2008-02

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チャイナドレスは素敵だ 47

 一般にチャイナドレスのイメージはキラキラとした生地の物がインプットされているようです。
 過日中国の女性の方の注文を頂きました。お会いし、説明をし生地をお見せしましたら、少し驚かれたようでした。
 仮縫いをしましが、とても気に入って頂きました。
 
 春を迎える季節になり、今週の教室では明るい旗袍を用意する生徒の仮縫いをしました。

          チャイナドレスは素敵だ 47


          チャイナドレスは素敵だ 47

 この生地はシルクの和服地です。和服地を使う場合は紬、小紋、また渋い無地のものなどが利用し易いと思います。留袖はお勧めしません。
 生成りの木綿の生地の仮縫いを済ませた方は、地模様を上手に使い、きめ細かな所を見せております。

         チャイナドレスは素敵だ 47

 4月期には皆さんが明るいものに挑戦するのではと楽しみにしております。



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野島崎

 房総半島の先端に当る野島崎が全国的に知られる事件が起きました。海自のイージス艦による衝突事故です。
 大臣の進退も問われる問題となっており、勝浦の町は大きな衝撃を受けております。
 野島崎の先端に立つ燈台は高さ30m。ほぼ北緯34度54分、東経139度53分に位置する日本の第一等燈台です。1870年に点灯された燈台は、日本で二番目に建設されたものです。そういうことから燈台100年記念の祭典はここで天皇を迎え行われました。

                 野島崎

 子供の頃からこの燈台に登った記憶はかなりの数になります。螺旋階段を登り、上部の鉄の階段の感触は手に確りと記憶しております。眺望360度。遠く太平洋の広がりをまじかに目にし、思わず深呼吸をします。
 今回の事故を見ますと、自衛艦の責任の所在と発表への疑いを感ぜずにはいられません。
 野島崎燈台の東側に位置する海岸に建つレストラン「はまこう」の店内。海に向かったガラス越しの窓から、艦船の航行の風景を毎日眺めることが出ます。
 暫らく座って眺めておりますと、水平線に現れる艦船の姿です。次々並んで現れてきます。
 フェリー・タンカーなどいろいろな船を見ることができます。

                 野島崎


                 野島崎

 西を向いた艦船の向かう先は東京湾です。この多くの艦船が無事に東京湾を通過し接岸するためには、操舵の慎重が要求されていることと思う訳です。今回の発表を聞きますと、自動操舵に設定されていたそうですが、実に奇怪な話に思えてなりません。それで良いのでしょうか。計測器が発達しているとは言え、目が離せない場所だと思います。
 
 
 戦時中、この水平線の上を米軍のB29の編隊が黒い帯をなして東京湾を東京方向に飛んで行きました。野島崎沖はかように重要な航路、航空路です。

 この目の前の水平線に数え切れないほどの竜巻が降りたのは「関東大震災の数日後」
母の話によりますと、見渡す限りの広さに簾が掛かったように、竜巻が筋になって降りたそうです。この世の終わりかと大騒ぎをしたと言うことです。
 この竜巻の話は資料などで読んだことはありませんが事実に間違いないと思います。


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ただ焼くだけ

 調理器具が発達して、調理法もいろいろ紹介されております。我が家は長いこと昔のままの魚焼き器です。まー昔の炭火よりは楽になり、並べて点火すれば表裏一度に焼くことが出来ますので、愛用しております。ほぼ毎日使うといっても良いほどの必需品です。
 住むマンションの一階に海宝丸という魚屋が店を出しており、品物が良く、値段も廉く、珍しい魚も並びますので、毎日欠かさず覘きます。
 鮭の切り身はいろいろありますが、振り塩というのは買いません。塩がのってなく、美味しくありません。塩鮭は確りと塩味になっている物が好きです。
 数日前大きなトレーにびっしりと並べられた、切り身の鮭が500円。よく見ますと色の具合が良く、チリで獲れたものです。冷凍ですので買って来ました。時間のある時に焼くつもりにし、一旦冷凍で置き、昨日仕事をしながら全部焼きました。(こういうことは炭火ではできませんね)

            ただ焼くだけ

 これで全部。12切れ廉いと思います。魚屋のお兄さんに聞きましたら、580円で並べたときには全くうごかなかったそうです。私は500円になっていて良かったですね。この豪快な量を見たら多分580円でも買ったように思います。チョッと良い買い物をしたような嬉しい気分です。
 さー焼きました。熱いうちに骨と皮を剥ぎ、ほぐし身にします。皮は夕食のときのお楽しみ。

            ただ焼くだけ

 どこそこの鮭という方には×かも知れませんが、適当に脂ものっています。塩加減はやや甘めですが、良い線をいっております。
 小分けにしたものを確りと包み冷凍にしました。順に出して食べることにしております。

 魚屋で塩鮭の切り落としが纏まって売られていますと、まず焼きます。その後骨と皮を剥ぎ、味をみます。混合品ですから、酒と塩、それに出汁を加え、我が家で再生し、食べることもしております。ミートホープと違う、混ざり物のない鮭だけの再生品となります。


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変わる駿河台

 駿河台は学校と病院が犇めいております。明治大学はこのところリバティータワーとアカデミーコモンとが並び、街の景観も大きく変わって来ました。日大も整備が進み、一帯の様子に行きつけている私でも驚かされます。
 新お茶ノ水ビル19階に井上眼科クリニックの外来受付があり、その高い位置から眼下に広がる建物。四方に見えるビル群は昔日の駿河台と比べようもありません。
 地下鉄千代田線の新御茶ノ水の駅北から西に出ますと竣工したばかりの駿台予備校一号館が目に入ります。4月からこの建物を使用するそうで物品の搬入が盛んなようです。
 大学も少子化時代に向け大変でしょうが、予備校とて同じことでしょう。

               変わる駿河台

 建物の北側に添って日大病院の方に向かいますと、小さな鳥居と社が目に入りました。生徒の合格を祈念するのでしょうか。

               変わる駿河台

 井上眼科クリニックのロビーから見える駿台予備校。立派です。

               変わる駿河台

 診察を待つ間、北の方向に目を向けますと、何時も眺める湯島聖堂と湯島天神がはっきりと見えています。

               変わる駿河台

 予備校で学び、校舎の社に祈念し、さらに天神様に合格祈願でお参りする。地の利がこれほど良い場所はそうそう見つかりませんでしょうね。
 駿河台の変わる姿は興味があります。何しろ何十年と過ごした街ですから。


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電子辞書

 昨日は御茶ノ水の井上眼科クリニックに予約してあった網膜剥離後の定期健診でしたが、井上治郎先生の都合で、代診の若い女性の先生に診て頂きました。予定より早く済みましたので、久しぶりに歩いて神田から秋葉原へと周り用足しをして来ました。
 このところ秋葉原へ足を向けるアジア系外国人が多いと聞いております。確かに広告や呼び込みの文字には中国語やハングルが目立ちます。
 私の使っている電子辞書は中国語用にと買ったものですが、収録の内容が最近のと比べるとどうも物足りなく、来た序に参考という程度の感覚で探索しました。
 若い男性店員の丁寧な説明に、よろよろっとしましたが、良く考えると別に今買い換える程のことではないと、自分に言い聞かせ、我慢しました。

                     電子辞書

 最近はこの中国語をいれたものを買う方は中国人が多いそうです。値段は中国で買うよりも廉く、また性能もよいからだということです。
 これは中国語に限らず、フランス語などのものも日本人より外国人の買う方が多いとの説明です。

                     電子辞書

 この辞書は日本語の音声がでます。山をだすと「ヤマ」と言います。
 残念なことに「サン」とも言うかどうか聞き損って来ました。
 日本語の読みは一字一音ではないので、難しいのかも知れませんね。
 中国語でも二音はありますが、多くは一字一音ですから、音声にするには中国語の方が楽でしょうね。
 若いその店員さんに写させてと言いましたら「値段は見せないで」と手で隠しました。


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春です

 房州白浜から沢山の花が届きました。春が我が家にやって来ました。

         春です


         春です

 戦争が終わり、食糧難の時代が遠のき始めると、房州白浜での花卉栽培が始まりました。
 町の農家の花は金盞花やひげ撫子、ストック等が中心で駄花と言われ、花市場に出荷するのですが、市場で叩かれると運賃にもならない時期もありました。農家の副業とはいえ、手間隙のかかるのが花卉栽培でした。夏の種撒きから植え替えと手入れ、実に多くの時間が掛かっております。
 人々の話から、東京市場で叩かれた花は東北や北海道に高値で送られていると聞き、不合理なことと憤慨しました。今は各地から送られて来る品々は輸送中でも情報がトラックに伝えられ、少しでも高い市場に運ばれるような様子。白浜の花は何処に送られているのでしょうか。
 現在花は高級物も増え多種に亘り、花摘み農園も房州一帯に見られます。この時期は勝浦のビッグひな祭と合わせたバスコースに人気があります。(イージス艦による事故で勝浦の方は心を痛めておりましょう)

 金盞花のことは以前にも書きましたが、最近の金盞花は大輪になり、花芯の黒い処も小さくなって、花芯が黒いと言いますと「アレ?そうですか」と言われたりします。
 私のあだ名「金盞花」は真黒(芯黒)から来ております。

          春です

 花は水揚げすると活き活きとします。産直の花は勢いが良く、長持します。カスミソウも見事に開きました。

          春です

 今日は気温も上がり、予約した井上眼科クリニックに行きましたが、昼食時には、早ばやと軽装のビジネスマンが街に繰り出しておりました。寒暖せめぎ合う季節。房総の花は春を届けてくれました。



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北帰行回想

 先に富山に住む瀬戸寛さんのブログに「北帰行」という言葉が出てきました。富山に飛来していた白鳥に北へ向かう気配を感じ、飛び立つ瞬間を捉え写したいと構えていられるようです。

                  北帰行

                  (後方に立山連峰が見えます)
 「北帰行」という言葉と歌を耳にしたのは遥か昔のことです。小林旭主演の映画の主題歌に取り上げられたのは1961年。ヒットしました。(この映画は私は観ておりません)
 当時学生の相談相手の日々を過ごしていた私は、その歌詞に惹かれました。若者の失意と取りまとめられない青春彷徨。この歌の作詞・作曲をされたのは宇田博さんという方。学業に馴染めず、またご自分の生き方は当時の学校も世間も許さなかったのでしょう。
 宇田博さんがこの「北帰行」を惜別の詩として、在学した旧制の旅順高等学校を後にしたのは1941年(昭和16年)。高校から放校されたのだそうです。
 歌がヒットした頃、小林旭の歌う姿がTVでもしばしば見られました。
 明治大学の教職員の間で、宇田博さんの父君は農学部教授の宇田一先生だと伝わって来ました。「北帰行」で検索しますと博さんについては、かなりな資産家の家の出だろうとか名家の子息だろうとか、書かれており、父親が教育者との記述は見当りません。
 私の記憶に違いがあるのだろうかと調べて見ました。
 博さんは宇田一先生のご子息に間違いないことが分りました。
 宇田先生は1922年に三重県農林学校の教授になられ、その年には博さんが誕生。そして欧米留学。東京帝国大学から博士の学位を受けております。
 その後1933年(昭和8年)に満州国立大学奉天農業大学学長に就任しました。
 この「北帰行」は1941年に友人らに書いたということですが、北に向かったのは父親の住む満州の奉天(今の瀋陽)を目指したのではないかと私は思っております。
 歌の中で祖国というのは、当時遼東半島は日本の統治下にあり、その先端の旅順は日本という意識が強かったからではないかと思ってみたりしております。
 仕様も無い自分をどうあれ迎え入れてくれるのは家族という当てが在ったからだと私は解釈をしております。
 博さんはその後一高から東大をでてTBSの常務・監査役を歴任し1995年に亡くなられております。
 宇田先生は帰国後1950年から明治大学農学部教授となり、農学部長などの要職もなさり、1961年に定年退職。担当講座は遺伝学・統計学・養蚕学等でした。
 先生は日本中央競馬会顧問など歴任。1978年逝去さました。
 博さん、宇田先生共に亡き今でも「北帰行」という言葉が解釈のしようでいろいろと使われ、また歌も歌われ続けていることは一人の青年が残した大きな知的財産だと思っております。無頼・放蕩・怠惰も最後は乗り越え、立派な社会人となった例として、心を打ちます。
 たまにカラオケなどでこの「北帰行」を聞きますと、私は青年が抱く心情に切ない思いを重ね、相談に明け暮れた時を思い、多くの若者の姿にオーバーラップさせております。



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北京の春節

 中国語講座の老師は今年は奥様が体調の関係で北京に行かれなく、代表で奥様の母上に会いに行かれました。中国の中南地方は大雪で、故郷に向かう人々が駅などで足止めされているとニュースになりましたが、北京での大雪は、春の水がたっぷり、空気が綺麗になり、病菌がなくなると言われているそうです。
 今年の北京の春節は気温は零下でも天気がよく、花火も賑やかに揚がり、爆竹も許可され、大型の爆竹には老師も驚いたそうです。黒板の右の赤字、双喜の字に作られた爆竹は字の上部から点火され20分も続いたそうです。

            北京の春節

 春節や寺の縁日(廟会)は日本と違い市政府が場所割をし、地方風の食べ物が並び、地方の特産物などが売られているそうです。聞いておりますと今の中国のエネルギーを感じます。
 縁日の屋台では内モンゴルの羊の串焼き、蚕のさなぎの串刺し、サソリの串刺し、イナゴの串刺しなど、皆串焼にして売られているそうです。(この風景は以前王府井でも見ましたが)

            北京の春節

                   (これは青島の風景です)
 子供達の遊びの場もあり、射的もあるそうです。黒板の丸い輪の中に書かれている四角は投げ輪のように、それに上手く落ちると賞品が貰えるそうです。四角が小さいほど良いものが貰えるそうです。

            北京の春節

  (射的は中国で流行しているのでしょうか。これは青島の射的場です)
 爆竹が無いと北京っ子は淋しいそうです。今は時間が決められ、春節のほかに元宵節の晩にも揚げることが出来るそうです。
 授業では毎年春節の説明は過年、除夕の様子が話されますが、今年の春節の話は賑やかな街の様子が中心でした。



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良きかな同学

 辞書のピンイン(中国語の発音記号・振り仮名の役目と言ってもいい文字・ローマ字)がはっきりと見えなくなったと、昨年来教室を休んでいられる、ヤンさん。時々授業の様子や、近況などをメールでお伝えします。
 ヤンさんは予想以上の趣味人。巨木を訪ね、燻製に精を出し、渓流釣りにも出かけます。蘭花を育てていることを知ったのは最近のことです。返信に添えられ送られて来る、季節の花には心が和みます。台湾で中学を終え、漢籍に詳しく、太刀打ちできませんが、私をいつも励まして下さいます。有難い同学です。
 クラスメートを同学という中国語がピッタリの方です。

         良きかな同学


         良きかな同学


         良きかな同学


         良きかな同学

 
          良きかな同学

 こういった花ばかりでなく、ハーブ類もいろいろ育てており、手製の燻製に添えて教室の飲み会にお持ちくださいました。クラスの仲間と復帰のコールを送りますが、色よい返事は頂けません。


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チャイナドレスは素敵だ 46

 日本では直裁ちのチャイナドレスの教室は私の講座以外には無いようです。個人で習うにも様々な状況からなかなか難しいことかと思われます。
 教室は苦痛を感じると楽しくなく、また継続しがたくなります。私の教室では生徒同士が実に協力し合い、トラブルもなく助け合っております。教える者としては大変有難いことです。
 直裁ちですから、間違って鋏をいれてしまうと困ります。ベテランの生徒も気配りをしており、間違いそうな様子に気がつきますと、さり気なくサインを送って呉れます。
 この講座では全くの初心者でも一枚目から着られるものを作ることが出来るように心掛けております。最初が上手く行くと意欲が湧きます。
 一枚目の仮縫いの時には、全員が励ましのコールを送ってくれます。
そういうことで毎回和気藹々の雰囲気が漂い、皆さんが長続きする原因とも言えそうです。
 長く受講している方は普段着、街着、上着などかなりの枚数を持っております。流行に関係なく着ることが出来るチャイナドレスは本当に素敵です。

       チャイナドレスは素敵だ 46


       チャイナドレスは素敵だ 46



       チャイナドレスは素敵だ 46




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目白の鳴き合わせ

 今朝のTVで放映された「目白の鳴き合わせ」を見て、はるか昔の目白獲りに一所懸命になっていた男たちを思い出しました。
 私の幼児期、また少女期を過ごした房州白浜という土地は海女の町として有名でした。漁業組合の婦人部はかなり強い発言力を持つという町です。
 男性の中には遠洋漁業の船乗りも多くおりました。家を留守にしても女性が頑張るのが当たり前のような町です。
 遠洋航海から戻りますと、暫らくは家で次の出航まで間があります。家の仕事や留守の間に出来なかったことに精を出す方もおりますが、中にはこれ幸いと遊び回る方もおりました。
 特に冬の一時期、目白獲りに励む男性も少なくなく、子供ながら何がそうさせるのか不思議な風景でした。

                 目白の鳴き合わせ

 町の駄菓子屋ではトリモチが水に浸され売っております。そのモチは目白獲りに使われると聴いておりました。
 家事をしない男性は、トリモチを持ち、鳥かごを提げて目白獲りに出かけます。町の北側は小高い山並みが続いておりますが、その根を辿りながら、僅かに伸びた大麦や蚕豆の畑の側を目白獲りの男性が歩いて行きます。鳥かごの周りには椿の花が刺されております。
 祖父の家にも目白が飼われておりました。タカネと言われる鳴き声を愛でていたようです。
 目白の鳴き合わせの歴史は古いようです。調べて見ましたら100年ほどの昔から在ったようです。

                     目白の鳴き合わせ

 目白が捕獲を禁止されている鳥ということは知っておりましたが、今日の番組では敢えて法を無視し、鳴き合わせに熱中するという男たちの姿でした。褒められることではありません。
 法制化されるにはそれなりの理由があります。法を無視する中には投機を目的にする人もあるようで、鳴き声の良い目白は300万円もの値段がついているそうです。

目白の鳴き合わせ


 掲載の目白の写真は撮鳥見鳥からお借りしました。


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海苔

 海苔は我が家の必需品。寒さが忍び寄って来ますと、この冬の海苔は大丈夫かなと思いを馳せます。
 子供の頃、房総白浜では冬には岩海苔を採る人が海岸で見られました。濡れても良いような姿にわらじを履き、岩から岩へと渡り、腰を屈めて海苔を掻き採ります。掻きとる道具は大きな鮑の殻です。
 岩から掻き採るのですから、岩が一緒に掻りとられています。岩海苔はまな板の上で細かく叩き、その後は大きな桶に入れ、水を張ります。その桶の中の岩海苔を枠を置いた簾だれにキチンと薄く流しいれ、水切りをして干します。家々では自家用ですから、庭の彼方此方に並べ、干しあげます。焼いて食べるのですが、岩が時々混ざっております。このような仕事は今もされているのでしょうか。
 同じ時期に「はばのり」と言う海草も採りに行きます。これは房総の正月の必需品ということで、今年は普通の乾海苔よりやや大きい一枚が300円しました。矢張り採る方が減っているのでしょう。「はばのり」は伊豆半島では「はんばのり」と言われてブダイ釣りの餌だそうです。

 焼海苔や乾海苔は毎日食べますので、友人や知人からよく頂きます。乾海苔は焼くのですが、焼くと色が綺麗な青色に変わるものは最近手にしておりません。焼くと香はでますが、あの青に変わる海苔はどうなってしまったのかと、気になっておりました。
 
 千葉県の小櫃川の河口付近で昔の海苔の養殖に手を付けだしたと新聞に出ておりました。
現在私たちが食べる海苔は品種が昔と変わっているのだそうで、青くならないのもそのせいかなーと想像しております。

                 海苔

 海苔の説明に焼くと青く色が変わりますと書かれていることが良くあります。父は電熱器でゆっくり一枚一枚丁寧に焼いておりました。お蔭で香の良い美味しい海苔を食べることが出来ました。
 我が家は和食党ですので香の良い、焼色の青くなった海苔を食べたいと思っておりますので小櫃川河口付近の海苔ニュースが待たれます。養殖が成功したというニュースは今年も未だ聞かれません。

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心理学者 堀淑昭先生

 堀淑昭先生と初めてお会いしたのは1958年の冬でした。明治大学に学生相談室を置くことが決まり、法学部助手の堀先生を相談室にお迎えすることが決定され、担当職員として学生課の杉原方平さんと私がその仕事に携わることになりました。
 政経学部の松山亮次郎先生と中野渡信行先生を中心に相談室創設準備委員会が発足。それに杉原さんと私が加わり、創設のチームのメンバーが構成されました。大学との折衝は永田正学生部長と才木梅次郎学生課長があたり、1959年4月に創設の産声をあげることが出来ました。(堀先生は同時に法学部の専任講師に就任されました)
 和泉校舎に設けられたのは木造二階建ての一棟。部屋数は4室もありましたが、隙間だらけの酷いものでした。
 堀先生は私と同じように常任者の如く、学生相談の仕事に励みました。初期ということは全てが始めての経験。試行錯誤の毎日でした。
 堀先生はカール・ロジャーズの非指示的カウンセリングを中心に学生の相談を受けカウンセリングをしておりました。私は必ずしも堀先生と考えが一致するわけではありませんでしたが、学生相談室運営の面では同志であり、強い絆があったと今も思っております。
 今年の元旦に先生はお亡くなりになりました。
 数ヶ月前、突然先生に何か話したくなり、略20年ぶりくらいになりましたが、電話をしました。「先生その後いかがお過しですか?お元気ですか?」と申し上げますと「ウン。良くないんだよ。肺がんで余命6ヶ月と言われているのだよ。あなたは昔の所に住んでいるの」話の接ぎ穂がなく、私は「お大事に」と申し上げ電話を切りました。
 略30年近く、一緒に相談室の仕事を進めるのに苦楽を共にした先生です。お金もなく組織も確立されていない中、学内の協力を求めながら、日々一緒に頑張ってきた先生です。
 個人としてはかなり個性が強く、どちらかと言えば組織の中では変わり者、はじき出されてしまう。そういうキャラクターの方です。しかし誠実正直、ご自分を飾らない人柄は素晴らしいことでした。
 仕事で一緒する以上、私は先生と良く話し合い、そして議論を重ね、時には時間も忘れて学生との面接効果について話し合いました。今でもあの熱く語り合った情熱は何だったろうと思い返しております。恐らく困難に立ち向かうという意気込みではなかったのではと思います。
 大学からの広報に死去の知らせを見て、矢張り癌に倒れてしまわれたのだと暫らくは記事から目が離せませんでした。
 アルバムから先生の姿を探しました。1963年に神経症の学生を中心に清里にカウンセリングキャンプに出かけた時のを見つけ出しました。
 このキャンプは神経症レベルの学生15名程と一週間の合宿をしました。相談室総動員、精神科の医師も参加。早起きを目標に、毎日キチンと起床。昼間は清里を中心に歩きます。生活態度を変えることで、神経症を治すという目的でした。

               堀淑昭先生


           堀淑昭先生

 一週間学生と昼は毎日歩き、落伍者のないよう、細かいことに注意して過ごしました。小出学長の慰問は学生を大層喜ばせました。あの体験は私も鍛えられました。
 堀先生と相談室で過ごした中で言い合いやケンかもありましたが、私が人との話し合いに臨み辛抱と我慢、そして良く聞くという習慣を付けて下さったことに、感謝をしております。



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餃子は宇都宮?

 戦後日本でも餃子を食べるようになりました。ぎょうざと入力すると餃子という文字がでます。身近な食べ物、当たり前の食べ物になっている証拠でしょう。
 このところ全国民が注視している餃子。困ったことです。餃子は雑誌や料理本でもよく取り上げられておりますね。でもこれほど注目されたのは初めてでしょう。
 10歳くらいから作り始めた私は餃子作りキャリヤ60年以上。皮の作るのも苦になりません。皮を練り、棒状にし切ることは皆さんご承知の通りです。があれはぶつ切りではだめですね。ぶっきり飴のように廻しながら切りますと、皮を伸ばすと周囲が薄く、真ん中が厚くなります。実に理にかなった切り方だと、作るたびに感心しております。
 具の野菜は余り絞りすぎると旨みが逃げてしまいます。大量に作り置きしている店のがどうもジューシーでないのは具の野菜の絞りすぎでは無いかと思っております。
 餃子評論家ではありませんが言いたいことは沢山あります。

             餃子は宇都宮?

          (これは富山の瀬戸寛さんの手作り餃子です)
 話は変わり、ある会合での餃子のことを思い出しました。以前近くの中国語の教室に行って見ました。初級でしたがその教室にかなり中国通と思われる中年の女性が参加しておりました。
 餃子の話になり「餃子は東北が本場ですね」と言いますとすかさず「餃子は宇都宮ですよ」とその女性が「あなた知らないのー」いう顔つきで発言。冗談かと思いましたが、彼女は別におかしいとも思っていないようです。
 宇都宮の餃子は有名になり始めていましたし、私も知ってはおりましたがその頃は特別に関心がありませんでしたので本当にびっくりしました。考えてみればこういう方は宇都宮餃子の強い味方ですね。

              餃子は宇都宮?

            (これは宇都宮餃子館の餃子です)
 かように有名な宇都宮。今回起きている餃子問題では宇都宮を始め外の餃子の町でも様々な対策を考え、講じていることでしょう。既に長く日本人が親しんで来た食品ですので、キチンとした答が出てくることを強く願っております。


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富山の置き薬

 先日富山に出かけた生徒さんから孫へと紙風船を頂きました。昔昔子供の頃に口にしていた言葉を思い出しました。
 
              富山の置き薬

「越中富山の反魂丹 鼻くそ丸めて万金丹」と言いましたら娘が「へーそんなこと初めて聞いたわ」と驚きました。ところがその後に「それをのむ奴アあんぽん丹」という言葉があったのですね。それは知りませんでした。生徒さんは物知りで、反魂丹についての謂れもお聞きしました。
 子供の頃、季節は何時かは覚えておりませんが、毎年富山から置き薬の交換に外交員が来ます。
 箱を持ち出し、母や祖母が入れ替えを良く見て確認をしておりました。あまり飲んでは居なかったような気がします。側で眺めていては「へーそんなに持って帰るのー」と感心するやら呆れるやらしておりました。そして薬九層倍という言葉は本当のことではないかと思ったことでした。
 薬の入れ替えが済むと紙風船を一緒に置いて行きます。その事は変わらず続いていたのですね。懐かしい昔の生活を思い出しました。

 久しぶりに四角の紙風船を膨らまして見ました。

               富山の置き薬

 5歳の孫の手には丁度程よい大きさです。昔交通不便な所では紙風船も子供には嬉しいおまけだったことでしょう。

追記 この置き薬という商法は信頼関係に基づくという、世界でも珍しい商法だと、読んだ記憶があります。


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人生第二幕は自分が主役

 高齢問題ジャーナリストの佐橋慶女さん主宰のオパール・ネットワークの今年のテーマは「共に生き 共に歩む」です。
 赤坂の佐橋さん邸では奇数月にサロンが開かれます。1月のゲストには長崎県琴海尾戸町から金子数栄・君子夫妻をお迎えしました。「人生第二幕は自分が主役」を実践している方です。
 数栄さんは50歳の時会社という組織を離れ、長崎の大村湾を望む景勝地に居を構えました。数栄さんは東京在住の時から登山やトライアスロンなどが趣味で、何時か将来自然の美しい所で生活をするという希望をも持ち続けておりました。
 その希望を適えたのは会社の異動でした。長く編集の仕事をしておりましたが、営業にということから、これを転機と捉え、君子さんに田舎暮らしを持ちかけ、決断。現在の土地を選び移住し早14年目になりました。

                人生第二幕は自分が主役

 移住は自給自足をモットーにし、田を耕し、脱穀機や唐箕もこなし、毎年地元の小学生の社会化の勉強にも役に立っております。

                人生第二幕は自分が主役


                人生第二幕は自分が主役


                人生第二幕は自分が主役

 数栄さんは移住数年後には漁業権も取得。魚を獲り牡蠣の養殖などもされております。
 大村湾に面し、家の背中に森林を持ち、様々なことに挑戦しております。東京に住まわれていた時は棚も吊れなかったそうですが、今はログハウスまで作るという変化振りです。

                人生第二幕は自分が主役

 金子夫妻の日常はここで紹介仕切れません。少し箇条書きで紹介いたしましょう。

 数栄さんは農業者・漁業者で文筆にも精を出しております。ご夫妻にはどれが主役なのか分りませんので無作為に書き並べてみます。その場その場でいづれも主役なのかも知れません。

 元々編集者ということから物書きにも精を出し、講演や取材にも応じております。
 田圃では一年分のお米を収穫します。
 パン焼の竈も手製、君子さんはそこでパンを焼き、燻製も作ります。
 畑には自家用では充分な野菜を作り、産直でも販売します。
 収穫した果物や野菜のジャムも作ります。
 鶏を飼い、鶏卵は自家用以外にはこれも産直で販売します。
 獲れた魚は先ずお二人で美味しい物を食べ、残りはやはり産直に出します。
 箱眼鏡を使い海鼠や雲丹を獲ります。雲丹の軍艦巻きの見事な映像に驚かされました。
 地元の方との交流も年毎に深まっているそうです。
 君子さんは移住前にホームヘルパーの資格を取り、町での社会活動や福祉活動に参加されております。
 
 書き切れません。金子さんのブログをご覧になってくださればその見事な信条や生活振りを拝見できます。

 知力・気力・体力・多くの力を備えたご夫妻の姿に感動しましたが、数栄さんの最後の言葉は「最大の収穫は家内と話す量が増えたことです。二人で力を合わせれば4人分、5人分の仕事ができます」良き人生を歩む人の感想でした。

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Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日85歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになりそうです。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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