2006-08

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チャイナドレスは素敵だ 10

 チャイナドレスは、年齢に関係なく着ることが出来ます。若くないと駄目ということで、自分は絶対無理という方が多くさんおります。そういう方でも、良く伺いますと本当は着たいという方が大方です。
 戦後、日本でチャイナドレスが着られた場所は、女性がサービスをする接客業や飲食業(所謂クラブ、バー、中華料理店など)が早かったと思います。無理!無理!という方はそう言うことからでしょうね。
 外貨の使用が自由になり、経済力も上昇し、香港や台湾に行く方が増えるに連れ、チャイナドレスは、少しずつ女性達が関心を持つようになり、また映像や雑誌などを通じ、段々その魅力が理解されて参りました。
            チャイナドレスは素敵だ 10

 30年前、台湾出身の呉秋信先生は、日本でのチャイナドレス普及の先駆者を目指し、主婦の友文化センターで講座を始めました。残念なことに先生は病に倒れ、志半ばで逝去されました。
 女性らしい、柔らかい線を大事にされた先生のチャイナドレスは、年齢は問題ではなく、着たいと言うことが一番です。教室では80歳に近い方も、楽しんで作っております。
 若い人はそれなりに、体のラインをすっきりと見せ、高齢の方はゆったりとしたスタイルを取り入れたりしております。
                             チャイナドレスは素敵だ 10

 シックにもカジュアルにも基本に副って作る事が出来るという、それは日本の着物と同じことではないでしょうか。
                           
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さざえ

 「さざえ」は日本の沿岸の磯、そう深くない所で獲ることが出来ます。私の育った頃、泳ぎに行った序の磯遊びで、さざえを見つけると嬉しく、さっと手で掴み獲りします。家に持って帰ると大人は「そのさざえは腹痛を起していたんだよ。とか、風邪を引いていたんだよ。」とチョッとからかいます。鮑を獲って来ようものなら、自分は意気揚々でも、矢張りからかわれるのが落ちです。海女になる人が多かった時代ですから、泳ぎに夢中の女の子は少し変わっていたのでしょうね。

さざえ


       
 昨日、何時ものように一階の魚屋に行きますと、さざえがあります。長崎産の表示ですが、茹でて食べようと買いました。つぼ焼きにするほど大きくはありませんが、おつまみになるので、多めに買いました。それでも16個で750円ほどです。近海ものではこうはゆきません。
 水から茹で、それを殻から出して、尻尾と身との間のひらひらした袴と砂をかんでいる継ぎ目を綺麗に取り、刻んで食べる事にしました。

                        さざえ

 日本料理屋や飲み屋で塩を下に敷き、さざえを丸のまま出すところがよくあります。見栄えがするからでしょうが、殻から引き出し、そのまま食べると、砂を噛み、気分を壊します。私は必ず綺麗に処理し、口に運びます。クラスの飲み会の時にそうやって皆さんにしましたら、とても喜び、「これからはこうするよ」と言いましたが、その後やっていますかどうか。
 どうぞ面倒でも砂を噛まないよう、気をつけて召し上がってください。
     
       さざえ

 さざえは生の刺身、つぼ焼き、また酢の物の種などといろいろありますが、今の季節ですと茹でた身を薄く切り、新生姜の千切りと一緒に少しの味噌で和えます。磯の香りと新生姜の香りを一緒に味わう事が出来ます。
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老師の四熱

 北京に帰られていた中国語の老師が戻られ、昨日は私にとって困ったような嬉しいような授業でした。 
 老師夫妻は北京から友人夫妻と青島に行ってみようと、ホテルを探しましたが、時期が悪く、不上星(ランク付けが出来ないレベルの低いホテル)の宿に泊まることになったそうです。
 
老師の四熱

青島は丁度 国際啤酒節(ビール祭り)・国際帆船比賽(ヨット大会)が開催され、それに旅行旺季(旅行シーズン)天気悶熱(青島は暑い夏日は年に10日と言われているのに)。四熱(四つの熱い事柄)にぶつかり、大変な事だったそうです。
          老師の四熱

          (この写真は青島のケンボーさんのブログから)
 ですが青島の都市計画は旧市内の「老城区」と旧郊外の「新城区」が
見事に調和が取られていて立派だと褒められました。
 恐妻家の老師は大変なことだったのではと思いますが、青島を褒められ、「あなたの第二の故郷は素晴らしい」と言われますと、気分が良く、お土産のお菓子もお茶も美味しく頂きました。
 二組の夫婦は「禍不単行」「雪上加霜」だと我慢されて過ごし北京に戻られたそうです。この二つの成語は「災いは重なるものだとか泣き面に蜂」とかいう意味で、諦めの心境だったと話されたわけです。
                 老師の四熱

               ここは青島のヨットハーバーです。
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チャイナドレスは素敵だ 9

 教室で初めに作るのは単の袖なしの物です。この裁ち方と縫い方が、全ての基本になります。
 戦前から戦後しばらくまでは、日本の母親たちは家庭で着物を縫っておりました。そのように中国でも手縫いで縫っていた事でしょう。
 
                      チャイナドレスは素敵だ 9

 職人の手になるものは矢張り素晴らしいものですが、自分で作り、着ることが出来れば、それはそれなりに愛着も出てきますし、大切にします。
 初めて縫ったものに、洋裁の腕を揮いジャケットを合わせた方の姿を紹介しましょう。

                 チャイナドレスは素敵だ 9

 これなら私でも着られるわーと思われると思いますよ。大変シンプルですし、年齢を感じさせない可愛らしさです。
 最初は細かい柄物で作ります。無地は慣れないための欠点がすぐに現れてしまいます。ということで、好きな色、好きな柄のものから作り始めますと、気に入り大切に致します。
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32年前の恩師

 明治大学を1953年に卒業し、暫く経った時から、学部の合同クラス会を開く事になりました。1974年の合同クラス会には恩師勢揃いと言っても良いくらいに先生方がお越しくださいました。定年後の先生もこの時とばかりに、張り切って挨拶をされ、また再度喋りたい事があるとマイクを握り、延々と喋り続ける先生もいらっしゃいました。
                  
            32年前の恩師

 小出廉二先生は得意の短い挨拶、最後は「こいでおしまい」と終わりました。この時の先生方の挨拶は約一時間、この会以降の会では、代表の先生に挨拶をお願いする事になりました。申し訳なかったのですが、そういうことになりました。段々先生方も高齢になり、お呼びして何か起きては大変と、何回後かにご招待を止めることにしました。
 この写真は勢揃い最後の写真となり、先生方の懐かしいお姿です。
                
           32年前の恩師

 向かって左から:野田孝明・小出廉二・見波精・小熊虎之助・池岡直孝・安澤喜一郎・町田久一郎・林原耕三・古関吉雄の先生方です。
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青島第二海水浴場

 青島は中国の中でも土地の値段が北京よりも高いそうです。中国人が老後住みたい街の一番が青島と聞きますと、いかにもと納得出来ます。海に面していながら、山もあり、青島ビールでも有名なように、水も良く、モダンな街です。野菜や魚介類にも恵まれ美味しいものが溢れております。
 夏は海岸が賑わいますが、海水浴場は海岸線に沿って彼方此方にあります。第二海水浴場と言われている場所は、昔は高級住宅の並んだ地域にあり、狭いけれども素敵な感じがしました。
 今は唯一有料の海水浴場だそうで、友人のブログに掲載されている、海岸にはコカコーラやネスレの広告のビーチパラソルが開き並んでおります。
                    第二海水浴場

 この海岸添いにある、洋館で結婚式を挙げ、そのまま海岸に向かって結婚記念の写真を撮るのは流行のようです。その姿も写っております。
 昨年12月、この場所の近くで何組ものカップルに出会いました。寒さにもめげず、ドレスの裾を引いた新婦が海岸にカメラマンを伴い、新郎と降りて行きました。鳥肌が立つほどの気温もものかわです。
 夏の暑さも心の熱さに比べれば差ほどの事でないのかも知れませんね。頑張っております。若いということはいいですね。
                   第二海水浴場

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ところてん

 久しぶりにところてん(心太)を作り、孫に食べさせました。孫は小さい時から私の作るところてんが好きです。ところてんは心太と書かれます。作り方は極めて簡単です。
 ところてんの材料となる天草は房州では5月から9月まで採られております。海女が少なくなっている事もあって、生産高は昔より少なくなっているそうです。
 天草は土地の漁協が買い取り、干して業者に売ります。寒天やいろいろな物の材料となりますが、販売する前に良く乾燥し、色抜きをします。ゴミを落とした天草は水で洗い、天日に干します。それを何回か繰り返すと、天草の赤茶色が薄くなり、また白くもなります。
 
     ところてん

 昔、ところてんは祭りの時や、お盆の時には家々で沢山作り、もてなしに使いました。どこの家に行ってもところてんを出されます。今はそれも殆んど無くなっているようです。 

                      ところてん


 カキ氷の前、6月頃の食べ物としてよく食べていました。氷の季節になりますと、ところてんは影を潜めます。
 自家製のところてんは磯の香が一杯です。天草を求めるには房州や、伊豆方面で購入することができます。
 
 作り方1 天草50g お酢30cc それに水2000cc
    2 天草をザーと洗い、水と酢を入れて火に掛けます。
    3 沸騰してきたら弱火にして約4,50分煮ます。
    4 熱いうちに晒で作った漉し袋で漉します。
    5 平らな入れ物に流し入れ、常温で冷まし固めます。
    6 適当な大きさに切り、水に入れ、冷蔵庫で冷まします。
    7 毎日水を替えますと一週間は持ちます。
                 
                      ところてん

                     (天草50gでの量)
                 
 参考:天草 100g 400円
       千葉県南房総市白浜漁業協同組合
       電話 0470-38-4611
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チャイナドレスは素敵だ 8

 チャイナドレスを着てみたいけれどどうも、あのキラキラがねーと言う方。スタイルに自信がないのよねーと言う方。そういう方は初めにブラウスを着てみたらどうでしょうか。駅などでは安いシルクの物なども出ておりますが、街の洋品屋さんで意外に良いものを見つけることが出来ます。藍染の物を扱っているお店を覗いて見るのも良いと思いますよ。
                  
                    チャイナドレスは素敵だ 8

 教室には中国の方も見えております。中国語の教師として彼方此方で教えておりますが、毎年大学が実施する生徒の中国訪問には引率者として出かけているそうです。勿論チャイナドレスは注文し、また既製品も買って帰ります。彼女の希望は自作の旗袍を着て教壇に上がることです。今は忙しく休んでおりますが、時間が出来れば復帰する心算のようです。
 北京の前門大街の北京絲綢商店には彼女と懇意の方がいますので、私も北京に行きましたときには事前に紹介して頂いておきました。
 彼女は知的な女性です。選んで来る旗袍もなかなかセンスもよく、日本人も好きになるような物ばかりです。特に派手でない上着などは落ち着きがあり、私も欲しいような物ばかりです。
 また新素材で作ったものなどは、新しい流れの情報として参考になります。
                           
                        チャイナドレスは素敵だ 8

 彼女は京劇の勉強もしておりますので、京劇の衣装もパーティで見せて貰いました。あの袖の長い部分は良質の絹で重みがあることが大事で、安い物では軽過ぎ、振るのもうまく行かないと言う話しは、勉強になりました。
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青島の海

 中国青島は北京オリンピックのヨット会場と決まっております。ヨットハーバーの整備は勿論ですが、街並みも綺麗になり、海岸も利用し易くなっております。市内にいくつもある海水浴場はシーズンとあって人出が多く、青島に住む友人のブログには美しい風景や、人々の様子が掲載されております。
 その一つは青島の紹介に必ず出てくる昔は海軍桟橋と言われていた、先端に回廊をもつ、海の遊歩道です。昔は夏の夕方など夕涼みのに散歩する人が多く見られました。
 
        青島の夏

 その遊歩道の先端は回瀾閣と言われておりました。はるか昔はその当りで泳ぐ日本人は少なく、あまり泳ぐ人は集まらないところでしたが、写真で見ますと、今年の夏はブルーのビーチパラソルが林立し、その変貌振りに目を瞠ります。ビーチパラソルには「Red Bull:紅牛維生素功能飲料」と書かれています。お揃いのようなそれは、貸しパラソルだそうで、海岸によって色違いになっているそうです。(維生素=ビタミン)
 遊歩道の向こう東側で小学校4、5年生のとき水連の水泳教室に参加しました。かなり長い期間だったような気がします。水泳教室の最後は一マイル遠泳です。伴走の船上で打つ太鼓に合わせて手足を動かします。無事に泳ぎきり、締めくくりとしてくろんぼ大会がありました。私は優勝しましたが、先生は「この子芯が黒いのじゃない?」と言い、肩を擦りました。
                         
          青島の夏

          (第六海水浴場と呼ばれています)
 ある時、そう30年ほど前、文学部の関口功先生が「僕の家内も青島の小学校に行っていましたよ。くろんぼ大会で賞を取ったそうですよ」とおっしゃるではありませんか。帰宅後すぐに先生宅に電話をし、奥様と話しますと、なんと同じ列に並んでいたのです。奇遇に驚きました。
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佐藤満喜さんの書

 1952年に明治大学政経学部を卒業し、日興証券に大学卒の女性として初めて入社し、証券一筋の人生を送った佐藤満喜さん。一昨年の正月、佐藤さんと私は後輩の山根研一さんの誘いで書初めを手始めに、思いがけなく書の勉強をすることになりました。
 岩佐ねなしかずら先生は人格温厚、誰の書も励まし、意欲を盛り立ててくださる方です。
          
                佐藤満喜さんの書

            (第54回平和美術展・三点は岩佐先生)
 何かに取り付かれたかのように、書に打ち込んでいた山根さんが忽然と世を去りました。出来たばかりの「書こう会」は山根さんを失い、運営が危ぶまれましたが、岩佐先生の元で、二ヶ月に一回の集まりを続ける事になりました。佐藤さんと私は山根さんの望んでいたことを知るだけに、出来るだけ続けて行きましょうと話し合っております。ところが私は病院と仲良しになっていることや、多忙ということもあって、今年は一度も出席してなく、先生に申し訳なく思っております。
 先日岩佐先生から書展の案内を頂き、例によって病院の序に足を運びました。先生の書の前に立ちましたら、佐藤さんの素晴らしい、力強い書が掛かっております。佐藤さんの性格が見事に表現されており、私は感動し心が揺さぶられました。
 佐藤さんのその書は産経新聞の取材記者の眼に止まり、さる8月11日の新聞紙上で紹介されました。記者からの連絡を受けた佐藤さんは驚かれたそうです。佐藤さんの性格を見事に掴んでいた記者の感想と話の内容を伺いますと、私は「そうです佐藤さん、その通りよ」と喜びが大きく広がりました。記者の眼は凄いものですね。佐藤さんおめでとうございます。
                         佐藤満喜さんの書

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素晴らしき石花さん

 明治大学短期大学経済科を1953年に卒業した鈴木(旧姓田代)民子さん。(俳号石花) 2年間女子寮で一緒だったという縁で、今も交流を続けております。
 石花さんは桐生市在住ですが、群馬での俳人として高い評価を得ております。自らは「潮音社」を運営し、句誌「潮音」を発行しております。
 石花さんの夫は全国日本鶏保存会名誉会長の鈴木喜一氏です。石花さんは喜一氏の会社で喜一氏の片腕として結婚当初から協力。経済科出身ということで、経理も担当されていたそうです。その間俳句を生涯の趣味として続けておりました。俳句を習うなら一流の師につくことを勧める喜一氏の言葉で、多忙の中にも東京まで足を運び才能を磨いてきました。これまでに多くの立派な俳人ともめぐり会い、対談などを潮音に掲載されております。
 現在は仕事はご子息(明大率)に任せ、俳句に一層力を注ぎ励まれております。時には自宅の茶室で静謐の時間も過ごされることもあるようですが、渋川まで出かけ、芦野宏さんのシャンソンのレッスンを受けたりもされております。学生時代に混声合唱団に入っていたことでもあり、人生の経験と年輪の示す表現力は人を感動させるのではないでしょうか。機会があればぜひ聞かせて頂きたいものです。
          素晴らしき石花さん

                         素晴らしき石花さん

 石花さんは喜一氏の迎える外国の日本鶏愛好者には通訳もされ、その語学力を活かし、英語による俳句や随筆を記し、英字誌に投稿。老いてなお益々盛んな毎日です。誠に素晴らしい方で敬服しております。
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学食今昔

 1949年となってもまだ東京の食糧事情は悪く、和泉校舎の学生食堂では、外食券(旅行者用外食券)が無いとご飯物は食べられませんでした。昼時は混雑するので、出来るだけ弁当を持って行きましたが、たまに行っても、買えるものはコッペパンの残りくらいのものでしかありませんでした。
 2年生になり、駿河台に移り、学校の周りには食事のできる処もあり、学生食堂を利用する事はありませんでした。
 当時の学食は師弟食堂と呼ばれていて、赤倉ホテルが請け負っておりました。記念館の後ろの図書館の南側の中庭に木造2階建て。其処には常時これが学生かと思われるような、柄の悪い学生がうろうろしており、とても女子学生が一人で入って行けるような場所ではありませんでした。
 大学に就職した頃になりますと大分食糧事情もよくなり、学食から出前を取ったりしました。その頃初めて、学食のメニューがどんな物かを知りました。
 一番はカレーですが、小麦粉たっぷりの味です。カツカレーは若い男性に人気がありました。肉ドンという甘い餡かけのとろみをつけた丼。ランチは今時の物とは違い、お粗末なものです。鯵フライなどもありましたね。うどんはありましたが、キツネか月見。その程度でした。
学食今昔

 今は駿河台・和泉・生田共に立派な学食ができて、学生も楽しみながら食事をし、お喋りをしております。
 とくに駿河台のリバティタワーの17階にある「スカイラウンジ暁」では品揃えも多く、学生だけでなく誰でも利用できるようになっております。
              学食今昔

17階からの眺めもよく、東京の下町、浅草から品川方面まで見渡せます。たまに寄り、一人学生の様子を眺めながらコーヒーを飲みます。
 昔の学食の味しか知らない方にどうでしょうか。お寄りになって見て下さい。若さが戻りますよ。
                            学食今昔

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チャイナドレスは素敵だ 7

 チャイナドレスの型にはいろいろなものがあります。例えば皆さんがご存知の丈の長いドッレシーなものだけでなく、年齢を問わない前開きの楽な上着などまであります。また襟の高さもいろいろですが、TPOや体型で自由に作ることが出来ます。流行に囚われず、余り気にかけずに済むところが、とても良いところだと思います。私は長いものでは20年も着ております。
 教室では上着に人気があり、生徒も基礎を覚えると早速作って着ております。日常着として便利ですし、生地を選ぶことで季節に合わせて利用できます。裏無しにしたり、裏付きにしたりもします。またキルティングした中綿の裏地を使い、温かいものを作ることも出来ます。
                     チャイナドレスは素敵だ 7

 私は高齢ですので、冬でも長めの上着にパンツを履くことが多くなっております。
 中国に行きますと、上着は至る所で目に付きます。求める時には余りに中国風ですと、外のものとの組み合わせが難しいような気がします。出来るだけシンプルなものの方が長く着ることができましょう。
チャイナドレスは素敵だ 7

 日本の生地屋さんでは着分のものがありますが、それを使い直裁ちで作りますと、小柄な人は長いものと、上着とを作ることが出来ます。
                              チャイナドレスは素敵だ 7

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穴に落ちる

 明治大学駿河台校舎。記念館の入り口は円形の階段になっておりました。その入り口の両脇に狭い出入り口がありました。南側の入り口を入ると、階段下になる状態の処に、小部屋がありました。其処は医務室と言われ、淡路町の同和病院から、看護婦さんが派遣されていて、学生の応急処置をする程度のことをしておりました。現在の大学会館にある診療所とは比べようもない、お粗末なものでした。
 記念館の北部分は2号館です。其処の入り口を入ると、両側に学部事務室があり、奥に部室が並んでいます。社研などがあり、通称レッド横丁と言われておりました。
 レッド横丁は記念館の裏からも通じており、学生は外に廻らずよく利用しておりました。
 ある時、仲間数人と記念館の裏を通り、レッド横丁に入ってゆきました。背が低い私は前の人の背中に付いて歩いていました。
 突然、片足が床をつき抜き、どーんと落ちてしまいました。スカートの後ろ真ん中が縦に裂けてしまい、足も擦過傷で大事になってしまいました。傷は若さで我慢は出来ますが、スカートの切れたままでは、どうしようもありません。外の人は穴に気がつき避けたり、跨いだりしていたのです。歩きながら考える癖のある私は無防備で、その癖が見事な結果を招きました。
 医務室に行きましたら、傷の手当をしてくれただけでなく、スカートの裂けたところを、何とか外を歩けるほどに補修してくれました。本当に有難いことでした。
 看護婦さんの名前は春原さん。その後春原さんは、大学職員となり、剣道部の主将だった照井さんと結婚され、長く明治の診療所に勤務されておりました。多くの学生がお世話になったことと思います。
                穴に落ちる

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生徒は誰もが知っていた

 先頃、家庭教師のトライの社長が二谷友里恵(字が合っていましょうか)さんと聞き、へーと思いました。再婚された方がオーナーらしいのです。
 授業の時、得意になってニュースとばかりに話しました。生徒は全員そんな事はとうの昔に知っていましたーという反応です。
 こういうことは今までにもよくあることですが、私の反応は必ず少し照れ、いやーまたやっちゃったとなります。どうということでもないのですがね。それに恥になるようなものでもないし、です。
 教室で「ヒャッキン」という言葉がちょくちょく出ます。どこかにそういう名前の店があるのかと思って、どこにあるのか聞きました。「何処にもありますよ百円均一ショップですよ」というではありませんか。
 私は二階にあるその手の店を利用しますが、いちいち百円ショップと言っておりました。娘たちに話しましたら、誰でも知っているといいます。これもへー!です。ショックと言うほどのことでもありませんが、こういうことの積み重ねで、娘たちから「可笑しい人・変わっている人」と評価をされております。自分ではまともと思っていますのですがね。
            
                誰も知っている

                (NHK最初の教室)
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長崎浦上天主堂

 原子爆弾が長崎に投下されて今日で丸61年が経ちました。2003年、夫と長崎原爆資料館を訪れ、凄まじい被害状況の一端に触れることが出来ましたが、実際はこれ以上のものだったことであろうということは、充分に伺い知ることができます。
 2005年の入場者は約69万人ということですが、年々訪れる人は減少しているそうです。非核3原則がなし崩しにされていく気配を感じるこの頃、多くの方が長崎を訪ね、またこの資料館に足を向け、原爆の恐ろしさを知って欲しいと思っております。
 資料館では、祖父江孝男先生のお父様の被爆した位置も知りました。
 私のクラスに長崎の浦上出身の浦上初実さんという方がおりました。物静かな、男性としては覇気が足りないという印象を持っておりました。彼はクラスでも真面目なグループの中の一人で、私のグループではなく、特に個人的に親しく話をすることもなく、卒業まで過ぎて行きました。
 卒業後数年経った時、私は一通の手紙を受け取りました。開封してみますと、浦上さんと結婚を約束していたという方からのものでした。
 その手紙は、彼が亡くなり、彼の大学在学中の様子を知りたいという内容でした。その手紙を読んだ私は、学生だった彼の様子に、何かで時間が止まった様な経験があったのではと、気になったことを思い出しました。もしかしたら、それは浦上に住んでいたことと関係があるのではと感じたことでした。
 以来、必ず浦上天主堂を訪ねたいと思い続けていました。長い歳月が過ぎ、やっとそこに行くことが出来ました。
                 長崎浦上天主堂

 「長崎ー浦上天主堂ー浦上さんー原爆」 この構図が常に心にありました。許婚の女性は彼が何故亡くなったかに触れてはいませんでしたが、私は確信のようなものを、今も抱き続けています。
 浦上初実さん  1955年6月10日没  浦上さん早すぎます!
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飛行船現る

 昨日、御茶ノ水の神尾記念病院で難聴の治療の後、すぐそばの井上眼科病院での定期検査の予約に行きました。老人になるとこうなんですね。仕事のうちになっています。
 井上眼科病院の外来受付は「新お茶の水ビル19階」です。受付のある広い南西角は展望ラウンジになっており、眼下に明治大学リバティタワー、アカデミーコモンの姿を見ることが出来ます。スケールの大きいパノラマ、碧空が西に大きく広がっております。
 受付を済ませ、早速カメラを構えました。何枚か大学方向を写しておりますと、突然のように後楽園方向から飛行船が現れてきました。
 明大の上に来て欲しいなと、待ちました。近づいてはきましたが、どうも目指す先は後楽園方向です。飛んでいる様子はゆっくりに見えますが、実際は早い事が分りました。近づいて来るか、来るかと待ちましたが、彼方で旋回し、船首は北に向かってしまいました。

      飛行船現る

 やっと一枚写す事が出来ました。拡大して見て下さい。
                           
    飛行船現る

                     (これは東南方向です)
 20階には銀座アスター。そこから眺める東北の夜景も美しく、見惚れます。それなりの料理、値段も高いので、滅多に行くことは出来ません。
 19階にはこれからも行くわけですので、ゆっくり遠慮なく充分に眺められます。嬉しいことです。

 参考:新お茶の水ビルは地下鉄千代田線「新お茶の水駅」からは直接
    エレベーターで行けます。
    JR御茶ノ水駅聖橋口から1分、目の前です。

飛行船現る

(8月11日に霞ヶ関ビル33階から見えた飛行船)
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中国青島の海

 青島は中国で一番海岸線が長く、また海水浴場の多い処ではないかと思います。
 昔「忠の海・ただのうみ」と言っていた海水浴場は第一海水浴場とも言われていました。子供の頃の青島にはその他第二海水浴場、第三海水浴場と言われていた場所もありました。中でも第一海水浴場(忠の海)は海岸線が長く、その形も美しく東洋一と言われておりました。
 欧米人も多く、人種差別を感じることなく、過ごしていた青島ですので、海水浴は中国人も、日本人も一緒に楽しんでいました。ただ中国人は日本人よりは泳ぐのが好きでなかったような気がします。特に女性は体を見せることは恥ずかしい事だと、聞いておりました。
 第一海水浴場には当時、海の家のような建物が海岸線に沿って並び、そこで着替えをし、シャワーを使っていました。水も砂も綺麗で、砂に小さな1センチかせいぜい2センチ位の黒い貝を見つけることが出来ました。
 泳ぎで冷えた体に飲む熱い飴湯も懐かしく思い出されます。九州や関西から来青している人が多かったせいか、飴湯は西日本の物らしく、関東では見られません。東日本の物ではないようです。
 砂が綺麗で肌にも柔らかく、体全体を被い、休むのも心地良い一刻です。砂を固め高い砂山を作り、其処に道を付け、所々にはトンネルを作ります。
 その砂山に砂団子を転ばす遊びは、毎回のことでした。
 最近青島に住む同級生のブログに賑わう青島の海の風景が掲載されました。皆様に見て頂きたく紹介いたします。
                  
中国青島の海

 青島は北京五輪のヨット会場になります。街はそれに向けて整備が進められております。
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岡野加穂留先生・堀威夫さん

 昨日の日経夕刊4面「ひと」欄。左の追想録に明大元学長の故岡野先生、右「人間発見」に堀威夫さんが紹介されています。お二人とも明治大学卒業、そして明治を愛する気持ちの強い方です。
 岡野先生は2000年に定年を迎えました。最終講義で「日本は政治家が5%、政治屋が10%、残り85%が政治で金もうけをしようとする政治業者だ」との持論を展開、会場を沸かせたと。とありますが、これは先生から何回かお聞きした懐かしい言葉です。
 堀威夫さんはホリプロ社長として長く活躍されて多くのタレントを育てられました。紙上ではホリプロ取締役ファウンダーという肩書きで紹介されています。この記事の中で堀さんの言葉として「還暦を機に、生き方も180度変えました。人生80年の時代、ワンパターンではぬれ落ち葉になる。世の中は変えられないから、自分が違う人間になるしかありません。」とあります。努力、苦労をされた方の言葉として、心に響きました。
 明治大学の校友会は戦後長く明治生まれの方が、仕切っており、若い方の意見が余り反映しませんでした。そこで昭和二桁の方が中心となって明大昭和会という会を立ち上げ、様々な活動を続けていました。(現在は立ち消えになっております)
 年一回開催される総会には大勢の会員が集まり、交流の場としておりました。その席上、特に活躍した明大人に明大スピリット賞という賞を贈呈しておりました。ある年、ラグビー部にこの賞が贈られました。岡野先生がラグビー部の部長をされていた時です。
 昨夜の記事を読み、手元にお二人が写っている一枚があることを思い出しました。
 昭和会レディース部会の会員出席者は島田総長と岡野先生を囲み、カメラに収まりました。この時には堀さんも出席されていて、写真に写っております。後輩として遠慮されたのか、女性を大事にされたのか、後ろに立たれています。
                       岡野加穂留先生・堀威夫さん

 スピリッツ賞の盾を持っているのはレディース部会会長の佐藤満喜さん。1952年、日興証券が始めて大卒の女性を採用した6名の内の一人。日本で初めてと言うことで、新聞社のグラビア誌に大きく紹介されました。70歳まで現役の証券ウーマンとして活躍した方です。
 佐藤さんの左は相子


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中国青島へ転校

 1939年の8月、千葉県白浜町(最近南房総市となった)の白浜尋常高等小学校から、中国山東省青島の第一日本尋常小学校に転校することになり、転校手続きも終わり、父の迎えを待っておりました。二学期に間に合うよう8月半ばに日本を発ち、青島に向かいました。小学校二年生の時です。
 神戸から船に乗り、瀬戸内海を通過、門司に寄航し、何時の間にか玄界灘を過ぎ、東支那海を越えて、目を覚ますと青島の姿が現れて来ました。甲板で眺めるその風景は異国、それもヨーロッパ風の美しい街が現れています。幻想的に見えます。
 木々の緑がすっぽりと赤い屋根を抱えております。子供心にも何と素敵な所なのだろうと、甲板から眺めておりました。
 青島は船で行くことこそが素晴らしいと、戦後の後々まで同級生の話題になりました。
      
       中国青島に転校

            (今の青島)
 転校した学校は、白浜の学校とは全てが桁違い。がっしりとした石造り、校庭もグランドとスタンドが揃っており、朝礼にはアカシヤの立ち木が並んだ別の庭があります。驚く事ばかりでした。
 担任は古賀光一先生(南條範夫さんの弟)モダンで素敵な先生でしたが、二年生が終わる頃、税関に移られてしまいました。
       中国青島へ転校

   (現在のグランド・ブルーの所がスタンド・真ん中の低い建物が校舎)
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和泉校舎共済部

 1949年、1年生になって間もなく共済部への入部を頼まれました。クラスの女性が一人先に入部しており、彼女と親しかった事もありあっさり入部しました。この部は予科時代からあった部で、学生に日常品や教科書を販売する、全くのボランティアの部です。
 新制学部発足と言うことでは、教員も試行錯誤の繰り返しではなかったでしょうか。いろいろなことを考えたようです。
 クラス編成と座席指定、授業の建前では欠席届けもきちんと出さなければなりません。それも時間ごとにです。共済部では欠席届の販売をしました。一枚1円。まとめて買う学生もいます。ケンシヘヤードという安物のポマードなどもありました。
 欠席する度に出しますので、学生が昼休みに押し寄せます。入り口は狭く、中も一坪半くらいですから、部員同士もぶつかりながら応対しました。その内これが必要のないことになったのか、先生方も整理が面倒になったのか、販売は中止になりました。
                   
                 和泉校舎共済部

 校門の前、東側に明雅堂という本屋があり、そこで教科書を買うわけですが、新制になって新しく編集された国語の教科書は共済部で扱っていました。部室は校舎の玄関から入って階段の右側の一階の小さな部屋で、奥に畳三畳ほどの倉庫兼用の部屋があり、部員はそこで食事をしたり、ミーティングをしたりしました。僅かな食べ物も分け合って食べ、商学部の部員の話すケインズ経済学の難しい言葉を聞いたのもこの部屋でした。
 10名ほどの部員のうち健在なのは3名になってしまいました。部の運営資金は学生会からの借り入れで、一年生の終わりには黒字になっていましたので、学生会に返済した残金で、大きな鏡を各階に据付ました。学生が自分の服装を見直すに良いのではと考えての決定でした。私たちは記念としてアルバム一冊ずつを受け取りました。二年生になると駿河台校舎に移り、和泉に部員募集に行きましたが、部活動が無報酬と言うことで、希望者は皆無。結局部の存続は出来ませんでした。新制大学発足後たった一年間の部でした。
 この鏡は和泉校舎の建て替えまで長く同じ場所にありありました。駿河台から和泉校舎に異動で行きましたらまだかかっておりました。玄関入り口の壁に掛けられた鏡には「寄贈和泉共済部」の文字もはっきりとしておりました。それは一所懸命に皆で力を合わせ過ごした、若き日の思い出を私に残してくれていました。
 
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日比谷から数寄屋橋まで

 例年8月1日の夜は、女学校の友人たちと霞ヶ関ビルでのバイキングを楽しみます。昨日は日比谷で難聴の治療を先に受け、時間が早いので銀座から地下鉄で虎ノ門に行くことにしました。有楽町のガード下に何軒かの飲食店があります。「まんぷく食堂」という名の飲み屋?はまだ4時というのに外から男性のお客が一杯に入っているように見えます。屋台より少し上等かなーといった感じです。その入り口には古い琺瑯の看板が打ちつけてあります。

日比谷から数寄屋橋まで


 隣は「ミルクホール」という暖簾を掛けた店で、上には丹下左膳(大河内伝次郎でない)のポスター。面白い一角です。
                    日比谷から数寄屋橋まで

 マリオンの東側に今風輪タクが止めてあります。どういう使い方がさ
れているのか聞きたかったのですが、相子もちょっとためらい、聞けませんでした。
 今度見たら絶対聞いてみようと思っております。
 
 日比谷から数寄屋橋まで

 数寄屋橋のチャンスセンターに近づきましたら、サマージャンボの売り出し最後の日ということで、1番売り場で買う人が列をなしております。話では勿論知ってはいますし、友人でも絶対ここで買う人もいます。整理の人が何人もでています。途中で列が道を挟み切れています。
切れている最後尾のところの看板に「ここから30分程で買えます」と
書いてあります。一時間仕事ですね。昨日は涼しくて皆さんよかったでしょうね。僅かな距離ですがとても楽しみました。
                          日比谷から数奇屋橋まで

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相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日86歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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