2009-08

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チャイナドレスは素敵だ 59

 8月は盆休みがあるので、チャイナドレスの講座は第4週の一回だけです。
 高校生のお嬢さんは殆ど仕上げる段階まで頑張って来ました。襟を付ければ出来上がります。
 可愛い赤いチャイナドレスは少女ならではの色です。出来上がるのが楽しみです。
 
 この一か月の間に自分の着るものだけでなく、ご主人のも仕上げて頑張った方もおります。
 
 私の講座に見える方はどちらかと言えば、中年の方が中心で少し高齢の方がおります。地味ですがさりげなく着られるような物に心が向いているようです。これは私の望むところです。
 最近は街で見る普通のファッションでもパンツとの組み合わせが多く、受講生の方もそういった流行も上手に取り入れております。

              印花布のブラウス

              綿素材の上着

                仮縫い

 ベテランの方は応用自在に作れるようになっております。上段のブラウスは簡単な裁断で、ボタンを使わず、頭から被れるように出来ております。
 中段のは以前普通丈で作りましたが、今回は残り布で上着として仕上げて来ました。
 下段は無地の藍染。飽きの来ないチャイナドレスと言えましょう。
 チャイナドレスは着たいけれど何処に着て行けば良いのかしら。とよく耳にします。それは多分派手な光る物をイメージしているからでしょう。
 私が何時も口にするのは、街着のチャイナドレスこそ作り甲斐があるということです。基本を身につけますとパーティドレスもウェディングドレスも作ることが出来ます。
 二胡を習っている受講生の方は今回から演奏会の舞台用のドレスに取り掛かります。講座に見えてから二枚目ですので、何とか間に合わせて上げたいと思っております。上手に生地を選んで来ました。

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カレーの嵐が家にやって来た

 我が家のカレーは何時からか長女の担当ということになっています。
 凝り性の長女は市販のルーを使いますが、いろいろなメーカーの物を合わせ、それに玉葱と生姜をタップリ。それをよーく炒めトマトピューレなども加え、大蒜も少し入れます。肉も選び本当に腕によりをかけてという位です。どうも本人は分量に基準があるらしく、これでもかと言うほど大量に作ります。
 夜に食べ、翌日の昼のカレーうどん。それでも食べきれず老夫婦は勿体ないと食べます。
 
 先日そのカレーの味が変わるという話になりました。長女の娘が嵐というグループのファンだとは知っておりました。その嵐がディズニーシーに来るということで、その為と分かりました。
 そのスポンサーと言いますか、当日は貸し切りになり、抽選に当たった人しか入れないということです。
 ハウスカレーの箱に付いているバーコードを応募用紙に貼り、申し込むのです。
 長女は娘の希望を叶えてやりたいという親心でハウスカレーを沢山買いました。知りあいの方も娘のことを知り、バーコードを下さったそうです。

              ハウスカレー

 数日前その応募券にバーコードを貼り、切手を貼ることになりました。見てびっくり。応募券が沢山あります。スーパーに置かれていた応募券はすぐに無くなり、あるのを見たらすぐ手に入れないと駄目だそうです。親子で頑張ったことでしょう。
 貼るのを我が家に来て始めました。なんと夫は切手貼りに協力しているのです。外から戻った私はもう呆れるやら可笑しいやらで笑ってしまいました。
 先日の中国服の授業の時にそんな話をしましたら、生徒もよくしっており、かなり皆さんも協力しているようです。助手の方はお嬢さんの友達の為に10箱買いバーコードを差し上げたそうです。また助手の方の話によりますとハウス食品の株が上がったそうです。
 夫はこれは何時まで続くのかねー。高校を卒業すれば止むのかねーと言いますが、嵐が去っても次には雷でも雹でも出てくるかも知れませんね。
 逞しいと言いますか、ちゃっかりと言いますか、バーコードがオークションに出ているとか、真偽のほどは知りませんが、若者の買うカレールー。凄いものですね。
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軍艦に乗ったて?

 1940年代中国青島の小学校での生活はいろいろな体験をしました。
 同級生の西村唯雄さんは色が黒く、私も色黒でしたので仲間意識がありました。そんな西村さんと戦後随分経ってから会うことが出来ました。
 全く少年時代と変わっていなく、一目で「西村さんだ」と分かりました。

             少年西村君

 昔話の中で、彼が軍艦に乗ったと言いますので、どんなことで乗れたのかと聞きました。知りたがり屋の相子老婆を刺激します。聞かずにいられません。
 どんなことでと聞きました。そんな私の元に先ごろそのことを知らせて呉れました。

     『旧日本海軍巡洋艦(足柄)青島停泊と私
 昭和14年秋、空母赤城を含む足柄、駆逐艦、他艦艇数隻が海軍桟橋沖合いに停泊、青島を休養訪問。足柄には叔父が海軍士官として乗船しており、青島総領事館に務めていた父を訪ねて来ました。お互い再会を喜んでいました。足柄は南支那海から東支那海に至る海域の安全を保つための作戦行動中で、一時休養のため日本海軍根拠地のある青島を訪問したのでした。
 海軍桟橋のある太平路の沿道から沖合に停泊中の艦船が威風堂々見える様は素晴らしいと子ども心を躍らせたものでした。

            現在の桟橋

 足柄には九州、四国出身の乗組員が大勢乗船しているとのことでした。
 父は叔父と同郷の士官も一緒に黄台路の自宅に招待しました。母は腕をふるって鹿児島の郷土料理を作ってもてなしました。毎日艦内食ばかりの二人にとっては大変な喜びだったのでしょう。
 鹿児島弁丸出し、郷里の話や艦内勤務の話やらで賑やかに話し合い、気分よく帰艦しました。
 
 翌日午前、私達家族は叔父に招待され海軍桟橋で落ち合い、足柄備え付けの内火艇(ランチ)で足柄に向かいました。
 足柄に着きタラップを上がり、門舷を入ると番兵から銃の捧げつつで出迎えられ吃驚しました。叔父が士官だったためで、私たちにではなかたのです。それは子ども心にも嬉しく、叔父を見直したものでした。
 広い場所には魚雷が数本並べられており初めて魚雷の実物を見ました。
 
            足柄艦上で叔父と

 足柄の中は絨毯が敷かれ、士官食堂のような部屋に案内されました。昨夜の士官も我々を迎えて呉れました。艦のことやら四方山話をしているうちに昼食となりました。
 出て来たのはナイフとフォークで食べるという立派なホテル並みの洋食。士官たちと一緒です。しかも給仕(当番兵)付き。その時「絶対海軍士官になるぞ」と決心したものでした。
 食後デッキに出てその広く長いのに驚きながら見学しました。
 父の話によりますと一般の人で足柄を訪問出来たのは私たちだけだったと聞きました。
 貴重な経験をしたことになりました。戦後叔父も無事に復員。再会を果たしました。


 西村さんは叔父さまが海軍士官ということで、本当にご本人の言葉通りの貴重な体験をされたのですね。
 真面目な西村さんの姿は「青島満帆」のなかで西村唯雄の「海外体験記」として記されております。漁業に携わり世界を船で回った西村さんの報告。ぜひご覧ください。

 足柄は戦中沈没したそうですが、同型の「那智」の写真も送って下さいました。

             1等巡洋艦那智

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そうかしら?

 難聴だと言いますと「耳の遠い人は長生きだと言うから長生きするわよ」と良く言われす。
 
 数年前に突発性難聴に罹り、治療を受けたことは受けましたが、耳の中や周囲の感覚が戻った程度です。最初は自分で耳の中を触っても全く感覚がなく、どうなることやらと心配が募りました。
 治療後は少し良くなっていますが、聞こえないために失敗もかなりあります。
 耳は治るということはまず無理なようで諦めております。今はまーまー気持も落ち着き生活も普通に過ごしております。

 思うに今は「耳の遠い人は長生きする」のではなく「長生きしているから耳が遠い」のではと感じております。
 先日老人施設に面会に行きました。静かで清潔な施設です。それでもお世話をする方は大きな声を出すのでしょう。会いに行った方も耳が殆ど聞こえなく、耳に口を近づけ大きな声で喋りました。
 廊下にでて見ますと近くの部屋のドアに大きな字で書かれた紙が貼られております。
 何かとてもユーモアを感じ、眺めました。

      耳は普通に聞こえます。大きな声で話さないでください
    
 多分ここで働く方は高齢者が対象ですから自然に大きな声を出すのでしょう。
 「私は聞こえますよ」と自己主張をしているのですね。
 これはいいことですね。普通に聞こえるのに大きな声で話されると不愉快に思うかも知れませんね。はっきりとしていて良いことですね。

 講座を聴きに行く時などは講師の方の言葉が聞き取れないと困りますので、簡単な集音の機器を使っております。ところがこれもなかなか難しいことで、音の周波と言いますか、音の高低や方向や距離やらで聞こえ方が変って来ます。
 自分が使い始めた所為でしょうか、このような器具の広告は結構多いものですね。不思議に目に付くのです。
 高齢社会になると眼科や耳鼻科も忙しくなることでしょうね。相子は自分が老婆のくせにそんなことを思うのです。
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古い写真から

 子どものころ中国の青島でたまに見た中国人の葬列は忘れられません。恐らく目にしたのは大通りを列を組み通る葬列ですので、有産階級の家のものだったと思います。

                葬列

 この写真は中国青島の大通りを進む葬列です。人数も相当多く立派な列です。
 私が鮮明に覚えている葬列は先頭に何台ものマーチョ(馬に引かせる乗り物)が行きます。そのマーチョの上には泣き女と言われていた、女性が白い着衣で座っております。
 一台に二人が左右に座り頭を下に向け、体を倒し泣き続けます。涙と鼻水が一緒になって長ーい、長ーい氷柱のように流れが下へと落ちております。
 よくもそんなに泣けるものかと呆れるほどですが、これは葬儀に際し雇われて泣く為の女性なのです。
 時には2台も3台も続いていることもあります。
 喪主は葬列の先頭より前に行き、打頭し葬列に向かって頭を下げて待ちます。(私は知りませんでしたが、母によりますと喪主の額には小さな草鞋のようなものが付けられており、土が直接額に付かないようになっていたそうです)
 立派な葬列になりますと輿も立派で楽隊が先導します。あるとき眺めていましたら奏でる音楽が「君が代行進曲」だったのには驚きました。子供なりに敵国の音楽はおかしいと思ったことです。

 中国で孫文と清朝打倒のために戦った蔡鍔(サイガク)の葬儀は中華民国での最初の国葬として執り行われました。葬列が上海の街を進む画像を見ますと堂々と行進しております。流石に立派なものです。
 蔡鍔将軍は私の中国語の老師夫人の祖父です。墓地も立派です。

              蔡鍔葬列

 子どものころ青島の郊外にあった湛山寺に叔母たちと遊びに行きました。家から遠いので弁当を持ちマーチョで行きました。 
 寺の南側だったと記憶しておりますが土饅頭の墓地が沢山見られました。あの日は風が少し強かったのかも知れません。
 土饅頭の上にあの世に持たせる黄色の紙の紙幣。紙幣もどきと言っていいのでしょうか。何枚も重ねられその上に石が置かれております。その紙が風に吹かれ縁がまくれてひらひらとしております。
 
 数年前、青島満帆さんのブログに立派な印刷もされたあの紙幣が掲載されていました。
 中国も豊かになったからでしょう。カラフルです。その中にも黄色の無地の紙も見られます。あれです。昔見た墓地の紙幣にそっくりです。

             仏前に供える紙幣

 確かこの紙幣をどう呼ぶのかは授業で教えて頂いた筈です。忘れてしまっています。今度老師に伺ってみまーす。
 
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熊田千佳慕の絵

 滅多に行くことのない浅草松屋。1999年5月のある日、松屋の地下の総菜売場は庶民的ですので、友人と二人して眺めに寄りました。
 「熊田千佳慕の世界展」が開催されていましたので、会場に行きました。朝日新聞社が主催した会場には数えきれない程の絵が掛けられています。
 どの絵も精密、動植物の姿が生き生きと表現されております。友人と二人して溜息をつきつき会場を回りました。驚くべき筆致に常人ならぬ姿を感じたことです。
 その方が会場にお見えになって、図録にサインをされております。私たちも並び待ちました。

               図録表紙

 私たちにサインをして下さったところでその日は終了しました。サインは優しく綺麗で繊細です。
 図録は何回めくっても初めて見たような発見があります。
 また「オリジナルアートカード」が特別付録として添えられておりました。

            ほたるぶくろ

               はがきに

 二人はサインを頂き浮き浮きとなり、良かったわねと何回も繰り返し感動を共にしました。
 はがきとして使うことが出来るカードはもったいなくて使えません。

 先ごろ「プチファーブル・熊田千佳慕展」が銀座の松屋で開かれると知り、時間がなく行かれないので、図録を出して眺めておりました。
 展覧会は8月12日に開幕されたのですが、熊田さんご本人が13日に亡くなられたとの訃報に接し、大変驚きました。
 享年98 ご冥福をお祈りするばかりです。
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作ってみたいなー

 先日買った押しずし用の箱を富山の瀬戸さんに送りました。
 少し前に手持ちの箱に合わせて重石をお願いしましたら、大変理にかなった返事を頂き、考え直すことになりました。私の逸る気持ちは作りやすい物を買う方に向きました。重石はリンクしてあります瀬戸さんのブログで紹介されていました。

             特注の重石

 この重石を使い、確りとした押しずしを作るということです。瀬戸さんの押しずしの美味しそうなこと、どうしても挑戦したくてたまりません。
 そこで箱を送りそれに合わせて重石を頼んで頂くことにしました。
 瀬戸さんから詳しい返事を頂きました。

 以下は返事です。「前文は省略」
 さて、箱です。
 幅がありますので一回り大き目を用意しようかと思います。
 そうすると転倒の恐れも減るのではと思われます。
 ただし、大きくなると重すぎて持ち上げるのが大変ですから
 薄めの石を2枚にしつらえようかと思います。
 お値段は一枚分でやってもらえると思います。

 もうひとつ大事な仕事があるのを忘れておりました。
 箱本体を送ってもらって大正解でした。
 寿司職人は水に漬けて充分湿らせて使用しますからもつんでしょうが、
 私はカットする時に切りやすい事を優先していますのでサランラップでくるんで仕込みます。
 そうしますと箱が濡れているとくっつきすぎてやりにくいので濡らしません。
 後始末も楽ですしね。

 ただ、この箱は「指物」でホゾを噛み合わせて組んでありますので(釘無し)
 乾燥が進み、さらにそこへ持って来て重しという「圧力」をかけるものですから、
 わずか1ヶ月でばらけてしまうのです。

 それで、竹串を竹釘の代わりにして補強しました。
 これで乾燥したまま使用しても何年でも大丈夫なものになっています。
 画像を添付しておきます。
 古いのは十年前に処理をした箱です。
 新しいのは今春、プロ用を買って
 -丈夫な作りだから、心配いらないー
 と言われて処理をしなかったらひと月で分解して(しかも朝の仕込み中に)
 大急ぎで処理したものです。

 もし、持永様が乾燥タイプで御使用されるのでしたらこの処理を施しておきます。
 新品に穴を開ける必要がありますので許可をいただけたらすぐに行います。
 新品で施すとずっとキレイな仕上がりにできます。

 でも、「濡らして仕事をするから必要はありません」ということでしたら
 そのままにしておきます。
 いかがでしょうか? お返事をお待ちします。

 
 もちろんプロの方の説明ですから、よーく分かりました。竹串を刺して頂きたいと返事をしました。
 説明からいろいろなことを学びました。
            
            押しずしの箱

            押しずしの箱

 送られて来ました画像を見ますと一層はっきりと分かります。誠実、慎重、丁寧な方です。
 このセットが手元に来ましたら、何をどう組み合わせて押しずしを作ろうかと夢が膨らみます。
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一枚の写真から

 先ごろ開催された青島羊会懇親会にわざわざ尼崎からお見えになられた中島道子さん。
 第二次大戦中の中国で青島日本高等女学校を卒業された方です。
 中島さんがお持ち下さった写真はキチンと整理されており、特に小学校の卒業アルバムからの写真は学年も学校も違いますから今まで拝見したことがなく、立派なもので感激しました。
 女学校同期の方との青島訪問の写真も説明が付けられておりますので、そのままスキャンでき、資料に出来ますので、これも有難いことです。
 
 女学校や小学校の仲間との写真以外にご家族と一緒のもの、お友達との写真もお持ち下さいました。数日前PCに取り込むために内容を確かめておりました。
 ページをめくるうちに一枚の写真を見た私は瞬間ハッとし、よく眺めました。私を可愛がってくださった恵美子ちゃん「眞田恵美子」と書かれた名前があるのです。何度も確かめました。
 この写真には安西篤子さんも写っております。中島さんと女学校の同級生だったのです。
 恵美子ちゃんの消息を知りたいと、中島さんに電話をしますと妹さんと仲良しで、今も交流が続いていると教えて下さいました。そして二日後、恵美子ちゃんの住所と電話を伝える電話を下さいました。
 昨日の朝のことです。

             誕生日に集まった中島さんたち

             誕生会出席者

 私はパニックに近いような感情に襲われました。すぐに恵美子ちゃんに電話をしました。電話が繋がるまで「恵美子ちゃん、恵美子ちゃん」と言い続け、恵美子ちゃんが「覚えているわよ。忘れる筈はないわよ」と答えて下さったら、もう涙が溢れて来ました。
 青島の斉東路11号の家。信号山の中腹にあるその家。恵美子ちゃんは一階に住み、私は二階に住んでおりました。そう長い期間ではありませんが、日本から行き初めて住んだ所です。

             戦後の信号山の中腹の家

 私より二年上の恵美子ちゃんはとても優しく、それに綺麗でお姉さんのように私を可愛がって下さいました。信号山は当時坂の入口に有刺鉄線の張られた柵があり、頂上には軍の施設があり一般の人の入らない場所でした。
 山には花が咲きおままごとをしたり、遠足気分で歩き回ったりも出来ました。カソリック教会の鐘の音も聞こえてきます。夢のような放課後の毎日が続きました。

 私が帰国し、1945年の敗戦後、両親は北京で帰国を待っておりました。勿論私も何時親が帰国するのか、毎日毎日を不安の中で過ごしておりました。送金も途絶えております。親がいませんので自分の身の回りのことも全て自分で考えしなければなりません。一緒に帰国していた妹の面倒も見なければなりません。心細い日々でした。

 日本が負けたその年の冬。西風の強い日でした。「あなたを探している人が館山の駅にいるわよ」と誰かが伝えてくれました。親がいませんので冬になっても夏服を着ていて寒さに堪えていましたので、その日の寒さが強く印象に残っております。
 館山の駅に行きますと恵美子ちゃんのご両親が立っています。私を尋ね何時間も駅に立っていたことでしょう。
 もう嬉しくて飛び上がる気分とはこういうことでしょう。ご両親は「お父さんもお母さんも無事でいるので必ず帰ってくるから」と励まして下さいました。
 そのことを恵美子ちゃんに話しながら私は声がつまり涙が止まりません。
 信号山の家に住むようになった理由は昨日、恵美子ちゃんとの話で初めて知りました。
 恵美子ちゃんのお父様は千葉県人。父が青島に赴任してきた時大変喜び、家に住みませんかと声をかけて下さったのだそうです。
 その家は立派でしたので、どうして其処に住むようなことになったのか、長く不思議に思っていたことでした。
 恵美子ちゃん一家は千葉県富浦に引き揚げて来ました。ご両親は恐らく安房高女に進学したはずだと思われたのでしょう。それで尋ね探し会いに来て下さったのです。

 昨日は青島から一時帰国されている方と羊会の会員の方と私と三人で資料のことで会うことになっておりました。食事をしながら青島の昔、今を語り合いました。
 会う前に恵美子ちゃんと電話をしたことを話す私は押さえてと思いながらも涙声になってしまいます。
 皆さんから預かった写真を一枚一枚誰よりも先に目にする私。厳しい作業ですが有難いことと改めて思い至っております。 
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羽田に人力車登場

 昨夜羽田空港にANAによるサービスの一つとして人力車が登場したというニュースを見ました。
今朝にはもう消えておりましたので、検索しますとありました。各社が報道しております。
 画像はどれも同じです。レスポンスの提供です。
       
        勝手ですが私も使わせて頂きます。

           羽田空港に登場

 見出しは「前代未聞!空港搭乗ゲートまで人力車で」となっております。一番に乗ったのは小学生だったそうです。これから利用する方が増えるのでしょうか。出で立ちを見ますと何だか恥ずかしくてねー。私は今の中は多分乗らないと思います。

 鎌倉には毎年一度行きますが、あそこの駅の前にも人力車が待っております。出で立ちはショーがかってはおりませんね。ですが坂の多い鎌倉の人力車はさぞ大変なことと思います。

          鎌倉の人力車
 
 以前掲載しましたが浅草の雷門前にも若者がお客を待っております。画像は岡崎さんと言う方です。足がしっかりと感じます。

          浅草の人力車

 先日来中国青島の写真を整理しておりましたら、もうわくわくするような一枚にぶつかりました。
 私たちが呼んでいた「ヤンチョ」=洋車=人力車
 日常乗っておりました。このヤンチョを見ますと人力車とどことなく違います。
 先ず一人乗りです。引き棹が長いですね。青島も坂の多い街ですが、車夫はこの棹を握る手の位置を変えて颯爽と走ります。

           ヤンチョ

 青島の街の角々には客待ちのヤンチョが何台もおりました。門の外に出て「ヤンチョー」と声を上げますと、我先に駆けつけて来ます。
 私がお使いに行く時のおじさんは決まっていました。母が前もって頼んであったのでしょう。
 この写真を見ますと、鍛えられた体と脚力が見事に現われておりますね。
 こういう人力車に乗りたいですね。
 我が家は駅からタクシーの初乗りの料金の場所です。仮にこのような人力車が半値位でしたら、絶対利用したいですね。


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請うご来場

 明治大学マンドリン俱楽部の演奏会 
 舞台の幕が上がると三大校歌と言われる「明治大学校歌」の演奏が始まります。何回聞いたことでしょう。力強い校歌を聞いておりますと胸の中で走馬灯がらせん状に早回りし、風景が次々に目に浮かびます。
 何方かが言って下さいましたが、私の皮膚はどこを切っても紫紺の血が出てくると。
 何だか恥ずかしいような嬉しい言葉です。恐らくよぼよぼのお婆さんになってもこの心は変わらないと思います。
 その私が校友会我孫子地域支部のお手伝いをするのは当然のことと思っております。

 来る10月4日。明治大学マンドリン俱楽部の演奏会が柏で開かれます。 
    会場  柏市民文化会館ホール  午後2時 開演
              
              マンクラパンフレット

今回の演奏会は明治大学校友会柏地域支部と我孫子地域支部との共催 
 
マンドリン俱楽部を立ち上げた古賀政男先生の指揮する演奏は何回も聞くことが出来ました。
 大学祭の時、旧記念館での演奏。覗きに行きますと、将に立錐の余地がなく熱気にあふれておりました。私は後から背一杯体を伸ばし聞き入りました。
 記念館の舞台に立つ小さかった松島トモ子や美空ひばり。可愛くて思い出します。

 マンクラの演奏会では古賀メロディーは必ず演奏され、この曲を聴きたいという方が沢山お見えになって下さいます。若い人の持つエネルギーが舞台から出て来ます。
 柏市民文化会館は大勢の方の入場をお願いしなければなりません。我孫子地域支部の幹事の末席に座る私も頑張ってチケットを買って頂きたいと思っております。

 どうぞお誘い合わせ演奏会にお出かけ下さいませ。 
 
チケット販売場所  

柏駅東口 スカイプラザ地下一階  浅野書店
柏高島屋友の会
我孫子駅南口 けやきプラザ 一階  福祉ショップぽらら
湖北駅南口  東京事務器
我孫子駅売店  弥生軒
取手駅西口    取手とうきゅう総合サービスセンター
 

 勿論 私の手元にもございます。 ご近所の方は直接私にお申しつけ下さいませ。
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負けるということ

 1945年8月15日。今日はこの日から64年目の8月15日。
 あの日は朝から晴天。多くの方がお天気のことを語り、綴っております。
 正午に天皇の言葉が放送されるということで、大人たちが総攻撃だろうとか、これから一層頑張れというのかとか、話しておりました。部落の方が我が家に集まって来ました。
 正午になり、放送が始まりました。天皇の声は聞きとりにくく、はっきりとしません。難しい言葉の羅列ですから分かりようもないほどです。
 天皇の放送が終わりますとポツダム宣言を受諾と説明がありました。
 あー負けたのだ。無条件降伏だとすぐ理解しました。
 
 数日前にB29から撒かれた伝単でポツダム宣言を知っていたからです。それ以前もハワイ放送を毎晩11時になると聞いており、日本の負けて行く様子が分かっておりました。またポツダム宣言の内容も放送されておりました。
 恐らくあの放送は日本近海に近づいていた米国の艦船から発信されていたのではと思います。
 祖父は私がラジオを聴くのを怒っており信用するなと言っておりました。
 
 毎年8月15日に向け、戦中の様々な状況や分析がTVや新聞で知らされます。
 複雑な心境になることは当然ですが、やはり戦争をすべきではなかったと思うのも繰り返すことです。
 
 あの日、放送が終わると、眺める空は紺青に深く高く澄みわたり、自分の周囲から全く音が消え真空状態の中に放り込まれたような感じでした。
 大人たちも放心状態になっております。ですが負けたからと泣いた方はいなかったように記憶しております。

 霞が関ビルに行きますと皇居方面もよく眺めます。僅かな時間に過ぎませんが、必ず戦争で亡くなった方、悲惨な生活を強いられた方、戦火の及んだ場所、引き揚げでの苦難、戦争責任についてなどに思いが及びます。

            09年8月11日の皇居

 平和な今と言ってもいいのでしょが、衆議院総選挙を前にして、難しい問題が多く、投票をどうするか悩んでおります。
 
 今日の空は晴れておりますが、あの日程の快晴ではありません。

            09年8月15日の空
 
 放送が済みまだ部落の人が集まっている処に、町に駐留している部隊の兵隊が食料を受け取りに来ました。兵隊は敗戦を知らず、そこで聞き何も持たず急いで帰りました。
 軍は自ら食糧も調達できない。そういうのが戦争末期の軍隊でした。街で見かける兵隊の軍装はお粗末。
 私の町が艦砲射撃を受けても飛行機は射撃が済んでから一機が飛来したのみでした。

 両親はあの日中国の北京におりました。翌日電報が届きました。「無事でいる」ということでしたが、その後は何時帰国するのか全く分からず、辛い日が続きました。翌年の2月引き揚げて来ましたが、下の妹は乞食のように汚れており、哀れな姿で私の前に現れました。
 

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これが欲しかったの

 台所の改装があり、ガス台も変わりました。業者の掃除が楽だという言葉に、掃除大嫌いな私はもうこれと決めました。
 ところがところがガス台の五徳が気に入りません。特に中華鍋を使うのには安定感がありません。
 先ずこれを何とかしなければ中華鍋を安心して使えません。ということでジョイフル本田という店に出かけました。
 この店に行きますと業務用から一般家庭用の物まで様々な品物が溢れかえって並んでおります。
 中華五徳を買う目的でしたが、思い出したのが厚焼き卵用のフライパン。それにかっぱ橋で買うつもりだった押しずしの箱。探しましたらありました。
 買って来ますとすぐ使いたくなるのは人並み。
 2階の100円ショップで焼き網を買ってきました。これは干し海苔を焼くためです。直火では強過ぎますので、金網を置きます。ところが五徳が低く先日は失敗しました。今度は大丈夫だと信じております。
 
              網焼きに

 弱火の直火で焼くにはこの五徳はとても良いですね。最近のガス台は精巧にに出来ているようで、ガス中毒にならないよう、一定の弱火にしかできません。これは私には大変困るのです。
 先日オパール・ネットワーク我孫子支部の調理実習で教えて頂いた厚焼き卵も早速作って見ました。指導が良いのです。美味しく出来ました。これにも五徳が活躍(まーそれほど大袈裟なことではありませんンが)
 弱火の遠火。安定感全て良しです。

              厚焼き卵
 
(写真で焼き色が強くてびっくり。ちょっと言い訳) 
 
 ヒノキの押しずしの箱とまな板も買って来ました。押しずしの方は富山の瀬戸さんに重石をお願いしました。楽しみです。重石は請うご期待。
 まな板、これも新しい台所になってから困っていたことの一つです。難聴の耳に衝撃音が強くて困っていましたが、厚い板なら少しは優しくなるのではと、思ったことでした。

 新しくなって良かったこと。困ってしまったこと。いろいろ起きますね。30年以上も使っていた慣れと別れて変われるのはまだ時間がかかりそうです。
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励まし合う

 女学校を後にして既に61年が経ちました。私の出た後更に高校に進み卒業した方でも母校を離れて63年。
 毎年の夏の一夜、東海大学校友会館に集まります。今年から皆さんの希望で昼のランチブフェ(1500円)に変更しました。
 年々申しこんでくる方が減って来ており、11日は9名。ところが直前に二人の方が不参加。一人の方は体調不良。ところがもう一人の方の理由 
 気分が悪くなり吐き気が起き、吐き終って気が付きましたら入れ歯が無くなっていたそうです。すぐ歯医者に行き会に間に合うよう作って欲しいと頼んだそうですが、無理だと言われ、やむなく欠席。
 全員高齢者(四捨五入で80歳)全く思いもかけないことにぶつかり、困ることが起きるものです。
 
 足の不自由な方がお見えになりました。過ってはポパイのオリーブと言われていたのですが、今はいささか体重が重そうです。
 渋谷からバスに乗って来たと言いますので、理由を聞きました。霞が関ビルの前の停留所で降りることが出来るということです。なるほど出来るだけ階段を避けることですね。
 出掛ける時に使うカートを持って来ました。このカートは品物を入れるだけではなく、自分の脇で並走する事が出来る。時々休むには背面の椅子を出し利用することもできるそうです。所謂優れもの。

 興味は皆さん同じ。よーく見せて貰いました。

              カート

              椅子を出したカート

 集まると昔話は勿論繰り返し。たまに告白話の出ること(それも大したことではない)もありますが、夫や家族の話は忘れられております。
 今の自分の興味やこれからの生活のあり方など。お互いの話すことが参考になり、健康に関しては特に詳しい話題もでてきます。
 ブフェは2時間ですが「恐れ入りますが」の言葉に慌てて場をレストランけやきに移し、またしばらくお喋り、笑い、さらに改めてデザートを頼み、時間が過ぎて行きます。
 台風9号がそれたのか35階から眺める東京湾のはるか遠く東に房総半島が認められます。

           房総半島遠望

 またひとしきり田舎の話も繰り返し、名残を惜しみつつ解散しました。
 夫や家族と話すことと違い、共有の思い出。共通の過ごした時間。そして労わり合い励まし合う。
  このような時間は誰もが笑い。素直でおおらか。きっと健康で過ごすことの栄養剤ともなりましょう。
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初めて行く

 近くの場所でもあり、有名でもあるのにそこに行ったことが無いという街。
 葛飾柴又。寅さんのTVは見たことがあり、いつの間にかイメージが出来ておりました。

 先日明大スキー部の部長さんから「暑気払いは如何ですか」とお誘いを頂きました。
 「結構です」と返事を致しましたら「葛飾柴又は」とまた連絡を頂戴しました。
 そう言えば今まで行ったことがないわーとばかり「行ったことがありませんので、喜んで」と言うことで出かけました。

 幸い台風9号もかなたへと避けて行って、暑くても出かけるには良い日となりました。
 11時50分に柴又駅改札で落ち合いました。
 何かで見たことのある寅さんの姿。ほーと傍に立ち写真を一枚。

             寅さんと

 「散策を先になさいますか、食事を先になさいますか」どうしてこう丁寧なのでしょうか。恐縮してしまいます。
 「今でしたら空いていましょ」と先に食事を摂ることになりました。
 そこは「ゑびす家」という店です。
 
            ゑびす家

 先生は埼玉県からお見えになるので、わざわざ遠くから?と不思議に思っておりました。
 店内に入ってから事情が分かりました。その店の主はこの店の9代目。明大スキー部でアルペンの選手だった方でした。

 先生はうなぎをご馳走して下さいました。さっぱりとした味です。昨日の昼は女学校の仲間とランチブフェ。 食べられるかなと一瞬思いましたが、スーと胃に収まりました。

            うなぎ
            (これはパンフレットから)

 ゑびす家さんは天明年間に創業されたそうですので、220年ほど前となりましょうか。老舗ですね。
表から見る建物は大正13年に建て替えられたそうです。店内の様子はその頃もこのようであったのではという感じです。

            飾らない素朴な店内

 先生が奥に行きしばらく経ちましたら当主の斉藤太治さんがお見えになり、名刺交換。
 数分言葉を交し、パンフレットを頂きました。拝見しますと二階に宴席が持てるような立派な座敷があることが分かりました。折角頂いたパンフレットですので紹介して置きましょう。

            パンフレット

食事を済ませ帝釈天に詣で、周辺を散策。

            柴又帝釈天

 参道には懐かしいものが数々並んでおります。「へー!へー!」とついつい口から出てしまいます。
ここはうなぎくさ団子が名物らしく、到る所で店頭に並んでおります。
 手にとって見たいものも沢山ありますが、買わないのに触るのは失礼ですので、極力目を近づけ眺めて来ました。
 
 電車は京成金町駅が終点で、折り返しは二駅先の高砂までと知り、びっくりしました。柴又駅は向かい合っているホームの幅が何でこんなに違うのか、駅員に聞きたかった位です。
 先生は日暮里から京成電鉄の成田行きに乗られ、高砂駅で乗り換えお見えになりました。
 
 今日は面白く楽しい数時間を送って来ました。


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降参です

 二女の娘は小学校一年生。目下の関心は虫取り、鉄棒の逆上がり。普通の子どもと少々違っています。最近の遊びに太鼓叩きが入って来ました。
 先日の朝、母親が用足しで少しの時間見に来ていてと言いますので、行きました。
 孫は太鼓の達人というゲームに熱中しております。以前にも書きましたが、これも熱中症の一つです。 
 このゲームはスクリーンの画面に表れてくる標的に合わせて太鼓を打ちます。
 「ばーばやってみて」「だめだめ出来ないよ」「易しいのにして上げるから」
 それじゃーと撥をとりレベルの易しい音楽を選び打ってみました。
 
ーらの鎮守の ーみさまの 
きょ
ーはめでたい ーまつり日。 
どんどんヒャララ どんヒャララ 
どんどんヒャララ どんヒャララ 
あーさから聞こえる ふーえ太鼓
 
 右から流れて来る標的に音楽のアクセントを合わせて打ちます。それが本当に難しく、打つタイミングが合いません。やっと48点。

               太鼓の達人

 孫は「じゃー見ていて、難しいのをやってみるから」と打ち始めます。乱打をするのも手さばきが見事です。何回打っても90点以上は行きます。私は何回打っても50点は越えません。

 最近は外遊びが忙しく、カードや百人一首は少し遠のいておりますが、これもまたばーばは値打ちを下げています。
 神経衰弱。目の前のカードも裏返すともうすぐ忘れてしまいます。
 百人一首は殆どやっておりませんでしたから、元々不得意。孫は夫に教えて貰い、かなり覚えて来ましたので、札が減って来ますと独断場。
 鉄棒は懸垂も出来ませんでしたから論外のこと。
 職業適性検査にあった目と手の共応も今や全く駄目。反応が遅いなんて言うレベルではありません。反応出来ないのです。
 毎度ばーばは降参です。
 
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新中国話題

 NHK文化センター柏教室の中国語講座を受講しておりますが、最近の2回は中国の新しい社会現象について話が進みました。

               中国語講座

 日経に掲載された記事から始まったのは最近の中国の若者の姿。勿論全部を指すわけではありませんが、引き籠りや親の脛をかじり仕事に就かない若者のことです。
 豊かになったからと言えばそうかも知れませんが、従来の中国の習慣や思考に変化が起きているのでしょう。
 
 昨日は中国の新聞からの社会事情です。北京では年間、洗車のために使う水が増えてきているそうです。
 2006年には昆明湖一杯分だったものが2009年には12杯分にも達するといことです。
 ご存知の通り、昆明湖は清朝時代に作られた人工湖です。その掘った土を盛り上げたのが万寿山。
 頤和園は有一(万寿)山一(昆明)湖 と言われ西太后が好んで使っていた場所です。
 北京の車は350万輌にもなっており、洗車に使う水は大変な量となっているそうです。
 先買車、后買房(住居)という時代になっているそうです。老北京人の老師には嘆かわしく映るようです。

              8月8日の中国語
 
 時代の変化を伝える老師は時々北京に行き、授業で私たちに新しい中国の姿を見せて下さいます。
 話は新事情を切っ掛けとして関連する事柄へと進みます。
 昨日は昨年北京五輪の開催された日でしたので、その時に向けて市政府が進めたマナーはどうなったのかと質問をしました。引き続き注意をし対策を講じているようです。
 世相の変化は興味を引きます。へーとか本当なの?とか老師にすぐ訊きます。半分は楽しんでしまいます。でもこういう講座ですから続けられるのだと思います。

 先ごろ肉餅の中身に入れたうま味調味料を頂きました。

                鶏精

 これはこれで中国の主婦の台所事情が分かります。今一番の人気のうま味調味料だそうです。
 「奥さまは楽」商標が良いですね。
 昔は中国の家庭では母親が料理が下手だと子どもも下手だと聞いておりましたが、これがあれば大丈夫。
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晴れもあれば曇りもある

 衆議院総選挙の公示が迫ってきました。
 まー選挙と自分の集まりとは関係はありませんが、霞ヶ関ビルから眺めた昨日の国会議事堂や総理総理官邸は空模様のせいかはっきりと見えました。
 このビルに行きますと必ずと言っても良いほど眺めます。

             国会議事堂

             総理官邸

 9月には誰が議事堂に登院し、総理の椅子には誰が座るのでしょうか。

 話をしていますと空は晴れるかと思えば、おや?曇って来たのかしら? また晴れてきたわよ!と目まぐるしく変わります。
 数時間の間に変る変る空模様。何だか政治の様子も今の時期の天気のように次々変って行きますね。晴かと喜んでいても曇りが迫って来たりして政治家は落ち着きませんでしょうね。神経が図太くタフでないと務まらない世界ですね。

 ビルの東側には東京湾が見えます。冬は遠く房総半島を望むこともあります。昨日は食事中に東京タワーが綺麗に見えました。

             東京タワー

 ランチは何時も通りレディースランチ。魚も肉もという女性に人気です。

             今日のレディースランチ

 帰宅途中、街を走るのは昨日も見た立候補予定者といわれている方の車。ご本人が一所懸命に呼びかけております。
 買い物を済ませ、外に出ましたら物凄い雨。道路に叩きつけるような激しさです。
 
 行く道は山あり、谷あり。また晴れも曇りもあり、はたまた嵐にも出会います。人生も社会もすべてこういうことなのでしょうね。
 


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蘇州は黄色?

 夫と一緒に見るTV番組の一つ。月曜日の午後10時から始まるBS4(日テレ)の「こころの歌」
 歌は必ず日本語で歌われます。全部懐かしい歌ですし、流れる風景に心が癒されます。
 
             蘇州夜曲

 蘇州夜曲。この曲を聴きましたら黄色い衣装に蘇州の寒山寺の壁を思い出しました。今まで気が付きませんでしたが偶然です。
 
            寒山寺

 蘇州の街は運河が有名です。運河のほとりの建物にもまた黄色の壁が見られました。

           黄色の壁

 歌詞の最後は「鐘が鳴ります 寒山寺」です。私も夫も鐘楼に昇り鐘をつきました。値段は何だか高いなーと思ったような記憶です。

           鐘を搗く

 見るところ鐘つき棒は傷んでいるようです。ようではなく傷んでいたのです。順番を待つ人が大勢おります。打つのはほんの1分ほどでしょうか。アッという間に終わりました。

 この番組は好きでずーと前から見ておりました。出演しているのはフォレスタという男性と女性のグループです。
 たまたまチャイナドレスの生徒の河合香都子さんから話があり、女性4人のチャイナドレスを一緒に製作し着て頂くことになりました。
 
 今回、歌と場所との色が合うことを発見しまた嬉しく眺めております。
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古橋広之進さんご逝去

 古橋広之進さんの突然の訃報に驚き、なぜか胸が締め付けられうな感じがしました。
 1947年に400m自由形で未公認とはいえ世界新をマーク。よく年にはロンドン五輪の金メダルを凌ぐ世界新記録を打ち立て、以来世界新記録を世界に示し「フジヤマのトビウオ」と呼ばれ戦後の日本人の励みともなりました。
 亡くなられてからのTVで知る様々な故人の姿に改めて感動させられました。

                 古橋さんの記録

  (講談社 日録20世紀 1947年版表紙)

 1947年、この年千葉県中等学校水泳大会が戦後初めて安房高女のプールで開催されました。
 水泳部の私たちは館山で合宿をしていた立教大学の水泳部の学生さんから指導を受けることができました。
 立教大学のキャプテンは太田光雄さん。自由形で当時の水泳事情を知る方には知られた方でした。
 1948年に上京しますと日立明三大学水泳対抗試合があることを知り、女学校の仲間と神宮プールに応援に行きました。
 応援するのは立教大学の太田さんをはじめ指導をして下さった学生さんです。
 私は本来母校の応援をすべきでしたが、そんなことなど頭になく太田さんを一所懸命に応援しました。
 日大は勿論古橋さんの出場です。橋爪四郎さんという背の高い方もおりました。古橋さんがスタート台に立ちますと、立教も明治もどこかに行ってしまい、夢中で古橋さんに声援を送りました。
 大器といいいますか立派な感じを受けましたね。
 古橋さんは大同毛織という会社。太田さんは勝村建設という会社とそれぞれ就職されました。
 女学校で水泳をしたことからこのお二人のことは何時もどこかで気になって過ぎておりました。
 古橋さんがいる会社ということで夫のスーツを買うときには「ミリオンテックス」を好んで選びました。
 日経の人事欄で太田さんの名前はすぐ目につきました。
 
 学生時代の古橋さんの泳ぐ姿を知っている方は今ではそう多くないことと思います。私の忘れ得ぬ一つの大きな思い出です。
 長く日本の水泳だけでなくスポーツの世界に貢献された古橋さんのご逝去に悲しみを覚え、ご冥福をお祈りしております。
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二枚の写真

 中国青島の昔。日本人の住んでいた昔。その時代、時代の資料を集めようという趣旨に賛同した、青島羊会の会員の依頼を受けて、協力をしております。
 同学年の皆さんからお借りした写真の整理はなかなか捗りませんが、一枚一枚自分の目で確かめながらスキャンしております。
 戦時下の敵国でだった青島での旗行列の写真には驚きを覚え、写真の示す旗行列は何の時の物か、また場所はどこかと、羊会のメル友に問い合わせておりました。その写真は次の物です。

              旗行列その1

 なかなか特定できずにおりました。青島在住の日本人女性にもお願いしてありました。
 写真に不自然な線が入っております。この線は一体何だろうと意味が分からず、不思議に思っておりました。
 青島居留民団が1940年(昭和15年・紀元2600年)に童謡を募集しました。
 入賞をされた塚本さんから届けられたアルバム。そこに同じ写真が載っていました。

             旗行列その2

 この写真を見て分かりました。二枚の写真は同じですね、ですが一枚目のものと二枚目のものとは少し違います。
 一枚目の写真の持ち主に何処で手に入れたのか、それは何時のことかとお聞きしましたが、誰から頂いたものかも、何時の物かも分からないという返事です。貴重な写真ですので大事保管されて下さいと申し上げました。
 一枚目の線で仕切られた中の部分が二枚目となっております。大きさを変えたということの意味は分かりません。
 旗行列は1938年(昭和13年)10月25日の漢口陥落を祝う日本人の姿です。
 街は山東路と言う青島の繁華街です。
 当時日本は連戦連勝という言葉に躍り、内地(日本をそう呼んでいました)と同じように青島でも日本人は占領下の街を我がもの顔で旗行列などをしていたのですね。
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オージービーフのワイン煮

 最近は肉と言えばほんの少々。ダシ程度の食べ方しかしなくなり、すき焼きなども特に意気込んで食べると言うようなこととは既に遠ざかっております。ステーキも一切れか二切れです。半分などとても無理です。
 
 先日スーパーで薄切りのオージービーフが大盛になっていて、その安さに足が釘付けになって暫く眺めていました。これってどうにか食べる方法はないものかと考え、そうだワイン煮にしてみようと買って来ました。
 
 肉は細切りにし、根生姜の千切りを山ほど用意。
 佃煮を作るときの底の浅い鍋に、多めの砂糖。気分的に少なめの醤油。赤ワインをたっぷり。そこに水を足し、材料と同量位にして、火にかけます。
 強火にして煮汁が全体に泡立って来ましたら、材料の肉と生姜を入れます。
 材料を入れて再度煮立って来ましたら、灰汁とりシートを被せ、弱火にします。灰汁がものすごく出ますので、途中でシートを交換し、煮詰めて行きます。
 
 最後に水分がなくなっても油が少し残ります。それをキッチンペーパーで吸い取らせて取り除きます。
 出来上がったワイン煮が家族に好評です。

              ワイン煮

 かなり多めに出来ましたので、富山の瀬戸さんの三色丼を参考にしてみました。
 これがまた結構行けましてね。美味しかったのです。
 素人の料理ですが、安心を目指す私なりにいろいろと挑戦しては楽しんでおります。
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虹だ!嬉しい

 7月27日午後6時25分頃。ベランダに出た孫「ばーば虹、虹早く早く出て出て」と声を上げました。顔を向けますと虹です。すぐ出て孫と並び見ました。見上げるというのではなく、顔を前に出すと言う感じです。
 ベランダは東に向いております。その前に大きな大きな半円。ああー、デジカメでは全体は写せません。それで南方向と北方向のを何枚も写しました。

              南方向の虹

           北方向の虹

 このような大きい、また自分が真ん中のような処に立ち眺める虹は初めてです。最近は滅多に虹に出会えません。わくわくします。
 孫は写メールで友達に知らせております。すぐに孫にも次々虹の写真が入って来ます。誰もが興奮しているようです。
 マンションのあちこちから人がベランダに出て来ます。皆さんの様子は虹に顔が向いています。

 北方向の虹は中央学院大学の上に弧を描き、二重になって来ました。「ほらほら二重だよ」
 二重になって表れた虹。色の出方が反対になっています。
 昨日お会いした気象に詳しい先生に教えて頂きました。光の屈折が場所により違うためで、もう一本出れば、また反対の物が出てくるのだそうです。面白いですね。

 虹が何本も見えたことがあります。それはアマゾン川クルーズの時です。遠くに雨が降っているのが分かります。そこに虹が架かっております。何本も見えて感動しました。写真を探しましたが写したものがありません。「ねーアマゾンの虹写さなかったのかしら」「俺はビデオだったろ。カメラはあんたじゃないか」 そうでした。私はきっと見とれていて写すのを忘れていたのでしょう。
 アルバムを眺めていましたらイグアスの滝に虹が現れておりました。イグアスの滝では至るところで虹を見ることが出来ました。
 
            イグアスの滝で

 良い眺めは僅かな時間で終わりました。でも虹を眺めますと明日は良いことがありそうな気分になります。夢を誘うのでしょうね。

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プロフィール

相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日85歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになりそうです。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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