2007-03

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土佐文旦

 母方の祖父は土佐の出身。房州で仕事をしていて祖母と結婚しました。
 祖父の先祖は和歌山から、土佐に移住したそうで、元々神官だったようです。それは父の弟が四国巡りに出かけた時に、調べて来たものです。父が用意した祖父の戸籍から辿り着いたと聞きました。
 その時、祖父の親戚が高知県の須崎町で文具店を開いていることが分かりました。母の従姉妹に当たる人だと思います。尾崎という名前です。既に母もいなく、交流もなく過ぎてしまいましたが、今もその文具店があるのかどうかは気になっております。
 数年前四国旅行の際に須崎町を通過しましたが、何処となく淋しい街並みでした。
 叔父はその時の旅行で尋ね、会うことが出来た須崎町の親戚の方が、薦めてくれた土佐文旦が、美味しいからと旅先から送って呉れました。
 その爽やかな味と、剥くのが楽なこともあってすっかり気に入り、以来20年以上注文し続けております。今年も美味しい土佐文旦が届きました。

                 土佐文旦

 私はこの文旦が届くと春!春!春!と気分も爽やかになってきます。

         土佐文旦

 土佐市の藤岡さんは毎年丁寧な案内状を送って来ます。その案内ですが、必ずその年の作柄をよく説明、傷がありますがとか、風に打たれたのですがとか、気温の状態が今一つでしたとか。こちらに分かるように書かれております。そのきちんとした対応は代金を振り込んだ後、必ず領収証も送って下さる姿勢にも現れております。いろいろな点から信頼し、毎年依頼しております。
 今まで気がつかなかった箱の横のマーク。ブログを始めていない時は全く気にならず目にも入っていませんでした。藤岡さんに申し訳ない思いです。

                      土佐文旦

 
参考 土佐文旦生産者   土佐市本村620
              藤岡義久
              ℡ 088-855-0917


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旗袍あれこれ

 旗袍は中国が清朝時代から引き継いだ所を持ち合わせている衣服です。現代の中国の民族衣装と思われる方が多いようですが、これは決して定説にはなっておりません。
 中国の行事やセレモニーなどで、実際に着られておりますから、民族衣装のような印象を持たれるのは良く分かります。
 多民族国家という面もありますが、歴史上西方や北方から入って来た民族やそれに伴った風俗、習慣などが混在し、中国の一面を以って中国を語れないように、衣服についても同じことが言えます。 
 ですから、旗袍は中国の衣服の一部分の物だと理解しておくのが良いのではと思っております。
 上海で求めた綺麗な絵葉書は清代のものも見ることが出来ますが、古代の中国衣服を知る、簡便な手頃なものと言えましょう。そういう点から見ていただければと掲載いたします。
 このようなものは高貴な方の物ですから、庶民の衣服とは違います。
その辺はお分かり頂けると思います。

                   旗袍あれこれ


            旗袍あれこれ


        旗袍あれこれ


               旗袍あれこれ


                      旗袍あれこれ


            旗袍あれこれ




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チャイナドレスは素敵だ 28

 生徒の皆さんが悩む共通項があります。それは友人や知人から「作ってー」と頼まれるということです。
 チャイナドレスは習えば簡単に作れると思われるようで、興味がある方からすれば、この際だから作って貰えるチャンスだと思われるのだと思います。気分は直ぐにでも作って貰え、着て出かける心算でしょう。
 
              チャイナドレスは素敵だ 28

 生徒は習い始めると、興味がどんどん湧いてきまして、人様どころでは無くなります。自分のを作るのに時間を使いたく、せいぜいお嬢さんのを作るか、姉妹のを作るのでせいいっぱいだと思います。
 最初は、まず単の袖なしと袖付きの二枚を作りますが、その後は裏つきのものや、旧い形の物など。バレイションがいろいろあり、それらも作りたくなりますから、当然友人の物まで手が廻りません。
 
                       チャイナドレスは素敵だ 28

 見るところラインがシンプル、生地が少なくて済む、高齢者には姿勢も良くなり、首の皺も隠れ、若く見えます。これは女性にとっては魅力一杯ですね。出来れば作って欲しいと思うほうが自然でしょう。惹きつけずにはおりませんね。
 
             チィナドレスは素敵だ 28

 色や柄は自分に合ったもので作りますから、皆さんは大切に着ております。手作りの良さですね。この世でこれだけ、いいですねー。
 会合に着てゆけるような物が作れるようになりますと、ますます人の物を作る余裕はなくなります。紐ボタンも自分で作れるようになりますと、それに拍車がかかり、人のまでは手がまわりません。
 
              チャイナドレスは素敵だ 28

 お友達は期待していましょうが、なかなか届くまでになるには時間が要りましょうね。習ってももっともっとつくりたくなる。そんな気分にさせてくれるのがチャイナドレスです。斯くこのように魅力があるのがチャイナドレス・旗袍の特徴とも言えそうです。


3月27日  仏壇の日  さくらの日


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オー!青島

 中国山東半島の一角に美しい海岸線を持つ青島市があります。そこは一時日本が統治していたという歴史のある街ですが、1922年には中国に返還されております。近づく北京五輪のヨット会場になります。
 
               オー!青島

      (青島市鳥瞰図昭和13年・父が青島に赴任した年です)

 ドイツが街づくりを進めた都市で、緑と赤い屋根が見事に調和し、特に海から眺める青島は素晴らしいパノラマとして、心を打ちます。
 1939年の夏、青島の小学校に転校しました。
 神戸から日光丸に乗船。門司を経て東シナ海から青島の沖に着きました。その美しさを眺めた時の大きな感動は子供心にも強く響き、後々まで忘れずに来ております。
 先日ブログに入ってくるサーチワードに「日光丸」と出てきました。ええ!と直ぐにリンク元URLを開いてみましたら、ありました。「青島航路」というHP。

          オー!青島

                 
 絵葉書を主体にしたそこに日光丸の姿が写っております。泰山丸やバイカル丸も載っております。

       オー!青島

      (バイカル丸・米潜水艦に沈没させられたと聞きました) 
                       
                       オー!青島

 興奮しましたね。この記事を読みますと青島航路は大阪商船が1914年に開始、1923年には逓信省命令航路となったもので、1939年からは東亜海運が運行していたのだそうです。就航した船は4隻。

                オー!青島

                       (日光丸) 
 私が青島へ向かった時の船は日光丸、1942年に帰国する時に乗ったのが泰山丸。その姿かたちを始めて見ました。
 日光丸が想像外の小型で驚きました。巨船時代の今から見るとこれが客船とは思えないような船です。

                      オー!青島

                          (泰山丸) 
 泰山丸に乗船し、日本に向かった私は、出航わずか一時間ほどで酔いはじめ、瀬戸内海まで酔い続けていました。
 船の食事は海草混じりの酷い不味さ。喉を通りません。酔っていますので胃の中は空っぽ。最後は黄色の滓のようなものが出て来る始末。
 船が東シナ海に入り、海の色は深く、深く感じる濃い紺色。その頃になりましたら、潜水艦に狙われて攻撃されたという想定の避難訓練が行われ、酔っていてふらふらの足で、決められたボートに救命胴衣を着けて、やっと這うようにしてたどり着きました。
 やがて船は玄界灘に入り、うねりは大きく、遠くに朝鮮半島が霞んで見えます。 
 ようやく門司に着き、瀬戸内海に船は進んで神戸に向かいました。瀬戸内海では軍事上の都合ということで、窓も閉めなければなりませんし、船外に出ることも禁止されました。酷い航海の酔いも穏やかな瀬戸内海で何とか治まり、神戸に着きました。
 こんなこともありましたが、青島となると全てが思い出になり、第二の故郷として望郷の念、衰えずといった所です。
 この青島航路で見つけ取り込んだ絵葉書を掲載いたします。

                オー!青島

      (これは今の青島の街並みです。赤い屋根は変りません)


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旗袍あれこれ

 流行は直ぐに伝わってこそその値打ちが活きます。
 上海は古くから流行の発信地です。昨年の9月に見た旗袍も、それより2年前に見た旗袍より、色の組み合わせが大胆になっております。
 
                旗袍あれこれ

 豊かさが女性を大胆にするのは何処の国でも起きることで当たり前と言えましょう。
 反面必ずレトロといいますか、古きことの良さを懐かしみ、それを守る流れもあります。日本も然りですが、中国でもそのように感じます。確かに古いものは落ち着きますし、気分は急がなくて済みます。生徒の何人かは旧型のものが気に入り、すっかり身に付いております。
 
              旗袍あれこれ

 上海では長いものよりは短いブラウス様のものが目を引きます。現代は女性でも働くのが当たり前という時代ですから、パンツやスカートの上に羽織るというのが機能的でもあり、仕事場から直行するような場合には特に利便性を発揮することでしょう。(私でもそうすると思います)
 
                       旗袍あれこれ


              旗袍あれこれ

 これらの上着もおしゃれ着にするようなものとなりますと、矢張りデザインも凝っております。色も流行色が混じり、とりどりのものを手にすることが出来ます。
 男性が親しい女性や、奥様やお嬢様への土産にするのはこれくらいの物であれば日本での集まりに着る旗袍として許容されるのではと思います。プレゼントには少し値段の張るものを奮発して頂きたいものですね。
 よく見かける、あのキラキラした、緞子まがいのアセテートの旗袍だけはプレゼントにしないでほしいと常々私は思っております。


3月25日 電気記念日 1878年中央電信局の開局を祝って、工部大学校(現東京大学工学部)のホールで50ヶのアーク灯を15分灯した記念として、日本電気協会が1955年に設定。初めて東京に電灯が灯ったのは1887年。


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磯の春

 春の彼岸が近づく頃になりますと確実に海の色に変化が現れて参ります。濃い深緑のような暗い黒い海水の緑が減ってきて明るい青が目立って来ます。空も明るくなって来て沖が大きく広がって見えて来ます。春到来です。
 昨日は房州白浜に住む妹から「ひじき刈り」の様子が送られて来ました。あー春だなーと気分も明るくなります。磯が賑わって来た様子が目に浮かびます。磯の春はひじき刈りのあとは天草採りへと移って行き一層賑やかになって行きます。また送られてくる写真が楽しみです。
 
                    磯の春

 磯は今、ひじき刈りが浦々ごとに始められているそうです。海水はまだ冷たいはずですが、土は春の陽を受け温度が上がっているのでしょう。磯の傍では浜大根の花も咲き始めたようです。
 
               磯の春

 ひじきは、若布や昆布などと比べ鉄分など栄養素も高く、非常に優れた食品だと聞いております。
 我が家は日本食中心ですので、海草は殆んど毎日3~4種類は食卓に載ります。勿論ひじきは房州の磯で採れたものです。柔らかく美味しさも自慢できます。
 ひじきが長い藻だということは、刈り取りなどを目にしたことのない方には分からないかも知れません。「ながひじき」などと書かれたものを見ると、何か特別な種類と思われるかもかも知れませんね。
 ひじきは分類ではヒバマタ目ホンダワラ科と言うのだそうで、ホンダワラは長ーい海草で、海中にゆらゆら揺れております。ひじきも同じです。

           磯の春

 刈り取ったひじきは大釜でしっかりと茹で、干し上げます。地味な食品ですが、保存食としてとても便利に使えます。
 明日の朝食、何か何とかしなければといった時、寝る前に一掴みのひじきを水につけて置きます。

              磯の春

                  (これは去年採った物です)
                        
                   磯の春

 簡単にあっさりと煮てもよし、そのままサラダ風にしてよく、急ぐ時などは特に便利です。


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明治大学紫紺館

 明治大学紫紺館は昨年暮れに開館されました。校友会館という意味を込められて造られた建物です。
 
                明治大学紫紺館

 この場所にあった小川町校舎の4階に学生相談室が置かれ、その上に柔道場がありました。この小川町校舎が出来た時、文学部が使っておりました。船橋聖一先生の小説「白い魔魚」が書かれた頃で、船橋先生は文学部教授でした。教員室の風景は小川町校舎の教員室を思わせておりました。
 懐かしい校舎の跡に建った紫紺館の中は落ち着いた雰囲気を漂わせております。
 2階の事務室に寄りましたが、広々としてまた明るく、羨ましいくらいです。顔見知りの職員の女性の方が施設を案内して下さいました。
 
                       明治大学紫紺館

 レストランは目白の椿山荘が請け負っているそうで、そこでランチを摂りました。

               明治大学紫紺館

 ゆったりとした雰囲気の中、何人かの知った方にお会いしました。
 
             明治大学紫紺館

 西側の見晴らしの良い所に座っていた職員の方の場所をお借りし、写真を撮りました。
 
        明治大学紫紺館

 この角度から、どれほど学生と機動隊との激しいぶつかり合いを眺めたことでしょうか。学生の激しい抵抗に機動隊員も殴り、蹴り、引きずり、目の当たりにした日は何日もありました。道路の縁石は学生に剥がされて機動隊に投げつけられます。どこから持って来たのか、翌日の新聞で見られる石の散乱に驚いたことが甦ります。
 施設は高齢者の方に配慮されているようです。例えばエレベーターのボタンは今まで見たボタンでは最大のものです。
 
                      明治大学紫紺館

 トイレも立ち上がるときに摑まる木枠もつけられてあります。
 会合の出来る施設も何箇所かあり、音響機器や映像機器も整備されております。案内する女性も活き活きとしており、せいぜい利用したいと思う気分になりました。


3月23日 世界気象記念日


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山根研一さん

 山根さんが、まさかの速さで私たちの前から、姿を消され、早や2年が経とうとしております。明治大学政経学部を卒業された山根さんと、初めてお会いしたのは、山根さんが昭和会という会の中で多くの方を迎えて、頑張っている時でした。かれこれ25年以上も経ちましょうか。
 
                  山根研一さん

 私にはとても長いお付き合いをして頂いたように思えてなりません。
 私の娘が通っていた御徒町中学のほぼ真向かいに事務所を構え、気さくに皆さんを迎えてくださいますので、よくお邪魔しました。必ず沢山の宝石を見せてくださり、毎回目の保養をさせて頂きました。

                 山根研一さん

(この日は病院から馳せ参じ、多くの知人友人とお会いした最後の姿です)
 山根さんから電話を頂いたのは04年の12月のことでした。「先生僕今病院にいます。胃に立派な物が出来ましてね」ということです。余りに突然のことで驚きました。佐藤満喜さんと直ぐに駆け付けました。
 山根さんは机に向い、年賀状を書いておりました。「いやー何だか立派なものがあるというんですがね」と言い出し「でも僕は死にやあしませんよ」と確りと気丈に話されておりました。
 岩佐先生の書展を見に行った山根さんは急に酷い腹痛に見舞われ、病院に駆け込まれ、即入院となったそうでした。
 山根さんは様々な分野に活動の幅を持てれており、特に詩の世界では多くの足跡を見ることが出来ます。オペラの台本も書かれております。
 昨夕は山根さんが生前(と言っても既にご本人は命が尽きんとする覚悟を抱かれていたと思われる頃)漏らしていた希望をかなえるための追悼会が下落合の教会で開かれました。親しかった方々が集い、山根さんを偲ぶ良い会でした。詩の仲間からの追悼文が捧げられ、山根さんが選んでおいた曲が演奏され、また山根さん作詩の朗読もあり、お嬢さんのピアノ演奏もありました。山根さんはバッハがとてもお好きだったとことを知りました。申し訳なさそうにお嬢さんのCDを出されたことなどを思い出しました。
 
               山根研一さん

 明治大学昭和会の代表幹事を立派に務められ、多くの明大人との交流には積極的に協力を惜しまず、心から感謝しておりました。
 私のパーティーにも出席頂き、会のファッションショーにも快く出演して下さいました。「僕一変にスターの気分になりましたよ」と凄く嬉しそうにされたあの明るい大きな声が思い出されます。
 
                        山根研一さん

        (舞台に立ちいささか得意げに嬉しそうな山根さん)
 岩佐先生に出会い、亡くなる数年前から書に打ち込み、驚くほどの精進振りでした。何かに憑かれたような様子で事務所で大作に挑んでおり、どうするのという程長ーい長ーい紙に只管書いておりました。
 
               山根研一さん

 (岩佐先生の書の間に座り、どっしりと中国の大人ぶりの山根さん)
 「東京書こう会」を立ち上げ、これから会を大きくしてゆこうとしていた矢先の病に、私たちには術もなく悲しいことでした。
 
                        山根研一さん

        (山根さんの詩を書いた岩佐ねなしかづら先生の書)
  奥様の智子さんは山根さんの希望に添いたいと、健気にいろいろなことを乗り越えられ、昨夕の会を持たれました。親しい人が静に穏やかに山根さんを偲ぶことが出来ました。牧師さんの山根さんを偲ぶお話しには、感謝を忘れなかった山根さんのお姿が重なり、最後まで自分らしく生きた山根さんらしい会となりました。

   2005年3月28日逝去 享年63


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ママレードまがい

 沼南道の駅で久しぶりに確りとした甘夏を見つけました。助手のOさんが大好きなスイーツ(今風に言ってみます)を作ることにしました。
 
               ママレードまがい

 褒められると(?)(~)も木に登ると言いますが、私も体格は(?)(~)に似ています。矢張りそういうことで時々作ります。
 材料は甘夏5個 グラニュー糖500g~700g 
 ペクチンとコアントロー少々
 何時もの通り、まず包丁を磨ぎます。
 甘夏は良く洗い、皮に切れ目を入れて剥ぎ取ります。皮を薄く切ります。
 
          ママレードまがい

 果実の中身を全部取り出します。実の表面の真ん中に切れ目を入れて手で剥がすと簡単に皮から取り出せます。
 
       ママレードまがい

 皮を3回茹でこぼします。その後、皮を鍋に戻し、実を乗せ、砂糖を更に上に被せるように全体にかけます。(水は入れません)

                     ママレードまがい

 煮立ち始めたら、とろ火にして煮続けます。大分水分がなくなり、もういいかなーと思ったら、ペクチンを加え、よく木杓子でかき混ぜ、最後にコアントローを加え、火を止めます。
 
                          ママレードまがい

 出来上がりました。娘から「これを持って何処に出かけるのー」言われそうで、彼女たちの来ない時に作ります。大体夜中です。 
           
           ママレードまがい

 保存料を入れてありませんが、冷蔵庫でかなり長くもちます。


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恐るべき値段

 年末から忙しい日が続き、なかなか買い物に出かけられなく、生徒の持ってくる生地につい目が行きます。先日生徒の一人が安い生地の店に行きますけど、皆さん一緒しませんかと、誘って下さいました。
 渡りに船とばかり、便乗させてもらい、お喋りも弾み出かけました。場所は千葉県の市川方向、国府台でした。
 
               恐るべき値段

 並べられている生地の多さにまず驚かさせられます。道路の台の上、止めてあるワゴン車の中、更に家の中。
 
            恐るべき値段

 暫らくは眺めるだけで、何処から手を付けたらいいのか、気力も萎えそうになりましたが、気を取り直し、生地に挑戦。山のような反物を引いたり、押したり、また二人掛りで持ち上げたりし、ようやく自分の分を確保しました。
 この生地、全てメーター100円。品物はウールや木綿、化繊やシルク。ともかく目の効く人にとってはたまらないと思います。
 プロの方が既に生地を切って貰っています。ご主人同行で仕入れに来ているそうです。エプロンや帽子、袋物からいろいろな小物などを作り、フリーマーケットに出店するのだそうです。ほぼ一時間。どれだけ買ったのでしょうか。
 
         恐るべき値段

 店の方の話しでは今日はお客が少なく、多い日は5時間も並ぶそうです。とてもそこまで辛抱して買いに行く気にはなりませんね。
 ようやく選んだものを切って貰うことになりました。その手早いこと、裁ち鋏を持つ手がよくもつものだと感心しました。
 屋内は床がぎしぎし、いつ床が抜けるかと心配になるほどです。一階全体に生地が溢れています。

                    恐るべき値段

 途中でそこにはトイレが無いようなのでと、昼食をとったレストランで済ませて置きました。本当にそうです。
 奥さんの買い物に付いて来ていた、ご主人の話では、道の沿っている大きな駐車場は、ここのものだそうです。いろいろ生き方や、生活の仕方がありますが、チョッと変った生地やさんでした。
 私は全部で40数メートル買い、4000円強の支払いでした。そこまで買いますと、持てません。次回の授業の時まで生徒の車に預かってもらうことにしました。
 日暮里にも随分安いところがありますが、ここは日暮里に負けずどころか、そこを凌ぐ安さではないでしょうか。驚きました。


3月19日  東京駅落成記念日


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また行きたい上海

 先日麗澤大学教授の三潴正道先生の講演を聴きに参りました。上海が如何に重要な位置を占め、また役割を持つ所かということを、改めて認識しました。

    また行きたい上海

             (三潴先生) 
 
 昨年初秋、上海に行きましたが、一緒に出かけた助手のKさんと「また行きましょう」と言いあっております。
 上海の何処を見たいかは同じ趣味を持つ同士ですから、選ぶ場所も自然に似ております。
 
             また行きたい上海

 上海は発展が著しく、高層ビルが林立し、生活にも大きな変化が起きていることは、日夜の報道からもよく分かります。
 
                    また行きたい上海


 また行きたい上海

二人はごちゃごちゃした所が好きです。ただ次に行った時に果たしてそういう場所を見ることが出来るかどうかは全く分かりません。

                         また行きたい上海

 
                また行きたい上海

 上海に住む友人夫妻によく伺ってから行くつもりですけど。
 昨秋の気に入った場所を掲載致します。上の方には発展と関係深いばしょですが、下の方に載せているのは好きなごちゃごちゃの風景です。

         また行きたい上海

 発展と関係なく今を生きる人も、将来は必ず発展のもたらす状況の中に組み込まれずには生きて行けなくなることでしょう。



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旗袍あれこれ

 日本でも着る物を買おうとすると、いろいろなレベルの物があり、自分の買えるもとか、好みとかであれこれ迷います。
 中国で旗袍を買おうとすると、注文がいいのか既製品がいいのか、難しい面があります。
 
                旗袍あれこれ

 既製品は廉く、直ぐに似合うかどうか決めることが出来る、利点があります。が反対に好きな生地、好きな色などを決めることが出来る注文は矢張り良いものです。ですが思い通りに出来上がって来るかどうかは実際に着てみるまで分からないところがあります。

 
                      旗袍あれこれ

 北京の郊外で見つけた店のマネキンが着ている旗袍の作りが、まあまあで、思い切って頼みました。勉強のためとも考えた面もあり、仮縫いの時間もないということもあり、仮縫いなしのものを頼みました。

              旗袍あれこれ

 出発前日の夜、ホテルに届けに来て下さり、約束通りに見えたので、感心しました。
 同行の方たちも部屋に集まり、私が着るのを待っております。
 一番気になっていた、裾のところが見事に駄目でした。スリットから下に落ちる生地が裾に行くほど広がり「あーこれは着られない」と思って、仕立てたという男性に「これは駄目だけど」と言いますと、何と答えは「これは中国の習慣だ」と言い放ちました。
 これは納得できません。広がって行くのが習慣だとは、何処にも書いてなく、広げなければならないとも聞いたことがありません。
 直す時間はなく、置いてきて直してもらうにも、この言葉を聞いた限り駄目だと考え、受取り持ち帰りました。やはり着る気になれず、そのままになっております。
 
              旗袍あれこれ

 中国で注文をするときにはぜひ仮縫いをして貰ってください。
 紐ボタンのことなどもきちんと決めて置かれることが大事です。
 仮縫いをする時間がない場合は、既製品の良いレベルのものを求めることをお勧めします。買い方は「美麗的旗袍」に掲載してありますので参考にして頂ければと思います。


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古関吉雄先生

 1949年の4月明治大学和泉校舎で入学式を済ませ直ぐに、クラス分けがありました。法学部は5クラス。クラス主任は、林原耕三先生、町田久一郎先生、古関吉雄先生、見波精先生、園山勇先生でした。
 
                 古関吉雄先生

 (入学した頃の和泉校舎 前庭の棕櫚はその後、随分大きくなりました)
 教室も決まっており語学などは毎度同じで、席もきちっと決まっておりました。
 3組の主任は確か古関吉雄先生だったと思います。私は前期は4組、後期は5組でした。古関先生は国語が担当。ドイツ語の菅藤高徳先生が教えて下さったドイツ語の歌のメローディーの数々を、古関先生が授業の後、ご自身が歌いながら教えて下さり、楽しい一年生生活が続きました。
 古関先生は外国の民謡や、学校校歌の作詞で有名な先生です。大学から短大、高校、中学とその校歌の作詞は枚挙にいといません。
 昨日、春の高校選抜野球の組み合わせが発表になり、地方局が報じておりました。
 夏の甲子園、春の選抜となると必ず古関先生のことを思い出します。以前ちょっとTVを眺めていましたら、古関先生作詞の校歌が流れております。すぐ先生に電話をしましたら「ほー!どこのでしょうかね」とゆったりと何時もの口調でおっしゃり、余り関心はなさそうで聞き流している風でした。
 先生は人情厚く、学生を可愛がります。私の友人3人は先生の媒酌で結婚されております。3人は仲が良く、その一人小館徳衛さんは日経の「交遊抄」で3人の交流を伝えておりました。

               古関吉雄先生

(1981年の合同クラス会 左から古関先生、小出廉二先生、山本進一先生、見波精先生) 
 私も大事にして頂き、祖師谷のお宅に呼んでくださり、すき焼きをご馳走になったこともあります。またお孫さんの名前を私の娘と同じにしたと、話されておりました。
 福島県出身の古関先生は、中学4年から仙台の第二高等学校に入学、その後東大の文学部を卒業された秀才。明大で長く教授をされておりました。同じ国語の丸野彌高先生、景山直治先生と同期と伺うと、一際お若く見えました。語学に堪能で、エスペラントも一所懸命に皆さんに勧めておりました。私も誘って下さったのですが、怠け者で覚えているのはフローロという単語一つだけです。
 晩年、奥様の秀子さんが亡くなり、通夜のときの先生の落胆振りが酷く、一気に歳をとられた感じがしました。体に障ったのではないでしょうか。
 1994年頃、南柏の高齢者施設に入られたという連絡を頂き、直ぐに参りますと、言葉での交流はもう無理になっておりました。悲しいことでしたが、近くですので時々会いに行き、聴こえるかも知れないと思い、声を掛けておりました。先生は段々体も弱まり、1995年にお亡くなりになりました。
 奥様は生前、詩誌「しろたえ」を発行しておりました。その中で、和泉校舎で勤務していた成川玲さん、農学部の佐藤恒敬先生のお名前が並んでおります。感慨一入です。

                    古関吉雄先生

 作曲家古関裕而さんは従兄弟、仙台で操体法を創設された医師橋本敬三先生はお兄様だと耳にしております。



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安房白浜の女

 安房白浜(現南房総市白浜)は灯台、花、海岸ということで、しばしばTVや新聞で紹介されます。昨日の日経夕刊でも「春の海辺で花散歩」という旅の記事で紹介されました。
 
                安房白浜の女

 昔は房州の花は金盞花やストックなどが中心で、時に「駄花」などと言われ見下げられた時代もありました。トラックで夜に出荷しますが、気候に左右され、市場に出しても運賃にも足らないこともあり「仕切りが悪いよー」という声を良く聞きました。
 今は花を観光資源として町の人々は一所懸命です。花畑を眺め、また自分で花を切り、楽しむことが出来ます。町の彼方此方に観光花畑が広がっております。
 
          安房白浜の女

 私のしる限り、綺麗な花を咲かせるまでの苦労は大変なものでした。
 白浜がまだ観光地化されていないころ、白浜の女たちは、海女として海に出かけ、春の天草から夏のサザエや鮑まで潜りが続き、家計に貢献しておりました。海女は逞しく、潜りの出来ない私は「ナマケモノの司」などとからかわれておりました。
 
                      安房白浜の女

 
               安房白浜の女

          (45年前の海女小屋と娘を抱いた私) 
 白浜の女は実に働き者でした。それは今も変らないと思います。
 50年以上前、白浜で過ごした頃の町の女は気が遠くなるほどの働き者でした。夏は特にひとときも無駄にしないくらいです。
 
            安房白浜の女

 夏の朝、4時頃には山に百合を採りに行き、花を薄い紙で覆い、出荷の準備をします。(これはもっと後の時間かも知れません。朝露が取れてからだったかも知れません)山から帰ると食事を済ませ、田圃の草取りをし、それから潜りに出かけます。一日午前と午後、2回海に入るのが普通です。
 海に潜る海女はベテランになると一日の水揚げが何万という腕前です。若さだけでは水揚げは多くありません。聞くところによりますと船で沖に出てから海に入る前、山の方を見て目標を確認、自分の獲る場所へと潜るのだそうです。これは人には教えません。そこには必ず獲物が居るそうです。
 夕方は冬から春に咲かせる、花の苗の移植などに精を出します。花の苗は何回かの移植を済ませて育てます。
 これだけ働き、咲いた花が廉くなってしまっては本当に気の毒です。
 現在は世の中の合理化に呼応し、花栽培も違っているでしょうが、働き者の白浜の女の気性は変らないはずです。(漁協の婦人部の発言力は昔から力がありましたが、今はどうでしょうか)
 昨日の新聞の紹介に里見氏の菩提寺の杖珠院の文字もありました。両親はそこに眠っております。
 
           安房白浜の女

 余談ですが、昔の金盞花は芯が黒く、口の悪い親戚の者が私のことを「金盞花」=真黒、とあだ名を付けて呼び、母を随分怒らせました。


3月15日  靴の日
       確定申告締め切り日
15日~30日 彦根城梅まつり 


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関口功先生と知代夫人

 関口功先生は明大文学部で英文学を教えられていました。ご専門は黒人文学です。間もなく80歳になられるとお聞きし、驚きました。政経学部の教授だった松山亮次郎先生と、総武線仲間の飲み仲間でした。松山先生には随分お供を仰せつかったことと思います。功先生が在外研究でアメリカに行かれ、帰国された時にはケネディコインを頂きました。そのことは先生はお忘れになっておりました。
 関口夫人の知代さんは、中国青島の小学校の一年下に在学した方です。功先生から「家内が青島でくろんぼ大会に出たそうですよ」と伺ったときから随分長ーい時が過ぎておりました。

                関口功先生と知代夫人

            (二人が学んだ青島第一日本小学校です) 
 東方書店に行く際、30年ほど昔、功先生のご招待で学生課のKさんと三人で「鱈ちり」を囲んだ、その店「八羽」があるのを見つけました。それから、そうだ!先生には明大のこと、知代さんには青島のことをブログで案内をしなければと、アドレスをお知らせしました。
 
                        関口功先生と知代夫人

     (現在の八羽は代替わりをしているはずだということです)
 興奮した知代さんからメールを頂き、市川にお二人をお訪ねしました。
 話は明大と青島の間を行ったり来たり、その間にまた思わぬ知り合いの名前が出てきたり、何だか何十年もの話しを一気にしようというような気分で一杯です。ほぼ4時間を喋りっぱなしでしたのに、まだ喋り足りなく思いは次回に託して帰宅しました。
 くろんぼ大会は知代さんと私の在青島の時を合わせると昭和17年の夏ということが分かりました。二人とも真っ黒になるほど青島の海で泳いだと言うことです。
 
              関口功先生と知代夫人

             (二人が通った水泳教室の海はここです)
 このカテゴリーをどれにするか迷いましたが、功先生とのお付き合いが先ですので明大の方にしました。
 功先生は先頃「アメリカ黒人の文学」というご著書を上梓されております。

            関口功先生と知代夫人

 このお二人は明大と青島という、私にとって大切な世界の両方を合わせてお喋りできる唯一のご夫妻です。


3月14日 ホワイトデー  キャンデーの日


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ビーズ織り

 近くに住まわれている「阿良木桃美先生はビーズ織りの高名な作家」です。87歳という年齢が信じられない先生のお姿を拝見すると、自然に刺激されます。素晴らしい方です。
 
              ビーズ織り

 お弟子さんの一人に私の親しい方がおりますので、先日開かれた「アラキビーズ織り教室作品展」に見学に参りました。
 阿良木先生の作品は勿論、会場全体が煌めく雰囲気です。何十人という方の作品が並び、ため息が出ます。
  
                        ビーズ織り

 阿良木先生の作品の一つは「ビーズグランプリ06・MIYUKI賞」を受賞されました。 
 
             ビーズ織り

 
         ビーズ織り

 織りの大変さは展示された用具とビーズから察することが出来ます。 一センチ四方に42個のビーズを織り込むというこの仕事は只管忍耐と根気が要ることで、努力も勿論必要です。
 
               ビーズ織り

 センスもまた大事な要素の一つでしょう。特に友人の日常の生活振りや、気を抜かない服装などを知るだけに、センスの良さが発揮されている作品に接し、さすがと拍手を送らせて頂きます。                       
                     
                        ビーズ織り


                ビーズ織り

 会場でビーズ織りを始めたことで、根気と忍耐力がつき、習ってよかったと話している方がおりました。そうだろうなーと、自然に相槌を打っていました。


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チャイナドレスは素敵だ 27

 直裁ちのチャイナドレスというものは、言葉の通り型紙を作りません。洋裁や縫い物が出来なかった私が考えたように、型紙を作らないとは、きっと易しいものに違いないと、思われる方がいても不思議ではありません。
 
      チャイナドレスは素敵だ 27

 易しさこそ難しいことに繋がるものだと、始めてみて気が付きます。教室に長く通って下さっている生徒の方々から、ビデオでテキストを作って欲しいと、前々から言われておりました。残念なことに、私にはその技術がありません。
 
             チャイナドレスは素敵だ 27

 昨年夏から思いがけないことが始まりました。一昨年NHKの教室に、パソコンとデジカメを教えている方が入って来まして、彼女は外の所の手芸の講座も受けており、DVDを製作、講師の方に協力をしているそうです。
 その方が協力を申し出てくださり、ビデオならぬDVDで作り方の実際が紹介でき、長年の思いが実現しました。縫製の実際はまたベテランの生徒の方が協力してくださいました。(ただこれを全く知識のない方が使うには難しく、作ることは無理だと思います)
 
                   チャイナドレスは素敵だ 27

 テキストも文章と製図が分かれていたものを一緒にし、更に写真も沢山使い、一新することが出来ました。
 このセットが手元にありますと、忘れてしまった時や疑問を感じた時の確認には、きっと役に立つことと思います。
 古くからの研究会の仲間に送りましたら、随分頭の中で抜けてしまっていることが分かり、とても有難いとお礼の電話を頂きました。


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何だか可笑しい

 青島の友人のブログを眺めていました。彼は糖球会という催しがあると聞いて出かけ、その様子をカメラに収め、その風景を沢山掲載しております。(青島満帆)
 
                  何だか可笑しい

 中国での串刺しは昔から見ておりましたので、串刺しの食べ物は特に不思議には見えませんが、これだけ集まるとすごーいとは思います。

              何だか可笑しい

「糖葫芦」という串刺しの食べ物がありました。今、青島ではそれを糖球と言うようです。串にサンザシなどを刺し、周りを飴で固めたとい言いますか、覆ったようなもので、冬になると出てくる中国の北の方の食べ物です。昔は長い竿の上の藁頭との様な物に刺して売りに来ました。食べたかったのですが、母が埃が付いているからと食べさせて呉れませんでした。
 
            何だか可笑しい

 中国では様々な食品が串刺しにされて露天で並んでいます。北京の王府井の夜でもずらーと並んでいるのを見かけました。何でも串刺しにすれば売り場も大きくなくて済みますし、手渡しで済みますね。将に庶民の食べ物といえましょう。
 
           何だか可笑しい

 露天でたこ焼もありますが、これは串に刺していないようです。

                   何だか可笑しい

 老いも若きも、男も女も皆、串を持ち食べております。
 その中で実に不思議なものを発見しました。
 
     何だか可笑しい

 友人に尋ねましたら、それは「スープの中に牛肉の団子が入っていて、その団子の真ん中に更にシャコが入っていて、食べるとスープが口の中に広がるというもの、食べる時に熱いので注意がいるそうです。香港の喜劇ドラマのシーンに出て来て、人気になったそうです」というものです。
 でも説明を読んでも何だか可笑しく感じてしまいます。
 9年ほど前でしたか、北京の街を中古の佐川急便の車が、あの飛脚姿の絵を消さずにそのまま走っております。ガイドの説明によりますと、急便は下痢のことだと言われ、何だか可笑しく恥ずかしく感じました。そのことと似ているような意味の文字ですね。
 
                    何だか可笑しい

以前H氏から送って頂いたタンキュウの絵があることに気が付きました。遅まきながら訂正追加し掲載いたします。(3月13日)


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07年3月の和泉校舎

 昨日、随分久しぶりに和泉校舎に行きました。数年後に75周年を迎えるそうで、古い話しをする会合に出席しました。
 1949年の和泉校舎の建物はあるはずはありませんが、あの頃の校舎は三階でした。その後一階足されて、四階になりました。東京五輪の時に、甲州街道が拡張され、歩道橋も設置されました。その歩道橋の形も少し変わり、周辺の姿もすっかり変わっております。
 明大前の駅は井の頭線と京王線の交差する所で、京王線はもともと高い位置でしたが、外の駅が高架になりましたので、何となく低いように感じられました。
 明大前駅の前は広がり、また甲州街道にでる道も大幅に広がり、そこで一寸躊躇いたしました。もう一本左のところの道だったかなと思いましたが、飯島屋菓子店の位置を考えて、広いその道を進みました。
 
                      07年3月の和泉校舎

 1949年の和泉祭の際、今の歩道位の細い泥んこ道に学生が費用を出し、砂利を敷いたことなど思い出しながら、大学の正面に向いました。
 
              07年3月の和泉校舎

 右側に玉川上水を渡る橋の名残を見つけました。
上水は狭い流れでしたが、その土手でクラスの仲間と話しをし、ゆったりと時間を過ごしたことも思い出の一つです。
 その橋の東側には教科書を扱う「明雅堂」という本屋がありましたが、五輪の時に引っ越してしまいました。守衛所の位置は変らず、顔見知りの守衛さんが私に気がつき、懐かしげに声を掛けてくださいました。
 
           07年3月の和泉校舎

 
      07年3月の和泉校舎

 構内に入って眺め回しますと二号館と言われている校舎が目に入りました。たしか工学部の堀口捨巳先生(桂離宮の紹介で有名です)の設計だったと思います。この建物が建てられた頃、駿河台でも似た様な校舎が建ち、鉢巻スタイルなどと呼ばれておりました。大変特徴のある建物です。しかし近いうちに建て替えられるそうです。
 
                   07年3月の和泉校舎

 1959年に和泉校舎勤務になった時、構内の真ん中は芝が植えられた校庭でした。西の隅の方には狭い畑があり、ネギなどが植えられておりました。
 校庭の西側で学生が大声で発声練習などをします。隣の和田堀廟所の住職が病気ということで、内容証明で抗議の文書が届きました。今は学生の大きな騒ぎ声は聞かれないのでしょうか。
 その芝生の校庭は、62年ころ、和泉祭の最後の日にツイストを踊った学生にすっかり踏みにじられ、翌朝は一面赤土の酷い状態になっておりました。その修復には百万円も掛かりました。
 今は眺めますと何処も綺麗で上品な感じに変っております。
 
            07年3月の和泉校舎

 分別ゴミの箱にも大学のロゴが見られ、キャンパス全体が都会の大学になっております。
 
                     07年3月の和泉校舎

 会合では商学部の田中政男先生に久しぶりにお目にかかりました。学生相談室30年誌の編集責任者として、随分お世話になりました。



3月10日  東京国立博物館開館記念日  
       芸能上達祈願祭  法輪寺 京都市西京区
       農村漁村婦人の日


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何も恐ろしくない

 パソコン上で何かトラブルが起きるとあたふたとして仕舞います。夫もどうも同じような感じがします。壊れたらどうしようかで先ず動揺します。用語が分からない、操作が分からない。ともかく慌てるのが老人です。
 孫たちは何も恐れず、我が家に来るとパソコンで遊び、情報を取り出し、親に代わり会場取りもしております。
 二女の娘は4歳4ヶ月、幼稚園年少組。長女の娘は中学一年生。
 長女の娘は自宅のは使わず、専ら我が家でのを使います。どうも位置と椅子が気に入っているようです。
 
                 何も恐ろしくない

 半年ほど前は長女の娘の膝でおとなしく、ディズニーランドのHPをみていた二女の娘は、間もなく操作を覚え、先へ先へとマウスを動かし、遠くから眺めている私をはらはらさせていました。
 
          何も恐ろしくない

 最近は我が家に来ると、このちびっ子は「ばーば ずーとやっていたのでしょ。どいて」と直ぐに私を椅子から追い出し、お気に入りのディズニーの画面でゲーム等に興じ、自信ありげに操作。態度も堂々としております。
 
      何も恐ろしくない

 このチビ娘は最近デジカメに興味を示し、進歩著しく写しては上手に撮れているか確認までしております。パソコンに取り込めることを知ったらしく、「だせる? だして」と命令します。

                   何も恐ろしくない

 彼女の態度は、パソコンなんてチットも怖くなーい。ばーば心配なんでー?。何も心配ないよー。動かせばいいのよー。(ばーばの気持ちなぞ知ったこっちゃない)こういう感じの毎日です。数日前からは電子辞書に興味を持ち、自分や家族の名前を出して喜び、私が使いたくてもなかなか渡してくれません。おもちゃですね。そんな様子を眺めていますと、つくづく時代だなーと感じる今日この頃です。



今日は国際婦人デー  婦人の解放と世界の平和を目指す、国際的な婦人行動の日です。


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旗袍あれこれ

 中国が清朝から中華民国に変わり、漢民族を主体とする国家になりましたが、その政変に大きく関わった家はご存知の宋家です。
 宋家には三人の姉妹がおりました。世に知られた宋靄齢・宋慶齢・宋美齢です。三人は米国に留学、それぞれそれなりの人物だったと思います。
 三人を表現する有名な言葉がありますが、誰が言い出したのか私は知りません。その言葉とは
 「一人はお金を愛し、一人は国を愛し、一人は権力を愛し」ということですが、私はそれに「三人は旗袍を愛し」を加えたいと思っております。
 
                旗袍あれこれ

 宋慶齢は中華人民共和国の副主席という地位にありましたが、生涯旗袍を着続けたようです。
 宋美齢も生涯旗袍を着続け、専属の仕立師が常に作り続けていたと、05年8月20日に放映された「宋美齢の生涯」の中で言われておりました。宋美麗の旗袍は映像の中とは言え、体型によく合い、素材の良さと仕立のよさをつぶさに見ることが出来ます。
 宋慶齢の旗袍は何時も黒に見えましたが、カラー時代でなかったことでもあり、全部が黒だったかどうかは分かりません。この宋慶麗の旗袍を追ってゆくと、旗袍の変遷が分かると書いてあるものがあります。
しかし辿りつくと40年代の旗袍が基本になっているということを知るようです。

               旗袍あれこれ

 宋姉妹がそれほどまでに愛した「旗袍」とは様々な角度から見て魅力ある服装であることを証明していることと言えましょう。

(写真は上海文化出版社 中国旗袍から転載)


今日は消防記念日  1948年に消防組織法施行され、これまで警察の所管だった消防が、自治体消防として独立した記念日です。



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原田大二郎さん

 俳優の原田大二郎さん(1967年明治大学法学部卒業)は舞台でも大柄な体格で個性を発揮しております。
 2001年から明治大学特別招聘教授として、ご自身の専門分野を活かし学生の指導に当たられております。初めて大学で教えることになったとき、新聞で大きく報じられました。大学の窓口になられた佐藤正紀先生の談話も掲載されておりましたので、我孫子に来て頂きたいと思い、正紀先生に取次ぎをお願いいたしますと、快くご承知下さり、我孫子に原田さんをお迎えすることが出来ました。
 正紀先生と原田規梭子さん(原田夫人)は大学院の同期、夫人は法学部で英語を教えております。気さくな元気な方です。
 
               原田大二郎さん

 お二人の馴れ初めは大学の英研。二人は部での英語劇にロミオとジュリエットを演じることになり、主役として練習を始めたそうです。
 規梭子さんは、原田さんの言葉によりますと優秀で英語も確か、それに努力家、それはそれは魅力に溢れていたそうで、虜になった彼は「彼女を妻にしよう」と決意し、交際を申し込みましたら「柄じゃないわ」と断られてしまったそうです。その後、彼は今で言うストーカー??となり、彼女の行き先や教室を調べて、あたかも偶然のように「おー偶然だねー」と話しかけていたそうです。
 信濃町駅では数時間も駅で待ち、(多分野球の終了時間でしょう)大勢の人が球場の方から歩いてくる中で、間違いなく彼女を見つけることが出来たそうです。
 ところで、その英語劇の台詞をなかなか覚えられなく、只管練習していますと、ある日突然滑らかに台詞が出てきたそうです。舞台も無事に終わりますと「おや!俺は俳優に向いているのではないか」と思ったのだそうです。その英語劇がその後の彼の人生の切っ掛けとなったようです。卒業後、彼は規梭子さんと結婚されました。
 我孫子に来ていただくことが決まりましたが、原田さんはロケ先で落馬、骨折をして仕舞いました。大丈夫かしらと案じておりましたが、彼はまだ完全に治りきらないのに、ご自分で車を運転、成城から来て下さいました。

                    原田大二郎さん

 挨拶の冒頭で「先輩からのお話しで一も二もなく駆けつけました」と先輩を立てる気配りをし、私を驚かせました。
 
        原田大二郎さん

 この日は我孫子を拠点に活躍している男性合唱団アンサンブル・レオーネの方が指揮者共々来場、賛助出演して下さいました。お世話役の山下広之さんは1963年の明大卒業生です。この方たちの出演料はお弁当。有難く感謝しております。


今日は啓蟄 二十四節気


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元宵節

 今日は旧暦1月15日(元宵節)年の最初の満月の日。中国の正月は陰暦の1月1日の春節で祝います。正月を迎える時を過年と言い、正月の行事は先ず「年三十晩上(除夕)」「正月初五(破五)」「正月十五(元宵節)」で全てが終わります。
 聞くところによりますと、今日のこの元宵節が済まないと正月気分が抜けなく、のんびりしているそうです。夜は提灯を下げ、爆竹も鳴り、花火も揚げ、高脚踊りも出て、一家団欒のひと時をおくり、明日からさー仕事となるのだそうです。
 考えてみれば、今回起きた上海株式市場での株価下落が世界を駆け巡り、世界中の株式市場に影響を与えるような時代になっているのに、相変わらず元宵節を過ぎるまで暢気にしているとは不思議な気がします。実際はどうなのでしょうか。都市部と農村部では大きな違いがありそうですね。
 
 ところで、昨日の中国語の授業は老師が北京から持ち帰った材料を使い、元宵団子を作りました。老師は新学期によく餃子も作り、また包子も上手です。 
 元宵団子の材料は日本の白玉粉と同じ、もち米を粉にしたものと、中身にする餡です。
 
      元宵節

 粉はさらさらと実に綺麗です。今回の餡は「芝麻・山査・酸梅・黒豆」の四種。勿論北京からのものです。
 
               元宵節

 粉はぬるい温度の水で練り、良く捏ねて棒状に伸ばし、それを3センチほどの長さに切ります。
 
                      元宵節

 切ったら手で丸く伸ばし、少しの餡を真ん中に入れ、丸めます。これは皮も小さく、なかなか難しい仕事です、餡の分量が決め手のようです。特に梅餡は顆粒状で、中で落ち着かず上手く行きませんでした。初めは皮からはみだしてばかりいましたが、段々コツが分り、皮に補修をしたりしながらも、手が多かったせいか早く出来上がりました。今回参加の男性三名は以外に上手で見直しました。
 
             元宵節

 丸めた団子を熱湯で茹でれば出来上がります。この元宵団子は普通は単に元宵、また湯圓と呼ばれているそうです。

         元宵節

 数年前作った時は、出来上がった団子を少しのお湯を入れたお椀にとり食べましたが、今回は大皿にとり並べ食べることになりました。これはどちらでも良いようです。


今日は3月4日 ミシンの日・サッシの日 両方とも語呂合わせで出来ました。



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新世界菜館

 神田神保町の角の靖国通り、北側を西に二軒目、東京三菱UFJ銀行の隣に「新世界菜館」があります。
             新世界菜館

 戦後すぐに開店された中華料理店です。1950年代は平屋の木造で、奥に長く素朴な店でした。その頃はすずらん通りに「揚子江菜館」とか「廬山」といった高級店がデンと構えており、新世界菜館は地味な、それでも学生には高級な店でした。ラーメンばかりが続くと、たまーに新世界で五目ソバを食べ、満足感に浸りました。
 昔、先代は明治大学の卒業生と聞いたこともあり、親近感があり場所も判り易いので、女子部のクラス会は毎年ここで開かれます。
 昨年秋、家庭画報でここの上海蟹が紹介がされ、店は大忙しだったようです。
 
                     新世界菜館

                     (家庭画報から転載)
 20年ほど前から、中国服仲間と秋はここで上海蟹を食べ、散々お喋りの後、「エスワイル」まで行き、マロンシャンティイを食べるのが恒例でした。エスワイルは一昨年無くなり、東京一と言われたシュークリームは多くのフアンがおりましたのに、時代に勝てなかったのでしょう。残念でなりません。
 新世界では蟹の丸蒸しを頼みます。紐で確りと結わえた蟹を各自選び、小さな荷札に名前を書きます。蟹を選んだ後は何品かの料理を頼み、歓談に興じながら、蒸し上がるのを待ちます。
 この冬は忙しく、シーズン中に行けなく、先日岩波ホールに行く前、久しぶりに寄りました。蟹を待つ時間がないので五目焼そばにしました。分量もたっぷり。具もいろいろ多彩、いいですね。やっと食べました。
 
                   新世界菜館

 新世界菜館の上海蟹は料理研究家の江上栄子さんは東京一と評価されておりますし、また同じ料理研究家の小林カツ代さんも激賞されておりました。
 随分長く通いましたし、明治大学の先生方とお会いするにも時たま行きます。贔屓の店です。


3月3日  ひな祭り 耳の日  和の日  金魚の日  三の日
3月1日~14日 二月堂修二会
3月3~4日   深大寺のだるま市


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赤い鯨と白い蛇

 千葉県館山の安房高女で学んだ私は、同窓会の東京支部長から「せんぼんよしこさん」が監督した映画の案内を頂きながら、なかなか時間がなく、これは見逃しかなーと思っておりました。先日友人から誘いを受け、何とか観ることが出来ました。
 
                  赤い鯨と白い蛇

 テレビの名ディレクターとして知られたせんぼんよしこさんが初めて挑戦した映画がこの「赤い鯨と白い蛇」です。題名が難しいと言いますか、解り難いといいますか。観れば判ってく来るだろうと思い上映を待ちました。
 上映を前にホールの方が「せんぼんさん」がお見えになり挨拶いたしますと言われるではありませんか。ほー!と私の目は大きくなり舞台の左袖の方を見つめました。1952年偶然お茶の水駅のホームでせんぼんさんと出会い、立ち話をして以来55年が経っています。
 
               赤い鯨と白い蛇

 せんぼんさんは女学校の2年上級生だったと思いますが、その時早稲田大学に入っておりました。田舎の女学校ですから、顔見知りではありました。お互い嬉しく近況を手っ取り早く話し、別れました。
 さて映画ですが、縁もゆかりもないような、しいて言えば家が繫ぐ五人の女性が館山の一軒の古民家を舞台に織り成す姿だけと言ってもよい構成で、古民家も主役のような存在です。
 せんぼんさんの挨拶の中で「せんぼんさんは男性が嫌いですかと言われましたが、姿は見えませんが男性はこの中に存在しております」と話されました。その通り、女性の背景には男性の姿があります。
 
            赤い鯨と白い蛇

 館山に向かう内房線の車内、館山駅西口、東京湾の風景、館山の海、大きな民家、その中で話が進むのですが、この物語の主人公と同時代を生きた私は、赤い鯨を意味することも時代も分かり、遥か昔の館山の風景に思いを馳せました。
 特にこの映画の製作にあたり、せんぼんさんがここに込められ、意図したことが判り理解でき、なんとか間に合い観る事が出来て本当に良かったと思っております。



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プロフィール

相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日85歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになりそうです。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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