伊達宗義氏父を語る
2008/06/26 (Thu) 21:52
中国山東省青島で住んだことのある私は偶然のことから、日本馬賊で知られた伊達順之助夫人とお会いしました。夫人はお目にかかった後一ヶ月ほど後に亡くなりました。順之助氏の長男宗義氏の奥様とは同年の生まれ、奥様とは年賀状交換もありますが、私の主催する会などにもお越し戴いたりしております。
先日永田町の都市センターホテルで宗義氏の講演を聞くことが出来ました。私は宗義氏の書かれた「灼熱」を持ち出かけました。勿論確りと署名を頂きました。

宗義氏87歳、私より10歳上。この日の講演は午後6時から間に10分の休憩をとり午後10時までの4時間でした。
伊達順之助が上海の刑場で死刑になってから秋には丸60年になろうとしております。伊達順之助と一緒に戦場で戦った宗義氏から当時のことをお聞きしようという主催者の懇請に応えたということで、恐らく馬賊物に興味をお持ちの方でしたら、お聞きになりたかったことでしょう。
驚いたことに87歳という宗義氏、4時間という長丁場を澱みなく語りました。元気な若者の参加者もさぞ驚かれたことでしょう。
話の流れは伊達順之助一代記のようなものでしたが、私が気になっていたことも講演を聞いたことで解り、参考になり、謎解きも出来ました。
張作霖爆殺の時の細かい状況は初めて聞く話でした。張作霖の爆殺の話は聞いておりましたが、現場で第五夫人の取った態度で生死の判断がつかず今日知られている首謀者の関東軍高級参謀河本大作以下関東軍は多いに悩んだという話は女性侮れずの感を強く思いました。
伊達順之助は青島斉東路に住まわれておりました。番地こそ違いますが私も斉東路に一時住みました。父から順之助の拳銃の腕が凄いとは聞いておりましたが、宗義氏からその腕前をお聞きし、もうそんなー。と嘘のようなと言う程の驚きの話でした。

青島の自宅でのご家族。宗義氏は真中に立っています。(伊達家斎東路26号、我が家は11号)
日本が1945年8月15日に負け、その後順之助は囚われ日本の地を踏むことはありませんでした。父と一緒に捕らわれた宗義氏は釈放された後、苦労の末青島からの最後の引き揚げ船で帰国されたそうです。なかなかお聞きする機会のない方の話で4時間が少しも長くは感じられませんでした。
先日永田町の都市センターホテルで宗義氏の講演を聞くことが出来ました。私は宗義氏の書かれた「灼熱」を持ち出かけました。勿論確りと署名を頂きました。

宗義氏87歳、私より10歳上。この日の講演は午後6時から間に10分の休憩をとり午後10時までの4時間でした。
伊達順之助が上海の刑場で死刑になってから秋には丸60年になろうとしております。伊達順之助と一緒に戦場で戦った宗義氏から当時のことをお聞きしようという主催者の懇請に応えたということで、恐らく馬賊物に興味をお持ちの方でしたら、お聞きになりたかったことでしょう。
驚いたことに87歳という宗義氏、4時間という長丁場を澱みなく語りました。元気な若者の参加者もさぞ驚かれたことでしょう。
話の流れは伊達順之助一代記のようなものでしたが、私が気になっていたことも講演を聞いたことで解り、参考になり、謎解きも出来ました。
張作霖爆殺の時の細かい状況は初めて聞く話でした。張作霖の爆殺の話は聞いておりましたが、現場で第五夫人の取った態度で生死の判断がつかず今日知られている首謀者の関東軍高級参謀河本大作以下関東軍は多いに悩んだという話は女性侮れずの感を強く思いました。
伊達順之助は青島斉東路に住まわれておりました。番地こそ違いますが私も斉東路に一時住みました。父から順之助の拳銃の腕が凄いとは聞いておりましたが、宗義氏からその腕前をお聞きし、もうそんなー。と嘘のようなと言う程の驚きの話でした。

青島の自宅でのご家族。宗義氏は真中に立っています。(伊達家斎東路26号、我が家は11号)
日本が1945年8月15日に負け、その後順之助は囚われ日本の地を踏むことはありませんでした。父と一緒に捕らわれた宗義氏は釈放された後、苦労の末青島からの最後の引き揚げ船で帰国されたそうです。なかなかお聞きする機会のない方の話で4時間が少しも長くは感じられませんでした。
- 中国・青島
- ♦ comments(6)
- ♦ trackbacks(0)
- ♦ top△






























































