2017-10

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天栄村は雪だった

 昨日朝 福島の天栄村に住む友人から電話があり、「原田大二郎さんの舞台を見に行くのよ」と言ってきました。
 「それじゃぜひ楽屋に行き我孫子の持永の友人ですって言って握手をして頂いて。宜しくって伝えてね」と言い電話を切りました。
 夜分遅くメールが入って来ました。

今日は残念ながら、原田大二郎さんの芝居を見に行くことができませんでした。
 横田めぐみさんの父親の役でした。強さや精悍さが印象に残る若いころに比べ
 齢を経て今、横田滋さんのどうにもならない苦しみや悲しみをどう表現するのか
 楽しみにしていました。

 どうしても観たくて随分迷ったのですが、2時ころにきた郵便屋さんが「大変だった、20キロで走っていたのに、すべって1回転してしまった」という話を聞いて諦めました。
 街中の雪はチラチラ程度だったようですが、山では休みなく降り続く大雪です。
 改めて過酷な暮らしをしているのだと感じました。明朝はまた雪掻きからはじまります。


 公演は白河市において拉致問題啓発舞台劇公演「めぐみへの誓い-奪還」と言う舞台でした。

       megumi-shirakawa-chirashi-1.jpg

 彼女が行けなかったことで原田大二郎さんにLINEで昨夜の公演に天栄村の友人は雪で行けなく、残念に思っていますよ。と
 送りましたら、直ぐに返事が来ました。

 それは残念でした。昨夜の公演は、いつにも増して上出来でしたから、きっと、満足してして頂けたでしょうに。
 どうぞ、よろしくお伝えください。
 天栄村の方に内閣府に申し込んで頂ければ、我等、どちらにも伺います


 と仰って下さいました。
 
 これは彼女に伝えました。とても喜んで呉れました。

 天栄村は今日の夕方まで雪がちらちら舞っていたそうですが、夕方には止んだそうです。

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さつま芋の話

 先日千葉の多古の方からオマケにさつま芋を頂きました。
 この季節になりますと、昔は道路や庭先に落ち葉を集め、枯れ枝なども持ち寄り、焼き芋を焼いたものです。
 昔のさつま芋は今の美味しい物とは違い、地元で種芋から育てていた芋です。
 さつま芋は甘藷とか唐芋とか言われもしますが、田舎では普通に芋と言っておりました。
 鍋奉行ならぬ焼き芋奉行がおりまして、早いの、焼き過ぎだのと指揮をとっていました。
 今都会では焼き芋を焼くのも難しいことが決まっているようですね。火災に関係するのか、煙が問題なのか。兎に角このような生活が出来ない世の中になています。

           さつま芋

 一階のスーパーでは安納芋が焼き芋で並んでいます。偶に小さめの物を二本買って食べます。美味しいです。

 1942年に中国から帰国しました。翌年の秋 今頃ですね。私は小学校の6年生になっておりました。
 戦中でさつま芋を干して軍隊に供出すると言うことで、校庭でさつま芋切りをすることになりました。
 蒸し芋を干すのではなく、生のさつま芋を拍子切りに切って干すのです。
 家からまな板と包丁を持ち登校しました。授業は勿論その時はなしです。
 校庭に藁むしろを広げ、女子生徒はそこに座り、さつま芋切りをしました。その頃は西の冷たい風が身体に吹き寄せています。
 包丁を持つのは6年生の女の子には辛いことです。ですが供出ということで、皆一所懸命に芋を切りました。
 考えてみますと、それは誰が食べたのでしょうか。今思うと摩訶不思議に思うのです。軍隊が房総の沿岸に米軍の上陸を阻止する為にやってきたのは、もう少し先のことなんです。
 材料の芋は校庭で高畦で育てた物なんですね。子どもたちの口に入った記憶はないのです。
 酷い時代でした。

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70年前のこの日

 戦後70年ということで、色々なことが思い出されます。
 1945年5月18日のことは8年前にアップしております。
 私は女学校の2年生 今の中学2年生ですね。今思い出してもその夜のことは忘れることは出来ないと言うか、忘れないでしょう。
 千葉県房総半島の先端の町 白浜と言うのですが、今は南房総市白浜町と言う所です。
 その町の先端(最南端です)そこに野島崎灯台があります。日本でも古い洋式灯台です。霧笛の響く夜は自然に目が覚め、海難が起きないようにと厳粛な気持ちになったものです。
 その灯台を背にして北に山があります。山国の方から見れば山とは言えないような山です。
 名前は城山(じょうやま)と呼びます。
 その山を目掛けて米軍の艦隊が艦砲射撃をして来たのです。

        城山

 手前が灯台方向です。北の方向の小高い山 これが城山です。
 親戚の葬儀に行きました時、撮して来ました。もう二度と見ることはないかも知れないと心に刻み帰宅しました。

 ネットは色々なことを調べることが出来ますね。この白浜の艦砲射撃に付いてもそうです。
 ここにリンクして置きます。ご覧になって下さい。

 この艦砲射撃のあった数日後の夜です。沖から轟音が聞こえて来ます。
 祖父母は直ぐに私と妹に山の避難小屋に行くようにと言います。
 「私達はどうなっても良いけれど、二人は逃げなさい」と家から追い立てるように小屋に向かわせました。
 避難小屋はそのときより少し前に作ったものです。山道からずれた木で隠れるような場所に丸太を並べます。
 その周りの四隅に柱を立てて、蚊帳を釣るようにします。
 屋根は雨漏りがしない程度の簡単な屋根です。一応夜具は置いてあります。

 その小屋に行くのには峠を越します。妹と手を繋ぎ、峠に立ち海の方を眺めました。
 日本の船と何処かの船との砲弾が飛び交っています。物凄い音とその撃ちあう砲弾からか出る閃光は恐ろしくてなりません。
 私は妹の手を引き、必死で避難小屋に向かい、たどり着きました。
 小屋は暗く、二人だけです。とても眠れるようなものではありません。
 翌朝小屋から家に戻りました。
 峠から沖を眺めますと、砲撃で叩かれた船が浮かんでいました。そのことを書いたものは未だに目にしておりません。
 戦いはこうして大きな辛く切ない悲しいものを人に与えます。

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70年前のこの日

 あの3月11日を前にして、この数日は東関東大震災のことをテレビは報道しております。
 それと並行して70年前の東京大空襲のことも紹介しております。
 この日が来る度に私の頭に浮かぶのは夜中に眺めた遠くの東京の空です。
 昨年も書きました。
 この日の事だけではなく時々東京へ向かうB29の編隊の爆音が耳に蘇って来ます。
 轟音と言って良いでしょう。
 東京大空襲の後からはB29は高度が低くなり、昼間には東京湾を北上する編隊は帯のように並んで北へと向かいます。
 そして艦載機による襲撃は毎日のようにやって来ました。
 空襲が激しくなる前、女学校では道路から校門までの敷地の両側に防空壕を作りました。いざと言う時にはそこにクラス毎に座り込み避難します。
 防空壕を作るために学校から材木を運びに行きます。松の生木の丸太を二人で一本担ぎ、学校まで戻って来ました。

 辛いことでもありましたが、命を守るためには頑張ってゆかねばなりませんでした。

 様々な記録がありますね。何点か取り上げて置きます。昨年の中にもありますので、ご覧になって下さい。
 
 東京大空襲   昭和毎日  空襲の記録 

          焼け跡

 東京大空襲では一夜にして東京の下町は廃墟のような姿に変わり果てました。

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空は晴れていますが

 この数日晴天が続いております。
 昨日も、今日も冬の澄んだ空の色が柔らかな日差しを私に注いで呉れます。

 老人は運動不足になりますから、せめて日光浴でもして陽に当たるようにしたいと思っております。

 ベランダで椅子を広げて午前の内にそれに座ります。僅かな時間でも瞑想するって良いものです。

             日光浴

 空は晴れていてもこの数日の出来事は何をしていても心に重くのしかかっております。

     総理官邸  朝食2月2日

 一体日本は世界の中でどう進んでゆくのでしょうか。気に掛かりながら過ごして行くのが続くのでしょうね。

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プロフィール

相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日86歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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