2017-08

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6歳の私

 80年前の私6歳です。 テレビで幼稚園で仲良しだった友人を見て懐かしさが募り、ネットで住所を探し、手紙を出しました。
 それは昨年のことです。そして今年になって妹の姑の葬儀に行った際、彼女に会うことが出来ました。
 何回か電話で話すうちに幼稚園最後の遊戯会の写真のことで盛り上がりました。とても興奮しました。
 
 我が家は両親が北京から引き揚げて来る時、写真は持っていては駄目だと言うことで、全部処分をして帰国。
 ですから赤ん坊の時の私 パスポートに貼られた妹の可愛い写真 私と手を繋いだ弟の写真など皆心の中にあります。
 手元に今ある子どもの時の写真は、親戚や知人などから頂いた僅かな物で、精々10枚位でしょうか。

 私が幼稚園と言っていたところは幼稚園ではなく安房保育園と言うのです。ネットで調べて分かりました。
 運営していたのは「三福寺」と言います。

 この保育園での「お八つ」の話は前に書きましたし、「泥んこ遊び」のことも載せました。
 私は京子ちゃんと覚えていたのですが、後に恭子さんだと分かりました。

 恭子ちゃんから写真が送られて来ました。お遊戯会で一緒に踊った三人の中の横山さんが持っていたのです。
 三福寺に私が写真のことを問い合わせましたが、古いことで分かりませんとお詫びの返事をいただいたので、見るのは諦めておりました。
 それを恭子ちゃんが横山さんと連絡を出来るように色々とご苦労なさって下さったのです。

         遊戯

 これはアリとキリギリスと言う劇中でのダンスです。蝶が音楽に合わせて踊ったのです。歌は千草や千草乱れ咲きて~~と。
 真ん中が私 左が恭子ちゃん 右が横山さん 横山さんは都内で働いていたそうですが、定年後実家に戻られたのだと分かりました。

         卒園

 三人は園児の最後部の左側に並んでいます。ダンスの時と同じです。
 三人の後ろの和服の若い先生は平柳先生と言い優しくて館山の目抜き通りの時計屋さんと結婚されました。
 お店の前を通る時に店内を覗き、先生と言葉を交わすと嬉しかったものです。

 恭子ちゃんとは電話で盛り上がります。元気なうちに時間をとり、ゆっくりと思い切り喋りたいものです。

 恭子ちゃんはX JAPANのYOSHIKIさんが高校生の時、練習の後に良くカレーなどを食べさせて上げていたのだそうです。
 そのことがテレビで紹介されたので私は恭子ちゃんに気が付いたのです。

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私のブログを見ていた二人

 私のブログは2006年2月から始まっています。
 毎日見に来て下さる方も少しずつ増えて来ております。
 
 明治大学校友会我孫子地域支部第14回総会の内容を見た方が驚き、コメントを入れて下さいました。
 総会での閉会の言葉は支部の常任幹事をされている真仲良範さんです。
 姿も総会の記事の中で見られました。
 驚きのコメントを直ぐに入れて下ったのはNHKの中国語講座で長く一緒に学んだ塩畑薫さんです。
 なんと(こういう時に使う言葉ですね)会社で一緒に働いていた方だと言うのですよ。
 二人は私の思うところ、毎日私のブログを見て下さっているようです。
 それは先ず塩畑さん 中国語で字の間違いなどがありますと、直ぐにソフトに指摘して下さいます。
 真仲さん 時々街中でお会いしますと、ブログのことを話題にしますし、我が家の食事も良くご存知です。

 お二人が勤めていたと言う会社のことは全く知りません。ですがお二人の姿勢を見ますと、きっと全うな会社だろうと思うのですね。お二人とも実に穏やかなんです。

 先月真仲さんは元の同僚二人と札幌に住む塩畑さんを訪ねたそうです。
 真仲さんからメールを頂き、4人で美味しい料理を頂きながら、楽しく一夜を過ごしたと知りました。
 真仲さんのメールにも書かれておりましたが、塩畑さんは驚くほど若々しく、再会までの5年というのに、変らないように見えたそうです。
 私はある時期まで塩畑さんは独身だと思っていたのです。それが突然「孫にお土産を~~」と言うのですね。
 それで驚きました。その時も思わず声を出してしまいました。「ええ?お爺さん?嘘みたい」ってね。
 塩畑さんは定年後は札幌に居を移し、中国語でのボランティアガイドをされております。「遊びに来て下さいよ。その時には中国語で案内しますよ」と仰っています。私と大違い。恥ずかしいですよ。
 私のブログを覗いていると言う共通の事柄がありますから、札幌でもチビ孫のダブルダッチのコンテストのことや私の旗袍の話しなども出たそうです。嬉しいですね。

         朝食7月10日

 これも見て下さるでしょうね。今日の我が家の朝食です。毎日変わり映えしませんが、健康でありたいと作っております。
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明るい月

 YAHOOのトピックスを眺めていました。
 そこに今夜の月がスーパームーンという普通の満月と比べて明るい月だと出ていました。PCの前に座っていた私が右側に目をやりますと月が昇って来ておりました。目の前です。下手でも構わない撮ってみようとカメラを向けました。

      スーパームーン

 この月はスーパームーンと呼ばれ,NASAによりますとこの満月は通常の満月より大きく明るい満月のことだそうです。2012年の他の満月より14%大きく30%明るいのだそうです。
 月の軌道が楕円形を描いているためで、月が地球に一番近づくのは5日の昼の12時34分。
 日本で見られるのは5日~6日の夜だそうです。

 昨日のようなお天気でしたらとても見られなかったでしょう。今日は見事な五月晴れ。良かったです。

 良~く覗きますと星も光って見えます。これは見つけものでした。
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三島由紀夫の軍服

 昨日長いこと無沙汰に過ごしていた西部博之さんから電話を頂いた。
 明治大学の同期の一人です。彼は4組 私は5組 4組と5組は交流を盛んにしておりました。
 10年ほど前までは毎月の飲み会も一緒に集まっていたものです。
 若い頃 5組は毎年一回 クラス会をしておりましたが、50歳頃になりますと月一回というように変って来ました。30代の頃 集まって話す内容はそれぞれが会社を背負って立っているような勢い。やがて話題の中に子どもことなどが入って来ました。歳を重ねている内に自分の健康問題に関心が移り、数値の自慢ゴッコ。
 飲み会は今は全く開かれておりません。

 西部さんの電話は久し振りでした。以前鼻煙壺の蒐集家が彼の知人だと分かり、そのことで話して以来でした。
 同級生の多くが病を得ております。先ず昨日も今の健康状態がかくかく斯様なことでと始まりました。5年も前から杖を使っているそうです。用件は幾つかありましたが、私に分かることは説明をしました。

 ブログの話になり、私が「相子老婆~」の中で同期のことを紹介していると伝えますと、彼は自分の名前で検索して見てと言います。早速検索しました。

 バナナ・ヒロシの「はーい!バナナです」というブログに彼の名前が出ていました。内容は彼の関わった部分だけ転載しましょう。

軍服制作
楯の会の制服を製作したのは西武デパート。当時の社長、堤清二に三島は相談を持ちかけた。三島は堤に、日本の自衛隊は外見的にも格好が悪い。楯の会になにかいい制服はないかと頼み、堤は個人的な関係でそれを引き受けた。堤は、文学作品と同じ三島美学の運動のひとつとして楯の会を理解していた。

そして西武百貨店の子会社である『エフ』ファッション連合の西部博之が担当になった。最初の注文は25着。デザインはフランスのテッド・ラビドスの店でドゴールの制服を作ったことのある五十嵐九十九(つくも)。三島は細かい注文を出した。

「まず襟のかっこう、帽子のカーブの具合から線の引き締め方まで三面鏡に写してみて、こうしたらいいかとか、いやこれはまずいということを何回もやってごらんになる。グリーンのフェルトを襟や袖当てにつけるのも、鏡の前で取ってみたり、外してみたりたいへんでした。最初は冬服をつくったのですが、この布地を決めるのにも人騒動。たくさんのサンプルを布地のなかからひとつを選ぶと、『このカーキ色で、この布地を、どんなことをしてでも揃えてくれ』とおっしゃる。ところがこのカーキ色自体が大量生産をしていないので品薄で、とても同一の色のものを、そんなにはやく集めることはできない。そこでその旨を申し上げると、『あらゆる努力をしてくれ』、しかも一ヶ月で作ってほしいとおっしゃる。ですからそれこそ全国手配の切りきり麻衣。帽子の紋章はどこかの文献らしきものからお採りになって、メモ用紙に自らデザインし、『この色はいぶせ』と配色まで指定されました」(西部博之)

結局自決にいたるまで、『楯の会』に費やした三島の金額は800万円以上にのぼるという。まだサラリーマンの一ヶ月の給料が10万円にも満たない時代のことである。
刀剣の所持の規則に抵触しないように、剣の長さを短くして、結局ペーパー・ナイフのようなものになり、それだけが不服だった。

三島は「楯の会」の制服をたいへん気に入っていた。三島の舞台作品の常連役者である中村伸郎が、みせてよ、というと劇団にその制服を着用してきた。中村は「まるで七五三の服みたいだ」といったら三島は怒ったという。』

 2008年11月25日私は防衛庁の前をバスで通りました。11月25日は1970年の三島由紀夫の自決した日です。

         防衛庁前

 戦後の中で私にとって大きなショックを受けた事件です。

 ところで西部さんのことですが、彼が就職したのは西武デパートでした。取締役になり、西友富山の支店長になり、その後本社に戻りエフという会社に移っていたのです。若い頃は時々会う事もありましたが、三島の軍服の話は全く聞いておりませんでした。因みに彼は学生時代堤さん宅に下宿をしていたと聞いております。
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全て初めての経験でした

 先日胡麻豆腐を頂きました。黄檗山萬福寺の文字が見えました。萬福寺の駐車場にある萬松閣というところで売られているようです。
 
            胡麻豆腐

 私が初めて胡麻豆腐に出会ったのは萬福寺の門前にある白雲庵という普茶料理の店でした。
 1959年の秋 私は学生相談の仕事で関西に出張しました。所謂視察?訪問?
 ご一緒したのは心理学の堀淑昭先生、学生課の杉原方平さん 3人はその年の4月に開設された学生相談室の運営に付いて当時学生相談の先進校として知られていました同志社大学と立命館大学を訪問すすことになったのです。
 そもそもカンセリングというものは、言葉はおろかどのようなことか世間では全く知られてもいなく、大学でも関心を持つ教職員の一部でしか知られていないと言う世界でした。
 私は夏休みに学生の部活動に付いて行く出張はしていましたが、本務の業務上での出張は初めてでした。
 9月に伊勢湾台風が日本を襲い、京都への出張は台風後一ヶ月が経っておりました。名古屋近くの風景は惨憺たる状況を呈し、これは見たこともない景色でした。
 訪問を終わり、3人は宇治に向かいました。明大にお出でになる前京都大映本社に勤めておりました杉原さんが先達です。
 まず萬福寺境内に入り、その中国を思わす寺内の静謐な佇まいに感動を覚えました。大きな魚板も初めて目にし、寺のあり様を偲びました。
 そして昼食を白雲庵で頂きました。これも初経験でした。漁村で長く過ごした私には精進料理とは縁のない食生活でしたので、その一品一品を興味と感動を持ちながら頂戴しました。
 食後これまた杉原さんの案内で平等院に向かいました。
 その日の平等院は観光客は殆んど見えなく、修学旅行の高校生で一杯でした。
 3人は一通り拝観し、ご住職の待つ庫裡に案内されました。思いもかけないようにことが進んで行きました。
 杉原さんは平等院と縁が深く、訪問を伝えてあったのです。
 庫裡の欄間は左甚五郎の彫ったものです。立派な広い座敷でご住職とお会いし、ざっくばらんな話に緊張もほぐれ、これまた目にしたことも食べてこともない京料理のお皿が次々に運ばれて来ました。
 部屋の隅々までチリ一つないという言葉がピタリの空間です。
 全てが初めての経験でした。
 
 出張は最低の旅費と宿泊費しか出ませんから、各自知り合いの家に泊めて頂き、この宇治行きの為に費用を浮かしました。杉原さんは残り私は堀先生と夜行で東京に戻りました。その車中初めて列車の中でビールを飲むと言う経験をしました。
 これまた初めての経験でした。

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プロフィール

相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日86歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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