2009-07

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ワンコイン寄席は盛会でした

 オパール・ネットワーク我孫子支部の主催するワインコイン寄席は二回目。昨年も多くの方がお見え下さり、昨日の第二回も昨年同様ホール一杯の方をお迎えすることが出来ました。
 一回目の時を参考にし、準備を進めて参りました。
 会員の皆さんは地元のいろいろな会合を利用し、チケットを捌いて下さいました。
 200人収容のホールですから金銭面ではかなり厳しく、出来るだけ手作りで準備を進めました。
 オパール・ネットワーク我孫子支部の全員で頑張りました
 お天気は夏真っ盛り。晴れておりましたが暑さは厳しく、高齢者の方々は早々と会場にお見えになり、待って下さっておりました。少し開場を早めました。チケットは2週間ほど前に完売。

 伊藤琴遊さんは講談「赤垣源蔵徳利の別れ」を語り、大きな拍手を頂きました。
 
 伊藤さんは私が勤務していた大学で出会った方で、高校時代から雄弁部で活躍。大学時代でも雄弁部の中心的な一人として活躍しておりました。昨日はその雄弁部の先輩に当たる方も駆けつけて下さり、私を感動させて下さいました。

             伊藤琴遊さん

 かねがね伊藤さんからお聞きしていた近藤志げるさんは「思い出は唄とともに」と題し、アコーディオン漫談の醍醐味を発揮されました。特に野口雨情の唄に纏わる語りは皆さんの心を揺さぶりました。
 近藤さんは歌われている場所などは納得ゆくまで調べられているということです。
 一流ということにはそれなりの粘り強い探究と努力が在ってこその成果ですね。
 近藤さんは一万曲もの歌曲を演奏し、歌い語ることができるそうです。

. 私たちはいつの間にか間違って覚えている歌も多いようで、近藤さんのアコーディオンに合わせて歌いますと、ストップがかかります。簡単単純なことですが間違っているのですね。なかなか勉強になりました。

            近藤志げるさん

 最後は会場からのリクエストを取り上げて皆さんを楽しませて下さいました。
 会場を後にしお帰りになる方々から「よかったですよー」「またお願いしますね」など沢山の言葉を頂戴しました。皆さまのお礼と励ましの言葉をお聞きしますと開催した甲斐がありました。
 何とか次回の開催へと頑張りたいと思っております。

 お越しの皆様有難うございました。私たちも一緒に楽しませて頂きました。 
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行平鍋

 先日来あちこちからジャガイモを頂いております。小さ目の物を大鍋で確りと煮ようと考えました。
 まずかなり沢山、包丁で皮をこそげ、牛肉と一緒にし濃い味にして煮ました。夫はジャガイモに限らず、野菜はよーく煮込んだものを好みます。柔らかいけれど煮崩れをしない程度寸前に火を止めます。
 これは良かったのです。ですが滅多に使わない右の二の腕の筋肉が以来痛くてなりません。
 困りました。整体治療に行くにはお金が勿体ないような気もします。
 夫はバンテリンを塗り込んでくれましたが、あまり変わりません。
 
 一昨日、出汁が少し足りなく我が家の大きい方の行平で出汁をとりました。煮物の鍋に移すのに腕が痛くてなりません。左手も一緒に使い、注ぎ口を右にして注ぎましたら楽に注ぐことができました。

               行平鍋

 今まで全く疑問を感じなく使っていました。この鍋はかなり使い込んであり、夫が何回も取っ手を修理してくれてあります。少し小さいものもあります。行平鍋は重宝でほとんど毎日使っております。
 左手を添えて使い、ああ!右の注ぎ口もあったのだと一人感心してしまいました。

 その後考えました。急須ですが先ず注ぎ口は左に出ていますね。真ん中に付いたものもありますが右だけに付いた物はあるのでしょうか。左右に注ぎ口を付けたら見栄えも悪くなり、洗うのも厄介なことになるでしょうから商品としては無理でしょね。でもどこかで偶然目に触れることがあるかも知れませんね。
 見つけたらこれはブログですね。相子老婆はこういう発見は大好きです。

 
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若者は老婆に優しい

 先週の土曜日(25日)柏駅で電車を降り、エレベーターで上に昇りましたら私を呼ぶ声がします。
3月まで私のPCの面倒を見て下さっていた、後輩です。
 4月から都市銀行に就職。自宅からは通えませんが、毎週家に帰られる程の都市に赴任しております。
 時々「パソコンの調子はどうですか。何かありましたら連絡をして下さい」とメールが来ます。
 大学在学中はゼミ長をされていたそうで、礼儀正しく言葉遣いもキチンとしております。
 ひさし振りに会いましたが学生時代と比べ、何といっても社会人らしい雰囲気が感じられ、すっきりと見えました。わずかの時間でしたが駅構内でお茶を飲み、ざーと近況にふれて別れました。
 夏には銀行の法被を着て地元の祭に参加もするとか。新人は走りまわるのですね。

 彼から卒業後の、赴任先を聞いた時、これから先PCのことをどうしたらいいのかしら。私の心配はだんだん大きくなって来ました。
 
 春先マンションの一階の空き店舗に貴金属買い取りを中心にするお店が開店しました。宝石屋さんですが、店頭には普通の店のように品物が殆どというか、全く置いてないと言ってもよいような構えです。
 通る度にちょっと目をやりますと何時もPCに向かっております。
 あるとき文章を書く時のことで、どうしても分からないことが起き、恐る恐る(本当はちょっとです)扉を押し尋ねました。
 すぐに教えて下さり、助かりました。
 「実は私のPCの面倒を見て下さっていた学生さんが卒業してしまうんで、これからどうしたら良いのか困っているの」と何となく話しました。
 「その学生さんのようには出来ないと思いますが、私で分かることでしたら聞いて下さい」と心易く答えて下さいました。
 以来何か分からないことが起きると下に行きます。
 ところが先日友人が傍を通り「時々見かけるけれど何だか沢山持っているのねー」と声をかけて来ました。
  「そうじゃないわよ。パソコンのことを教えて貰っているのよ」
  「ええそうなの。何だか凄なーと思っていたんだけれど。違ったの?」
  「そうよあなたに聞いて貰って良かったわよ。そうでなかったら誤解されていたわね
ー」
 そんな会話がありました。
 
 柏で会った後輩にはその店の方が何かと見て下さっていると報告して置きました。
 二人の男性若者に助けられている老婆は有り難く思っております。

 先日その宝石屋さんのチラシが入って来ました。読んで見ましたら実に味のあるコマーシャルです。
  
                チラシ

 曰く   ・金歯(歯がついたままで結構です)
      ・嫁に「要らない」と断られたアクセサリー
      ・姑に押し付けられた変なアクセサリー  

                       等々

  何だかありそうな話。後ろめたさを解消させてくれるような言葉。何となく真実を突いているような表現。気を引きます。だからと言って私は買うも売るも出来ませんがね。
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二日とも晴れ

 こういう風にお祭りを迎えられるとは予想よりはるかに良かったです。

一日目 
 午後から始まる会場の準備に人が始まっています。若い親たちはこの日特に張り切っているようです。

               祭りの準備

               祭りの準備

 昼間は柏に出かけていたので、柏の祭に驚かされました。駅周辺はどこも歩くのも人出をよけよけです。
 夕食を済ませ、孫を見に出かけようと廊下に出ましたら、木立の合間から灯りと太鼓の音。かっぱ音頭などが聞こえて来ます。

               木立の間の人と音

 踊りを眺め、夜店を覗き、早々と戻って来ました。老婆は座る場所がないので駄目ですね。

 柏の山車を引く子どもの多さは凄いものです。街の規模が違うからですが、年々盛んになって来ております。

               柏の子どもと山車

     このときの柏は午後3時29分。30分の講座に駆けつける直前です。

二日目 
 昼前から太鼓の音が響いて来ました。難聴の私にも聞きとれます。孫が神輿を担ぐかと思い出て行きましたが、見つかりません。担がなかったのです。
 暫らく小さな子ども達の山車を引く姿を追いました。自治会長は「親は自分の子どもを確りと見ていてくださーい」と注意を促し、出て行きました。
 神輿が次々出発します。

              出発の合図

              慣れた人の足さばき

              子どもも出発

              担いでいるのか触っているのか

              夜店が無ければ祭りじゃない

二日目夜 
 夏祭りはまた盆踊り大会でもあります。夕方から老若男女が広場の櫓の周囲を回り踊ります。
 櫓の上で太鼓を打つ子どもは小学生、中学生。練習もよくしておりました。太鼓を打つ子どもが交代しますと名前が紹介されます。
 午後8時から自治会員全戸に配られた籤の抽選会。抽選の前に市長が櫓の上に立ち、挨拶とご自分の取り組んだ仕事の成果を話しました。皆さんの目は抽選をする各自治会長に行っているように見えます。風が読めないようですが、このように大勢を前にするとどうしても話たくなるのは分かりますね。でもちょっと長いですね。昨年はもっと場が読めていませんでしたね。大雨の合間でしたから。
 今年はともかく晴れ。良かったです。

              公認のような露天商

              盆踊り

              抽選会

              盆踊り

 籤は当たりませんでした。抽選会が終わりますと会場からサーと人が引いて行きます。広々とした櫓の周りでは残り時間を踊る人もおります。ハワイアンのクラブの方も見えていたのです。

今朝
 昨夜は賑やかな会場と夜店を明るくしていた提灯は午前8時には既に降ろされておりました。ゴミは昨夜の内に片づけられ、さっぱりとしております。何時もと変わらず出かける人が駅に向かっております。最後まで雨にならず、良い二日間でした。

              祭りは済んだ

 近所に娘や孫が住んでいなけらば老夫婦は見に行くことも無いかも知れませんね。籤だけに関心が向いていたりしてね。








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明日天気になーれ

 明日、明後日と我孫子ビレジの中央公園で夏祭りが開かれます。地域の各自治会が参加し、賑やかにイベントが繰り広げられます。

 孫たちはお天気を気にしております。実行する自治会の方々はあれこれと忙しく動き回っております。商店街の通路には冷蔵庫が並び、明日の出動をまっております。
 今日の天気は変わりやすく安定しない一日でした。明日と次の日、何とか晴れて欲しいものです。

 午後買い物があり、外に出ましたら、会場の最後の仕上げに男性方が汗を流しております。自治会の環境部会の方々です。小雨の中道路や花壇を綺麗にしております。
 毎年子どもの山車の先頭で声を掛け張り切っている、顔見知りの方にカメラを向けましたら、体を起して下さいました。
 
            001夏祭り

            004夏祭り

            夏祭り005

            006夏祭り

            夏祭り010

            夏祭り011

            012夏祭り

            018夏祭り

            020夏祭り

 夕方買い物に行くので廊下に出て下を眺めますと良い感じです。木立の間に点々と灯りが見え、明日のさんざめきもこの中から聞こえてくることでしょう。

 天気情報では何とか大丈夫そうです。北九州や中国地方に豪雨がもたらされておりますので、やはり心配をしてしまいます。

 
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時代を感じます

 1959年1月。私は明治大学に学生相談室を開設するに当たり和泉校舎に異動しました。
 1955年当たりから日本の大学は学生へのサービスが必要だと考えるようになってきました。所謂当時の言葉で「学生厚生補導」SPSと言われる分野です。
 奨学金・アルバイトや住まいの斡旋・課外活動への援助・学寮の管理などなど。最も新しいこととして学生相談が話題になりました。
 その頃戦後の混乱期から脱出出来ない部分があったのでしょうか。社会的に学生が非難される事件もかなり起こっていました。
 大学学生部はそういった事件を未然に防ぐには相談する場が必要だと判断。討議の末1959年4月から先ず和泉校舎に学生相談室を開設しました。

 議論と折衝と設置願いの提出、企画や人事の問題、それらに伴い理解を求め学内を回り、様々なことを克服し開設は出来ましたものの、設備はお粗末お金もありません。無いないずくめでしたが、関係者の意気込みは高揚しており、先生方は手当なしで熱心に相談を引き受けておりました。

 和泉校舎の北に古い木造建ての独立した家屋があり、そこを拠点として相談室は業務を始めました。入口に掛けられた看板は作業職の方が銅板で作って下さいました。

               相談室の玄関

 業務は大変でしたが仕事の内容には満足できることが多く、学生の為になるという充実感で日を送っていました。
 ですが、50年前にはカウンセリングという言葉さえ社会的に知られていなく、徒に好奇心を持たれたり、また来談者の守秘義務を理解されなくて、その面での苦労は尽きませんでした。
 最初から必要だということだけで突き進んだということもあり、その後組織も整備されず、予算の獲得にも容易ならざる年月が続きました。
 
 相談室が30年目を迎えた時、記念誌を発行することが決まり、1990年3月末に上梓出来ました。
 既に私はこの発行を最後の仕事と考え、退職することを決めておりました。最後の数年間は予想もしていなかった内部の問題も起きていましたし、自分の企画する行事や調査に能力の限界も感じておりましたので、潔く辞めることが出来ました。

 今回大学から送られて来ました「明治」は学生相談室を取り上げ特集としております。

                季刊明治

 学生の悩みは精神衛生に関わる相談件数が増えていることが報告されております。
 学生相談室とは社会の変化がいち早く問題として現われてくる場所です。私の勤務していた頃もそうでした。報道機関が大きく取り上げるときには既に相談室に持ち込まれていることも多く、私はそのことを常に強調し、教授会にアッピールして欲しいと願っておりました。時代はそういう提案をまだ吸い上げてくれる体制にはなっておりませんでした。
 
 このように特集が組まれ、学生相談室が大きく存在を認められたということは、学生が学生生活に適応できる体制が進んだことの証明だと感じております。

 組織も責任も定まらず、もがき、苦しんだ時代は去り、こうして大きくなったことも時代の変化そのものでしょうね。

 学生相談室勤務を含め通算37年を学生と過ごしました。その間に知り合い出会った学生さんの中には今だに交流を持って下さっている方もあり、30日のワンコイン寄席にもお見えになって下さる方もおります。有難く嬉しく思っております。職業人として恵まれた37年でした。
 学生時代から計算し42年。多くの事件も体験、通過しました。今は学生と共に歩んだ時代に感謝しております。
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チャイナドレスは素敵だ 58

 NHK文化センターももう随分長くやって来たような気がします。新人もぼつぼつ入って来ております。
 昼の講座には二胡を習っている方が二人。舞台で着る為に熱心に作っております。
 
 夜の講座には高校生の可愛いお嬢さんが見えております。ご家族も応援していると聞きますと嬉しさも増します。ベテランの方も優しく見守って下さり和やかな一時となっております。

 ベテランの方は最近凝ったものに挑戦しております。勿論直裁ちの旗袍の方も確り作っております。

 和服の生地を使う試みは結構なことです。日本の風景、日本の色。そのことを念頭にいれて置きますと着続けることにも繋がることでしょう。息長く着てほしいと思う私にとっても嬉しいことです。生徒の積極的な姿勢は私の勉強にもなります。

              男性用

              染色から

              羽織から

 一番上の厚手のシルクは男物の上着です。少し痛んだ生地に刺子用の糸でところどころを補強しております。
 二番目は蛍をイメージし、自分で染めた生地を使い作っております。
 下の方は羽織を利用し、出来るだけ切らずにという考えで、仮縫いで襟付けを決めることにしました。

 和服の生地と同じ幅の物は中国でも使われておりました。アンティークの旗袍を手にしますとよく分かります。
 最近は私も姑の和服を上着として作り直し、楽しんでおります。幅を足し繋げる時にはミシンを使わず、手縫い。模様がづれないように注意しております。
 被服の授業が嫌いだった女学校。そこで習った接ぎはぎの手法が思いもかけず役に立ち、驚いております。

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昭和15年・青島

 恐らく70歳以上の方でないとこの昭和15年という年のことについては関心がないのではと思っております。
 昭和15年=紀元2600年=1940年です。
 その年、中国青島では紀元2600年ということで邦人がこぞって祝賀行事に参加しておりました。
 11月11日には旗行列も行われ、街の中を花バスを先頭にし、行進もしました。

 邦人を纏める仕事は在留邦人の居留民団が政府の下請けのようなことをしておりました。
 小学校もその傘下にあったということでしょうか。中村八大さんのお父様は第一小学校の校長から民団に移られました。

 この昭和15年に民団が募集をした童謡に青島羊会の塚本眸(旧姓大川)さんは民団賞を受けました。長く忘れていたそうですが、このたび青島の資料を集める作業に協力という呼びかけに思い出されたそうで貴重な写真を送って下さいました。歌詞も一緒に添えられております。

              青島童謡の詩
      
 歌詞もぜひ大きくしてご覧になって下さい。小学校3年生です。

             受賞記念写真

 塚本さんは振袖姿できちんと座っております。この写真では第二小学校の原田義三先生も後右に並んでおりますが、その他の方のお名前は分からないそうです。
 塚本さんの願いはこの写真の方がどなたなのかを何とか知るべき方法はないものかと手紙が添えられて来ました。
 この写真をご覧になった方でもし心当たりやご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひお教え下さいませ。
 
 この童謡は青島小唄のレコードの裏盤に収録されていたそうですが、小学校6年生の夏に帰国され、その後空襲で焼けてしまい、お手元にはないということです。
 塚本さんからはお父様が青島を去るに当たり記念に贈られたという青島の写真が100枚も収められたアルバムをお借りしました。おいおい掲載したいと思っております。

             2600年の人文字

 2600年を現わす人文字は第一小学校のグランドです。私はこの小学校に在学しました。
 青島羊会は青島の小学校五校の方が入っております。塚本さんは第二小学校。先にアモイのことを送って下さった武藤さんも第二小学校です。
 中村八大さんは第一から日本へ音楽留学、青島に戻り第二小学校、それから青島中学。

 民団というのはかなり強い権限を持っていたようです。




 

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鰻でなくマグロと行きましょ

 昨日は夏の土用、丑の日。鰻の宣伝が前々から目についておりました。
 一昨日深夜目が覚めますと、どうもおかしい感じがします。立ち上がろうとしましたら、強烈な目まいで体が動かせません。夫に声をかけ、薬を取って貰い飲みました。薬は先月軽い目まいを感じ医師に診て頂き、処方された物です。先生は特に何か大きな原因があるとは思えず、老人によく起きる目まいだと言われました。
 朝になり、目まいは収まりましたが、何だか横になっていたく一日中臥せっておりました。
 長女が夕食を用意してくれることになり、私を元気づけようと高島屋で鰻を買って来てくれました。
 このところ国産の鰻は高く、惣菜にはなかなか買えません。
 
 長女は鰻が好きです。先ごろ荷物持ちのお伴を頼んだ時チョッと足を延ばし駿河台下の寿々喜に寄り、ランチの鰻重をとりました。

                寿々喜のランチうな重
 
 美味しかったですね。私も随分久しぶりでした。

 で昨日ですが、朝起きましたら腰が痛く「これは大変一日寝ていただけなのに。寝たきりになったらどうなるのかしら」と大騒ぎし整体治療を受けに行きました。
 治療が終わり割合大きなスーパーの中を通りますと、鰻、鰻、鰻もう凄いのです。
 鰻ねー。昨日食べたしねー。と食指は動かず、帰宅しました。鰻は食べなくても夕食は用意しなければなりません。
 食欲は前日から余りなく、まー簡単な物を用意するか。と一階に行きました。
 そこに何と(TVでよく聞きますね。何とという言葉)小さいけれども本鮪のカマ。思わず手が出ました。お客さんが鰻に向かうからでしょうか。私の大好きな自棄になっているのではと思われる値段。
               
  極上のネギトロが出来ました。

                ネギトロ
 
 私はネギトロは買ったことがありません。店頭のは何が混ぜてあるのか分からないからです。
 昨日はマグロデーとして鰻に対抗できるような感じです。(でも双方業者は同じなんですね)
 ビンナガのサクもこれまた廉く、大きなのを2パック買いました。夏は味のしっかりとしたものが口に美味しく感じます。
 昨夜はさすがにこれ以上何かする気が起きなく、今朝早起きして生姜煮にしました。自画自賛。味も程よく、硬くなく、上々に出来上がりました。

                マグロの生姜煮

 今夜の酒の肴にしましょ。飲みたいというのは体調が戻って来ているからと良い方に解釈しております。




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予想が当たーり

 13日の赤坂サロンに行く前。チャイナドレスの仮縫いに遠くから見える方と霞ヶ関ビル35階の東海大学校友会館で落ち合いました。
 昼食はいつもと同じ私の★★★★★ランチ。

              ランチ
 
 これはレディースランチですが、女性でなくても食べられると思います。1600円でサラダ、デザート、飲み物も勿論セットになっております。
 左の魚の下にクスクスの寄せた物が敷かれてあります。初めて食べました。上に載せてある細ーい物は玉ねぎの揚げたものです。真似をしたくても無理ですね。香りがよく美味しくて何だか見当が付きませんでした。

 仮縫いは食事の前に済ませましたが、色と言い生地と言い実に素敵でご本人にピッタリ。同行の私の友人も驚いておりました。
 
 この13日は朝からの猛暑。それが食事中から空の様子が変って来ております。「ねー梅雨明けではない?」四方山話をしながら空を眺めておりました。
    だんだん雲が薄くなり、夏に近い色と深みを帯びて来ました。

              梅雨明け前の霞が関から

 サロンから帰宅しましたが、家の中は物凄い暑さです。夫は冷房に弱くこの日は体がおかしくなって仕舞い、空調を止めてあったのです。
 「ねー梅雨明けではないかしら」と我慢しながら言いました。
 14日の昼、仕事場から昼食のために家に戻りました。「梅雨明けだそうだよ」夫が言います。
 前日の予感と言いますか、予想が当たりました。宝くじのような凄いものでなくても、何だか当たると嬉しいものですね。

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サロンで音楽を

 オパール・ネットワークを主宰する佐橋慶女さんの処では奇数月にサロンが開かれ、高齢問題や健康問題などの他、時期にかなった話題も取り上げれております。男性を含め高齢者が多く、最近の集まりは時間を早めております。
 地下鉄千代田線の乃木坂で下車。乃木神社の近くに佐橋さん宅があります。50名ほどの集まりができます。以前に掲載しましたが、様々な馬のコレクションが集まる人を楽しませてくれます。
 広い洋間は50名ほどの集まりができます。洋間の下には他の施設もなく、音を出しても苦情は来ません。
 13日の月曜日はひさし振りにフルートとキーボードの演奏家をお呼びしました。会の世話人の一人、取手に住む吉澤文五郎さんのご近所の方です。
 
                取手のトリオ

 お二人を紹介する吉澤さんの優しい楽しい雰囲気。ユーモアがあります。フルートは鈴木祐子さん、キーボードは河上薫さん。吉澤さん「私を含めてトリオです」 河上さんはピアノの無い所にキーボードをお持ちになられるそうで、今回はキーボードを弾かれました。
 お二人はフルート・ピアノデュオアンサンブル UZUMAKI うずまきとして活躍されております。特にボランティアにも一所懸命。これからが楽しみです。

                演奏

 暑さは今年最高と言われ、参加者の方は汗を流してお見えになっております。冷房も効き始め演奏が始まりました。お二人はバッハがお好きだとか。曲は懐かしい曲も多く、和やかな雰囲気に包まれておりました。演奏はバッハの「フルートソナタロ短調より 2楽章、3楽章」へと進み、その後は皆さん馴染みの浜辺の歌、椰子の実、この道、ふるさと。4曲は全員で歌いました。男性の声がとてもよく聞こえ、驚きました。

 佐橋さんは40日ほど例年とおりドイツに出かけられます。9月のサロンではヨーロッパ事情が報告されることでしょう。楽しみです。

 オパール・ネットワークではニューズレターを偶数月に発行しております。私の住む我孫子ではこのニューズレターが欲しくて会員になっている方もおります。会は10年を超えておりますが、これまでにここに掲載された方は実に多岐に亘ります。佐橋さんの使命感と努力の賜物です。

                  ニューズレター
 
 7月30日は我孫子でワンコイン寄席を開催します。
  オパール・ネットワークのアイウエオ憲章の実践です。出来る時に出来ることをと、自然にさりげなく頑張ります。
 
 ア、明るく   イ、生き活きと  
 ウ、美しく   エ、笑顔で   
 オ、おもしろ、おかしく  カ、感謝の気持ち  
 キ、協力者のおかげ  
 ク、苦労を一つかってでる  ケ、健康で 
 コ、公共のために奉仕する

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風船大好き

 子どもは風船が大好き。ハラハラドキドキ膨らます。色とりどり中に夢一杯。我が家の孫とて例外ではありません。
 娘たちが幼なかった頃。長女の娘が幼かった頃。風船のセットや空気入れのポンプ等いろいろ買いましたね。
 行き先で風船を配っていますと孫に貰って来ます。
 元気が有り余っているような二女の一人娘。目下夢中になっているのは鉄棒。また学校の休みとなりますと、近辺のイベントを見つけては出かけております。それにしても今日は驚かされました。
 夕方現われ出でたるは!!!!!

               風船太郎の帽子

 鎌ヶ谷のアクロスモールという処で風船太郎という方のイベントで手にいれたと言います。
 「どうして貰えたの」「ショーのお手伝いをしたの」という事情。この日のイベントは5月頃に知り、待ちに待ったということでしょうか。朝一番に駆けつけ最前列に陣取ったそうです。
 私は知識がなく娘に言われ早速HPを探し風船太郎なる方を知りました。モテモテの大道芸人なのですね。予定を見ますと今年はもう行けるような場所でのイベントはありません。
 
 そう言えば今年の1月11日。我孫子市子育て支援センターのオープンイベントでPRINCOさんという方のバルーンショーも見に行きました。
 孫が作ったものが写してありました。矢張り風船は色が綺麗ですね。

               030風船大好き1月11日

 その前は今日と同じ鎌ヶ谷アクロスモールで風船の部屋で跳ねまわったことがありました。ばーばは写真を探しました。ありました。2年前のが。体が小さく、風船の中に沈みそうです。
               風船に囲まれ

 娘に聞きますと今日のご褒美は会場でたった一人が貰えたのだそうです。楽しい良い記念になりますね。

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居眠りばかりですが

 昨年4月から開講されたJTBカルチャーサロンの講座「十字軍とは何だったのか」
 講師は元明治大学教授の中島公子先生
 中東戦争や現在起きている世界の難しい問題の中でのイスラムのこと等、初歩的なことさえ分からないので何か少しでも学ぶことが出来ればと、毎月の第2金曜日に新宿まで出かけます。
 聞いているときには関係や流れが分かるのですが、次の講座の時には何だったのか忘れております。
 昼食を済ませて出かけますが、その所為ばかりではないでしょうね。四分の一位は目が細くなって来ます。一所懸命先生の方に目をやり、頑張りはするのですがいけませんね。知らぬ間に数分の空白時間が過ぎます。また一所懸命目を凝らし、テキストを眺め先生の方に顔を向けます。
 こうしているうちに講座は終わります。
 昨日は10月からの先行受付ということで、内容が書かれたチラシが渡されました。この内容が魅力です。困りました。こんな調子で続けるのは駄目ーと受講を諦めようとしていたのです。

 講座の後、毎回新宿駅まで先生と近況を話し合いながら歩きます。
 昨日は「どうしましょ。居眠りばかりしますしね」と本音も交えて話しました。「それでいいのよ」優しく答えて下さいました。「そうですねー堅琴でも書かれていますしね」と私はまた言います。
 ですが都会の喧騒と雑踏の中に月一回出掛けるのも悪くはないなーとも感じておりました。
 秋からのテーマは「十字軍と現代 第一次大戦を中心に」です。居眠り半分でも申し込みをしようかしら。
 先生が他の方と話をされている間、ビルの遠くを眺めながら思案しておりました。

              新宿センタービルから

 この風景を眺めるのもこれまた良いなーと思っておりました。

 また新宿駅に向かう時、中島先生の二女の京子さんがアイオワ大学に日本文化の講師として迎えれるということをお聞きしました。親としては嬉しくも寂しくなられることでしょう。二人の娘を持つ同士ですので心情を語り合うこともままあります。
 やはり続けることになるだろうと思いながら帰宅しました。
 
 エレベータを降りましたら狭い空間から見える西の空が私の目を引きつけております。何となく気持ちが落ち着き、次が決まったような気がしました。

              梅雨のなかの夕焼け
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長い胡瓜

 子どもの頃住んでいた中国青島の家には毎日、中国人が大きな車を曳いて野菜を売りに来ました。
白菜やニラなどのほか季節ものも積んできます。
 野菜は必ず消毒をしてから調理します。大きなスイカはアルコールで全体を拭き、それから切ります。
 胡瓜も茄子も長く、子ども心にも印象に残っております。と言いますのは日本に帰って来て目にした胡瓜も茄子も短く、ええ?何で?と疑問を感じたからです。
 昨日夕方長女から野菜を買いに行きませんかと、誘いがありました。道の駅かわくわく広場かと相談しわくわく広場にしました。
 
 そこに長い胡瓜が並んでいます。ニガウリではありませんとメッセージが添えられてあります。

                長い胡瓜

 どうも昔も見たような気もします。50年ほど前に流行ったこともあるようです。調べて見ましたら明治時代には既に日本に渡来してきた華北産のものだということです。
 名前は四葉という品種でスーヨーと呼ばれているそうです。如何にも中国です。
 今朝は柚子味噌をつけて食べました。程良い歯ごたえ、いけますね。

                柚子味噌をかけて

 子どもの頃から好奇心が強かったのでしょうね。八百屋さんが来ると必ず車の縁に体をかけて覗きこみます。棹秤の手つきで誤魔化しも分かります。母が品物を選んでいる間、私はおかしいと感じますと直ぐに駄目を出します。思い出しますね。
 ところがこの好奇心が時々仇になります。車に巣食った南京虫に咬まれるのです。今話題の床シラミです。もうかゆくてかゆくてたまりません。腕の赤い腫れは治るのに随分掛かります。それでも懲りもせずに傍に行きます。長い胡瓜は南京虫とセットの思い出です。
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廉いのか高いのか然るべき時に決断

 毎日の食事。昔のようにうまく段取りが出来なく、その日その日でぶっつけ本番の物もあれば、やたら保存食を作ってみたり、どうも一貫性がなくなっています。そういうことで一階のスーパーにも一日のうち2回は出かけます。 
 出かけるというような大袈裟なことではありませんが、とにかく廉くて良い物を買うという極めて単純な動機からです。
 ですが、もう一つ。私の満足する買い方は、珍しくも驚くほどの廉さの物ということがあります。特に魚介類です。
 例えば新鮮なアラ。誰も買いそうもない珍しい魚。店員さんが自棄になっているのではと思われるような値段の魚等々。

 昨日は「シッタカ」 知ったか?ではありません。巻き貝です。この貝、子どもの頃は「しただめ」「みやり」などと言っておりました。泳ぎに行った時に取って来て、夕方茹で遅いお八つとなります。買うということはごく最近のことです。
 買ったのです。ワンパックが300~400円の物が全部100円。七パックあります。未だ閉店するまでには早すぎます。ですがこれ以上廉くなるとは思えませんので、全部籠に入れました。決断は早い。700円。 早速茹でました。

              シッタカ全部

 四等分して内三個は冷凍室に保存。一つ分を夕食のつまみにしました。ところが身が痩せているのです。浜からの取りたてと違い、時間が経っていますからね。でもまーまーと自己満足して食べましたが。

 数日前これも叩き売りのような値段のイワシ。夕食の準備は済んでいましたが、時間が少しありましたので、眺めに行きました。廉くて買わずにいられません。先日の工事の際見つかったすり鉢も使いたいし、すり身にしてこれも冷凍室に収まりました。

 少し前はカワハギを買いました。既に閉店間際で皮は剥いで貰えず、これは自分で始末しましたが、嬉しくて夫に得意げに見せますが「ふーん なるほど」と言った程度の反応です。

             全部で1200円

 カメラに収めて置いて良かったでーす。陽の当たる場所?に出番がきました。
 最近は使う使わないは考えずに、先ず写して置きます。やることなすこと遅くなり、ぐずぐずになっていますが、デジカメにはすぐ手が伸びます。

 今日は日本が第二次大戦に突入するきっかけとなった7月7日。幼稚園生最後の夏でした。
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前回に合わせて

 昨日はアド街ック天国のことを喜んで書きましたが、断腸亭髭爺さまのコメントから随分長く続いている番組だと知りました。
 神田もどこかを中心にして、何回も登場していました。この画像をご覧ください。アド街ックに関係があるのです。

              新松玄関

              新松うなぎ

 あちこちとクリックして眺めました。千葉の館山の時の物が出ています。これは第14位の鰻屋です。「新松」と言います。
 1937年のこと、この新松で叔母は結婚式を挙げました。庭で記念写真を撮りました。どういう訳か多分母が身重だったのでしょう。私が父と一緒に並んでおります。
 七五三の祝いに着た着物を着ておりました。その写真は今は記憶だけの物となっています。両親が北京から引き揚げる際焼いて処分をしてしまいました。
 新松の近くに住んでいた叔母は北条小学校の1年生になった私を見ますと声を掛けたそうです。
 先生の道くさをしないようにという言葉を確りと守り、叔母の方を見向きもせずせっせと歩いて行ってしまったと、大人になってもよく言われ笑われました。
 新松はかなり古い店です。館山海軍航空隊盛んな頃は士官の出入りも多く、繁盛しておりました。
 当時店の前に生き鰻の泳ぐ池があり、たまに眺めに行きました。今はどうでしょうか。

             ストロバヤ

             ストロバヤのブラマンジェ

 この上の二枚の画像は何で登場させたかと言いますとお気に入りなのです。西浅草にある「ストロバヤ」の正面とデザートです。
 夫や私も勿論、友人達も大好きなデザートです。暑さに向かう時期は一層美味しく、口当たりもよく、香りも爽やか。お奨めします。 オーナーシェフは私の従弟です。
 
 上の「新松」の先代はこのストロバヤの父親の兄なのです。まさかこんな形でブログに載せることがあるとは、想像もしておりませんでした。
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何だか嬉しくなりました

 昨夜長女が「今夜アド街ックは神田よ」と言います。
 それはそれは見なければと夕食の後、片づけもそこそこにテレビに向かいました。
 土曜日は娘や孫が来ますので、テレビは滅多に見ません。昨夜は別ので見なさいと、夫と陣取り見ておりました。
 ランクの下の方から始まりますね。まー大体知っておりますね。それでも「へーこんな所知っていた?」ともなります。
 だんだん上位になって来ますと、さすが東京の古い街。殆ど知っております。
 上位10番以内の店は全部昔からの知った名前で、行きました。それでも定年後19年も経ちますと随分昔に行ったという感じです。
 それぞれの場所の特徴や、またその店のことも懐かしくあっと言う間に過ぎました。
 松山亮次郎先生や相談員の先生方と出かけた「みますや」の店内は綺麗になっています。もう長いこと傍にも行っておりませんので写真が撮ってありません。
 夫とあーだ、こーだと眺めながら話しておりました。最後の五位あたりになって来ました時私は「一番は明治大学かしら」と口走りました。「そんなことはないよ」と夫は言います。
 そうですね。記念館が無くなってしまいましたものね。
 
 で記念館や他の画像を載せます。これは番組のランクとは関係ある物、ない物。ただ私の保存してあった物です。

               記念館

               ランチョン

               すずらん通り

               文房堂

               ささま初夏の菓子

               まつや

               懐かしの喫茶店

               聖堂と明神

               柏水堂

 神田という地域は昔神田区と言った所を指します。今も神田~、神田~と千代田区の後に続きます。町の名前に歴史を感じるところです。今は日本の至るところに中央と名づけられた通りがありますがね。味もそっけもないという感じで魅力に欠けますね。
 神田は良いですね。武家屋敷はさすがに良い場所にあったものですね。

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肉餅を作る

 先週の中国語の授業で中国の小吃の一つ、肉餅を作ることになりました。

              黒板で見る
 左下の赤丸は良く練って伸ばした麺です。クレープ状で薄餅と言われる物です。小麦粉で出来ています。

 今日は実習と懇親会 
 材料  
1 豚肉赤身(2):三枚肉のような脂のあるところ(1)の割合の挽肉
2 小麦粉 薄力粉2:強力粉1を合わせる。
3 塩少々を加え、 お湯で練って寝せておく。
4 三辣と言われる 生姜・葱・にんにく
5 塩・醤油・胡椒・うま味調味料(今日は鶏精という中国のもの)
 
 作り方 
1 よく寝せて腰の強くなった小麦粉を丸く伸ばします。
2 4分の一の所に切れ目を入れます。
3 その伸ばした小麦粉の三方に煉った肉を薄く載せます。
4 順番に折って行きます。肉と小麦粉が交互に重なります。
5 180度くらいの温度で、薄く油をひいたプレートで、ゆっくりと焼きます。
6 出来上がったら切り、温かいうちの食べます。
7 小麦粉の皮は香ばしく、肉と良く合い、美味しく出来ました。

先ず老師は説明をしながら見本を作ります。
女性二人は実習をします。順に画像を載せましょう。

              肉餅1

              肉餅2

              肉餅3

              肉餅4

              肉餅5

              肉餅6

              肉餅7

 老師の麺をのばす手元を見ていますと、麺棒の使い方がコツの一つのようで、よーく眺めました。機会があったら絶対真似して作って見ます。




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健気に生きた少年の記録

 6月3日に畠山政七さんの私家版「凍土に耐えて 満蒙開拓少年義勇隊員の記」の上梓を記念し、また畠山さんを励ます会が開催される筈でした。
 5月下旬に呼びかけ人の方から連絡があり、ご本人が体調を崩され入院されたので延期をするということでした。
 延期の知らせと一緒にその本が送られて来ました。

                 畠山さんの著書

 私は満蒙開拓少年義勇隊という言葉は知っておりましたし、苦労をされたことは戦後になり何かにつけて知ることもありました。ですが細かい事実、隊員でなければ経験しなかった苦しみまでは知ることもなく、過ぎていました。

 この著書を手にし、少年義勇隊員の凄まじい生活。関東軍の満州での恥ずべき事実。戦後シベリヤでの捕虜として過ごした日々の悲惨な姿。初めて細部にわたる記述に胸が詰まりました。

 神宮外苑での学徒出陣の映像は毎年放映されますので、目にしておりましたが満蒙開拓少年義勇隊の壮行会のことはこの中で初めて拝見しました。

                渡満壮行会行進
 写真集 満蒙開拓青少年義勇軍」(家の光協会発行)から

 畠山さんが関東軍入営直前の写真も掲載されております。

               軍隊に入営

 この写真を目にした私は1953年の春から出会った畠山さんのお顔と表情を思い出しました。
 畠山さんは明治大学二部の学生でした。私が配置された職場は二部学生課。そこで多くの学生さんとの出会いがありました。
 二部の学生自治会の名前は「学苑会」その中でも雄弁部は活発な課外活動のクラブでした。その一人が畠山さんです。彼は物腰は丁寧ですが、芯の強そうな風に見えました。
 はっきりとは分かりませんでしたが、大学に入る前か、またどこかで理解できないような経験をされたのではないかという雰囲気を漂わせておりました。
 この手記を読み終わり、そうだったのか。これだったのか。と思いいたりました。

 挨拶文を読みますと書かずんばならないという覚悟のほどを感じました。

                挨拶の言葉

 日付は一年前の6月です。
 
 昨日の朝、畠山さんはお亡くなりになりました。 ご冥福をお祈り申し上げます。



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季節の花 山百合

 先ごろ所沢ゆり園の百合が見頃と新聞が紹介しておりました。
 梅雨にむせるように咲く百合の花。季節がくると思いだします。 
 子どもの頃、私が住んでいた房総半島の先端の町。白浜は女性が働き者で、海、畑、山と一年中まめに動きまわっておりました。
 初夏のこの頃、山百合が咲きます。母方の祖父母の家の北側にある、萱山には傍に行かなくても姿ははっきりとしませんが、点々と百合が眺められます。
 明けがた東から空がうっすらと白む頃となりますと、女性の出番です。2,3人で山に出かけ山百合を刈りとって来ます。

               山百合

 山百合は一輪の物が値打ちがあると聞かされました。山百合の花は毎年一輪ずつ増えて行くとも聞きました。
 上の山百合は何輪かしらと数えてみますが、5輪か6輪かはっきりとしません。千葉の市原と布良から風物や短歌を紹介している「和歌蘭さんぺい」さんのブログから房州に惹かれ、お借りしました。

 百合を取りに行った女性方は、山から戻り家族に朝食を食べさせ、花は納屋などに置いて時には畑に出かけ、また海に出掛けたりします。
 夕方早目に帰宅し、水分の切れた山百合の花を薄紙で大事に包みます。夕食の前に出荷する場所に届けます。
 その頃山百合は現金収入の一部でした。冬の水仙も道端に咲いている物を採り出荷しておりました。恐らく今は野生のような自然に伸びて咲くような花は商品としては価値がなくなっていましょう。
 
 花の需要も時代と共に変って来ましたが、花卉栽培は房総半島南部の産業として都会へ出荷、また花摘みなどで都会から人を呼んでいます。
 ご存知のようにストック、カーネーション、ポピー、金盞花と言った花は冬から春の物です。これも夏から種まき、移植など沢山手を掛けております。実に白浜の女性は働き者です。
 
 それでも今の季節の花。山百合を採りに行くことはしなくなっているのではと思っております。
 
 
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10年前のこと

 先ごろマンションの配管の工事があり、長女の所でもいろいろと片づけ、不要品の処分をしたようです。
 数日後私に「これ要るんじゃない?」と新聞の切り抜きを持って来ました。
 1999年6月25日の朝日新聞「家庭欄」からの物です。

 大見出しは「自由と可能性があった」明大女子寮 50年後の同窓会とう記事です。私もどこかにしまってある筈ですが。

                朝日新聞から

 この取材は有能な編集者でもあり、ファッションエディターでもあった愛甲照子(旧姓増見)さんからの情報だと思います。
 写真は1949年1月、寮の前で写したものです。
 私は写っておりませが、愛甲さんは二列目の右側から二人目。佐橋慶女さんとオパール・ネットワーク立ち上げに関わり、私も誘われ会員となっております。愛甲さんは若い時に大きな怪我をし大量の輸血によるC型肝炎が原因で数年前に亡くなりました。残念でなりません。
 
 女子寮の集まりは愛甲さんや松戸に住む方と計画し偶には開いておりましたが、この時はこれを最後にしましょうと呼びかけました。
 1945年から1955年までに在寮した方、約30名の出席がありました。

 私は1998年3月31日に発行された『紫紺の歴程 大学史紀要 第2号に明大女子寮ー開設の頃の思い出ー』という随想を寄稿しましたが、書くために40年振りに女子寮を訪ねました。寮の建物はもともと粗末な物でしたが、私たちの頃よりも一層酷くなっており、そのことをこの会の席で皆さんにお知らせしました。会の解散後吉祥寺に向かい寮を見に行かれた方もおりました。大学は間もなくこの寮を解体しました。

                解体前の女子寮
 
(明治大学資料編纂室提供)

 戦後間もないこの頃、学生は住む所を求め、転々とすることもよく聞く話でした。この女子寮は木造モルタルの二階建て、部屋は狭く今の学生生活と比べて見ると想像を超えていると思います。
 寮には食堂は無く自炊です。まず燃料の確保から始まります。炭は親元から送って貰いますが、火付けようの物が有りません。
 吉祥寺駅北口から五日市街道を東に歩くのですが、道に落ちている枯れ枝や細かい板などを拾って来ます。一人が火を熾しますと、それを火種にしてコンロで食事を作ります。物がありませんから同じ部屋に住む寮生でも、別々に作ります。
 それでも誰かに食べ物が届くと分け合いもし、時には誰かの部屋に集まり、宴会となります。
 冬の寒さは応えます。暖房設備などありませんし、まだ石油ストーブなども市中に出ておりません。櫓炬燵で暖を取ります。井戸は外井戸。手押しポンプで水を汲み、部屋に持って行きます。30名ほどの寮生全員が使います。日曜日には洗濯するのも順番待ち。タライと洗濯板での手洗いです。
 お風呂は西荻窪の東京女子大の近くまで歩き銭湯です。

 ですが「解放区のような自由さがあり」皆さん意気に燃えておりましたね。切り抜きを改めて読み、若き日々が懐かしく思い出されます。全員75歳を過ぎましたが元気な方が多く、頼もしく思っております。

 このページを書いておりましたら偶然にも、以前松戸に住み一緒にこの同窓会を準備した方から電話が入りました。最近は身辺の不要な物を整理、処分をしているということで、出てきた女子寮の古い名簿から一度も会っていない方に電話したところ、元気に過ごされているということで知らせて下さったということです。
 「今10年前の集まりのことを書いているのよ。後でご覧になってね」となりました。
 暫らくは寮生の消息を語り合い、良い時間を過ごしました。
 思えばこの方は寮に入るまで、ご飯を炊いたこともなっかことで苦労をしておりました。

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プロフィール

相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日85歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになりそうです。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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