2006-04

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東京の夜景

 世界各地の美しい夜景が知られています。私の気に入っている香港の九龍のホテルから眺める、香港島の夜景は何回見ても飽きません。中国好きな私は上海の外灘から眺める夜景も悪くはありません。函館も素晴らしいですね。がですが、ですが。どうして東京の夜景は余り人の口にのぼらないのでしょうか。東京の夜景を楽しむツアーはあるのでしょうか。あれば乗りたいものです。
一昨日、暫く日本を離れる友人と霞ヶ関ビルの33階で会い、夜景を眺めながら楽しい語らいのひと時を過ごしました。

東京の夜景
(虎ノ門方向から新橋方向を見る)

カウンターは東向きで、左耳難聴の私は友人に右に座るよう頼み、ゆっくりと東京湾方向に目をやり、暫く目を凝らしました。と最近建ったビルが立ち並び、ひと頃と風景が変わっております。南に見える東京タワーはリニューアルした姿をイルミネーションで輝かせています。遠くレインボーブリッジも見えます。そんな中で皇居は一塊の黒い空間として夜景の中のアクセントのような姿を見せています。素晴らしいコントラストです。最近は新築のビルが目に付きますが、それぞれの高層からはきっと素敵な東京の夜景が眺められることでしょう。
 時間一杯お喋りをし帰宅しました。
東京の夜景

(同所昼)
 
 今日は図書館記念日

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O家の猫その後

 O家の猫は手術を受ける際、腹部の毛を長方形に剃って開腹されたそうです。彼は元々捨て猫だったのをお嬢さんが拾って帰り、里親を探したのですが、なかなか見つからず、O夫妻が飼うことにした醜男の面白い顔を持つ猫だたそうです。飼えば可愛く、外の二匹より可愛い位のようで、その猫の話になるとO夫人は嬉々としていろいろ状況を説明します。手術で縫合した糸が気になる彼はパンダの如く、腰を落とし足を両開きに伸ばし、顔を下に向け熱心に糸を口でひっぱていたそうです。他の二匹は自分達と違う剃られた胸を見て、いささか馬鹿にしている様子、入院中の心配は何処へ行ったのやら。O夫妻は興味津々観察の毎日を過ごしているそうです。彼は相変わらず紐状のものに興味を示し、口にくわえているところを見つかり叱られると、必ず紐をくわえたまま首を持ち上げるそうです。             
                 o家猫その後

 過日はお嬢さんの洗濯物の中のブラジャーを見つけ、くわえた途端に叱られ、ブラジャーの紐をくわえぶら下げて澄まして顔を上げていたそうです。話を聞いた私は家に帰ってからも情景を想像すると、もう可笑しくて堪りません。ブラジャーをくわえ澄ました猫、会いたいですね。
 同席していた友人の話によりますと、近所の犬は家族が居る時に人が来ると吠えるのに、不在の時はそれを知っているかのように、不必要とばかり知らぬ顔で澄ましていて吠えないそうです。犬も猫も状況判断を間違えないと感心しました。

 今日は緑の記念日  国民の祝日
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徳重善之先生のパース生活

 昨夜帰国されている旧知の徳重先生(元明大経営学部教授)から電話を頂き、長話を楽しみました。1990年に私は退職、翌年徳重先生も退職されました。
 先生は退職前からオーストラリアのパースで暮らすと話されており、退職後は早速パースでの生活に向け準備をされ、それから長く一年の半分以上をパースで過ごされています。パースでの生活は快適のようですが、先生80歳、帰国の度にこれからを何処で過ごすべきかを考えるそうです。
 先生は背丈は190cm、以前は体重100kと見上げるばかりでしたが、今はどうでしょうか。体重を減らすのに苦労をされていました。 奥様も負けず体格が宜しいようです。奥様は私たちに懐かしい、戦後すぐから朝日新聞に掲載された四コマ漫画、「ブロンディー」の翻訳をされていた方です。当時米国では庶民でも大きな冷蔵庫、掃除機、豊富な食料で料理を作り、パーティーも開かれるという、そのような生活をコミカルに描く楽しい生活をブロンディーと夫のダグウッドが紙面で見せてくれていました。特に夜中にダグウッドが密かに作る高く積み上げたサンドイッチは、素直に羨ましく思ったことです。
 その奥様は昔先生の話によりますと日本料理が苦手と言う事でしたのに、今やパースでは巻き寿司やシュウマイを得意とし、趣味の合唱団の集まりに持って行かれ皆様に喜ばれているそうです。
 先生が海外生活で特に強調されていたことは、女性が元気でこそ成り立つということです。女性が確りとしていないと、夫婦での海外生活は
無理だという理由をいろいろ説明されていました。
 5月にでも先生宅にお邪魔することにしておりますので、ゆっくりと
昨夜の続きや昔話を楽しもうと思っております。

参考:「年金でもできる海外ふたり暮らしオーストラリアパース編」
    第二章 海外における生活観と金銭感覚の重要性
        徳重善之・アケミ夫妻の場合
                中央公論新社  著者中村聡樹  
徳重先生のパース生活


 25日~5月15日  弘前さくらまつり

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尼崎事故

 今朝から、昨年の今日起きたJR福知山線尼崎の事故現場からの中継や、被害者の近況、またこの問題の解説などがTVで放映されています。追悼式も行われ、JRは改めて決意を述べています。この事故は107人もの方が亡くなり、多くの方が傷つき誰もが知るところの大きな事故です。決して忘れられてはならない事故です。運転手は亡くなり事故の解明がなかなか難しいことと素人なりに案じております。
 今は亡くなられた方々への哀悼の意を捧げ、遺族の方、また怪我をされた多くの方々の心が少しずつでも癒されて行くことを、切に願ってやみません。
 私の講座に和服の教師をされている方が受講に来ておりました。彼女は習った和服の先生が関西に住んでおり、この福知山線を使っていること、また乗る時間なども大よそ知っていたそうです。事故を知り、もしや乗っていたのではと、急ぎ連絡をしましたところ、矢張りこの列車に乗り合わせていたそうです。車両が後ろの方だった事もあり転倒はしたそうですが無事だったそうです。 先生は和服で帯をきちんと締めていたのが良かったようで、その帯が胸をガードしてくれ、打ち身にもならず、怪我もなかったそうです。紙一重と良く言いますが、ここでは帯一重が役にたったということでしょう。
 事故は予想も予知もなく突然ぶつかることが多く、老人はとっさに身を守れません。普段から身を守るため、出来るだけ自分なりの判断を心がけ、危険を避けて通るよう気をつけることが大事とつくづく思ったことです。
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三瀦信吾先生と三瀦正道先生

 1950年代、若き三瀦信吾先生は明大で法学や憲法などを教えておりましたが、その後高崎経済大学に移られ、学園紛争盛んなときには学長を務められていました。1952年夏、明治の法律問題研究部の学生が岐阜市で模擬裁判をすることになりましたが、被告の母親役をやる人間がクラブにいないと言うので、私に話が来ました。クラブには親しいクラスメートや良く知った学生もいますので、それではと応援参加しました。部長が三瀦先生で岐阜行きには、その後学長になられた小出廉二先生も同行。司法修習生の先輩二人も参加、賑やかな往復となりましたました。
 数年前、中国語の仲間から麗澤大学の三瀦正道先生の読書会に誘われましたので、勉強になると思い出席することにしました。初日、先生に「三瀦信吾先生とご関係がございますか」と伺うと「父です」との返事が返ってきました。それで親近感一杯になりました。正道先生の授業はべらんめー調。興味の尽きない楽しい授業でした。
 そのご正道先生とのご縁で信吾先生と連絡がとれ、岐阜に一緒に行った仲間に集合を掛け、50年以上お会いすることのなかった先生と一時を過ごすことが出来ました。弁護士や大学教授になった方、警察庁の高官になった方も老境にあり、弁護士以外は皆さん定年になっておりました。
 その再会から数年後信吾先生はご逝去されました。
 正道先生によりますと三瀦家の先祖は米沢藩の御典医で上杉鷹山公の時にお役をされていたそうです。御典医というのは三家あり、最年長者が担当することになっていて、その医者が亡くなると三家の中の年長者がお役を受けると言うシステムになっていると教えて頂きました。未知の世界を一つ勉強いたしました。
 三瀦家は信三先生、信吾先生、正道先生と三代学者という知る人ぞ知るところの家系です。
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柏水堂・エンプレス

 神保町交差点の近くに柏水堂という余り目立たないたケーキ屋があります。奥に数人が座れるテーブル席があり、そこで飲む紅茶が美味しく、たまに寄りました。今は昔の話です。その柏水堂は今も変わらず、こじんまりと落ち着いた雰囲気で佇んでいます。多くの文人の作品にも登場しているお店です。
 私が学生の頃から更に卒業後暫くの間、柏水堂は神保町の西詰め角から、水道橋方向二、三軒先に立派な洋風の天井の高い落ち着いた店を構えていました。作家たちが出版社や、古書店めぐりに疲れ休んだのはこの店のことでしょう。カウンタ ーの後ろ奥に大きなステンドグラスがあり、それは現在の店の奥に嵌められております。




 ケーキは丁度良い大きさで、我が家の娘が好きな三色シュークリームは定番。今も並んでいます。
 その、昔の柏水堂の西に当たる、今の三菱東京UFJ銀行の裏当りに名曲喫茶のエンプレスがありましたが、多分戦後すぐに出来た喫茶店ではないかと思います。甘味料にサッカリンやズルチンが使われていた当時にしては砂糖を出しておりました。昔は東大の5月祭が全都の学生の話題になっていまして、私も友人と人並みに出かけました。ピアニストの東大生藤田晴子さんのピアノ演奏会には入れませんで、ぶらぶら眺め歩き廻っておりました。そこで知り合いの田舎の大学生と彼の友人の二人に偶然会い、「素敵な所に行こう」と誘われ、本郷から歩いて行きましたのがエンプレスでした。当然ですが知りませんでした。
 エンプレスではクラッシク専門にレコードで音楽を流しております。リクエストも受けていたと思います。チョッと気取った学生を中心に音楽フアンが詰めており、店内は静かで、重苦しく、始めて入った名曲喫茶、田舎者の私と甲府から出てきた友人は恐れをなし、コーヒーを味わう余裕などなく、暫くして彼らと別れホットしました。その時の雰囲気がトラウマになっているらしくエンプレスには余り行くことはありませんでした。

白水堂・エンプレス


 今日はアース・デー

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ヤンバルクイナ・マングース

沖縄

 二十年程前、上野にあるナガフジ前の路上で、その筋の若者風の二人組みが筋状に色づけした鶉の雛らしきものを箱に入れ、客引きをしています。寄ってみると「やんばるくりなの雛」と書いてあります。もう驚くやら呆れるやら、またお兄さんなかなかやるじゃないかと感心したり、誠におかしな二人組みでした。
 沖縄で「ヤンバルクイナ」が発見され、国の天然記念物に指定されたのが1982年ということですからその後だった話となりますね。子供だましとしか言いようの無イカサマな物をよく並べたものですね。
 昨19日の朝日新聞夕刊に「奄美のマングース根絶着々」という記事が掲載されました。ハブの被害に困っていた沖縄でハブの天敵となるマングースをインドから輸入し、その後それが奄美にももたらされ、その結果マングースはハブよりも簡単に捕獲できるアマミノクロウサギなどを捕食し、生態系などに問題が生じているそうです。過日沖縄に行き、マングースがヤンバルクイナを脅かしているという話を聞きました。環境省は05年度からマングースの根絶に向け本格的な防除に乗り出しているそうです。ニュースは奄美のことを取り上げていましたが、沖縄本島はどうなっているのでしょうか。ガイドさんはその事に触れませんでしたが、これは同じ問題として運動が展開されていることでしょう
 上野の「やんばるくりな」以来気になっていたことでしたので、昨日の記事に触発され早速関連サイトを検索し、いろいろな経緯や問題点が分かりました。

沖縄


ヤンバルクイナ・マングース

 今日は逓信記念日  二十四節季の穀雨

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神代桜

 未だ春気定まらず、老人は着たり脱いだりの繰り返しをしております。桜前線は何処まで達しているのでしょう。3月初旬の沖縄ではもうとっくに桜は終わり、コスモスが咲いておりました。北海道では7月頃になるのでしょうか。
 山梨県武川村の神代桜は日本で最古の桜と言う事ですが、見に行く機会も無く(本当はあったのです)過ぎております。武川村で村長を何期も務めた明治のクラスメート蔦木さんから桜の時期に再三皆で来るようにと誘われていました。
 村長と言うのは日曜も祭日も無く、一年中休む日がない生活で、彼は過労のためか心筋梗塞で倒れました。介護に疲れたのか奥様が同じ心筋梗塞を起こし、彼を残し亡くなりました。彼は病が一応治って後、一度クラスの飲み会に出てまいりましたが、それが彼との最後の時間となってしまいました。
 蔦木さんと彼の仲間はとにかく真面目、授業もきちんと出ていました。それが30年ほど前、彼たちが4年生になってからマージャンに凝ってしまい、卒業できず、5月の追試で卒業をしたと告白、クラスメートを驚かせました。それは親近感を一層感じさせることとなり、話に皆大喜び、彼たちも同じだったのかと、手を叩いて喜んで聞きました。その彼は再度心筋梗塞を起こし平成9年に亡くなりました。私たちは神代桜を見に行く相談も無く過ぎております。
 数年前知人から送られて来た長薯の箱に産地が武川村とありました。
何か懐かしい処から届いたようで、知人に早速彼のことを話しました。以来暮になると武川の立派な長薯が届いております。

 今日は発明の日

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凄いなーS夫妻

 市内に住むS夫妻の見事な生活振り、ほとほと感心するばかりです。
S氏明治大学1965年卒業の後輩(ボクシング部)。K子夫人は昔からの友人。二人は邦楽を通じ結婚。S氏は尺八の名取、K子夫人は琴の名取。二人は充実した日々を送られています。箇条書きにすると
1 S氏  尺八・釣り・料理・ヨット・油絵・旅行など等を楽しむ。
2 K子夫人 英語教師・琴師範
3 共通の趣味やボランティア 二人で邦楽デュオとして市内の小学校で演奏・ハワイアンバンドを結成しS氏はウクレレ、K子夫人はスチールギターとボーカル・海外に二人でホームスティに行き・自宅にもホームスティのお客を受け入れ・二人でゴルフに参加・ドライブも旅行も二人で交代でハンドルを握ります。まだまだあるかも知れません。
 K子夫人は英語教師ばかりでなくイタリー語にも通じ、今はスペイン語に挑戦中。
 こうなるともうシャッポを脱ぎますね。
 ある日招待を受け自宅に伺いました。料理は全部S氏。サービス精神
旺盛なS氏はカナダでのスティ生活のビデオをセットし見せてくださいました。
 これらは全て健康でなければ出来ませんし、好奇心旺盛のなせるところでしょう。我が家にはS氏の釣った鮒、泥鰌、メダカが養子に来ています。素晴らしいご夫妻です。

 16日~22日 科学技術週間
 

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沈没船

 濃霧の中房総沖で比の大型貨物船イースタン チャレンジャー号と日本の貨物船津軽丸が衝突、イースタン チャレンジャー号の水没してゆく姿がTVで放映されています。館山沖と言う事ですので水深はそう深くはないかもしれません。
 母方の祖父は沈没船を揚げる商売をしておりました。サルベージで、言うところの潜水業です。東日本では腕利きの引き揚げ師で、大手の日本サルベージや、飯野サルベージ等の下請けで太平洋を股にかけ仕事をしており、一方港の工事(築港)もしておりました。引き揚げは保険会社から落札し、仕事が始まります。積荷に思いがけない宝物があると大儲けです。反対に引き揚げた鉄がさほど量がなく、積荷もたいしたことが無ければ大損をします。揚子江で中華民国の軍艦を揚げ、中華民国からの感謝状が何枚も額になっておりました。仕事に行くには大勢の人を連れて行かなければなりません。年中人が出入りする家で、沖縄からも
潜水技術を習いに来ておりました。
 海の中で火薬を使い、船体を切るという方法は祖父が開発しましたが、学問が無かったために大学の先生が祖父の元に通ってきて聞き取りをし、その方が学位を取ったそうです。
 船に保険を掛けているというのは私たちが聞く常識ですが、その後の
ことは祖父の仕事を知って始めて知りました。
 台湾の花蓮港の築港や清水港、銚子なども手がけていました。祖父が
清水次郎長と付き合いがあったと言っていましたので、竹内宏先生が「次郎長の経済学」という本を上梓され、広告で次郎長が清水港の整備をされたとありましたので、祖父の築港とも関係があるのではと、早速買い読んでみました。年表を合わせますと祖父と次郎長と会うには余りに祖父は幼少で次郎長と会ったとは思えません。私は70歳にもなり祖父の大法螺に気がつきました。母は既に亡く法螺話とはを知らずにあの世におります。聞いたら呆れる事でしょう。度胸のあった祖父が懐かしく思い出された今日のニュースでした。

沈没船

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塩豚を作る

 住んでいるマンションの一階に本当に小さい商店が並ぶアーケードがあり、屋根続きに小さな小さなスーパーがあります。高齢者が多いこの地区ならではの品揃え、夕方6時も過ぎるとお客も減っています。そこが狙い目、半額になっている品物を求めに行きます。豚肉の肩ロースの塊が半額にでもなっていると嬉しく買い込み、翌日朝から塩豚を作りす。大変重宝で便利ですのでご紹介しましょう。
 
材料 豚肉肩ロースの塊(250g~300g) 2.3個
     塩 長ネギ 根しょうが 清酒 

作り方

① 豚肉に塩をたっぷりと全面に霜が降りているように振ります。

         塩豚を作る


② そのまま常温で暫く塩が馴染むまで置いておきます。

③ 塩が馴染んだら出た水を切り蓋のある入れ物に入れ冷蔵庫に一週間から10日ほど置きます。

④ 塩漬けが出来たら茹でます。まずお湯を大きな鍋に沸かします。お湯が沸騰したら豚肉を入れさーと塩を落とす心算でお湯の中を潜らせます。

⑤ 再び新しくお湯を沸かしますが、長ネギと根しょうがを叩き割り酒を少し入れて沸騰したら豚肉を入れます。再び沸騰したら弱火にして50分ほど茹でます。
 長ネギや根しょうがは、私は力も道具もありませんので、少し切ってから擦りこ木で叩きます。

⑥ 茹で終わったらそのまま鍋から出さず、自然に冷まします。

⑦ 冷めた豚肉はそれぞれ料理に合わせ切って食べます。

⑧ 中華風をという場合は茹でる時八角を一片入れます。

⑨ 茹で汁はスープとして利用出来ます。八角を入れると癖がでます。

⑩ 切ると切り口は綺麗でハムのような色です。

⑪ 鍋は肉を並べて丁度納まるくらいの物を使いましょう。

⑫ 冷蔵庫で5日くらいは持ちますので色々と利用できます。
 
                塩豚を作る


 今日はメートル法公布記念日     

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共栄堂

 駿河台下交差点から九段通りを西に行くと道路北側にスマトラカレーで有名な共栄堂があります。かなり古いようで、近代日本流行歌史によりますと1935年頃共栄堂の定食が30銭と書かれております。私の知る共栄堂のご主人は明治大学政経学部で教えていた故蒲生正男教授と錦華小学校(現在お茶ノ水小学校)の同級生で、慶応大学で経済を学ばれた方だと聞いておりました。蒲生先生は1927年生まれですので、今年はご主人も80歳近くになられた筈です。昨今お店にはお出でになっていられないそうですが、ご健在と知りました。
 1953年明治大学に就職した私は大学に出前の食事を届けに来るご主人を良く見かけました。白衣をきちんと着て、自転車で運んで来ていました。礼儀正しく、丁寧、商人の見本の様な姿は何時も変わらず、大学でも評判が良い方でした。その頃共栄堂のメニューはカレーの外にランチやアラカルトもあり、ローストビーフと胡瓜を合わせマヨネーズで和えたメキシコサラダは高価でしたが、とても美味しく給料を貰うと食べに行きました。ロースカツもなかなか上手に揚げられており、このカツライスやランチは会議の昼食によく注文をしました。今でもメニューにある焼林檎も当時から有名でしたが、これを昼食後に食べるのは若者の給料ではとても贅沢で我慢しておりました。食べたかったですね。今は払えるには払えますがデザートとしてはお腹に入りません。まことに残念です。お腹に入るときにはお金がなく、払える時にはお腹に入りません
 先日三省堂に行きましたので、暫く振りにカレーを食べによりました。あの奇妙なスープも昔のままでしたが、少しあっさりになっているような気がしました。ご飯も盛りが良く半分は残してしまいました。
 男性のお客が多く、隣の男性が頼んだご飯の大盛りを盗み見ますと本当に大盛りという言葉の通り山盛りです。昔から変わらない姿勢の共栄堂でした。

  共栄堂

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ピアノを習う

 孫のピアノに一緒に付いて行く事になり、私も始めれば孫もも少し頑張るかなと思い、70歳からピアノを習い始めました。

ピアノを習う


先生は優しく「おばーちゃまえらい!譜が読めるって本当に凄い!」などと褒め励まして下さり、いつの間にか5年も経ちました。忙しいのでついつい練習どころか、レッスンも休み勝ち。近いうち先生仲間の大人の生徒だけの発表会があることになり、是非という話に高齢者でも構わないのかなーと挑戦してみることにしました。
 年齢からすれば最高齢に違いないと思い、若い人から順に弾いたら最後は私になり、とんでもないことになりやしないかと心配しておりました。
 先生から出演順の知らせがありました。例年は苗字のアから始まるので今年は名前のアの順で始める事にし、相子はアですから一番に弾く事になったそうです。一番最初と言うことは聴きに来た方には一番の初心者と映るはずで安心し少し気が楽になりました。娘は二番目に弾きますが、彼女は大丈夫です。娘曰く「とにかく間違いないように弾くのよ」とアドバイスして呉れ私を心配しております。生まれて初めて人前で弾くのですから、間違えないどころか、きっと間違えるだろうと確信しております こんな情けない生徒ですのに先生はスタインウエイでレッスンをさせてくださいます。素敵な先生でしょ。


ピアノを習う


 今日は白の日

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1948年春その3

 4月になってから入学手続きが済み、入学式は記念館で学部も女子部も一緒で満員の中で挙行されました。式は挙行などという言葉に見合ったようなものではなく、私は記念館の3階から背伸びして下を覗いているうちに済んでしまいました。
 女子部の授業は現在の山の上ホテルの別館に隣接した木造2階建ての校舎で行われておりました。入学式後、授業は食料難ということで、一ヶ月ほど休講状態でした。日時の記憶は定かではありませんが、授業が始まり5、6月ころ女子部の学生大会が開催されました。議長は学部卒業後大学の職員となられた戸田(旧姓谷内)壽江さん。男装で断髪。颯爽と登場しました。壇上で髪を手で掻き揚げ一気に新入生の注目を集めました。議事が始まると後に短大教授になられた田辺照子さんが「議長!議長!」と会場の真ん中の通路を後ろから手を挙げて進んで来ました。女学校では全く経験をしてなかった光景です。本当に度肝を抜かれるとはこういうことでしょうか。田舎者の私にとって忘れられない初めての学生大会でした。
 教科書は本館の地下にあった出版部と言われたところで求めましたが
ざら紙の孔版刷りの物です。同級の誰かが今も持っていないかと電話を掛け探してみましたが、さすが未だに見つかっておりません。そうでしょうね。歳月が経ち過ぎています。

 今日は清明   1日~5日伊万里窯元市

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御茶ノ水「レモン」

JR御茶ノ水駅の御茶の水橋口を出るとのホームに沿って建つ建物の南側に聖橋口までの道があります。1955年ごろその道の真ん中辺に「レモン」という画材屋が開店しました。木造2階建ての建物の一階で画材を置き、二階は当時としては珍しい生ジュースをメインとする喫茶店でした。聞くところによるとご主人は画家を目指していたそうですが病気になり、回復後に御茶ノ水に店を構えたそうです。芥川比呂志を思わせる風貌でどこか体の弱さと神経質そうな感じがしました。画材を買う文化学園の生徒なども良く見えていたようです。画材屋だったレモンは立派なビルにとなり今も同じ場所で続いています。あの二階の喫茶店は随分昔に無くなっています。レモン開店後暫くしてマロニエ通りに出来たもう一軒のレモンの喫茶店は今は「トラトリアレモン」というイタリアンレストランとして繁盛しているようです。
 レモン開店当時は生ジュースを出す店は滅多になく、目の前でジューサーで作る新鮮なジュースは男女を問わず人気でした。たまに仲間と立ち寄り、大きなカップのジュースを飲み、ゆったりとした気分で過ごすのはとても楽しみでした。その頃からあった聖橋口出口の西側傍の小さな花やさんは今も健在です

御茶ノ水「レモン」

  今日はプリムローズ・デー
 
1日~30日  都おどり

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プロフィール

相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日86歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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