2008-12

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フォレスタで年越し

 私にとって今年は偶然な出会いや、思いがけないことがいろいろとありました。人々からの助けと協力。珍しい事柄に触れ。新しいことに挑戦。実に多くのことがありました。
 元気であれば喜寿は誰にも訪れることですが、その喜寿が一つの転機の原動力ともなりました。
 
 フォレスタの皆様と知り合い、新潟まで公演を聴きに行きました。毎週月曜日午後10時になりますと夫とTVの前に座り「BS4日テレ」にチャンネルを合わせます。日本のこころの歌は過ぎし日の様々な思い出に二人を誘ってくれます。
 時代、事件、暮らし、遊び、家族など。時には今言いたい言葉が出てこなく、忘れて仕舞い困ることもあります。

 先日フォレスタの事務所から葉書を頂きました。

         フォレスタで年越し

         大晦日の夜は絶対これです。

 昨日の放映の最後の歌は「長崎の鐘」でした。浦上天主堂が映しだされて来ました。浦上出身のクラスメート浦上初美さんは大学卒業ご僅か2年後に亡くなりました。この歌を聞くたびに彼の物静かだった姿が目に浮かびます。そして夫に話します。「彼は原爆被爆者だったと思うわ」と。
 昨日の番組の最後に流れる衣装協力の「シノワズリ77」の字を見ました。私77歳の記念すべき印です。

 フォレスタのHPはこちらから

 今日はこれから大嫌いな掃除と片づけ。明日はチョッと正月料理。

 今年はこの数か月で世界、そして日本の様相が変わってしまいました。めげない様に頑張って行かなければと思っております。
 ブログを見て下さった皆様有難うございました。
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オアフ島停電もう一通のメール

 レイ子ちゃんからもオアフ島停電のメールが来ました。

 「ハワイ時間 26日の午後7時半に突然電気が消えてしまいました。
 私の部屋だけかと思い電話も通じずで困ってエレベーターで下に降りたら
25階から各階止まりでロビーは大勢の人で私の部屋だけではないと分かり
又部屋に戻ったら37階の部屋のオーナーが蝋燭を待ってきてくれました。
蝋燭の明かりで過ごしましたが、夕食も一人でレンジも使えないので買っておいたスパムむすびを食べました。
 ベランダの椅子に座ってワイキキを眺めたら街全体が真っ暗、でもビルやホテルのエレベーターの立ての部分だけは非常灯がついてますが道路の信号機は黄色の点滅だけ。することがないので仕方なく早く寝ました。
 水が出ないので歯も磨かずですよ。
 ただ良かったのは、夜空を持て沢山の星でプラネタリュウムの様で綺麗でした。
 ハワイではこんなに☆が見られると新発見。停電はなんと15時間もで翌日の10時にやっと電気がついた時の感激は 本当に嬉しかったこと。
 丁度息子がハワイに来た日で息子は成田を出発する時にホノルルの停電を聞いたそうです。息子が来て少しして電気がつきました。
 地域によっては8時頃に電気がついた所もあり、ワイキキが1番最後がそうです。
というのはワイキキが電気の消費が凄く多いので完全復旧の時でないと、いつもワイキキが最後だとの事。去年の地震の時も最後だったそうです。
 日本だと変電所に雷が落ちても1時間未満で復旧しますよね。友達が何人も私が淋しがっているだろうと電話を掛けてくれたけど、ワイキキのど真ん中に住んでいるので、電話も通じずでした。
 何時も当然と思って使っている電気のありがたみを痛切に感じると共に改めて感謝の気持ちを大にしました。
 今日も至る所に美しい虹が出ています。さすが虹の街ホノルルです。
  12月28日  (日曜)  レイ子」

 やはり想像した通りだったようです。
 彼女と韓国に行きました時エレベーターが重量オーバーで突然下がり始めました。慌てたのは私。彼女「あなた騒いだって駄目!」

           オアフ島停電もう一通のメール

        ハワイに出発前の舞台のレイ子ちゃん




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オアフ島停電

 朝日新聞28日朝刊はハワイのオアフ大停電を報じております。記事によりますとオアフ全島は落雷により長時間の停電に見舞われ、滞在中のオバマ氏は「私は大丈夫。停電なのでベットに入り寝ようと思う」と市長に話したと触れております。

             オアフ島停電

 ホノルルに滞在中の山崎厚子さんからのメール
 「暮れも押し詰まってまいりました。こちらはクリスマスセレブレーションが終わり
日本的なお正月の準備に追われております。といってもお節料理は日持ちがしない
南国なので、私の出番は黒豆・・奮発して丹波の最上級をもって
きてお土産代りにふるまうのですけれども、なんと昨夜は発電所が落雷にやられて
夜の8時から12時間余の全島的な停電に見舞われてしまいました。
戦時中を思わせるようなローソク生活。
それでもムードがあって楽しかった。孫が写真を撮ったので見てください。
しかしながら黒豆は無残! 
 虫の知らせでしょうか、予備にもうひと袋持ってきたので仕切り直しです。
なんとも南国的なのんびりした年越し準備です。
皆様、いいお年をお迎えください。厚子」
 
 停電中の灯りが添付されて来ました。厚子さん黒豆の予備もローソクもあり良かったですね。

               オアフ島停電

               オアフ島停電

 目下ハワイでフラダンスとウクレレの特訓に励んでいるレイ子ちゃんはこの停電にどうされて居たのでしょうか。「あなたじたばたしてもダメー。寝ましょ」と体を休めているかも知れません。
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ちょっと勉強

 今日の空は快晴、昨日も快晴。「ちょっと行ってきまーす」「ちょっとですか」「そうねちょっとではないかも」と柏まで出かけました。
 時々レクチャーをして下さる先生と久しぶりにお喋りをしました。お喋りと言うよりは矢張り勉強と言った方がピッタリだと思います。
 柏そごうの14階の展望レストランは席がユッタリと取ってあり、多少の笑い声も周囲の迷惑にはならないようで、ゆっくりとお喋りが出来ます。
 冬の碧空に遠く雪を被った富士山の姿が見えます。

             ちょっと勉強

 回転レストランですので風景はいつの間にか変わっております。筑波山も綺麗な姿を見せて呉れています。こういう日に筑波に登ったら関八州とは言いませんが、かなり遠くまで視界が広がり見応えがありましょうね。

             ちょっと勉強

 先生とお会いすると必ず手賀沼が話題になります。昨日の手賀沼の水はすっきりと青く目立ちました。良い方向に行っているように感じます。

            ちょっと勉強

 夕方になって来たようです。手賀沼方向に西日が射しております。
 冬至が過ぎたばかりで、まだ陽は伸びてはおりません。西の方向は夕日で茜色に染まり始め太陽が段々降りて来ました。話は中断し、暫し落日に映える富士の姿を待ちました。

            ちょっと勉強

 レストランの方に伺いましたら、こういう空は正月の数日位でしか見られないということで、ラッキーでした。
 
 で勉強ですが、いつもと同じ世界情勢の説明から始まり、日本の現状の解説と分析。私は庶民ですからそのレベルで質問をします。先生は質問に丁寧に答えて下さいます。
 今回特に興味を持ったのは、ブッシュからオバマへと代わった時から始まるであろう様々な政策と変化の予測。ブッシュと米国議会の動き。デリバティブの持つ特性。日本の雇用問題と過去の政策。利上げと利下げの問題。財政と金融。
 このように並べますとすごーい勉強をしているように聞こえましょ。でも私は直に忘れてしまうことが多いのです。一所懸命レクチャーをして頂きますから、それで幾らかは覚え勉強になります。
 お出かけはちょっとではなかったです。4時間余りになってしまいました。私のちょっとはちょっとでないということです。
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夏ミカン

 歳末を控え目があちこちに向きます。店頭の正月用飾り、花々、おせち材料、街の風景。柚子や夏ミカンンがたわわに生る木。今年は柚子も夏ミカンも豊作に見えますが、どうでしょうか。
 夏ミカンを頂くと作るのがマ-マレード。今年も取手に住むオパールの会員の方から段ボール一杯頂戴しました。
 早速作りました。例の研いで貰った包丁の切れ味は力を入れずとも綺麗に切れます。

                夏ミカン

 自慢じゃないけど(本当はお友達に好評=自慢でしょうね)美味しく出来ました。

 戦後食糧難の時代は夏ミカンはサツマイモと同時に冬のお八つでした。甘いサツマイモと夏ミカンを交互に食べることがよくありました。
 今は甘夏と言いますか夏ミカンも酸っぱさがきつくなく、甘さもほどほど。健康食らしさを感じます。
 
 昔々近所の子供が夏ミカンに塩を付けて食べていました。酸っぱさは今と比べると凄いのですのにそれに塩を付けるというのは何だったのかと思います。
 塩を付けるのが流行った時から少し後だったと思いますが重曹を付けて食べました。その頃は家庭で鋳物のパン焼きでパンを焼くのが日常でしたので、重曹が家庭にあったのでしょうね。
 この重曹を付けて食べるのはよくやりました。口の中でシュワーと味が広がります。何だか頭の中まですっきりとするような感じで、塩より好きでしたね。
 砂糖が簡単に手に入る頃になりますと、皮を丁寧に剝いて皿に並べ、上に白砂糖を掛けて食べるようなことも出来ました。
 今は様々な夏ミカン製品が出来ております。生徒の一人は夏ミカンのお菓子もいろいろと作っております。
 砂糖を始め香料。それに時間。揃うといろいろと挑戦したくなりますが、私にはマ-マレード作りが精一杯です。
 ゆっくりと煮詰めながら時が過ぎてゆく、夜中。過っての灯火管制の下と大違いな安らぎと満足感に浸ります。時には昔に思いを馳せることもあります。庶民の願いは安全、平和です。
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お砂肝チャンに行きました

 昨日紹介した記事をプリントアウトし、お砂肝チャンに行きました。クリスマス前ということでしょうか、お客さんが腿5本とか、腿3本とかと買っております。
 お砂肝チャン他お店オールキャストでお客さんに愛想良く、手際よく仕事をこなしております。
 お客さんがちょっと途切れたのでプリントをお渡ししました。皆さんとても喜んで下さいました。
 「ちょっと店内を写してもよろしいでしょうか」とお願いしましたら小母さんはポーズをとります。

              お砂肝チャンに行きました

 可愛い小母さんです。アレアレお砂肝チャンはどこかに行ってしまいました。家族的でお客さんとのやり取りにも馴染みの様子がうかがえます。壁に貼られている川柳?コメント?パロディー?面白いですね。これを眺めるだけでも寄る価値があります。

              お砂肝チャンに行きました

 今日も鶏油を買うつもりでしたのが、お代を取って呉れません。押し問答をしましたが結局頂いてしまいました。次回からは取って下さいね。と念を押し有り難く持ち帰りました。

 先日の看板は夕方で暗く写っていましたので、再度写しました。花も昆布も写っております。

              お砂肝チャンに行きました。

 良いですねー。セカセカとしないで力を合わせて商売に励んで、健康で皆さんに喜ばれる。
 小柳商店さんは素晴らしい。鶏油を頂いたからではありませんよ。心底そう思うのです。
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お砂肝チャンと言う鶏やさん

 我孫子駅南口から2分ほどの所に「小柳商店」という鶏肉屋さんがあります。
 我孫子の主婦の多くの方が知っている店舗です。家族経営かどうかは知りませんが、お店に顔を見せている方は高齢です。
 以前この店の中の一人の方がなかなかユーモラスで「ハイ!お砂肝チャン。一万円」なんて渡してくれます。我が家では「お砂肝チャン」とこの店を呼んでいます。
 この店の鶏肉は毎日朝引きの品物です。今時珍しいお店です。

          お砂肝チャンという鶏やさん

 正月近くなりますと店先に無造作に昆布の束などが置かれ、お餅も売られます。店先には季節の鉢植えの花を沢山並べたり、またサボテンの鉢を並べたりしお客さんを楽しませてくれます。
 我が家からは駅を挟んでおりますので、しょっちゅう買いには行けませんが、前を通るとき買うようにしております。
 
 先日私のよく見る富山の瀬戸さんのブログで鶏牛蒡ごはんのレシピを読み、鶏油が要るということで、小柳さんに行きました。大きな腿肉を買い、鶏油も分けて貰いました。

          お砂肝チャンという鶏やさん

 ここの鶏肉は味もよく、安心して食べることが出来ます。
 我が家定番の茹で鶏を作りました。茹でたスープは中華おこわに必要な量を冷凍にし、残りは翌日野菜を入れてスープにしました。
 鶏油はすぐに作りました。弱火でゆっくりと注意しながら油を出しきりました。何だか嬉しい気分です。いい物を手にいれそれなりに捌くと豊かな気分が広がります。

 この店に並ぶ肉はお客が頼めば、どんな部位でもひき肉にもしてくれます。貴重な存在です。
 食品の偽装問題が蔓延する時代。少しでも安心を求めるのは当たり前。私の住む地域にこんなお店があるというのも幸せの一部でしょうね。

          お砂肝チャンという鶏やさん

 富山の瀬戸さんのレシピはここから
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老師古稀となる

 NHKの中国語講座の王廼珍老師は11月15日に古稀を迎えました。日本で中国語を教えて21年が経ったそうです。
 古稀となりますと教員としては定年となります。来年3月には現在教えている大学を辞めることになります。
 老師は北京師範大学で国語を専攻。専門は児童文学。北京科技大学から交換教授として来日。以来多くの大学で中国語を教えて来ました。
 北京出身といってもいい老師は老北京人の誇りを持ち、人格高潔、学識も深く授業で扱う事柄は多岐に亘ります。
 最近は時事問題に触れることもあり、日本の新聞の切り抜きをお持ちになって話を進めることもしばしばです。こういう時は生きた中国語を学んでいるという気分になります。
 最近の話題としては中国の医療制度と日本の医療制度の比較。それに関連し医学用語なども勉強しました。お酒の話題は結構出てきます。中国のお酒そのものばかりではなく、酒に因んだ詩、マナーなど中国人ならではの内容は勉強になり、時にお持ち下さるお酒も授業の良き潤滑油となります。
 老師は謙虚ですから新聞の中で使われているカタカナ言葉などは率直に私たちに質問し、記録をしております。
 
 今年最後の授業は昨日でした。
 生徒は私以外は戦後生まれです。老人とは言えませんが授業の最後に出てきた言葉は皆さんにも大事な内容ではないかと思いました。
 
 「四老」四老とは老いに大事なこと、大切なこと、確りと考え置くべきこと。そういう内容でした。
 
 一 長く一緒に生きた伴侶
 二 長く住み馴染んだ家(環境)
 三 自分の財産
 四 昔から長く付き合った友達 
   ( 中国語ではこれらの言葉の頭に老がつきます)

 長く教壇に立った老師は学生に教えるということが生き甲斐であったと思います。寂しさが付きまとうことは当然でしょう。でも皆さんに教える事ができるから嬉しいと気を使い、ご自分を励ましていられるようでした。
 11月15日は丁度授業の日でしたので、記念に教壇の前の老師をカメラに収めることが出来ました。

              老師古稀となる

 老眼鏡も掛けず、聴力も冴えております。細かい字に苦労する私には、拡大コピーにし渡して下さいます。年に何回か北京に行かれますので、生の庶民の今を伝えて下さる老師。まだまだ元気で過ごされ指導をして下さることでしょう。
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家庭菜園

 1945年に戦争が終わり、軍人も外地に住んでいた日本人も故郷に戻って来ました。その後数年の間作物の不作と人口増もあり、多くの人々は食料を求めて右往左往しました。開墾も積極的にしました。開墾した土地に玉葱やジャガイモ等を植え、また庭にも南瓜を植え、食糧確保に精を出しました。
 両親と妹、弟と中国から引き揚げて来た我が家もご多分に漏れず畑を借りたり、山畑の開墾などをし、何とか生きて来ました。
 女学校の寄宿舎に千葉の鴨川の奥の村から来ていたSさんがいました。彼女の父親は酪農家から買い入れた牛乳をバターに加工する工場の責任者でした。
 ある時、彼女からバターを頂きました。春先のことです。そのバターを使って母が莢いんげんのバター炒めを作り食べさせて呉れました。その味を今でも思い出します。彼女とは一昨年鴨川で60数年ぶりに会いました。あのバターのことを話しました。彼女は覚えておりませんでしたが、私には鮮明な記憶になっております。
 スーパーの店頭で莢いんげんを見ますと、必ずあのバター炒めを思い出します。
 母方の祖母が亡くなり、葬列が寺に向かう山道の日当たりの良い畑に若い莢いんげんが生っていました。
 祖父はその頃、シンガポールにおり、葬儀に来ることは出来ませんでした。房州1943年3月の初めでした。莢いんげんの色が美しく、他のことより強く印象に残っております。
 莢いんげんは蚕豆より収穫は早く始まります。
 3丁目のノリピーさんが家庭菜園に励んでおり、莢いんげんをご覧になりますかー。
 暫くは冬籠りに入り、春になると伸びて来まーす。とメールを頂きました。
 もう見たくてなりません。ぜひぜひとお願いし畑に案内して頂きました。
 昨夜からの雨も上がり、冬枯れの畑にはキラキラと輝いている野菜が見えます。まず莢いんげんを見せて頂きました。

             家庭菜園

 土地の持ち主は何人かのようですが、借り手は皆さん近所の方だそうで、それぞれの借り手の名前もお聞きしましたが、それはもう忘れてしまいました。でその借り手の方々で井戸も掘り、ポンプもあります。何だかタイムスリップしポンプを押している気分になりました。

             家庭菜園

 ほうれん草は一際輝いております。羨ましいーな。こんなのを愉しみながら作れるということ。あの戦後は眺めるという余裕はありませんでした。

             家庭菜園

 一通り案内をして頂き、ノリピーさんの用意して来て下さった温かいお茶を頂きながら、よもやま話にしばし時を過ごしました。良いですね。この四阿も皆さんで作ったものだそうで、畑仕事の合間にお八つを食べたり、秋には数軒の家族で収穫祭のようなこともするそうです。

             家庭菜園

 冬にしては穏やかな日差しを背に受け、小一時間ほど過ごし、また春の日に見せて下さるということで別れて来ました。

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チャイナドレスは素敵だ 55

 先日ある処で若い女性の方とチャイナドレスのことを話しておりました。居合わせた二人はチャイナドレスを持っているそうです。「着たいんだけど勇気がなくて」と口を揃えて言います。
 これは多くの方が知っているけれど、決して私の薦めるチャイナドレスとは違うのではと「どういうのなの」と聞きました。間違いなく街で見かけるキラキラとしたチャイナドレスと分かりました。
 私の講座で受講する生徒の皆さんはシンプル、シックを目指し、個性的なものを作っております。
 前回の講座の日。それぞれ頑張って作って来ました。また珍しい薄物の仮縫いをした方もありました。
 少ない端切れでベストを作り、上手に重ね着として仕上げた方もおります。
 
               チャイナドレスは素敵だ 55

              チャイナドレスは素敵だ 55

              チャイナドレスは素敵だ 55

              チャイナドレスは素敵だ 55

              チャイナドレスは素敵だ 55

 手を掛け確りと作りますので、長く着ることが出来ます。アクセサリーを上手に使い着回しも出来る。このようなチャイナドレスをぜひ着て欲しいものです。
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宝井馬琴ビジネス講談の夕べ

 六代目宝井馬琴師匠のビジネス講談を聞く会も今回は30回を迎えました。年2回開催されますから15年が経ったことになります。
 私の記憶では随分前から馬琴師匠の会があったような感じを持っております。
 今回も会場は上野池の端の「伊豆榮」江戸の味を確りと守っている鰻の老舗です。時々友人と昼食をとりますが好評です。

 今回は70名ほどの方が出席しました。あちこちに知った方が座っております。
 助っ人として今回の前座は女性講談師「宝井琴柑」さんと落語の「三遊亭小遊三」師匠。琴柑さんは張り切っておりました。若い声はそれなりに好いものですね。
 小遊三師匠は笑点で孫がよく口にしておりますので、よーく聞きました。バーバは報告しなければなりません。

             宝井馬琴ビジネス講談の夕べ

 馬琴師匠は相変わらずしっかりとした袴姿。颯爽と登場。ビジネス講談ですからそれなりにどうしても教えの世界に入り込みます。今回は徳川家康『鯉の御意見』トップに立つ者は第一線で功績を挙げる人間も大事だが、直言をしてくれる人こそが大事で、忘れてはならないという締めくくりでした。

             宝井馬琴ビジネス講談の夕べ

 世話人の兼松紘一郎さんは1962年工学部卒。若いころから講談に魅せられ、「講談・この不思議な世界・高座」という写真展を神楽坂で開いたほどの入れ込みようです。30回の小冊子も彼が編集したものではないでしょうか。

                 宝井馬琴ビジネス講談の夕べ

 この日の出席者の最長老は昭和19年(1944年)卒の秋山照正さんという方でした。私の左一人置いて座っております。話すうちに『昭和18年10月21日に明治神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会』で行進をした一人と知りました。雨の競技場で東条英機首相の前で歩調を取るあの映像は何回も目にしておりますが、秋山さんはあの映像の中で歩く自分をいつも見るそうです。あの一団は明治大学の学生だと、初めて知りました。出陣壮行会にスタンドで送ったという方は知っておりましたが、行進した方に出合ったのは初めてでした。

 話は変わりますが、孫の好きな笑点の小遊三さんに会えると、うっかり孫の前で喋ったので、家では大騒ぎ。
 「えりちゃんも行きたい。会いたい。ばーば連れてって」家族は「大人ばかりの会だからダメ。それに夜中だから」「夜中って何時よー」「六時半」「そんなの夜中じゃなーい」えらいことになってしまいました。
 やっと宥め、サインをしてもらって帰るからと自宅に帰らせました。まだ六歳ですから嘘は付けません。
 兼松さんに耳打ちしておきました。馬琴師匠の語りの後、恒例の鰻で一杯が始まりますと、馬琴師匠と小遊三さんが並んで座っております。
 目立たないように傍に行き、馬琴師匠に「これこれ」と事情を話しますと「ちょっと書いて貰ったら」と小遊三さんに声を掛けて下さいました。
 翌日やってきた孫は大喜びです。よかった!!!

                 宝井馬琴ビジネス講談の夕べ

             孫の宝物です。大事にして貰いましょう。
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ハワイからのメール

 明大OGの山崎厚子さんからアドレス変更のメールが去る11日に届きました。久々の懐かしい方からのメールです。
 彼女がハワイと日本を往来していることは承知しておりましたが、今回のメールの中でホノルルマラソンの10キロウオークにエントリーをしたとあり、これはすごいなーと近況を訊ねました。
 一人っ子のお嬢さんの住むハワイにはご主人が定年後の生活の本拠を置いている様子、彼女も都合に合わせて出かけているそうです。クリスマスと正月はこの15年ほどはハワイで迎えているそうでチョッと羨ましい感じがします。
 山崎さんは明治大学文学部史学地理学科を卒業。ご主人の山崎徹さん(1957年卒)は明治大学校友会我孫子地域支部の三宅恭雄さん(1954年卒)の後輩で、三宅さん同様馬術部のキャプテンを務められ、また三宅さんと同じ会社にいた方ということもあり、そんなことで話にも共通項があります。
 それにしても彼女は素晴らしい人です。東洋史を専攻したと伺ったような気がしますが、文筆家として中国の近現代史を舞台に作品を書き続けております。
 長編小説『やわらかい鋼ー江青異聞』『北京恋』にて第一回日本文芸家クラブ大賞を受賞しております。
 1936年生まれですが私世代とも馬があい、お喋りは屈託なく率直。話すスピードも速く楽しい会話が進みます。忙しい者同士ですので、スピーディな会話の進行は無駄がなくいいものです。
 彼女は来る1月29日にハワイのアソシエーションで「男女平等に貢献した女性たち」というタイトルで講演をされるそうです。学識豊かな彼女の話をお聞きしたいものです。

 昨年暮に山崎さんは長編の小説を上梓されました。丁度「宝井馬琴のビジネス講談」を聞く会の席上で皆さんに披露され、私も手にすることができました。

                ハワイからのメール

 この小説は紹興の名家に生まれ、湖南省の富豪に嫁ぎながら、女性解放を目的に家庭も子供も捨てて、革命運動へと突入し、最後はその革命運動のために捕らわれ、処刑された秋瑾の短い生涯を主人公に書かれたものです。
 中国の近現代は激動の時代。清朝から中華民国へと刻々と変わる様を描くこの作品に惹かれました。
 彼女は私の興味の対象でもある、中国の衣服への造詣も深く、教えられるところ多々ありました。
 小説全体にルビも振られており、読み易く書かれております。

 「秋瑾火焔の女」 山崎厚子
             2007年12月30日 初版発行
             発行所 株式会社河出書房新社        
                 
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佐橋さんちの馬・うま・ウマ

 オパール・ネットワークの赤坂サロンの様子を紹介しますと、ゲストの後ろに馬の並んでいるのをご覧になられると思います。
 主宰の佐橋慶女さんは午年。サロンで皆さんが集まる席の回り、玄関からの廊下。いたる所馬・うま・ウマで埋まっております。
 サロンの前に委員での打ち合わせがありますが、私は馬を眺めるのも楽しみに出かけております。小さなかわいい馬、姿は小さくても躍動的な馬、用途も様々な馬。会毎に増えているような気がします。
 その馬「埃じゃ死なない」を口にし憚らない私には驚くほど清潔に埃も汚れもなく綺麗に置かれております。廊下には額や書、写真、馬のグッズなどが並んでおります。
 可愛いい馬・うま・ウマをご覧ください。(佐橋さんの許可は頂いております)

            佐橋さんちの馬・うま・ウマ

            佐橋さんちの馬・うま・ウマ

            佐橋さんちの馬・うま・ウマ

            佐橋さんちの馬・うま・ウマ

           佐橋さんちの馬・うま・ウマ

 これはコレクションの何分の一かです。声には出しませんがへー!とかほー!とか言いながら、毎回眺めて新しい発見をしております。

 
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懐かしの小学校

 日本が第二次大戦で負け、外地と言われていた中国や満州、東南アジヤなどから日本に引き揚げて来た邦人の数は何百万人にも達していたことでしょう。
 その地で生まれ、育った方々はハイマートレスになってしまったと、深くその事実を反芻しながら過ごすことも多かったと思います。
 その一人に豊島坦さんという方がおります。先に青島慕情で紹介しましたが、改めて彼から写真が送られて来ました。写真は何れも中村八大さんの妹さんから贈られた物だそうです。

 中国青島の第一日本小学校は私も通った学校です。写真を眺めていますと次々走馬灯のように思い出は繰り返されます。豊島さんもそのようでしょう。

 青島の小学校は先に第二と言われる小学校が開校されたようです。第一は1917年に日本人の設計により建設されたそうです。
 この学校で学んだ方は引き揚げてみて、如何にこの学校が素晴らしかったかを改めて知り、誇りに思ったことではないでしょうか。私も強く感じておりました。
 教師のレベルの高さ、立派な設備。多くのことで「日本でもこれほどの学校はない」と訪問された高松宮をして言わしめた学校です。

            懐かしの小学校

 校舎は確りとした建物で、校庭は大きく分けて三か所。グランドは400メートルトラックが取れ、校庭を囲んでスタンド席があります。暖房はスチーム。図画室や生物室なども置かれ、希望者は特別授業を受けることも出来ました。

             懐かしの小学校

 学校の正面からのスケッチによる俯瞰図です。作者はこのブログにパロディーを送って下さる H.Tさんです。

             懐かしの小学校

 校庭側からの写真です。位置は学校の東。下のスケッチは同じく校庭側からの物です。作者は同じです。

            懐かしの小学校

            懐かしの小学校

 紀元2600年(1945年・昭和15年)の記念行事での人文字です。
 
            懐かしの小学校

 紀元2600年を記念して設置されたと思われる遊具。立っているのは中村和之校長(八大さんの父)中庭に設置され、放課後夢中で遊び、帰宅が遅くなり、よく母に叱られました。

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ハナクルスの味

 鎌倉寺分に住む友人との付き合いは1948年から。彼女とはオパールのサロンでは必ずと言えるほど会います。そのほかお互い関係する行事や講演会などでも一緒になります。
 彼女は美的感覚に優れ、また感性も豊かで、様々な点で彼女には何時も感心させられております。生活も堅実。考えも何時も将来を見据えて、準備し生きております。
 そのような彼女の素質は長女からさらに孫へと伝わり、素敵な一家です。
 お孫さんのMIOさんは高校生の頃、所謂和物が好きなお嬢さんでした。それがそれが変わりようと言いましょうか、才能がもともとあったからでしょうかパティシエールとなっております。
 MIOさんの作るパン・焼き菓子・等などは材料を徹底して吟味。全て納得ゆく物を使っております。
 先日も友人に持って来て欲しいと頼みましたが、やはり送らせてもらいますということになりました。

           ハナクルスの味

           ハナクルス味

 届きました。孫の大好きな味。素敵な垢ぬけたパッケージ。

 ミセス08年6月号で湘南鎌倉ハナクルス(ミセスのかくれた味うまい味)と紹介されました。友人の孫ですので、私まで嬉しく自慢したくなりました。

             ハナクルスの味

 パンフレットもなかなか素敵です。昨年窯も大きくしたそうで、頑張っています。

          ハナクルスの味

 ハナクルスの製品はすべて取り寄せです。どうぞ召し上がってみてください。

          ハナクルスの味

 可愛かったMIOさんはいつの間にか素敵なプロになりました。応援します。

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沖縄の三線を楽しむ

 今年最後のオパール・ネットワーク赤坂サロンは沖縄出身の「知花龍磨」さんをお迎えしました。
 知花さんは若く、当日のオパールの会員の殆どが彼の祖父母の年齢とも言えましょうか。
 
                 沖縄の三線を楽しむ

 知花さんは1983年沖縄読谷で生まれ、中学まで沖縄で過ごし、その後新潟の高校から茨城キリスト教大学で学ばれ、そのあと一旦沖縄に戻り、改めて東京神学大学で学ぶ神学生です。
 知花さんは幼い頃から三線(サンシンと呼ぶのだそうです)は泥臭く馴染めなく、むしろ嫌いなことだったそうです。また沖縄の全てが嫌いだったとも言えるようなことで、沖縄を離れていたそうです。
 多くの若者が故郷を嫌って外に出るという話はよくあることですが、知花さんは三線を学び、演奏するために方言を覚え、それらの中から沖縄が好きと言えるまでになられております。

  音楽は好きな方だったようで、高校時代また大学時代は様々な楽器に親しんでいましたが、どうしても三線は弾く気になれなかったそうです。
 沖縄ブームもあってか、多くの方が沖縄について語り、伝統芸能なども知られるようになった大学3年生の時、地元で嘉納昌吉氏のライブを聴きに行き、知花さんの沖縄の伝統芸能に対する「ダサイ」という感覚は一新したそうです。以来沖縄のことを紹介し、沖縄を語り、沖縄の音楽活動をやるのは沖縄人でこそと考え、そのライブ以来必死に三線に取組み、沖縄方言を学び、今日では三線奏者としても活動をしているそうです。(三線は弾きながら歌うのが原則で、歌が歌えなけらば演奏者とは言えないそうです。歌は全て沖縄方言、その方言を習うことも大変なことだったようです)

  知花さんが強調したことは「好きなもの・嫌いなもの」すべてを受け入れその土地を好きななることこそ、何々人と言えることで、自分は今そういう考えで日々を過ごしています。こういうことを演奏の合間に話されました。


              沖縄の三線を楽しむ

 三線の構造についても紹介がありました。私は三線のライブにも出かけたこともなく、説明は新鮮に聞こえました。
 知花さんの演奏に合わせ、皆さんで手拍子をとり、座は和やかさに包まれました。知花さんはこういう席は経験したことがなかったそうで、とても緊張している様子がよく分かりました。
 知花さんの話の中で彼の祖母の話されたという沖縄戦の様子には心が痛みました。
 ある朝洞窟から出て行きますと海岸線には米軍の船がびっしりと真っ黒に並んで、上陸が始まる寸前だったそうです。
 私は前に沖縄を旅し知ったこともたくさんありましたが、それはほんの僅かなことで、その時代を生きた方々の辛酸を極めた話は誰かが、どこかで語って欲しいと思ったことです。
 知花さんが三線を弾き、讃美歌を沖縄方言で歌う神父さんになられると思われますが、きっと素晴らしい神父さんとして過ごされることでしょう。
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房総の紅葉ー3

 今回のバスでの旅は各自お弁当持参となっておりましたので、自由が利きます。
 小松寺を出発しますと早速小池さんが熱いお茶を配って下さいました。おにぎりやコンビニ弁当。和やかな空気が車内に流れます。
 バスは千倉の駅の近くを通り、和田町へと海岸通りを走ります。風が強く波が高く、波の背をしぶきが飛んでいます。空に雨雲が西から近づいて来ております。
 元のフラワーラインを抜け、鴨川に向かいます。鴨川で魚屋に寄り、手洗い休憩と買い物。何だか皆さん買い込んでいます。
 車は鴨川有料道路から最後の観光場所、養老渓谷に向かいました。途中バスは亀山湖の周辺を通過しましたが、見下ろす紅葉は見事です。何時か来てみたい所です。
 養老川は大多喜を起点に市原の河口まで続き、物資の輸送に使われた河川だそうです。房州に向かう朝、市原の河口を通過しました。「皆さんこの奥が養老渓谷ですよー」と小池さんは案内しておりました。
 養老渓谷に到着。急勾配の坂道を手すりに掴り、気をつけて下りました。
 高滝は通称粟又の滝・養老の滝と呼ばれ、千葉県随一の名瀑と言われております。休日でないせいか予想していたより人があまり多くありません。
 各自自由に散策。カメラの先生のKさんは全員での記念写真を撮りました。これは後日皆さんにお渡しできますので、楽しみです。

              房総の紅葉ー3
 
 渓谷に下ってゆく急坂の途中に廃屋らしい家が建っています。生活しにくい家でしょうね。

              房総の紅葉ー3

               房総の紅葉ー3

               房総の紅葉ー3

              房総の紅葉-3

            房総の紅葉ー3

 5日の夜、Kさんから数葉の写真が送られてきました。さすが仕事が早いですね。文字も入っています。孫言葉「はや!!!」一枚掲載いたします。
                   
             房総の紅葉ー3

 駐車場の前の道路に立つ家。昔はさぞモダンな家と珍しがられたことでしょうね。屋根に時計と風見鶏風。これも廃屋のようですね。

 雨がそろりと降って来ました。紅葉観光は何とか無事に終わりました。
 全員何事も無く済みバスに乗り込み、我孫子に向かいました。高速道路に入りますと風雨が強くなり、雷鳴も聞こえ始めました。ドライバーさんは気を使っていましょうね。
 すべて無事に終わり家に着きました。皆さん!買った干物のお魚は美味しかったですか。
 小池さんご苦労様でした。またお願いいたしますね。

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小松寺訪問

 房総の紅葉を訪ね、我孫子を12月5日の午前8時過ぎに出発。国道16号を南へと下り、ほぼ2時間半で房総の古刹小松寺に到着しました。
 前夜小池さんから亀山湖を端折り、小松寺はいかがでしょうかと電話がありました。結局小松寺に行くことになりました。
 小松寺の住職。鈴木隆邦さんは昔からというか、子供の時から名前を呼び合っていました。僧籍に入る前は昭二と昭和2年生まれを証明しているような名前で昭ちゃんと呼んでいました。
 隆邦さんと寺でお会いしたことはありませんでしたので、寺の風景など全く聞いたことはありませんでした。
 紅葉が綺麗なことはブログ「和歌蘭さんぺいの独り言」で知りました。池の睡蓮のこともそこで知りました。時間があれば観に行きたいものです。

         小松寺訪問

 1948年隆邦さんは大学予科3年。私は田舎から出て行ったばかりの田舎娘。東大の五月祭で仲間の方と一緒の隆邦さんと偶然会いました。彼は私のグループと神保町のエンプレスに行こうと東大から歩いて行きました。若いというのは歩くことも、お喋りも平気。分からないクラッシック音楽とコーヒー。
 都会生活の第一歩を教えて呉れました。
 房総で長く教職にあったので、袈裟姿は見たこともありません。その隆邦さんが病の床に就いていると耳にしておりました。忙しさもありましたが、お見舞いに行く機会を積極的に作ることもせず、気になりながら今まで時間が過ぎてしまいました。
 今回の紅葉を訪ねるにあたり、手紙とお見舞いの用意をし、お寺の方に預けたいと思って出かけました。
 一通り紅葉を眺め、寺の方を探し、挨拶をし、お見舞いを渡して下さるようお願いいたしました。
 その方は副住職の方でした。「奥さまがお亡くなりになったことはご存知ですか」と言われます。奥さまも悪いとは知っておりましたが、隆邦さんよりは症状は重くないということでしたので、驚きました。
 本堂に案内され、写真の前でご冥福をお祈りしました。副住職の方と話すうちに和田町の根本日精先生のお孫さんと伺いこれにも驚かされました。根本先生は安房高女で教えて頂いた先生です。

 その日が奥さまの初七日と伺い一層驚きがましました。なんということでしょう。お線香を上げ、傍を見回すと前住職の優しい顔をした写真があります。御前さんご夫妻、隆邦さんの母親と私の母、それに私とお喋りをしたのは遥か半世紀の昔になってしまいました。
 
 気がつきますと本堂には十二神将の木彫らしい姿が見えます。お願いしカメラに収めました。御前さんの写真も写させて頂きました。

        小松寺訪問

        小松寺訪問

 多分以前にも見たはずです。でも今回は特別な気分で本堂全体を拝観しました。
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房総の紅葉ー2

 小松寺は文武天皇の頃(683~707)に小さな庵から始まったという古い寺です。
 母と一緒に正月が過ぎると出かけました。寺には暮に檀家から餅が供えられますが、住職夫妻では食べきれません。そこで我が家に連絡が来ます。お供えやのし餅を持ち帰り、かき餅や揚げ餅にし頂きました。寒中の小松寺の気温は零下ではないかと思われます。
 座敷に上がっても寒くてたまりません。夫は余りの寒さに車に戻り、待つこともありました。前住職は火事を恐れて現住職の買い置いた石油ストーブも使いません。手あぶり一つです。
 久しぶりの訪問でしたが、変わらないもの、変ったもの、知らなかったもの。いろいろと眺め感慨一入でした。

       房総の紅葉ー2

 寺に近づきますと山裾から流れてくる澄んだ水が見られる細い川があります。この風景は変わらず残っていました。

       房総の紅葉ー2
 
           寺の庫裏の玄関も変わっておりません。

       房総の紅葉ー2

       この出店には驚きました。休日ともなると参拝者観光客を当てにし、フリーマーケットのようなことになるそうです。

       房総の紅葉ー2

       房総の紅葉ー2

 いつも母と行きますので、庭を眺めたりできません。母はご住職と話し込みますので、傍で話を聞くだけで戻っておりました。寒さだけが強く記憶に残っております。

       房総の紅葉ー2

       房総の紅葉ー2

 紅葉を訪ねて小松寺に行きましたが、予想もしていなかったことが待ち受けておりました。
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房総の紅葉ー1

 チャイナドレスの受講生の言葉。「偶には誰かの案内でゆっくり出かけたいわね」ということで都合のつく時期は12月は5日と決め、房総の紅葉を観に行くことになりました。
 幸いに生徒に名ガイドの小池惠子さんがいますので、彼女に案内をして頂くことになりました。
 予定は亀山湖と養老渓谷とし、人数も少人数にしておきました。
 昨夜小池さんから連絡があり、房総半島の南の方の小松寺の紅葉が見頃ですのでということです。
参加者の皆さんに相談し、良ければとしておきました。
 お天気は昨日の晴天と大きく変わり、曇り後雨。雷もあり強風というではありませんか。バスに乗り込み参加者に小松寺はどうでしょうかと提案。皆さん了解。それではと房総は元千倉町の小松寺へと急ぎました。

            房総の紅葉ー1

            房総の紅葉ー1


            房総の紅葉ー1

            
房総の紅葉ー1

            房総の紅葉ー1

            房総の紅葉ー1

            房総の紅葉ー1

            房総の紅葉ー1

 小松寺はよく知ったる寺院。昔と変わり観光客が沢山見える寺になっておりました。特に紅葉のシーズンには人が多く見えるそうです。

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都内観光ー4

 やや薄暗くなった六本木。小雨も降り始めましたが、あの街は大勢の人が相変わらず行き交っております。
 交差点のアマンド。30年ほど前女学校の仲間とあの店の前で落ち合いました。
 バスは六本木ヒルズに到着。52階の展望台へと進みました。人人うんざりするほどの人。それでも今日は空いているということです。
 展望台の全周はガラス張りで眺めは素晴らしのですが、方向が分かりません。夫は私よりなお方向が見当もつかないようです。
 
              都内観光ー4

 52階に一気に上がりましたが、入居者の名前を見ますと大手不動産会社、外資系企業、外国の銀行など。名前は聞いたことのあるものばかりです。
 カサブランカのツリーが中心に立っています。池坊家元制作とか。余りに強烈な香りで、遠くに離れても匂いが追ってきます。たまらない人もいるかも知れませんね。
 このツリーの花は交換するのかしら、どうするのかしら、枯れそうになったらお終いになるのかしら。他人ごとなのに気になります。

              都内観光ー4

 一回りしたあと、スカイデッキにのぼりました。まず持ち物はカメラ、携帯電話以外は鍵の掛かるロッカーに預けます。風が強いのでチケットなどは離さないようにと注意がありました。人数制限があるようで、順番にエレベーターホールの前に並びます。
 とに角時間がかかります。集合時間を気にしながら上で360度の東京の夜景を眺めました。
 屋上ですから雨が降ればだめです。
 この灯りの輝く風景を写そうと、まず夜景にセットしいろいろな角度から写しました。途中画像を確認しましたら、灯りが全部流れております。(きっと写し方があるのでしょう。今度カメラを得意とする生徒さんに教えて貰いましょう)
 普通に戻しなんとか少し撮りこみました。

             都内観光ー4

             都内観光ー4

 見物を済ませ、バスに乗り込み日の出桟橋に向かい、船でお台場に到着。フジテレビの前からバスは一路我孫子に戻りました。船から眺める夜景は東京の夜景も素晴らしいと、世界に発信して欲しいと思ったことです。雨が降っていなければデッキにでて見たかったですね。

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相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日86歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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