2006-06

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鮪・鮪ご飯

 先日一階の魚屋で鮪の解体ショーを宣伝していたので、行ってみるか!と出かけてみました。魚屋の規模と集客力から予想しますと大きな本鮪を解体するとは思えません。矢張りあまり大きくない鮪でした。長い包丁は目立ちはしましたが、人を沸かせるほどのものではありませんでした。
  
       鮪・鮪ご飯

 生の鮪を見たので、鮪ご飯を作る事にしましたが、これは我が家で良く作るご飯です。知人友人にもお教えしたもので、男性でも出来ます。中には既にご自分のレパートリーにされている方もおります。

材料  米 三合 鮪の角切り 150~200g 醤油50cc~60cc

作り方  米を研ぎ、炊飯器で炊き始めます。
            その頃鮪の角切りに醤油を加えておきます。
        
            鮪・鮪ご飯

 
 ご飯が炊けたら、すぐ炊飯器の蓋を開け、真ん中に鮪が入るくらいの穴を作ります。底が見えないように。
 その穴の中に鮪を醤油ごとガバット入れて、脇に取り除いておいたご飯を被せ、炊飯器の蓋を閉め、保温で20分。出来上がりです。蓋を開け、さっくりと混ぜて器によそって食べます。

注意 混ぜすぎない事。色はむらむらが活きます。混ぜすぎると鮪が壊れて汚く見えます。料理の味にあわせて色の濃いところ、薄いところと選んで食べる事ができます。お試し下さい。                                 
          
            鮪・鮪ご飯

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1949年の梅雨

 1949年4月、女子部から移行試験で新制大学第一期生として、明治大学の一年生になりました。全学部約4000名の中の30名弱の女子学生はモテモテで、私のクラスは女子が5名もいるということで、昼休みなると大勢の男子学生が、まどから覗きに参ります。お弁当もおちおち食べられない風でした。暫くは女子用のトイレが無く、教職員用のを利用しておりました。和泉校舎に始めて入った女子学生達でした。
 明大前の駅から甲州街道を越えて、校門に入ります。(当時は歩道橋はありませんでした)校門の周りには学生ヤクザで有名だった花形敬という男性が屯しているような時代でした。
 甲州街道を渡ると、校門の前に玉川上水が流れており、短い橋が架かっておりました。先年の6月太宰治がこの玉川上水に入水自殺をしたことでしょうか、橋から10メートル位先の上流(橋を渡る左側)にある、ゴミ除けの鉄柵に梅雨で増水した流れに自殺者が数日の間に何体も上がりました。一日に3体も上がった日もあります。怖いもの見たさで橋に近寄り眺めもしました。東京五輪で甲州街道が拡張された時でしょうか、今は暗渠になっており、土手周りの姿は見られません。
 今も梅雨時になると思い出す事柄の一つです。1949年の梅雨

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平和の礎

 3月7日、長年の懸案だった沖縄の「ひめゆりの搭」と「平和の礎」を訪れる事が出来ました。礎は沖縄の言い方では「いしじ」と言います。戦争末期の1945年4月1日、米軍が沖縄に上陸しました。その後の戦いは凄惨を極め、沖縄の方々を今に至るまで苦しめております。
 「ひめゆりの搭」に祀られている県立沖縄第一高等女学校の生徒は、私より一歳か二歳上の方々です。軍は動員を掛け、部隊と共に南部に移動した女学生たちは、6月下旬に、解散命令が出され、軍から放り出されたのです。そのことを思うと牛嶋中将は自分は自決し、責任は取った心算でしょうが、乙女たちの払った犠牲は償う事は出来なかったのです。
 昨日は沖縄慰霊の日とあって、小泉総理も参列、決意の言葉を述べておりますが、空々しく聞こえました。戦乱で失った命は帰りません。
                    平和の礎

 平和の礎には新たに588名の方の名前が刻まれ、刻銘された方は、全部で240388名となったそうです。                          
 平和の礎

 観光と基地の狭間で悩む沖縄をもっと知ることの大切さを改めて感じております。今夜も沖縄戦・衝撃の記録写真集を開き、切ない気持ちになっております。
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チャイナドレスは素敵だ

 私の教室では中高年者が割合多く受講に来ております。皆さんチャイナドレスを着たいと言う志が同じせいか、教室は何時も和気藹々としており、賑やかです。ある方は長野県から、高速バスを使い、一日がかりで受講に来て下さっています。
                  チャイナドレスは素敵だ

 私の方針は、日本の街で違和感なく、自然に溶け込み、楽しく着ていただくことです。
 一般の方々が思われているような、生地を使うことは殆んど無く、簡単に手に入る木綿やウール、また麻や化繊との混紡の物などを使って作ります。好きな色や柄を先ず取り入れ、個性的なチャイナドレスを作って行きます。
 時間を掛けてゆっくり基本を確りと覚えて頂くわけですが、段々手が上がり、素敵なものが作れるようになりますと、一層頑張って作られるようになります。それを見ると私はとても嬉しく、足腰の丈夫なうちは
直裁ちのチャイナドレスを広めて行きたいと思っております。
                             チャイナドレスは素敵だ


 今日はオリンピック・デー
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とちの木通り

 御茶ノ水駅から駿河台下方向に歩いて、最初の四つ角を西に曲がります。私が長い間マロニエ通りと思い込んでいた道は「とちの木通り」と言われていたことを知りました。その名前は、1965年に駿河台商店会会長として知られていた坂内熊治さんが「駿河台史」(私家版)で既に書いていられます。坂内さんの店は御茶ノ水駅の御茶ノ水口を出て交番の向い側の今もあるカバンやさんで、何時も煙草売り場に座っていました。気取りの無いお店の姿は今も変わりません。
 とちの木通りへの入り口、角の建物は今は立派ですが、1948年当時は政経ビルと呼ばれ、民主主義科学者協会や大原研究所などが入っている雑居ビルでした。その後明大が所得、一時研究室にもなっておりました。石炭ストーブを焚くので、同級生がそのためのアルバイトをしておりました。その後の経緯は分りませんが、富士銀行だった時代もありました。つい先日新しい店舗が開店されていて、おしゃれな角になっていました。隣は昔からの近江兄弟社のビルです。

  とちの木通り

先ごろ、とちの木通りの文化学園の取り壊しが始まり、大勢の人がカメラに懐かしい姿を撮りに来ていたそうです。
 文化学園の先に、駿台荘という旅館がありました。そこで育った大石静さんはNHKで放映されている大河ドラマ「功名が辻~山内一豊の妻~」の脚本を書いた方です。
 駿台荘の玄関までにはお使いで何回か行きましたが、中に入ったことはありません。入り口が2階当りらしく、下へと下へと下っていく建物でした。庶民が泊まるような感じではなく、何処となく文化的な香がする宿でした。
               
  参考 駿台荘物語  著者 大石静 文春文庫(1998年1月
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干貝柱

 帆立貝は今は養殖もされ、輸送手段や冷蔵・冷凍技術も進み、日常の食材として便利に使うことが出来ます。
 幼稚園の頃、生のホタテを房州で食べる事はなく、祖父が北海道から持ち帰る干貝柱が嬉しいお土産でした。一つ一つゆっくりと噛み、味を確かめながら時間を掛けて食べます。(歯が丈夫だった自分が羨ましいです)
                干貝柱

 その頃、家の近所の倉庫に時々円い大きな大豆粕の豆板が担ぎ込まれてきます。一人が一個ずつ肩に担いで小父さん達が列をなして歩いてきます。私はその度にあんな大きな貝柱が欲しいなーと思い、また「ぼうけんダン吉」が部下に担がせて行く、石のお金と重なり、耳に太鼓のリズムや訳の分らない言葉が浮かんで来て、心を揺さぶられました。豆板が外に担がれて運び出されるの見ると、なぜか悲しくなります。随分食いしん坊だったのでしょうね。
            
                 干貝柱

 数日前、一階の魚屋で長女がホタテ貝柱の生干しを買ってきました。晩の肴に丁度良いものをと、軽く焼きました。最近のヒットの肴でした。魚屋に行き、味のことを聴きますと僅かに味付けをしていると言います。彼は聞き出すと不味かったのかと、冷ーとしたと笑い出しました。チョッと魚にうるさい私ですので、緊張したようです。
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タニクリニック

 昨年末の難聴発症以来、神尾記念病院に通う一方、日比谷にあるタニクリニックでの鍼灸治療を受けています。鍼灸の水野先生への信頼は大きく、先生の治療を受けに行くことで、心が休まります。
            タニクリニック
               (日比谷大正生命ビル3階)
 院長の谷美智士先生は漢方医として高名ですが、私は1984年以来先生の所に通っていました。1984年の春、先年から続いた厳しい寒さと、10回以上も降った雪のせいか、皮膚の痛みが続き、谷先生の診断での治療と、鍼灸で見事に回復しました。以来長く診て頂いております。先生はルーマニアでエイズの治療に効果を上げております。エイズキャリヤの子供たちが、先生の漢方薬で発症が抑えられ、成長しておりますことは、徹子の部屋でのインタビューでも紹介されております。またいろいろなかたちで紹介されています。
 谷先生のクリニックでは中西医学での治療がなされており、鍼灸以外は健康保険も利用できます。予約制ですが、知人友人の多くの方も診て頂いております。
 クリニックの中は患者が安らぐよう、先生のお考えで絵画と花が飾られ、花や絵画が変わることで季節を感じ、落ち着きます。皇居のお濠を眺め、しばしの待ち時間も苦になりません。私は帰宅に時間が掛かりますので、治療後必ず洗面所に行きます。洗面所にも気を抜かない花が飾られております。
                タニクリニック


      参考 タニクリニック 電話 03-3201-5675
                (日祭・木曜休診)      
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スワン?鵞鳥?の親子

 久しぶりに孫のお供で手賀沼に出かけました。県民の日(6月15日)とあって子供連れの家族で、畔は賑やかです。最近、手賀沼はワースト1から脱し清浄度が上がっております。千葉県民、我孫子市民としては嬉しいことです。手賀沼周辺の我孫子や柏は、手賀沼のもたらす得がたい素晴らしい財産を守って行くことがとても大切だと思います。都心にも近く、大きな工場もなく、住環境としては大変素晴らしい、誇り、自慢したい地域です。                
                 スワンの親子

 手賀沼にはいろいろな水鳥が集まってきます。季節によりその鳥の種類がかわり、沼の畔には餌を呉れる人が現れるますので、鳥も承知しており近くに集まっています。冬は数え切れないほどの鳥たちが集まり、人の気配に気がつき一所懸命に動き回ります。沼の鯉も負けずに動き回ります。子供たちも手すりから乗りだし、餌を投げます。いい風景ですね。この日は鳥たちは少なく、もって行ったポップコーンも残ってしまいましたが、水辺の草むらで大きな白い鳥の親子を発見しました。カメラに収め、数十分後、再度眺めに行きましたら、もう親子とも見えなくなっておりました。

スワンの親子
                     スワンの親子

我孫子市ホームページ
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プリンスホテル・佐藤秀一さん

 先週の日曜日も、今日の日曜日も雨。毎年6月の上旬に安房南高校の同窓会東京支部の総会が開催されます。この時期は当たり前のように雨に会います。先週の総会も雨の中、東京プリンスホテルパークタワーに約150名ほどが集い、例年通りのスケジュールで無事に終了。私の学年は34名、この数年一番大勢が参加する学年です。支部長が同学年ということでもありますが、会の後の学年だけの気の置けないティータイムも楽しみの一つになっております。

                     プリンスホテル・佐藤秀一さん

 このティータイムには佐藤秀一さんが毎回お世話をしてくださいます。明治大学農学部1968年卒業、応援団で活躍した好漢です。(校友会我孫子地域支部常任幹事)5月までパークタワーの調理部長でしたが、6月からプリンスホテル本社の購買部 スーパーバイザー(食材・飲食担当)になられました。スパーバイザーと聞きますと、今までの経験が大きな力となり、きっと手腕を発揮されることでしょう。
 
佐藤さん

我孫子を離れ、初めてホテルの中で彼と会ったとき、彼の姿は職場での緊張感と充実感、それに人柄を強く感じさせられとても素敵でした。 シェフスタイルの白衣に高い帽子も風格を感じさせられました。最近は仕事着の男性とは滅多に会うことはありませんが、男性でも女性でも仕事に打ち込んでいる姿は真摯で魅了されます。

プリンスホテル・佐藤秀一

 芝公園駅からの道はしっとりと雨に濡れ、緑に囲まれた周囲の空気がとても清冽に感じられました。
                
 今日は第3日曜日 父の日            
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寿司パーティ

 中国青島で日本語と日本文化を教えている小学校の同級生がいます。昨年12月、夫と青島に遊びに行き、彼と久しぶりに会いました。11年前私たちは青島への直行便が開通した時、第一便で関空から青島に行きました。その時彼は周恩来が学んだ天津の南開大学で教えておりましたが、わざわざ北京から夜行で会いに来て下さいました。そのご青島に移り、今は青島での生活を楽しんでおります。
 私の中国語の先生は、新学期になると良く餃子パーティを開き、生徒と一緒に餃子作りをします。そこで私は日本語を教えるという中で、日本の食文化を伝えたら役に立つのではと、材料を取り揃え送りました。
 彼は先ず手巻き寿司のパーティ、次に稲荷ずしのパーティを開いたところ大変好評だったそうでブログでそのことを紹介しております。彼のブログの写真はどれもとても素敵です。私もせいぜい利用させて頂こうと思っております。

               青島の寿司パーティ


 青島には大きなジャスコがあり、日本風の弁当やおでん、またたこ焼きなどもあります。日本のお米、食材なども沢山あります。沢庵を並べた漬物の催事も開催されており、驚きました。
 稲荷ずしの寿司飯は軽く先に握って油揚げに入れるよう、前もって知らせて置きました。女性の生徒が上手に入れ込んだようで、並んだ稲荷ずしはとても美味しそうです。青島の中国人生徒作の寿司を紹介しましょう。
               aosimano


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房州びわ

 「房州びわ」の季節になって来ました。枇杷は中国語でも枇杷と書きます。もともとは中国の南の方からやってきた果物のようで、本山荻舟の「飲食事典」によりますと奈良時代に入ってきたものだろうと書いてあります。
 私の子供の頃は房州びわという名前よりも南無谷(なむや)枇杷という名前の方が親しんだ名前だったような気がします。今も枇杷栽培が盛んな富浦ですが、昔は富浦の南無谷こそ本場物という印象を持ちました。
房州枇杷

戦後食料のない頃、女学校のクラスメートが遊びに呼んでくれました。富浦の彼女の家では枇杷を栽培しており、もぎたての枇杷をお腹一杯ご馳走してくれまして、帰りには風呂敷に沢山包み、お土産に持たせてくれました。もぎたての美味しさは忘れられない味です。それが枇杷に対する原体験となっているのか、枇杷は新鮮が一番と固く思い込んでおります。九州の方には申し訳ないことですが、茂木枇杷は今だかって一度も買って食べた事はありません。味を知らずして味を語るのは不謹慎ですので、茂木枇杷を紹介することは出来ません。
 房州びわもいろいろと改良され、今は田中びわを柱にした品種が普通に房州びわと呼ばれているようです。富浦だけでなく房州びわはブランドとなり、彼方此方で栽培されているそうです。特に東京には距離が近いという事もあり、茂木びわを凌いでいるようです。
 昔、両国駅から何時も満員の、鈍行の房総西線に乗り帰省をします。列車に乗ると直ぐに房州弁が耳に入って来ます。ローカルなこと。たまに知った人と会うと、たちまち房州弁が出て来ます。夏はトンネルを通過する度に窓の開け閉めを繰り返し、鋸山のトンネルが終わると、暫くして富浦が近づいて来ます。そこには枇杷の木が崖に沿って並び、何となく南国らしい風景が現れて来ます。両国から立ち尽くめの時などは、館山はもう僅かだ。と元気が出てきました。
 富浦では小学校でもびわについての授業もあるやと聴いております。
 妹の同級生が育てたという枇杷が届きましたので、色をご覧になって下さい。本当に美味しいのです。
               房州びわ

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困っちゃうな

困っちゃう
 サッカーのワールドカップ開催で、TVも新聞もサッカー、サッカー。でも私のようなサッカーもジャイヤンツも特に身近に感じていない人間は時により困ることもあります。これは日本社会の常道みたいなもので、多少の情報は知っていなければ、時には疎外感を持ってしまいます。そこでTVを観ながら夫に質問をして、少しの情報や、話題性などを仕入れております。
 娘婿は野球人間で、サッカーにはさほど興味があるわけではないのですが、日本が負けた翌日(昨日のこと)は外回りで、何処に言ってもその話になるからと、一所懸命TVを観ていたそうです。昨日の夕刊によりますと関東での平均視聴率は49.0%だそうで、これは矢張り話のテーマでしょう。
 以前タクシーに乗りましたら、運転手が「勝っていますよ」と言います。何が!と聞きましたら、ジャイアンツと言うではないですか。彼はラジオを聴いていましたから、ジャイアンツフアンなのでしょうね。
 大学の教職員野球大会で、球を打った後三塁に走っていった教授ほど頓珍漢ではないにしても、野球は見ても、さほどどうというほどの事はないわけで、相槌を求められると、本当に困ってしまうのです。相手の心に水をかけるような、冷ややかな態度をとるほどの拒否感を持っているわけでもありません。でも何か素直に返事が出てこなくまごまごしてしまいます。
 共通の話題でその場が和やかになることも多いのですから、私も少しは観たり、聴いたりして「自分も普通になっているなー」と思うと落ち着きます。
 近所に住むビーズ織の先生がワールドカップの記念になるようなストラップをプレゼントして下さいました。ということで携帯に付け、それとなく生徒が気が付かないかなーと今日の授業に出かけます。変ですね。私の態度!笑っちゃいますね。
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御茶ノ水橋・自由学校

 1948年明治大学女子部に入学。その頃は山手線の内側には焼け野原が広がり、上野駅の地下道には戦災孤児や焼け出された人がまだまだおりました。御茶ノ水駅のホームも狭く、階段の上り降りも混みあい大変でした。
 ホームから眺めると、御茶ノ水橋の北詰めの下には、戦災で焼けだされたか、行き場が無い、今で言うホームレスの人々が住み付いていました。トタン屋根に寄せ集めた板で囲ったバッラク。小さな小さな住まいが肩を寄せ合うかのように並んでいます。男性も女性も見えます。さすが子供は見えませんでした。傍に行き眺める事はしませんが、ホームや橋の上から観察すると、土手からの水で食事の準備や洗濯もしております。洗濯物も良く干されています。橋の下で雨露もしのげ、水があるのでそれなりに清潔だったのかも知れません。「しけもく」などという煙草の吸殻を拾い集め再生して売ったりして、生活を立てていた人もいた時代です。住人たちも何らかの方法で現金を得ていたことでしょう。

 御茶ノ水橋・自由学校


1950年5月26日から12月11日まで朝日新聞に掲載された小説獅子文六の「自由学校」小説の中の怠惰な夫の五百助が勝気な妻駒子に「出て行け」と言われ逃げ込んだ場所が、この場所です。翌年松竹と大映によって映画化され、この場所は有名になりました。
 今、上りホームからその場所を眺めると、地下鉄丸の内線のお茶の水駅のホーム外壁となって見えます。周辺も緑が多く、整備されており、昔日の面影を偲ぶものは何もありません。
 獅子文六は本名「岩田豊雄」明治大学で教えていたこともあります。
時々相談室にお寄りになる故大木直太郎先生(元理事・演劇)が良く岩田さん、岩田さんと話題にしておりました。               
          
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独生子的高考

 昨日の中国語の授業は、去る6月7日、8日に中国の大学入試が一斉に実施されたということが話題の中心でした。独生子(一人っ子)の高考(大学受験)をめぐり家族が熱心に子供の世話をやいている話に、いろいろ考えさせられました。
中国での大学入試は以前は7月に行われていたそうですが、暑い盛りは大変ということで、現在は6月に実施されているそうです。この入試に臨む我が子、我が孫に熱心な家族の様子が伝られております。
 上海では入試前の最後の土日となった3日、4日、会場や会場周辺では下見の父親や祖父らで溢れていたそうです。「タクシーは校門をくぐれる?」「休憩時間に落ち着ける場所は?」「美味しいレストランは?」心配が尽きないようです。
 「高考」が始まると、中国全土は受験一色。日本以上に大学が子供の将来を決めるとあって親は真剣になるそうです。自宅から会場までのタクシーは予約しており、どんな食事なら満足するか。中には料理を実際に食べて採点する家族もあるとか。
 大学進学率は20%程度と言われておりますが、国公立卒でないと現実は厳しいそうです。私立に進んだ場合、教師の質が低かったり、設備が低いと、国が大学卒と認定して呉れないそうです。
 こういう事情を聞きますと親は真剣にならざるを得ませんでしょう。
 私が受験をした頃、親が会場に付いて来る話などは聞いたこともありませんでしたが、日本でも高度成長期を迎えた頃から親が付いて来るのが目に付き始めました。大学でも親の休憩室を用意したこともありました。その後、大学紛争が続いたので、入構制限などの関係から親の休憩所は廃止されましたが、今の様子はどうなっているのでしょうか。
 
 NHK文化センター柏教室 中国語講座 王廼珍老師 (明治大学講師)
独生子的高考


 今日は入梅  傘の日

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かくや「覚弥」

 高齢になると、舌の感覚が鈍くなるようで、確りとした味の物がないと、どうも食事が締まりません。自家製のちりめん山椒とか、牛そぼろの山椒煮とかを良く作ります。
 夏場になって来ますと「かくや」の登場です。糠漬けにする材料も冬より豊富になり、漬けるのも楽しく、無駄も少なくなります。浅漬けで楽しむ胡瓜も漬けますが、萎びれないうちに茗荷の残りや、人参の先っぽなども漬けます。大根の葉も使いきれないときは糠に入れます。                                   

かくや「覚弥」


 こうするうちに段々古漬けとして材料が溜まります。時々全部を取り出し、刻んで「かくや」にして楽しみます。良く糠を落として洗い、細かく刻んだら、手ぬぐいや晒で作った袋に入れて塩出しをします。袋から材料が出ないように確りと握り、水をはったボールの中でよく揉みます。よーく塩を揉みだしたら、袋ごと力を入れて絞ります。
 袋から出したら、好みで醤油を少し垂らしてもよく、これからの季節にもってこいの一品です。                    

 かくや「覚弥」



 かくや【覚弥】(江戸時代の初め、岩下覚弥の始めたものといい、また、高野山で隔夜堂を守る老僧のために始めたものともいう。「隔夜」とも書く)種々の香の物の古漬を塩出しして細かく刻み醤油などで調味したもの。(広辞苑から)
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カフェパンセ

 明治大学アカデミーコモンの一階、西側にカフェパンセがあります。
明るく雰囲気が良いので、来店者も多いようです。
 去る日、神尾記念病院で難聴の検査が終わって、昔の仲間と待ち合わせカフェパンセで食事をしました。知った顔も見えましたが、少し奥に大塚初重先生(名誉教授・日本考古学協会会長・考古学)が何か人と打ち合わせのご様子。合間を見てご挨拶に行きました。先生は1926年生まれだそうですが、ずーと前と少しも変わらず、精気が漲っているように感じました。


              カフェパンセ


 以前NHKラジオの深夜便で放送された後、何人かの方から内容がとても面白く、為になったと伺っており、いつか我孫子で講演をして頂きたいと思っておりました。電話や手紙では失礼と躊躇していたので、思いがけなく、直接お眼に掛かれ、お願いをしました。先生は時間が合えば行って上げましょうとおっしゃって下さいました。
 食事は家では全く作らないオムライスにしました。

カフェパンセ


 その後、神保町の近くで岡山礼子先生(元明治短大学長)とばったり。立ち話でしたが手短に近況交換しをして別れました。物覚えの悪さが慌しい話しの中でもつい口に出てしまい、お互いの歳を感じさせられました。


カフェパンセ

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迂闊にも程がある

 この数ヶ月、洗濯機の糸くず取りが少しも滓が溜まらず、綺麗な日が続いておりました。先週ふと見るとくず取りのネットの口が破けているように見えます。本体から外し見て見ますと、なんと破けています。
 さては?と下を見ますと完全に底が抜けています。綺麗なはずです。ゴミを受ける網が切れていては、ただそこにつけてあるだけのことにしか過ぎません。ゴミは通過していたのです。
 大体、家事が苦手な私のワーストナンバーを言いますと、先ず片付け、一軒置いた二女の家の一間に書籍や、布地を置き、また製品なども並べており、一応仕事場にしております。それが一旦資料を作るために家に本や資料をを持って来ますと、元通りには行きません。また用が出て来そうな気がするのです。その結果家中彼方此方の隅という隅に書籍が積み上がっています。
 次は掃除。綺麗なお宅に行きますと。つくづく駄目な自分に落ち込みます。そしてお天気になったら、雨が止んだら、風が止んだら、はたまた授業の無い日にとか、掃除に励もうとします。それも思うだけで終わりです。
 更に着る物の整理が遅く、季節が過ぎてから整理が始まり。それが済む頃にはもう出さなければなりません。
 怠け者ではないし、そう物ぐさでもでもないのにこの体たらく、実に情けなく思う日が多いのです。これはブログ野郎のせいでしょうか。
 綺麗な掃除の仕方とか、月額1万円の食費とか そういう週刊誌の見出しを見ますと、出来の悪さが自己診断できるようで気分が悪くなります。
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一日一回ウィンクしましょ

一日1回ウィンクしましょ


 網膜剥離は緊急を要する病気です。発見が遅れることも多いそうです。普通私たちは物を両方の眼で見ておりますので、片方の眼に剥離が起きていても気がつかないことが往々にしてあるそうです。
 途中失明を避けるためにも早く気がつくことがとても大事です。自分が早く気がつくためにの方法として、毎日一回、両眼ともウィンクをして見るのも良い方法です。
 片方ずつウィンクをして見ます。その時あけている方の眼に日食で欠けたような黒い部分が見えましたら、すぐ専門医に行き診て貰いましょう。
 昔は子供の網膜剥離は珍しかったそうですが、最近はサッカーなどで頭に衝撃を受け、剥離を起す子供もいるそうです。また強い近視の子供はプールでの飛込みなどは注意が要るそうです。
 剥離の原因としては、眼や頭への直接的な衝撃が一番多いそうですが、高齢者などでは階段の踏み外しや、道路の縁石から落ちたりなども原因となることがあるそうです。
 私は1984年の夏、自転車で家の近くを急いでいた時、目の前に突然犬を連れた子供がローラースケートで門から飛び出してきました。子供を避けようとして、その家の門柱に激突、顔はお岩さん、手足に擦過傷という酷い状態になりました。ぶつかった時、眼の中で煙のようなものがふわーと走りました。傷よりもその眼の中に出た煙状が心配で、直ぐに眼科に行きましたが、異常が無いという事でした。
 それから3週間ほど後、出張先で朝、起され飛び起きました。その時に網膜が切れたのではと思います。先の門柱への激突で切れやすくなっていた事と思っております。その日、出張先から帰り、職場で仕事をしておりましたが何か変です。
 眼が何となくおかしいので、目薬を差してみましたが治りません。翌日の朝片方の眼を瞑ってみましたら、右目に黒い部分が膜になっています。お茶の水は病院銀座、すぐ大学の前の先生の所に駆けつけました。
そこで網膜剥離と診断され、すぐ井上眼科病院に行きました。 手術は竹内忍先生という腕の立つ先生がして下さいました。竹内先生は今日、剥離の名医として知られているそうです。大橋巨泉さんも竹内先生の執刀で網膜剥離手術を受けたと言っております。
 両眼帯で真っ暗な部屋で過ごした一週間、その後左目の眼帯が外され、毎日少しずつ部屋に外の空気と太陽の光が取り入れられて行き、カーテンがすっかり開かれた瞬間、そこに現れたニコライ堂。その時の大きな感動は忘れることはありません。全盲の方々への気持ちが同情だけではなく尊敬へと、この時に変わりました。

 一日1回ウィンクしましょ


 今日は世界環境デー

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淡竹・はちく

 夫が夕べから続いた咳で疲れ、静かに寝ておりますので、その間にと娘と手賀沼大橋の南詰めにある、沼南道の駅まで野菜を買いに行きました。日曜日は混み合いますが、品物も豊富、旬のものが並びます。今日は思いがけず「はちく」を目にし、6本ほど買って浮き浮きと帰宅しました。孟宗竹のあと出る「はちく」や「まだけ」の筍は子供の頃からの大好物ですが、滅多に目にしません。この筍は味噌汁にしたり、簡単に油炒めにして、その歯ざわりを楽しみます。
 戦時中(1945年の春ですね)空襲でバスが出ない時、女学校までの片道16キロの道を歩いて往復しました。途中、道端の竹林でこの筍を見つけると、失敬して頂いて帰宅します。罪の意識など無く、食べたいという事だけで、抜いてしまいます。考えれば失礼な話ですね。
 今はデパートなどでたまに見ることがありますが、時間が経っていると分っておりますから、絶対買いません。それと違い道の駅のはその日の朝掘りですから、これを買わずには帰られません。
今日の夜の肴が楽しみです。

 はちく(淡竹)別名カラダケ イネ科マダケ属  (小学館食材図典)
 中国原産で、耐寒性もあり北海道南部以南で栽培される。モウソウチクのタケノコの終わったころに出回る。タケノコは地上に出た物を掘り取って用いる。肉はやや薄く、黄色みを帯びる。比較的えぐみも少なく独特のしゃきしゃきとした歯ざわりあり、青果として利用される。
 
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ポン菓子機に託した人生・吉川利子さん

 去る5月16日の日経文化欄に掲載された記事を読み、私の心は清々しさと感動で一杯になりました。
 タチバナ菓子機社長の吉川利子さんは専門学校の生徒だった10台後半、戦時中の学徒動員で小学校の先生になりました。当時は食糧難の上、燃料なども乏しく、子供たちが雑穀の生煮えのものなどを食べ、下痢気味になり、学校でもトイレに駆け込む事も多かったそうです。貧困で落とし紙さえ学校に持って来れない子供たちのために、彼女の朝一番は、新聞紙を小さく切ってよく揉み、子供に渡すトイレットペーパーを用意することだったそうです。
 吉村さんはこの貧しい子供たちに何とか消化の良い食べ物をお腹一杯
食べさせてやりたいと思い続けていたそうです。
 ある時ポン菓子の記憶が甦り、この菓子機を作りたいと、文献を調べ、現存する機械を見つけ、更にこれを製作するために、九州の八幡製鉄まで行きました。子供たちを思う一心が行動を支えていたのでしょう。こうして一号機が出来たのは1946年、それから工場を作り、機械を量産し、全国に売り歩いたそうです。
 戦後、我が家もご他聞にもれず、食料では苦労をしました。
 引き揚げて来た両親はお金も物もなく、食料の確保のために日々を送っていたような生活でした。そうした頃、ポン菓子の小父さんが巡回してくると、お米を持ち、傍に付いていてポン!という破裂音と、金網に飛び出してくる膨らんだ米菓子を待ったものです。時には砂糖を持って行き絡めて貰うこともありました。
 そのポン菓子機が世に出てきた話はこの記事で初めて知りました。僅か数歳上の女性が、このような決意で臨んだと言うことに感動し、絶対ブログに載せたいと、サイトで調べましたら、多くの方が感動しておりました。この方は受勲をされているのでしょうか。国はこういう方にこそ目を向けて欲しいものです。

 今日は横浜開港記念日

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中国服・旗袍・チャイナドレス

チャイナドレス

日本でチャイナドレスと呼ばれているものは、中国では旗袍(チーパオ)と呼ばれております。中国ならずとも外国ではチャイナドレスという呼び方は使われておりません。私は旗袍を1975年から台湾出身の先生から教えて頂き、以来30年間その旗袍を着て楽しんでおります。
 旗袍については日本の男性の多くの方が、偏った見方をしております。誠に残念でなりません。接客業の方が着ているものこそ旗袍だと思っているようで、私は何とか自分の周囲の方々だけにでも、本当の姿を知っていただきたいと思っております。現在は自分で着るだけでなく、NHK文化センター柏教室で「直裁ちのチャイナドレス」という講座で教えております。
 講座について一口で言えば、1930年代の中国女性の着ていたような、シンプルなしかもモダンな日常着から街着を中心に教えております。型紙を使わず、布地に直接寸法を描き、ダーツも一緒に取りながら、裁断するという方法です。洋裁より和裁に近いともいえましょう。
 もともと女学校での被服(昔の女学校での科目の一つ)は大嫌いで、ひたすら逃げ回り、先生に睨まれていたのですが、中国での生活があったことから、本物を着たいと言う願望を持っておりました。それがある時、即ち1975年の夏、偶然手に取った婦人雑誌に載っていた講座を知ったことからことは始まりました。早速講座の申し込みに行きましたら、ミシンが使えますかと聴かれましたので、直線縫いは出来ますと答えますと、それでは大丈夫と言われ受講を許されました。ところがこの生徒、洋裁や和裁、縫い物については無知。
 先生はよほど懲りたのでしょうか。次回から受講の条件に「洋裁の心得が多少ある人」となっておりました。私は本当にラッキーでした。
 洋裁が出来なくとも、和裁が出来なくとも、ミシン縫いが出来なくとも、旗袍に憧れ、着たい人はたくさんいるのではと思い、着たい人には教えたいと条件をつけず、男性以外は受け入れております。ミシンが無ければ手縫いをすれば良いのです。昔はミシンは使っておりません。夢を実現したい方は、NHK文化センター柏教室にお問い合わせ下さい。
 受講生が初めて仮縫いをする時、今まで見たことの無かった自分に出会ったかの様に輝く嬉しそうな表情は素敵です。
チャイナドレス

 NHK文化センター柏教室 ℡04-7148-1711

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プロフィール

相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日86歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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