2018-07

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お喋り4時間

 昨日の集まりにお仲間と言っては何か申し訳ないような感じがします。
 明治大学学生相談室は発足時から教職員一体という考え方で運営されていました。
 1959年から既にそれは59年が過ぎています。
 現在の学生相談室は大学の中での位置づけも確りとしておりますが、私が関わった時代は位置付けはあるようなないような、可成り曖昧な部分があり、それだけに関係者の結束は固く、こうして交流の続いている方もいるのです。
 昨日は政経学部の木谷光宏先生、それに農学部でフランス語を教えていられた中島公子先生。
 それと相談室でインターカーを務めていた島田栄子さん。そして私。
 長いお付合いですから、考え方もお互いの家族のことも良く分かっております。
 話題は色々出て参りますが、彼方此方に飛びます。
 高齢者の問題、介護の問題。
 時事問題やこの時代に見られる様々な現象。政治はどうなっているかとか。中国との関係はどうなって行くのかとか。
 時代の要請で組織が大きくなって来ると新しい専門家が中途採用で増え、その組織全体の運営が如何に難しいかとか。
 話題は際限がありません。
 特に時間を取ったのは、高齢者の老いて行く時の周囲の対処の仕方ですね。
 中島先生のご主人の介護の体験はとても参考になりました。特に老いても認知症になっても、人それぞれがプライドを持ちつ過ごしていると言うことです。その人を理解することの重要さ。周囲の方のサポートの大切さ。色々と出ました。
 
 昼食は毎回レディースランチです。今回頂いた中で印象に残ったのはビーツの冷たいスープでした。

         スープビーツ

 食事はゆっくりと進みました。ランチタイムからティータイムへ変わりましたので、シャーベットやアイスクリームなどをお願いし、それからまたお喋りは続きました。
 木谷先生は来年定年を迎えられると言うことです。最後の1年とても頑張っていられます。
 そうこうしているうちにレストランの中は私たちだけになっていました。
 5時を過ぎて驚き、解散して来ました。

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霞ヶ関ビルに行く

 久しぶりに明大学生相談室でご一緒した先生や職員の方とお会いしました。
 午後1時に35階のレストランに集まることになっていました。
 暑さのせいか電車の中で居眠りをして仕舞い、気が付いた所は赤坂でした。
 急いで我孫子行きの電車に乗り込み、やっと時間に間に合いました。
 地下鉄霞ヶ関駅から地上に出ましたら、猛烈な暑さ。
 財務省や文科省前はうんざりするような高温です。
 語ること多しの何時ものお仲間。
 私は今日も議事堂にご挨拶。 先生方確りやっていますか。

         7月17日議事堂

 今日の空は薄曇り。暑さの所為でしょう。
 日差しが西から差してきて、東京湾方向のビルも西日に輝き始めています。時間も経ちました。
 気温は下がっているようには思えません。5時過ぎの駅は人で一杯です。
 何とか帰宅しました。 詳しくは明日に。

 PS  曇りと思っていた空は晴れていたのですね。
     部屋の冷房で窓が曇っていたのだのではと気が付きました。

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舩底信雄さんを偲ぶ

 越谷に住まわれていた明大OBの舩底信雄さんと出会ったのは65年前。随分昔ですね。
 私は社会人になり立て。舩底さんは学生さんでした。
 ブログで「学苑会雄弁部」のことを書いてありました。
 そこに舩底さんのご長男からご逝去のお知らせが入って来ました。グーグルで検索して辿り付いたのだそうです。

 6月24日 早朝に永眠。 84歳10か月とのことです。

 舩底さんは時々電話を下さり先ず「先生お元気ですか」と大きな声で仰るのです。長話はしませんが気に掛けて下さり、またご自分の近況も伝えて下さり、お蔭で当時の方々の様子も知ることが出来ておりました。
 このところ電話がないな~と気なっておりました。体調を崩されていたのですね。

 2008年には我孫子にお見えになって下さいました。「その時は」それはそれは感激しましたね。

        学苑会雄弁部974

 その時の写真ですが、右が舩底さんです。左は玉井宏夫さん(故人)
 左から二人目は皿島正治さん、中心は伊藤琴遊さん
 伊藤琴遊さんは舩底さんと一緒の学苑会雄弁部で活躍した方です。故宝井馬琴師匠に師事 現在は色々な所に呼ばれて講談を語っております。校友会柏地域支部の佐々木利夫さんは馬琴師匠の下で伊藤さんとは兄弟弟子です。
 伊藤さんに連絡をし、舩底さんのことを偲び色々と話しました。また伊藤さんの話の中に出て来た方にも繋がりの共通する方が多く、色々と思い出しました。
 伊藤さんとも久しぶりでしたが、伊藤さんも高齢ですから、お互い健康で過ごしましょうと電話を切りました。
 
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明治大学校友会千葉県西部支部総会

 今日は明治大学校友会千葉県西部支部 第15回総会が開催されました。
 私は迂闊にも日にちを間違い、家で家族とお喋りをしておりました。
 我孫子地域支部の猪瀬さんからの電話で今日だと分かり、会場の柏ハート柏迎賓館に駆けつけました。
 総会はほぼ半ばまで終わっており、総会会場にそっと座りました。

             西部支部1

 今日の出席者は来賓を含めて135名程。議事もスームズに進んだようで、大学からは学務担当常勤理事の鈴木利大様
 校友会からは監査委員の松本穣様がお見えになりました。
 お二方からは大学の様子の紹介がありましたが、耳の遠い私には上手く聞き取れません。
 大体話の流れであのことらしいなとか、そうだあのことだわと。分かった心算でお聞きしていました。
 
 総会の後、全員での記念写真撮影がありましたが、これまたグズグズしていて並ぶことが出来ませんでした。
 
 それから懇親会 会場4階で地域支部ごとのテーブルに座り、歓談をして過ごしました。

    西部支部2  西部支部3

 懇親会では久しぶりの方に挨拶に伺い、お互い元気を喜び合いました。
 会は司会者の上手な進行で進みました。今日のアトラクションは應援團・チアリーディングの学生です。

    西部支部4  西部支部5

 女子学生の溌剌とした演技・吹奏楽の力強い演奏 自然に気分も若返って来ますよ。側で一緒に体を動かし、ノリノリの方もいましたよ。

 そしてスクラムを組んで校歌。今日は3番まで歌いましたよ。

    西部支部6  西部支部7

 校歌斉唱の指揮をとった柏地域支部の石原敏和さんから三三七の拍手の説明を受け、全員でこの拍手をしました。
 偶然この拍手のことは昨日のブログに応援団出身の寺門孝彦さんがコメントで教えて下さいました。
 三三七拍手は明大応援団初代団長の相馬基先輩の考案したもので「嵐の拍手」として残っているのですと。
 こういうことですね。先日テレビで紹介されたそうです。
 今朝も再放送されていたそうです。
 私は初めて目にし、一緒に拍手を仕舞したよ。とても良い経験でした。

             西部支部応援

 石原さんは中野高校の応援団に入っていたそうです。格好良かったですね。爽やかな動きで皆さんをそこに引き込んで下さいました。拍手する参加者も楽しそうです。

 懇親会の外では明大グッズの販売もありましたよ。

            西部支部グッズ

 来年の全国大会は千葉県で開催されます。今日はその会を盛り上げる決起集会のような感じでもありましたよ。

              西部ポスター

 千葉県支部長の強いメッセージに心を揺さぶられましたね。多くの校友が全国から参加される会です。
 日本の大学で長く校友大会を全国で開催しているのは明治大学だけだと聞いております。

 今日の学務担当常勤理事が話されていた、留学生との学生寮とはこのことだと思います。
 手元に資料がありましたので、掲載して置きましょう。

              明大2

 校歌を歌う時、隣で肩を組んで下さったお嬢さん。背も高く実に爽やかです。若い人と会えるって良いですね。

 今回の担当は我孫子地域支部でした。支部の皆さま何もお手伝いもせず遅刻までした婆さんをお許し下さい。

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上田昌雄さんのこと

 明治大学校友会我孫子地域支部の上田昌雄さん
 昭和33年商学部卒業です。
 上田さんが初めて支部の会合にお見えになった時のことでした。
 トルコで仕事をなさっていたとの自己紹介がありました。それを聞いてから時々ゆっくりとお話をお聞きしたいと思っておりました。
 それが今年の支部の広報誌 「てが白雲ニュース」に上田さんの投稿された記事が出ていたのです。
 この話だったのだと、お会いしたら更に良くお聞きしたいなと思っておりました。

 先日の支部総会の懇親会で上田さんが私の向かいにお座りになられたのです。
 今回の支部ニュースが素晴らしいので、出来たら私のブログに載せたいけれど、支部ニュースから転載は簡単ではありません。
 そこで上田さんに無理を申し上げ、横書きの原稿がありましたら、使わせて頂けませんかとお願いしたところ、快諾して下さいました。
 それが下記のレポートなんです。チョッと長い物ですが是非ご覧になって下さい。
 素晴らしい仕事ですよ。日本人として感動しました。

       トルコ第二ボスポラス橋と私
 1988年7月3日、東西文明の十字路として古い歴史と伝統を持つトルコ・イスタンブールで盛大に挙行されたアジア・ヨーロッパ両大陸を結ぶ第二ボスポラス橋の開通式、
 眼前にあるのはシルバーグレーに彩られた優美なその長大橋だ。
 その全貌は美しいトルコ・ブルーのボスポラス海峡に一層映え、誇らしげに現代の新たなシルクロードの象徴として東西交流促進の役割を約束しているようだ。

 開通式には日本の政財界人300人(金丸幹事長、越智建設大臣など)がチャータ機でお出で戴き、トルコ・イタリヤ・英国の要人、工事関係者約3,500人が参加し、オザール首相に依るテ-プカットが行われた。開通時、沿道に鈴なりになって、ジャポン・ジャポンと口々に叫びながら手がちぎれんばかりに両手を振るトルコ国民の歓喜と感激に満ちた顔と眼差しは今でも鮮やかに思い出します。
 第二ボスポラス橋は全長1,510m, 中央径間長1,090m(当時歴代6位), 8車線、2歩道の吊り橋で日本政府の円借款及び民借、計860億円強が融資供与され、IHI/三菱重工/日本鋼管/トルコ/イタリヤ5社の国際企業連合体 (コンソーシアム) により建設されました。IHIがリーダ-会社として全体の取り纏め、小生がコンソーシアムの代表、チエアマンとして入札から契約、工事、完成、引渡しまでの業務を統括しました。

 世界各国4グループ24社による競合入札 (Full Turn Key base, 調査、設計、製作、土木・据付工事、引渡し)が1985/4月17日開札、翌月の5月10日オザール首相出席のもとで正式調印という超スピード契約締結であった。然も、契約工期は超短期の三年 (通常5―6年) であったが、色々な国内外の背景、喫緊の課題もあり、客先から更に二年半の完成短縮を強く要請されました。

 本プロジェクトは日・ト両国のナショナル・プロジェクトです。
 トルコ国にとっては、政治的経済的な事由(EU加盟、総選挙前対策、第一ボスポラスの交通大渋滞等々)から一日も早い完成が必要だった。
 又、この欧亜大陸をつなぐ大事業の受注を巡る熾烈な戦い、駆け引きは英国の鉄の女サッチャ首相の日本政府批判に発展するなど世界的話題となり世界の注目を集めていた。
 かかる情況下で、本事業は日本にとっても国威と名誉にかけても失敗が許されない、我々にとっても意地でも後に引けない工事となりました。 
 何とか二年半で完成したい、この偉業を達成したい一心で全員一丸となり、昼夜命運をかけて果敢な挑戦の結果、トルコの国家的要請と期待、我々に対す信頼に応えられたことは、何にも勝る喜びであり、充実感と達成感は言葉では言い尽くせません。
 然し、この成功は使命感、責任感だけではありません。そこには男のロマンと心意気がありました。
 実は、IHIはその20年前の第一ボスポラス橋建設工事入札では接戦の上、英国のクリーブランド社に僅少差で敗退し、悔しい思いをしました。今回も又もや、同社との因縁の一騎打ちとなりましたが、この橋は何としても我々IHIの手でやりたい、やらねばと熾烈な戦いの結果、成約に至ったものです。やっと長年の夢が実現しました。

 本件は、英国のサッチャ首相が日本政府(中曾根首相)にクレームをつけたことで当時の新聞紙上を賑し世界的な話題になったことは上記の通りです。
 実態は公平で文句なしの大差の勝利でした。

 当時は、トルコに対して最初に浮かぶ我々のイメージは“ウスクダラ はるばる訪ねてみたら”という歌に代表されるように、はるか向こうの遠い国であった。
 遠くて近い国、超親日国、それがトルコです。
 トルコの人が日本に対する特別な親愛と尊敬の念を抱く理由は二つあると言われております。
 第一は8回戦って7回敗れた宿敵ロシヤに日本が日露戦争で勝利したことを自国の勝利のように歓喜したと言います。自分の子供にトウゴウとかノギという名前をつけたり、トウゴウという店名をつける者が居ます。
 第二は明治23年、オスマントルコ帝国皇帝の使節として日本を訪れた650名の将兵が乗った軍艦エルトルル号がトルコへの帰途、和歌山県樫野埼沖で難破し多数の犠牲者を出した。その時の地元住人による救助活動、死者への丁寧な供養、我が国の軍艦による生存者65名の送還など日本人の人道的な行動はトルコ人を感動させました。

その後、イラン・イラク戦争時、テヘランからの日本人脱出の為、“救いの翼“としてトルコ航空が専用機をオザール首相の指示で、いち早く出してくれたことご存知の方もおられるかと思います。トルコの日本へのお返しです。

第二ボスポラス橋は東ローマ帝国の首都コンスタンチノープル、現在のイスタンブールを陥落し、オスマン帝国を築いた一世の英雄、スルタン・メハメッド二世の名を取りFatih Sultan Mehmet Koprusuと命名された。征服王スルタン・メハメット橋という意味です。
本橋は日・ト両国の友好親善と協力そして関係強化、拡大の架け橋・象徴として、そしてトルコ国民生活の向上と技術移転の点でも大いに寄与したと自負しております。
こうした意味で、まさに理想的なODA案件と言えます。

もはや、遠い昔の話になりましたが、部屋に飾ってある橋の写真や当時の金丸幹事長、越智建設大臣の礼状や額をみると遠いトルコを思い出します。
やはり、トルコは小生にとっては第二の故郷です。 上田昌雄 12/29/17

       トルコ橋

 この写真がその橋ですよ。これは大きな額に入っていて上田さん宅に掛けられているのだそうです。

 この橋の写真と一緒に持って来て下さったのは、朝日新聞に掲載された「ひと」と言う記事を額皿にプリントしたものです。
 当時上田さんは日本にいなく、この記事は新聞ではご覧になっていないのだそうです。

      上田さん朝日新聞皿

 私のスマホで写しましたが、上の朝日新聞の文字が入っていませんでした。後で気が付きましたが、上田さんに再度お借りするのは申し訳ないので、これは朝日新聞の当該記事の物だと、ご覧になって下さい。
 何しろ30年も前のことですから字も薄れて仕舞い、良く分かりません。
 そこで朝日新聞に問い合わせて、間違いなく1988年6月27日の三面にあると言うことが分かりました。
 そのまま掲載出来ませんが、字おこしをしまして次に掲載致します。

   上田昌雄さん 第2ボスポラス橋建設の日本企業現地代表(ひと)

 「肩からホッと力が抜けたような、どこか虚脱感が......。苦労したことなんか、みんな忘れちゃったみたいで、ね」。アジア、ヨーロッパ両大陸を分けるトルコ・イスタンブールのボスポラス海峡に、5月末、第2ボスポラス橋が完成した。つり橋では、南備讃瀬戸大橋に次ぎ世界第6位(主塔間1,090メートル)の長さ。
 石川島播磨をリーダーに三菱重工、日本鋼管の日本3社とイタリア、トルコを含めた計7社による共同事業。「私は日本3社の現地代表、それに全社7社のチェアマンという2役、平たく言えば調整役です」
 予定工期3年、しかも半年余も残しての超スピードで仕上げた。15年前に完成した第1橋は、交通渋滞で身動きが取れない。トルコ政府の「完成を急いでくれ」という要請に、橋の上、下部の工事を同時進行的に進める日本の技術力、集中力でこたえた。
 契約段階からかかわったが、実はその前に、苦い思い出がある。第1橋の受注に失敗、英国企業に後れを取ったことだ。「今度は負けられぬ戦いでした」
 世界をまたに単身赴任が長い。日本に戻るのは年に1、2週間程度。「古い世代なのか『戦争』に行くのに家族連れなんて、という気持ちがまだ、ありましてね」。子どもと一緒にふろに入ってやれなかったと悔やむが、その長男(27)が、会社こそ違え、父親と全く同じ道を歩む。
 現地事務所まで車で15分。黒海に臨む広いアパートに住み、朝は自炊、昼、夜は会食を兼ねた外食、という毎日だ。
 7月3日開通式。関連道路工事はなお残るものの、8月には待望の帰国。「また、挑戦的な仕事がしたいなぁ。それにしても、この橋のライン、セクシーでしょう?」(高岡喜良記者)

 うえだ・まさお 東京・築地生まれ。明治大商学部卒。昭和34年石川島播磨重工業入社。61年輸出営業本部第二重機輸出部長から現職。自宅は千葉県我孫子市。妻と1男1女。53歳。

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プロフィール

相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
2018年5月1日87歳となりました。物忘れ言い間違いは益々多くなり、足腰も弱くなって、杖が手放せません。気も短くなり今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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