頃の読み取りと言う授業を思い出し、下記に転載させて頂くことにしました。
 ご本人には了解頂いております。

 【青島の写真有難うございました。忠の海は小魚山の麓にあった我が家から毎日見ていた景色!手前の緑は濃くなり、海は更に遠浅になった感じ。でも建物は全部変わっているなぁ、、、としばし見とれていました。

 私は家にゴロゴロしていてはダメ、と努めて外に出るようにしています。最近、小学4年の孫娘の授業参観に行ってきました。自宅の目白から世田谷・松原まで自転車で70分。授業は英語と日本語です。
 英語はネイティブの先生が日本語英語を混ぜながら、ビンゴなどして遊んでいました。1カ月に1回の授業とのこと。まぁ英語に慣れさせるのには役に立つでしょう。

 面白かったのは日本語。始めは全員起立して暗唱をしました。
 「春はあけぼの ようよう白くなりゆく山際 少し明かりて 紫立ちたる雲の、、、」
 清少納言の「枕草子」の書き出しの春夏秋冬の部分です。暗唱できなくなった子は座ります。40人の児童中、最後まで立って言えたのは3人。意味は分からなくても日本語の抑揚というか美しい調子を身に付けさせているようです。
 教科書は世田谷区教育委員会編となっています。後日、ママに聞いたら、もっと面白くなりました。教科書には福沢諭吉の「雨にも負けず風にも負けず」の詩や和歌、俳句、漢詩などが並んでいます。そして3年の3学期の孫娘の通信簿に先生の評がありました。「小野小町の感想文は良くかけました」と。

 その授業では小野小町の「花の色は移りにけりないたずらに 我が身世に古る眺めせし間に」の歌を教え、彼女は美人だったけれど晩年は幸せではなかったこと。恋人の深草少将との恋の駆け引き。少将から言い寄られた小町は「貴方が百回訪ねて来たら会いましょう」と答えた。少将は99回目に来たところで病気になり死んでしまったこと。

 この物語についての感想文がよかったらしいのです。
 孫娘と百人一首をしたら、彼女は私以上に取り、小町の札は人に取らせないように、手元に並べています。
改めて「日本語」の授業に興味を持ちました。これは普通の教科以外に世田谷区立の小学校の校長の独自の判断でやっているようです。

 この小学校は土曜日も休日ではなく授業しています。その代り、別の曜日に授業時間数を少なくしています。先生次第で区立でもこんな教育が出来るのか、、、と感心しました。】

 武藤さんが住んでいた頃の忠の海の写真を2枚掲載いたしましょう。武藤さんご覧ください。

      忠の海15年  青島忠の海15年頃

     左のは写真集からのものです。   右は絵葉書です。

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プロフィール

相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日86歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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