2017-04

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私的明大昔話 30

 1950年代と言えば遥か彼方ですね。日本はようやく経済事情も好転して来るようになりました。
 ですが、二部の学生の多くはアルバイトをして学費の足しにしておりました。
 学食のカツカレーなんていう物が出て来ましたね。贅沢なものでした。
 肉丼なんて何の肉なのか分からないような和風の丼物もありましたね。

 5月頃になりますと身体検査があります。一応決められた時間や学部の受診する日も決められております。
 女子学生は別でしたね。
 検査は駿河台では体育館 和泉や生田では大教室だったと思います。

 提携病院の医師が数人お見えになります。最後はその医師の前に学生は行き椅子に座ります。
 医師は聴診器を胸と背中に当てます。聴診器は身体に当てるような当てないよう滑るようにさ~と済ませます。
 手伝いに行った私は医師に「それで分かるのですか」と伺いましたら、「悪いと分かるんですよ。その時は良く当てますよ」と仰っていました。
 何しろ大勢ですからね。

 身体検査の時は上半身を出しますから、学生は下着を脱ぎますね。脱ぐ場所は決まっておりますから、そこに放り投げるように置いて行きます。
 身体検査が済めば下着を着る筈ですね。それが毎年沢山の下着が残っているんです。
 未だ物の大事な時代ですよ。全く不思議なんですね。
 それも汚れたものから、下ろしたての真新し物までなんですね。この状況はどう解釈すれば良いのでしょうかね。
 急ぐから?もう捨てたい時だったから?探すのが面倒だから?

 仕方なくこれを事務所に持ち帰り、保管して置きます。私の知る限り取りに来た学生を知りません。
 そのうちにその下着から匂いが出て来て、部屋に漂って来ます。
 仕方なく作業職の方に洗って貰い、ボイラー室でウエスとして使って頂くのが毎年のことでした。

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季刊明治が届きました

 季刊明治74号が送られて来ました。
 明治は遠くになりにけりと人は言いますが、私は勝手に明大應援團で、変わらず応援しております。 
 だから送って下さると言うことではないのですよ。37年間勤めた人間ですから送られて来るのです。
 今回は今までの物と少し変わって明るい表紙になっています。

     季刊明治74  季刊明治74-1

 見開き1ページは公式キャラクターの「めいじろう」が並んでいますよ。

 年々新しい大学の様子が見られるのですが、老人にすれば確かに「明治は遠くになりにけり」の言葉も出ようと言うものです。
 表紙に今回から新連載として「相談室の窓から」が紹介されています。

            季刊明治相談室

 1959年に学生相談室が開設されてからの道のりを思う時、このような記事に出会うと感無量になります。
 学内で認知された婚外婚の子どものように、認めては上げますがと言うような学内事情。正式な組織としてキチンと整備されなかった長~い時間。
 今は時代の要請に応えることが必要なことにはキチンと対応もすると言う体制が出来上がっているのですね。
 
 新学期が始まりました。新入生にチラシを配る必要もありません。大学生活への手引きも用意されています。

            相談室応援BOOK

 この冊子には日常生活で必要な情報や一人暮らしの指針など、沢山のことが集められております。
 このような冊子も用意される時代。大学の施設も至る所で見ることも利用することもが出来ますから、学生は大いに利用して欲しいと思いますね。
 
 話は変わり、去る五日に大岡信先生が逝去されました。

          大岡先生

 先生は1973年、74年に学生相談室の相談員をなさっておりました。
 大岡先生は当時法学部教授で、週一回学生の相談を引き受けておりました。
 私がお目に掛かる時は相談室会議と毎年開催される相談室セミナーでした。
 会議の時もセミナーの時も穏やか姿勢を崩さず温厚な先生と言う印象が強く残っております。
 セミナーでの最後の夕食後 毎回一部屋に集まり、アルコールも入り、自由な気持ちの良い時間を過ごしておりました。
 大岡先生の浴衣姿を思い出します。大岡先生は大柄ではありません。
 記憶に残っている先生のお話しは交友のある方のエピソードですね。ユーモアのあるお話しでした。

 大岡先生が相談員をなさっていた時期 相談室には著名な先生が何人もいらっしゃいました。
 芥川賞を受けた三浦清宏先生祖父江孝男先生鈴木武樹先生など、立派な大勢の先生方が相談室を支えて下さっていました。
 
 大岡先生が参加された第12回セミナーの時、講演をお願いしたのは経営学部の山田雄一先生でした。
 大岡先生と山田先生は旧制沼津中学・旧制一高・そして東大とず~とご一緒なんです。
 それはこのセミナーの時に私は知りました。
 
 思い返しますと、最後の夜の懇親会では先生方も畳の上で寝そべったり、くつろいで過ごしたものです。そして時には家族の自慢話も出たりしましたね。

 何時もお茶くみでしたが、恵まれた環境だったことに感謝をしております。
 
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私的明大昔話 30

 一世紀と言うのはとても長いように思えます。
 ですが既に85年も生きて来ています。
 夫と良く昔話をします。同世代ですから話すことは大体通じます。
 ま~通じないことと言えば、私はスポーツのこと。夫はチャイナドレスのこと。
 全く通じないと言うことではありませんが、「そうそう。それでね」とか「そうだよ。あれは良かったね」とか言う程ちゃんと通じる訳とは行きません。
 時々昔の映画のこと等で思い出したりすることがあります。ターザンの話は何回も出ますね。
 ターザン映画の舞台はアフリカです。その映画の中でターザンの飼っているサルのチーターですが、このチーターがティシュペーパーを使っているのですね。これが凄いと言うのです。
 象はインド象なんですよ。子どもの時はそんなこと分かりませんよね。
 ティーシュペーパーを知ったのは40年位前でしょうか。ターザンの映画ではチーターが次々取り出して使っているのですね。
 話の落ちは毎度「これだもの。勝てる訳ないよね」です。

 ターザンを演じるのはワイズミュラーです。有名な水泳の選手だったアメリカの俳優です。

 明大駿河台校舎の体育館の地下にプールがありました。
 3コースほどの狭いプールです。25mだったと思います。
 そのプールでは泳ぐ人を見たことがありませんでした。水泳が好きだった私。ある夏の日水着に着替えてプールに入って行きました。
 水はとても綺麗で澄んでいます。ところがその水の冷たさと言ったら身体を沈められません。
 後で管財の方にお聞きしましたら水は水道水で、時々入れ替えはしていると言うのです。

 このプールが出来た時、ワイズミュラーが泳いだと聞いておりました。
 ええ?こんな小さなプールで?とず~と思っていました。つい最近までね。
 それである時パソコンで調べて見ましたら、分かったのです。昔々ワイズミュラーが泳いだと言うプールがあったのです。
 ここなんですよ。そのプールに明大が関係していたのだと言うことなんです。
 それがワイズミュラーが来校したと誰かが言ったのでしょうね。それがそのまま間違って過ぎていたのでしょう。

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私的明大昔話 29

 入学試験が終わり、合格者の発表が行われますが、今はネットで見ることが出来るのでしょうね。
 実際は知りませんが、そうだろうと思います。
 学費は振り込みでしょうね。
 昭和34年の入学試験が終わり、合格者は入学金と年度学費を持ち、手続きに学校に直接来ました。
 私は初めて入学する学生に接することになりました。
 学生相談室では資料として何を用意すれば良いかと、検討をして来ました。
 入学時に本人から色々なことを記載して貰うカードを用意しました。
 カードを受け取るのは個人的な内容ですから、他の部署の方には頼めません。そこで9月から開設する和泉と生田の方にも協力して貰い、大教室で順番に受け取りました。
 ところがこれが後日困った問題になったのです。
 カードには本人の悩みや、不安などの外に家族状況や資産などが記入されていたのです。

 大学創立80周年の募金が始まりました。何処で誰が言い出したのか分かりませんが、募金室から相談室にあるカードを借りたいと申し入れがありました。

 急きょ相談室では会議を持ちました。結論は貸すことは出来ないと言うことでお断りしました。

 それからです。相談室ではこのカードの存在をどうするかの検討を始めました。
 実際に相談にこのような資料がなければ相談が出来ないのか。カウンセリングと言うこととの関係も当然検討がされました。

 出された結論は絶対に必要とは言えない物だとなり、廃棄することになりました。
 廃棄するのにはただ捨てるのではなく、学内の焼却炉で処分をしました。

 相談室は学生のための組織であり、他からの干渉を受けないようにと確りと確認したのです。
 相談員の先生方の強い意志が示された事柄で忘れられません。この姿勢は一貫してつらぬかれていました。

      07年3月 056和泉

   写真は10年前の和泉校舎の正門です。

 話は変わりますが、入学時の学費は高額になりますね。当時はその学費を大学が預ける銀行は三菱・住友・三和の三行でした。
 それぞれ行員さんが会計課に待機しています。
 受付初めの頃はぼつぼつですが、段々手続きに学生が来ます。銀行は一日交替です。
 締め切りの日は沢山手続きに来ますから、最終日に当たると行員さんに「よかったわね」と女性の職員は声を掛けて上げていました。
 手続きに親が付き添ってくることは稀なことでした。
 高額なお金を持った学生は緊張して校門をくぐったことでしょうね。

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私的明大昔話 28

 大学の入試も終わったようです。
 今年は明治大学の受験者数は11万300人とか。
 早稲田に次ぎ4位だったそうです。

 私が勤めめ始めた頃 受験生は2万人を超えてはいましたが、昭和32,3年頃でしょうか、三万人を超えたと喜んだものです。
 当時学部は昼間は法・商・政経・文・農・工の6学部。夜は法・商・政経・文・工 それと昼夜の短大です。
 今は学部も多く、聞いても直ぐに忘れて仕舞います。

 入試の頃は外気温はとても低くなります。入試期間中の入構は受験生以外は大学関係者だけです。
 今はどうなっているか分かりませんが、昭和40年台頃になりますと、受験生に親が付き添って来るようになりました。
 親が付き添いで見えるなどとは、私など想像も出来ないことでした。

 親は試験中、どこで過ごせば良いのか分からないのでしょう。都内の方ではない方が多かったのでしょうね。
 寒い中 校舎の陽の当たる塀の傍に立ち、待っています。
 母親はショールを肩に掛け、如何にも寒そうに見えます。見知らぬ人と声を交わすことも出来ないでしょ。
 等間隔に間を取り立っている姿を思い出します。
 大学周辺には喫茶店もあまりなく、時間を潰すような場所も見当たらなかったと思います。

 お昼も受験生は校舎から外には出ることは出来ません。あの親たちは何処で食事をしていたのでしょう。

 その後付き添いの方のために部屋が用意されましたが、それもいつの間にか出来なくなったような記憶があります。
 大学紛争時代ではないかと思いますね。

 受験生は昼食を試験場で済ませますから、試験日には朝から弁当屋が出て来ています。
 今のようにコンビニもありませんから、良く売れていたようです。

 ある年 私は頭髪に白髪が混じっている受験生が多いのに気が付きました。それは大学紛争時代の頃だったと思います。
 不思議な感じでしたね。その現象は2年ほどで終わりました。一体あれは何だったのでしょう。

 試験監督は長年しましたが、最後の監督は平成2年2月22日でした。

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プロフィール

相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日85歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになりそうです。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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