2009-10

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ブログの縁

 相子のブログで紹介した二人の方と目白駅で落ち合いました。キーワードは「中国」
 それぞれが何かしらのことで中国に関心と興味があります。
 先ごろかなり長時間お喋りをしましたが、更に続きをとなりました。
 場所は男性の方が提供して下さると言うことで、女性二人は食べ物を下げて行きました。

            食卓を囲んで
    (マグロのヤマかけとあさりの味噌汁は彼が用意して呉れました)
 
 集まりは中国の縁ですのに、長く付き合ってきたような気分で打ち解けた話になって行きました。
 高齢に伴う問題も次々出てきました。
 すっかり笑ってしまったのは女性の言葉を借りれば「若気の至り」実に面白かったですね。あまりにおかしく、私は思わず「それを短編にして書いたら」と囃してしまいました。
 若気の至りと言い、その後の人生は勧善説になってしまい、苦労をしたということですが、なかなか含蓄のある話でした。ともかく語りが上手で面白くてなりません。
 男性の住まいは凝ったマンション。家の中に階段があり私はメゾネットタイプかと思いました。ところがそれは屋上に上がる階段でした。上ってみますとまずサンルームとなり、外に出ますと広い屋上となっております。サンルームは暖かく冬の読書の場として申し分ないようです。
 午後1時に落ち合ってから時間はすでに5時近くになっておりました。彼が夕陽を眺めましょうと言いまして屋上に3人で並び、西の中野方向に落ちて行く太陽が沈むまで眺め続け、次回を楽しみに帰宅しました。

           落日を眺める
         (左に中野サンプラザが見えます)
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富山のかまぼこ

 富山で開催された全国校友大会の前夜祭と大会当日の懇親会に出ました。会場はそれぞれ違うホテルです。
 1300人もの方が集まった懇親会は大変な混雑ぶりでした。会場は大きなホールが廊下を挟み二部屋。どちらも参加者で芋を洗うような状態。主催者の気配りも限界がありましょう。
 
 テーブルに並んだ料理の中でひと際目立ったのは鯛の姿の蒲鉾。大きくて立派です。富山のお土産に頂く蒲鉾は美味しいこともありますが、なんでというほど不味いものもあります。
 食べものですから人それぞれの味覚があって当たり前ですが、どうも最近は本当に間違いなく自分で美味しく感じる物が少なくなって来ました。
 前夜祭にも大会当日の懇親会でもテーブルに並んだ鯛の姿の蒲鉾。もう独断と偏見の塊になってしまいました。「不味い」の一言、と言えましょうか。

             鯛の姿蒲鉾

 富山の蒲鉾は全国に知られております。小田原のは甘く、中国地方のは固く確りと。それぞれ特徴がありますが、富山のは細工蒲鉾が有名です。また板が使われておりません。
 過って頂いた蒲鉾には実に美味しいものがありました。不思議に思い少し調べてみました。
 
 不味くなった原因と思われるもの(あくまで私の推測です) 
 
 ① 富山湾の魚の漁獲量が減少し新鮮な魚の需給関係のアンバランスが起きていること
 ② ロシアから輸入されるスケソウダラのすり身が大量に使われていること。
   これは全国の生産者が利用しているのでは?
 ③ 消費量が減り、利潤を上げるための添加物が多くなって来ていること。
 ④ 地元での消費が減少していること。

 昔は祝い事の引き出物をはじめ蒲鉾は配り物として利用されていたそうですが、年々人気が落ちて来て個人の生産者が減り、殆んどが会社組織の業者の提供する物へとなって来ているようです。
 
             富山の蒲鉾

 引き出物の鯛ですが、大きさと重さで値段が決まるそうです。ですから例えば結婚披露の際のお土産に17㎝の蒲鉾を100個使いますと、蒲鉾だけで221万円にもなるそうです。
 合理的になって来ている時代には合わない物になっているのかも知れませんね。

            蒲鉾


            蒲鉾のサイズ


           細工蒲鉾

 細工蒲鉾は富山蒲鉾の特徴だそうですが少人数の家庭で頂くとどうなりましょうか。昔はどうだったのでしょうか。今は冷蔵庫もあり、また防腐剤の利用などもありましょうから、ある程度の長期保存は出来ると思いますね。
 昔を想像しますと縁起物ですから、帰宅しますと親類縁者や近所への配り物としてさっさと食べていたことと思います。保存の問題はそうなかったと思いますね。
 今はどこの家庭でも冷蔵庫があり、また保存の方法もいろいろと工夫がされていることなどを考えますと、やはり大量生産が可能な時代は物が不味くなる流れは変わらないのではと思ってしまいました。
  富山県は全国で高齢者との同居率が一番高く、可処分所得も多いそうですので、このように立派な蒲鉾でも家庭内で利用しきれるのかも知れませんね。
 
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忘れていた定額給付金

 久しぶりに知り合いの方に会いました。このところ体調に自信が無くなったと言うことで、外出も控えているそうです。
 暫らく立ち話をしました。私より10歳以上若い方ですが、医者選びのことでどうしたら良いかということ、笑う機会が少なくなっていること等、どうしても心身の現状に話が行きます。
 何気なく彼女の腕にかけられているバックに目が行きました。
 
             グッチのバック

 「素敵なグッチのバック。良いわね」
 「これね。定額給付金で買ったの。夫のも取り上げそれに少し足してね」
 「へー!高いでしょ」
 「7万円よ。でも大きくて軽くてビニールだから雨の時も平気だし」
 「それにしても綺麗ね。ヴィトンって大抵の服に合わないし、あれはカジュアルで若者向きだわね。それに比べて持ち易く良いでしょ」
 「そうなの。でもこれ今まで誰も気がついて呉れなかったわ。初めてよ。褒めて貰って嬉しいわ」

 彼女の目も口も嬉しそうに笑っております。声も弾んできました。
 グッチと気がついて良かった。少しでも一緒に笑うことが出来て。

 ところで私はあれはどうしたかしら。どうしても思いつかないのです。家に戻りよーく考えてみました。なんと無粋なこと。
 「これあんたの分だよ」と世帯主から2万円は渡されていたのです。何に使ったのかは思い出しようもありません。多分数日の夕食代で消えたと思います。だからと言って特に今欲しいものはありませんしね。欲しいものは2万円では買えませんしね。結局まー良いかですかね。
 
 写真を確りと眺めましたら、漬物のケースが横後ろに見えます。こういう場所では品物と値段に目が行っても人のバックには気がつかないでしょうね。
 
 私は常に六本木で1000円で買った化繊の軽い小さなショルダーバックを肩から掛けております。時々ブラシを使い擦り洗いをし、都内へも柏のデパートへも、そして彼女と会ったスーパーへもそのバックです。

 
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チャイナドレスは素敵だ  60

 NHK文化センターの直裁ちの講座も長くなっています。受講する方も少しずつ変わって来ております。
 夜の講座は仕事を持っている方が殆んどで、遠くは八王子の橋本や千葉市からも見えており、皆さんが熱心です。
 その夜の講座に4月から高校3年生の可愛いお嬢さんが受講に来始めました。
 学校が終わってから見えますが、遅刻もしません。目的がはっきりとしております。まず子どもの時から、服飾の世界に進みたいと思っていたと言うことです。
 授業の初日「大学は服飾の方に進むつもりです。そのためにこのチャイナドレスも習っておきたいのです」
 皆さんが拍手で迎えました。
 希望は叶えて上げたいですね。9月に進学希望者の面接があり、その時に今までに何をしたかとか、何が出来るかとかを示すプレゼーテーションがあり、それまでに一枚作り上げたいということです。家族の方も大賛成で、NHKの手続きはお母さんが済ませていました。

 一枚目の袖なしのワンピース型は基本の基本です。早速それから始めました。
 自分の着るものを作るのは初めてということで針の動かし方、縫い方から勉強です。
 9月の初めまでに仕上げなければなりません。細かいことに拘ってはいられません。そこは次の作品に期待し何とか仕上げました。

 9月の最初の講座の日、インフルエンザで学級閉鎖ということで欠席。皆さんでどうなったか心配しておりました。10月になって無事に終了したことが分かり、皆さんと喜びました。
 出来あがってからのは見ておりませんでしたので、前回見せて貰いました。

             初めての作品

 駆け足で作りましたので、いろいろな足りないことが目につきます。ですがとにかく自分の為のオーダーメイドですよね。
 これからは本格的に時間を掛けて確りと作って行きましょうね。と励ましました。
 赤い水玉から色を変えて二枚目の袖付きに取りかかりました。

          二枚目の準備

 テキストを見ながら進みますが、彼女はノートに細かく、その都度記録を書きこみ、本気になって来ております。教室の皆さんが温かく見守って呉れていますので、頑張って行って欲しいと願っております。

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忍び寄る老い

 昨日は久しぶりに知り合いを見舞いました。徐々に体力も落ち、思考力の衰えは会っていても切なくなります。私よりも酷い難聴ですから本人も意思がなかなか伝わらず、イライラも募ることと思います。
 このところ友人、知人からの知らせにしばしば愕然とします。
 
 しっかり者で体操選手だった方が認知症になり、ご主人は目を離せないと話しているそうです。
 
 幼稚園からの仲好しで優しかった別の女性は夫を亡くなった兄と言って譲らず、ご主人は寂しいと話していると友人から電話が入りました。
 
 暫らく無沙汰をしていた友人は「COPD」と医師から宣告されたと心情を電話で伝えて来ました。海外への旅も数多く、五ヶ国語を使いこなし、無借金で経営を続け銀行から融資を勧められてきたほどの仕事をしてきました。COPDとは慢性閉塞性肺疾患という難しい名前です。

 集まりがありますと必ず足腰の衰えを訴える方が見えます。サポーターで保護したり、杖を使ったりというのは当たり前の話になっております。

 骨折はよく聞きます。友人との集まりには必ず出る言葉「転ばないことね。転んだら寝たきりになるわよ」以前は転んでもねん挫位で済みました。

 「明日は白内障の手術があり、日帰りですが行って来ます」という挨拶もチョクチョク聞きます。
 「もう二年も歯医者に通っているのに、相変わらずすっきりとしなの」とは一昨日会った方の言葉です。徐々に老いが進んで来ます。

 娘が「そんな話。怖くて怖くて。よく平気で話せるわね」と言います。怖くないとは言いませんが、若い時の怖さとは違います。どこか定められた道のりで当たり前のことと。

 近所の塀の傍に咲くバラが朝の光に映えております。晩秋に咲いている力強いこのバラにしばし見とれました。咲き誇っているかのような、満開の色鮮やかなバラ。盛りの過ぎた色のバラ。影が差し、終わりの近いことを知っているようなバラ。力が失せ、遠慮がちになっているようなバラ。後ろには枯れてしまったバラ。
 老いて行く姿を象徴しているような一株です。

           晩秋に映えるバラ

 私は立ち上がった時の姿が最近自分で分かります。背筋が伸びてなく老婆の腰つきです。よいしょよいしょが口癖です。
 首から上は人並み以上の老化状態かも知れません。すでに既往症となった網膜剥離、突発性難聴、治療中の歯。その他通院中の高血圧。忙しいですね。
 でも何とか気力を振り絞り頑張って行こうと思っております。
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干し藷

 我孫子市と取手市は利根川を挟み隣接しております。このあたりを指して「ちばらき」と言うこともあります。
 茨城県は甘藷の生産高が全国有数ですが、干し藷は全国1位だそうです。干し藷は年間を通じ八百屋やスーパーで見られますが、当然我孫子では茨城産のものばかりです。
 すでに店頭に新しいものもあるようですが、これからは本格的な出荷となることでしょう。

             干し藷

 若い時と違い、このままですと硬くて食べるのに骨がおれます。チョッと火にかざしますと柔らかくなり、食べ易くなります。
 
 子供の頃、秋が深まり落ち葉が風に舞い、枯れ葉の吹き溜まりが出来ますと、祖父がその落ち葉を焼き、さつま藷を放り込み焼いてくれました。枯れ葉が足りなくなりますと、火が弱くならないうちの他から集めて来て、上へ上へと積み上げます。程よく焼けたさつま藷。当時の藷は今のように甘くなく、ほくほくが嬉しいことでした。

 小学校の6年生の秋。そう今から44年も前になります。農家から供出された藷を刻み、干して軍隊に送るということになりました。
 家からマナ板と包丁を持ち、学校に行きました。藁茣蓙を校庭に敷き、生徒は座って生の藷を拍子切りにしました。
 木枯らしが吹いた日でした。子どもたちの手は荒れています。寒い風が校庭を吹き抜けて行きます。子ども達は寒さに耐え一所懸命に切りました。
 切り終わった藷はむしろの上に広げられ、乾燥させました。水分が抜けて白くなり、子どもの指位のようなその形は今でも思い出すことが出来ます。誰も懸命に切ったのでしょう。指を切ったという言葉は聞かれませんでしたね。
 不思議なことですが、その干した藷の行き先は全く耳に届いて来ませんでした。本当に軍隊に行ったのでしょうか。

 序で話ですが、戦後米は統制があり、勝手に移動することも運ぶことも禁止されていました。
 大学に入っても食糧難で入学式が済むとすぐ休みになる程の状況でした。
 上京する時に少しの米を荷物の間に入れて列車に乗ります。ほんの一升か二升です。
 列車には担ぎ屋というヤミ米を運ぶ人も乗っています。持っている米がどうなるかその日の運次第です。
 列車が房総西線の浜野とか姉ヶ崎とか(乗り換えや乗り継ぎのない駅)で停まりますと取り締まりの警官が乗り込んできます。米を持っている人は捕まり、没収されます。駅のホームから飛び下りる人もありました。
 学生は持っている量も少ないので見逃して呉れました。
 
 最近気がついたのです。あの米は一体どこに持って行き、どう処理されたのかしらと。
 干し藷もそうですが、追跡しようもありませんね。
 特に米については誰かが追及したと言う話は聞いたことがありません。警察官の家族はお腹一杯食べていたかも知れませんね。
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驚きの偶然

 一昨日の集まりからの帰り、霞が関駅から千代田線柏止まりの電車に乗りました。柏駅で下車、次に入線して来た車両に入って行きました。
 目の前の椅子に青島羊会の会員だった故川畑正夫さんの夫人博子さんが座っております。
 鈴木正威さんと旧知の方です。そして鈴木さんから「今日僕と会ったと博子さんに伝えて置いて下さい」と頼まれ、それからいくらも時間が経っていないのです。
 川畑正夫さんが亡くなられた後、鈴木さんは我孫子の川畑さん宅に弔問にお見えになり、私もその時に伺い回想のひと時を過ごしました。
 博子さんと正夫さんは一時サンパウロに住まわれ、帰国後私の住むマンションの別棟に越して来ました。
 ですから時々一階のスーパーで会うこともあり、立ち話をすることもあります。先ごろお会いした時に古い資料収集のことを話題にしましたら、自宅にあるアルバムを見せて下さると約束して下さっていました。
 電車の中でその日のことを搔い摘んで話し、早速アルバムをお借りすることになりました。
 昨日落ち合いアルバムと青島関係の冊子を見せて頂き、お借りして来ました。

 アルバムは一昨日の集まりに見えた方からお借りしたものと同じでした。
 ところが先にお借りした方のアルバムから分からなかったことが分かり、驚きました。
 まず表紙です。発行社名も分かりました。製作者の言葉も見られます。
 更に欠落していた一頁目。これも見ることが出来ました。
 奥付も見ることが出来ます。最後には持ち主と思われる方が贈り主への謝辞を込めた達筆な墨書の一枚が貼り付けられております。
 奥付も謝辞の和紙も皺になっております。ところどころに手を加え修理した後も見えます。思えばこのアルバムに込められた歴史を感ぜずにはいられません。
 このアルバムは川畑夫人博子さんの実家が青島での大きな商売をされていたという事情もあります。
 青島中学の同窓会「鳳雛会」の事務所は長い間神田錦町にあり、その中心になっていた方が博子さんの実兄でした。(鳳雛会は解散され、今は青島羊会の宮崎豊茂さんがお世話役をしております)
 川畑正夫さんと博子さんの二人が青島生まれということで、博子さんのお母様があなた方が持つのが一番ふさわしいからと下さったと言うことです。
 
 アルバムですが、先にお借りしたアルバムと同じ様な和服の布で補強されております。不思議なことです。何方かがこれをどこかで補強されたのではと思いました。
 同じ内容のアルバムですが、同じような補強。どこかで接点がありそうです。偶然とは言えない何かを感じるところです。
 先にお借りした方のアルバムは大勢の方にお貸ししているうちに一部分が欠落してしまったと残念がっております。

           アルバム表紙

           奥付

 アルバムの表紙の風景は薄い金属で出来ております。
 奥付を見ますと青島憲兵隊の検閲もされたと分かりました。発行年が分かり、以後の解説に役にたちます。(別の方からお借りした写真にも検閲済の判が押されたものがありました)
 
 なお博子さんに伺いましたが11月1日に鈴木さんとお会いになる予定だそうです。
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友ブラジルより来る

 中国青島で過ごしたのは僅かですが、多くの同学年の方との交流は細くなるより、むしろ絆が強まって来たような気がしております。
 青島には小学校が5校あり、その中で特に第一、第二、第三の方々との交流は老いてこそ嬉しく、時々のお喋りは時間を忘れさせます。
 数日前、ブラジルサンパウロに住む鈴木正威さん(旧姓峰村)が東京にお見えになると連絡を頂きました。
 早速数人の方に電話をしまして、昨日いつもながらの私の勝手で霞が関ビルでお会いしました。
 鈴木さんは何だか歳をどこかに置いてきたかのように、溌剌として現れました。
 私は知りませんでしたが、ガキ大将でそのガキぶりは大変なものだったと女性方が声を揃えて話します。
 なるほどと感じましたね。
 私は1994年9月に青島で、また1998年2月にサンパウロでお目にかかり、心温まるひと時を送って来ました。
 今回は青島から見えると言うことでした。先ごろ青島に戻られた足立吉弘さんも青島で彼と歓談の時間を持たれたそうです。
 

 鈴木さんの青島の家は「峰村御殿」と言われていたと聞きましたが、昨日の話によりますと昔庭だった所は今は黄海飯店となり、家は従業員の宿舎になっているそうです。

 そんなガキ大将だった彼はサンパウロに行きすでに50年が経ったそうです。現在は週に3回サンパウロ人文科学研究所に出かけ、そこの理事として文化活動をされているそうです。
 著書も何冊か出されておりますが、今回は「青島ノート ふるさとは近きにありて」というタイトルで記した冊子をお持ち下さいました。
 数年に亘る中国滞在の中での思い出、見聞、批評、中国人気質、旅行記などが含まれております。

            青島ノート

  お土産にはブラジルのPAU BRASILという木で作られたぺーパーナイフを頂きました。

            ペーパーナイフ

 昨日は「明日は九州に行くのですが、途中また小学校の仲間と会う手筈になっています」と楽しみにされて別れて行きました。11月半ばあたりまで日本の各地を回り、ブラジルにお帰りになるそうです。
 峰村御殿がホテルになっているそうですが、昨日お見えになった吉田睦子さんの旧居もホテルとなっているそうです。ピンクで纏められた綺麗なホテルです。

           吉田さん旧宅


 1994年9月青島華僑飯店でお会いしてから15年。あっという間に過ぎてしまったようですが、これからもPCも使い交流を続けて行きたいと思っております。

           青島華僑飯店で

 華僑飯店での4人。左は鈴木さん、右は足立さん、それに夫と私。懐かしい思い出の一枚です。




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料理を楽しむために

 オパール・ネットワーク我孫子支部の方針は「皆で楽しいことを」としております。夏にはワンコイン寄席を開催しました。会場が一杯になるほど皆さまが集まって下さいました。皆さんと一緒に楽しむ。これも方針の一つです。
 支部には料理の先生がおりますので、今年も「おもてなし料理」を教えて頂きました。
 昨年は元東京プリンスホテルのフランス料理の総料理長をされた佐藤秀一さんにも教えて頂きました。
 今年も佐藤さんにお願いして何か新しいお料理を教えて頂くことを準備しております。
 
 まず会場の確保から始まります。佐藤さんの日程を伺い、可能な日を選びます。会場の申し込みは開催日の2ヵ月前。10月、11月は確保出来ず、ようやく12月に決めることが出来ました。

 我孫子駅前に千葉県と我孫子市との共同で使える「けやきプラザ」と言う公共の施設があり、その8階に立派な調理室があります。
 設備も立派ですが、私の一番気に入っておりますのは、マナ板と包丁の収納箱です。しっかりと消毒されています。
 何だかそれを使うだけで腕が上がりそうな気分になります。

 昨年は佐藤さんの手さばきにも感心しましたが、まめに絶えず手を洗う姿勢にプロの厳しさを感じました。

           昨年の会での佐藤さん

 会場の申し込みは9階になります。
 毎日9時から9時15分の間に申し込みます。15分になり同じ会場の申し込みが複数あれば抽選になります。
 先日は全部抽選なしで決まりました。
 調理室の目の前には手賀沼が広く展開されて、調理の合間も時々眺めることはしばしばあります。
 先日は秋晴れの素晴らしい日でした。利根川の河川敷の向こうに筑波山が見えます。
 西の窓からは富士山も微かに眺めることが出来ましたが、私のカメラで写したものでは目を細めてやっと判る程度。残念。

           遠く筑波山望む

 会場が決まりますと施設利用許可証に使用料の領収書を貼り、印鑑を押して貰います。
 この日は6,7名だったと思います。係の女性は丁寧に順番に処理をしておりました。
 
 話は変わりますが。その時こんなことがありました。
 
 突然60歳くらいと思われる男性が「コピーはどこで出来るの」と聞きました。
 
 係の女性は「前の扉の中になります」と手を休めずに答えました。
 
 すると中に入った男性は「やり方が分からないよ。どうしてやるんだ」と言葉がきつくなりました。
 
 係の女性は「少しお待ちください」と書類に目を通しております。
 
 男性は「マニュアルはないのかね。あれば出来るんだよ」とイライラしております。
 
 係の女性「マニュアルはないんです。ちょっと待っててください」
 
 男性「俺は急いでいるんだよ」と声が怒っております。

 係の女性「こちらも急いでおりますので」と並んでいる人の書類を見ております。

 私の見たのはそこまで。
 あまりに失礼な男性。自分本位の男性。相手が年下の女性だという見くびった態度。こういう人がさらに高齢になると立派なクレーマーになるのではと想像してしまいました。

 係の女性が気の毒なやり取りの風景でした。


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秋の朝食

 歳をとり自分の味覚に変化が起きて来ました。特に油脂の強い物、味がはっきりとしていない物よりも、好んで口にするようになったのは野菜、豆類、魚介類など。味付けも濃い目になって来ました。
 偶には豚カツや鰻、天ぷらなども良いですが、ほんの少しで満足します。
 ステーキも厚い物よりは薄い物を食べるようになっています。味覚が変って来て更に歯の衰えもあるのでしょう。夫は野菜もどちらかと言えば良く煮込んだものを好むようになって来ました。
 
 朝食は和風と決まっております。
 秋になりますと根菜類が美味しく、また市場にも良い物が出て来ます。
 最近は鶏油を使い、出汁と調味料だけで煮た物がしばしば食卓に上ります。
 
            蓮と人参

            茄子皮

            茄子皮の佃煮

            牛蒡・人参・こんにゃく

 茄子は皮をむき出汁で煮て卵とじにするのを夫が好きです。そこで皮が溜まります。それを佃煮にして朝のもう一品とします。材料の使い分けです。
 朝食の定番は味噌汁以外には、干物や卵などタンパク質の物、焼きノリ、トマトや大根おろしなど。漬け物は少し。そして煮物です。
 
 最近夫の薬が変わり、そのために海藻や緑色野菜は大量にとることは駄目。また納豆は完全禁止。
 夫には、ほうれん草のおひたしやゴマ和えなどは少しにします。
 
 こうして老人になって来ますと老人なりの食事情が出てくるのですね。特に病気がありますとそれに合わせた食事となります。何が良いかは医師の指導と判断が大事になって来ますね。

 クラスメートだった四條清一さんが良く話しておりましたが、人には自分の手の届く範囲の物を食べることが一番。若者は山にも海にも行けるのでそこでとれた物を食べても良いけれど、老人は生活している場所から一里以内で採れる物を食べるのが良い。と
 時々思い出します。彼はすでに亡くなってから17年が過ぎました。なかなか腕の立つ鍼灸師としてファンがおりました。
 横尾忠則さんが新聞に書いておりましたが、それによりますと横尾さんも彼の指導を受けていたそうです。
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「感服しました」への便り

 この9月7日「感服しました」と合計300歳というご家族を紹介しました。
 過日その方々の生活ぶりが私にとどきました。またまた感服です。恐らくこのような生活が出来ると言うことは、それぞれの方の自制と自立心が基本にあることと私は推察しております。

 私が紹介したことをプリントして送っておきました。そのことへの返事の内容を更に紹介したいと思いました。 
 
 私信ですが手紙を紹介させて頂きます。

 ブログ、早速見させて頂きました。毎日のように書かれているので、ビックリしました。また私のハガキを載せて頂き大歓迎しております。特に89歳の母は何でも新しい物、珍しい物が好きで大喜びでした。
 もちろん賑やかに暮らしております。
 タオル、歯ブラシ、スリッパ等、色別に区別しております。
 主人は、私は、主人の母は、私の母はです。
 それぞれの部屋は好きな色、好きな物で飾ってます。主人の母は紫が好きなので紫のベットカバー、布団カバー、座布団、ハンガー、時計など紫です。もちろんカーテンも。
 私の母はピーターラビットが好きなので、カーテン、小物、時計、自分で刺繍したピーターラビットのクッション、額などです。
 決まりごとは夕食は一緒です。
 朝が弱い主人の母は、午後からの留守番(私はいつも外出しているので)洗濯物取り入れとたたみ。風呂掃除、夕食の後片づけ、夕方の庭の水まきです。
 私の母は午前中の留守番、夕食作り、朝の水まき、洗濯干しです。
 私が早く帰った時は皆でおやつをします。
 ネコは勝手に好きな部屋に行って昼寝をしているようです。・・・・・とこんな具合です。
 主人の母が作った封筒を同封いたしました。こんなものを89歳なのに目がねもかけずに毎日作っています。

           小さな袋(ポチ袋)

              箸袋

             しおり

 頂いた袋は丁寧に紙を選び、デザインを考え、そして仕上げと。もう感嘆するばかりです。
 こうして四人と一匹は穏やかに日を送っているのですね。
 とても教えられることの大きな手紙でした。
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富山黒系ラーメン

 富山に行きたいとこの数年思っておりました。食材にこだわり頑張っているラーメン店「万里」さんを訪ねたかったのです。
 私が初めて万里の瀬戸寛さんを知り、交流を始めたのは実山椒を送って下さったことからです。
 ラーメン店を営み、そのラーメンの素材を知った私は万里さんの富山黒系を是非食べてみたく、今回は全国校友大会を機に念願を叶えることが出来ました。

 ラーメン好きな二女から「家系」とか「屋系」とか聞かされておりましたが、漫然とそれを聞いておりました。富山黒系というラーメンは濃い醤油色をしたラーメンだと分かりました。
 
 今やラーメンは日本食と言っても差し支えない料理の一つとも言えましょう。
 戦前1930年代、父は千葉の館山で魏さんと言うラーメン屋でラーメンの手ほどきを受け、趣味の一つにしておりました。そのラーメンは私の記憶にある「支那そば」です。

 話が逸れましたが、遂に万里さんを訪ねることが出来ました。連絡をしてはありましたが瀬戸さんご夫妻は旧知のような笑顔でドアを開け迎えに出てきて下さいました。

              ラーメンの万里

              期間限定土佐丸

              土佐丸を食べる

              小鉢付きのラーメン

 9月26日昼。富山駅に着いた私は関俊雄さんと別れ、急ぎ万里さんに駆けつけました。
 早速期間限定の「土佐丸」と名付けられたラーメンを頂きました。瀬戸さんのブログのカテゴリー「期間限定メニュー」で見ることが出来ます。
 その日はわざわざ用意して下さっていたのです。味は濃くご飯に合うように思いましたが、黒いスープは美味しく期待通りのラーメンを味わうことが出来ました。

 28日は富山市内を少し観光し、再度万里さんに昼食を摂りに行きました。その日は普通のラーメンにチラシ寿司の小鉢と餃子をお願いしました。
 お客様が次々に入って来ます。さりげなく眺めておりますと男性の方は小鉢や餃子を一緒に頼んでおります。
 注文した物は私の胃の容量からすると少し多いなーと思いました。案の定残してしまい、眼と口の欲張りを恥ずかしく思ったことです。
 この毎日用意するという小鉢。瀬戸さんの姿勢を表現する一品です。ご自分の思いを籠めてお客様に提供されているのです。
 この日もチラシ寿司の具は新鮮。すし飯の味が実に良いのです。これはよーく聞きました。
 さり気なく、そして安全、健康に配慮する。これは見事と言えます。
 昼をゆっくり済ませ、時間一杯食談義をすることが出来ました。
 時間が経ち富山駅にご夫妻で送って下さり、その上出発ホームまで一緒に来て下さいました。歩きながらも話が続きました。食に纏わる話に胸を割って話すことができ、また生まれて初めてのホームまでの見送りを受け、有難く感激しました。
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マンクラ・マンクラ

 今年は明治大学校友会我孫子地域支部と柏地域支部とでマンドリン俱楽部の演奏会を開催すことが決まりました。
 実行委員長はじめ実行委員の方々が準備を重ね、去る4日の午後2時から柏文化会館で行われた演奏会は無事に終えることができました。
 こういう行事はプロデュースする専門の方がおりませんので、協力と準備、積み重ねが大切です。
 会場はアクセスの悪いこともあり、チケットを売る時も苦労をしました。
 それにしても心配していたよりも来場者もあり、安心しました。我孫子支部の役員を引き受けている私も案じておりましたので胸を撫で下ろしました。
 演奏会当日は役員全員は10時に準備の説明を受け、持ち場の体制を整えました。チラシのセットは手の空いている人も一所懸命に手を動かします。他の皆さんもまた足りないところは無いかと、神経を使っておりました。
 1時半開場ということですが、自由席の所為か12時半頃には人が集まり、並び始めました。足の悪い杖を使っている方を会場の隅で待って頂き、定刻より開場を早めてお客さまに入場して頂きました。
 現役の学生は元気がよく、張り切って演奏が続きました。
 私たちはモニターTVで中の様子を見ておりました。お客さまは高齢の方が殆ど。役員もやや高齢です。(本当はかなり)
 古賀メロディーは受けますね。皆さんに大きな拍手を頂いております。
 無事に終了。充実した一日でしたが、また多くの方からの次回の期待を感じたことでもありました。

             プログラムとチラシのセット

             リハーサル風景

             記念写真

             お礼の挨拶

 明大マンクラと言いますと結構知っている方も多く、また次回も来たいと仰る方も大勢おりました。
 学生の態度は好感を持たれたようです。指揮をした学生はサイン攻めにあっておりました。

 今日はまたマンドリンですが、OB俱楽部の演奏会。OB俱楽部の顧問をされている百瀬恵夫先生からチケットを頂戴し、夫と一緒のひさし振りの東京行きでした。

                マンクラOB俱楽部のポスター

 聴衆はこれまた見事に高齢者ばかり。演奏する方の最高齢者は80歳位です。場数を踏んだ落ち着いた演奏はなかなか見事でした。
 初めての共演という宇崎竜童さんの語りも歌も気張っていなく、楽しかったですね。
 私は宇崎さんの舞台は初めてでしたが、とてもシャイな感じで好感を持ちました。
 会場には百瀬先生もお見えになっておりましたが、久し振りに鈴木俊光先生ともお会いでき、親近感一杯。やっぱりだからいいなーと感じたことでした。
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吉崎芳枝さんの思い出

 私は1944年に千葉県立安房高女に入学しました。多くの素晴らしい方々と出会い、以来長きにわたり沢山の方と交流を続けております。
 1年生の時、今は館山市ですが、当時は九重村と言いその村の大井に住む、黒川芳枝さんと特に親しくなり、お宅に呼ばれたこともありました。
 黒川さんは房州でも名家。学年では吉尾村の永井さんと同じく知られた家でした。
 戦後私の両親が引き揚げで来てからは我が家にも泊まりがけで遊びに来たりもしておりました。
 芳枝さんはお見合いで木更津の奥の久留里の吉崎さんに嫁ぎました。久留里は木更津から久留里線に乗り換えて行きます。
 芳枝さんは九重も田舎でしたが、其れより更に田舎と思われたようで、初めて木更津で乗り換えた後、汽車の中で涙が止まらなっかったと、後々述懐しておりました。

 久留里の吉崎さんは有名な醸造元。1624年の創業で全国の酒造家でも指折りの古い歴史のある家です。
 芳枝さんは育ちがお嬢様でしたが、結婚以来鍛えられ家業に励みご主人の片腕として過ごして来ました。(毎年秋になりますと杜氏が来ますので、その準備のことなど、私の知らない世界の話は興味をひきました)
 お姑さんは姿が美しく東京女高師の卒業生で優しい方でしたが、確り者。旧家なりの仕来たりと日々の行事、四季折々の気配り。それなりに芳枝さんにも苦労があったことと思います。
 鴨川へと通るときには必ず吉崎さんに寄り、旧交を温めておりました。お姑さんも歓迎して下さいました。
 昔、都内に来るとき、番頭さんがお供の時は車ですが、クラス会などの時は一人ですから、心細がり私はその都度両国駅まで迎えに行ったものです。
 
 高齢になってからは地元の婦人会などでも活躍されており、コーラスにも励んでおりました。

 6年前の6月。芳枝さんは東海クラブで開催された内藤敏子さんのチターの会に出て参りました。
久しぶりの再会とあり、また久留里でね。と楽しく過ごして帰宅されました。
 間もなく入院されているらしいと伝わって来ました。そして9月30日に亡くなり言葉もありませんでした。
 チターの会にお出でになり、その後8月の始めにはご家族と箱根に出かけられたそうです。帰宅してから急に具合が悪くなり、鴨川の病院で診て頂きましたら既に手遅れの状況。胃がんで亡くなったのです。
 長ーいお付き合いでした。数えきれない思い出があります。
 
 昨日朝日新聞に掲載された「伝統の酒造支えた名水」という記事。その中で吉崎酒造17代目の当主としてご長男の名前が記されております。また記事にある吉崎さんから1キロほど離れた処でホンモロコの養殖に取り組んでいる藤平量郎(とうへいかずお)さんは芳枝さんのご主人の従弟と聞いております。
 昨夜は読みながら様々なことを思い浮かべました。夫も一緒に何回も訪問しておりました。いつの間にか歳月が流れて行きます。感無量です。

              千葉の名水紹介

 「吉寿」の看板は房総を旅するとあちこちで目に入ります。

 吉寿の字が目に入るとあの元気者だった芳枝さんのことが心に蘇って来ます。
 弔問に伺った時のご主人は憔悴された姿に鞭打つかのようにして墓地に案内して下さいました。
 350年以上にもなる歴史のある家柄ですからとても広い墓地です。ご主人は「今整理しているのですよ」と仰っておりました。その後房州への道も出来て久留里を通ることがなくなり、気になっておりました。
 新聞の記事に触れ、ご長男が頑張っていられるのだと知り安心しました。
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富山の置き薬

 富山で開催された校友会全国大会の翌朝、ホテルを出て富山の駅周辺を歩いて見ました。
 いかにも置き薬の富山らしい像に出会いました。
 家族と離れ、遠くに出掛けて行く薬売りの姿。人通りも少ない駅前に像は佇んでおります。
 
            富山駅前の像
 
 子どもの頃、富山の置き薬を運んでくる人が家に来ますと、子ども心にも気分が弾み、薬の入れ替えを横から眺め、紙風船が出てくるのを待っておりました。あの四角の紙風船。懐かしいですね。
 「越中富山の反魂丹 鼻くそ丸めて万金丹 それを飲む奴アンポンタン」なんて歌って騒いだりしたものです。
 考えれば失礼な話ですね。世界で珍しい信頼を重んじる販売方式の富山の置き薬。歌われるだけに知れ渡っていたということでしょうね。
 折角富山に行きましたので、置き薬のことを知りたいと思いタクシーの運転者さんに聞いてみました。タクシーの運転手さんは「ここには見るような処は無いんですね。戦争末期に米軍の空襲を受け、街は焼けてしまいましたから。まー置き薬の方は見学できるところは二箇所ほどありますけど」と言いその一つ「広貫堂」に車を着けて呉れました。
 
 置き薬の老舗。広貫堂に着きましたが、観光バスが何台も並んでおります。次々と高齢者の団体が降りて来ます。
 さりげなく尻に付いて店舗の中に入りましたら、「お一人さまですか。恐れ入りますがこれにご記入ください」と簡単な質問事項のある紙を渡されました。別だとどうして分かったのでしょう。バッチを付けていなかった所為でしょうか。
 用紙に記入し、団体と一緒にスライドによる置き薬の歴史やこの商いの仕組み、薬の効能などを聞きました。

            団体と説明を聞く

 この広貫堂は富山の伝統的産業を担う老舗だということです。300年の歩みは資料館で見ることが出来ます。

            広貫堂の始まり

            資料1

           資料2

           資料3
 
 運転者さんは富山の置き薬に詳しく、製薬会社が40軒ほどあると教えて呉れました。
 他所に行きますと何かしら買いたくなりますね。先ごろから右の二の腕を痛めていましたので、湿布薬を買い、またポスターを二枚買いました。湿布薬はかぶれず良かったですね。
 運転手さんのお勧めで予想以上に良い勉強をしました。
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富山にて

 9月27日 富山市で明治大学校友会全国大会が開催されました。
 かねがね行きたいと思っていました富山。26日の役職者の会議に出席するバレー部OBの関俊雄さん(千葉西部支部幹事長)に一緒に連れて行って頂きました。私は富山でお目に掛かりたい人があり、前夜祭は出席する予定はありませんでした。一人で美味しい魚を食べたいと思っておりましたが、ホテル周辺では無理のようで、関さんにチョッと話しましたら、前夜祭に出席出来るように手配をして下さいました。
 良かったですね。
 元政経学部教授で校友会副会長の百瀬恵夫先生、同級生で同じく副会長の玉井宏夫さん、相談室で一緒に仕事をした現図書館長の吉田正彦先生、女子寮時代の後輩笠井光子さんのご主人の笠井正弘さん、在職中仕事のことで苦しんでいた私を助けて下さった副学長の柳沢敏勝先生と田中政男先生など、多くの方々にお会いでき、旧交を温めることが出来ました。
 千葉県西部支部の役員の方々と席を同じくして頂きましたが、思いもかけないことに驚き、もう嬉しさと楽しさで気分が高揚しました。
 流山に住む元文学部教授の小疇 尚先生が話しかけて来られました。「青島に居たんですってね。僕も青島の小学校に行っていたのです。済南の小学校から青島の第二小学校に転校、再度済南の小学校に転校、そこで終戦を迎えたのですよ」
 なんと言いましても青島、明治となりますともう親戚気分です。
 校友会の支部で役員をされている元職員の方、現職の役職者の方々とも声を交すことも出来ました。

            前夜祭

 前夜祭の舞台ではチンドンや八尾おわら風の盆の披露などもありました。
 皆さん見たり喋ったりまた食べたりで会場は賑やかです。

 百瀬先生と話をされている方の名札に「五味」さんと書かれております。
 
「長野県の方ですか」「そうです。百瀬先生の後輩です
「長野の五味勉さん、信雄さんご兄弟がおりましたが」「親戚です
「信ちゃんはスケート部でしたね」「数年前に亡くなりました
「可愛かったわよ」「岡部にいました
「岡部ね。会社に行ったことあるわ」「懐かしですね
 
 思いがけない消息を耳にしました。随分昔のことになります。五味さん兄弟と知り合ったのは1955年ごろ。
 参加者名簿にある参加者約1300名の内、私と同学年以上の古い卒業生はざっと数えて約40名。
 古い古い話になります。感無量です。

 全国大会は富山県民会館で開催されました。

            富山大会

 富山支部の方々のご苦労を察します。会場の席は指定席。セレモニーも順調に進み、この日の記念イベントとして富山出身の立川志の輔さんの落語。良い話でしたね。さすが一流を感じました。
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助っ人 平野さん

 竹の箸を作る千葉の平野和さん 竹だけではなく気にっ入った木材を使い道具作りに励んでおります。
 知りあってから間もないのにチャイナドレスの製作に無くてはならない竹ベらを作って頂きました。
 今は平野さんの道具に対する信念に魅せられ、何かと親しくさせて頂いております。
 
 大好きな厚焼き卵。友人の厚焼き卵の作り方を真似し時々作っております。形を整えるに蒲鉾の板を使うのですがどうも上手くゆきません。鍋が本格的な銅の真四角なものではない所為かも知れません。
 そのことをチョッと口に出しましたら、見せてご覧とすぐにでも取りかかりそうな様子。急いで家から鍋と蒲鉾の板を持って行きました。

              型を取る

              厚焼き卵の板に

              板に写す

              合わせて直す

              仕上げ

 平野さんは見た途端「これじゃ熱くなって無理でしょ。よし作ってみましょ」と言いまして「後で来なさい。時間の空いた時に作って見るから」こう言われましたので一旦家に戻り、しばらくしてから行きました。型紙と言っていいのでしょう。出来ているのです。

 平野さんの仕事   先ず道具を何の為に使うのかをよく聞きます。今回の私の場合は厚焼き卵を焼く時、確りと形を整えるということです。箸では抑えきれませんし、フライ返しでは全く上手く行きません。説明を聞き「これでは確かに上手く行かないね。まず鍋の形と板が合っていないよ。合うのを作ってみましょ」ということから始まりました。
 
 ① まず杉板で形を取りました。一番上の写真です。(仮縫いのような物ですね)
 ② 鍋に合わせて角度を決めます。鍋は下が少し小さいのです。
 ③ 型が出来ましたので桜の木で新しく板を型通りに作ります。
 ④ 板を鍋に合わせて実際に使うように板を持ち、動かして見ます。私の手にも合わせて大きさを決めます。
 ⑤ 私の持つ指の位置に浅く指のための窪みを彫りました。

 出来上がった桜の板を使い厚焼きに挑戦しております。厚焼き卵は好物ですので、度々作っても飽きません。それでもまだまだ腕が上がりません。難しい物です。


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山東毎日新聞

 台風18号の凄まじい風が吹きまくった一昨日と変わり、昨日はさぞや素晴らしい秋空を眺められるのではと期待し、霞ヶ関ビルに出かけました。
 先だって来、過って中国青島に在留していた邦人の古い資料の収集に協力しておりましたので、小学校時代の友人と会うためでした。
 期待の空は雲が切れす、それでも皇居や国会議事堂の遠くに秩父の山を望むことが出来ました。

              皇居と議事堂

 会合ではなかなかゆっくりと話せませんので、この日は資料の事に充分に時間を取りました。
 先ず最初に見せて頂いたのが「昭和16年12月9日発行の山東毎日新聞」です。
 発行地は中国済南となっております。山東省の中心は済南だったのでしょうか。当時済南銀行と言う銀行があり、邦人はその銀行に預金をしておりました。
 この新聞には前日に始まった対米戦争開戦の詔書がトップに掲載されております。

               山東毎日新聞一面

 私は12月8日のことはよく覚えておりませんが、間もなく封切られたハワイ、マレー沖海戦のニュース映画は青島の映画館で見ました。たしか学校全生徒で観に行った気がしております。
 この新聞は4面ですが、当時の邦人の生活の一端を示す広告も沢山載っております。
 死亡広告も見ることができます。貴重な資料の一つとなることでしょう。

               広告欄

 この新聞は友人の青島時代の友人が「こんなものがあるけれど」と送ってくださったそうです。その送って下さった方が、ある日古い物の整理をしていましたら、青島からお父様が送って来た品物を包んであった新聞だということです。弟さんがこれは大事な物のようだから取っておきましょうと、保存されていたので送って下さったそうです。
 広告を見ますと私の近くの小児科広瀬病院の名も見えます。妹が引きつけを起こした時、必死で先生を呼びに行った病院です。お嬢さんはクラスメートでした。

 新聞を検索して見ましたが、関係する記事を見つけることは出来ませんでした。国会図書館に行けばあるいは見ることが出来るかも知れませんね。
 発行からその日の新聞で8727号と記されております。随分前から発行されていたことを知り、驚きました。
 友人はその他にもいろいろな資料をお持ち下さいました。感謝です。
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53340円の旅 つづき 9

 53340円。三泊四日にしては僅かな時間なのによく回ったものだと、改めて感心してしまいました。

新しい場所
 
 大連は海に面しており、また流通の基地でもありますから、経済の発展の進捗も著しいものがありましょう。
 街の中心部から少し離れたところには立派な場所があります。特に星海公園は広く、施設は子どもも大人も楽しめる物が揃っています。
 見るところ有料の物は目の前にはありませんでした。3日目の土曜日午後、その公園に着きました。

              星海公園

              星海公園

              星海公園のブック型場所

              馬の像

 ガイドの説明によりますとこの公園の近くの高層マンションは大連でも最高級なものだそうです。
大連では建て替えのために多くのマンションが建設されているそうですが、建て替えで一時転居する人の家賃などは市政府が保証するのだそうです。
 建て替えが済み、元の家に入る場合、広さが旧宅と同程度であれば無料で入居でき、それを超えると払うと言います。その場合は差額であればいいのか、全部新しい価格になるのかを、聞き損ないました。
 マンションは最低で100㎡と言いますから、ヒョットしたら、元の人間は入れなくなってしまうのではと考えてしまいます。
 公園は大勢の人が集まっても広い敷地はゆとりがあり、その点はさすがお国柄だと感心して眺め回しました。
 乗ってはいけませんとあっても馬の銅像に乗るのは何処の国でもありそうなことですね。
 トイレは何処にありますか。と聞きましたらガイドは無いと言います。信じられます?おかしいですよね。彼は面倒くさかったのかも知れませんね。ですがそれらしい標識は見えませんでしたね。なんとも不思議なことです。

 最後の観光地
 
 四日目はお天気が悪く、雨も少し降っておりました。午後は日本に戻りますので、先ず老虎公園に行き、午前中一杯観光となりました。
 
              老虎像

              老虎灘周辺案内板

              ボランティアの若者

              果物売り

 老とは老いたと意味ではありません。中国では目上の人や尊敬する人、また強い動物などにも使われます。で虎は十二支の中で一番強く大きいので虎には老が付いているのです。
 公園に行きましたら、中学生、高校生と見える若い人たちが、腰を下ろし手に持った金具で、張り付いたガムを剥がしています。引率者もおりますが、こういう姿は初めて見ました。
 ニュースなどでは恐らく美談として称賛されているような行動かも知れませんね。
 周辺のお土産屋の屋台には海のお土産らしい、若者向きの品物が並んでいます。果物を並べていた男性に写真を一枚写させてと言いましたら、気安く手を振って呉れました。

 この後は北九州市と大連の友好を記念した北大橋まで行き、バスから降り歩いて渡りました。二人の人がこの橋を別々に両端から歩いて行き、橋の真ん中で確りと手を握ると別れないと言われているそうです。結婚する男女がよく渡る橋だそうです。近くに赤いベンツを見ました。

 緑山展望台は大連の街を一望できます。地元企業ばかりでなく、外国企業の高いビルが立ち並んでおります。サッカーボールを象った大連がサッカーの街だということを証明している建物も見ることが出来ます。

              緑山展望台から

 ガイドは少し早いけれど空港に行きましょと言い、最後に大連の街を眺めながら空港に向かいました。
 大連空港から出発しますと、直に昼食になりました。ささやかな幕の内弁当ですが、久し振りの和食。「日本食は良いねー」と醤油味を味わいました。
 便は順調に成田に到着。駿河湾辺りを飛んでいる時、富士山を下に見つけました。成田に戻る時は夜が多く、初めて機内から富士山を見ました。

              富士を左下に見る

 廉かったですね。歩く距離も少なく、私たち夫婦には適当な旅でした。




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53340円の旅 つづき 8

 53340円で三泊四日というからには美味しい物を期待するのは失礼と言うものでしょう。
 何回も中国に行っておりますので、食事の時のサービスはどんなものかは凡そ見当が付いています。
 何回かの食事を掲載して置きます。全体としてはごく普通。味もそこそこと言えましょう。
 野菜が中心とも言える今回の食事は、健康的で庶民の味。料理の皿数は人数にもあるかも知れませんが、一回が10皿以上でした。

          料理

               瀋陽餃子

               瀋陽郷土料理

               大連東北料理

               大連海鮮料理

               店内の鮮魚の陳列

 値段の廉いツアーですとそれなりの店に行くことは承知しておりますが、食文化のレベルが高いと巷間耳にしている中国。取り皿が一枚しかないと言うのはどんなものでしょうか。
 料理の味も香りも全て混ざってしまい、最初の料理の味から段々混合の味へと変わってしまいます。これがツアーのレベルですね。
 中国でも少し高級なレストランではダブルソーサーでサービスされますし、料理ごとに皿も換えて呉れます。
 私の舌の所為かどうか分かりませんが、どの料理も基本の味は同じように感じます。野菜は新鮮ですので、これは良かったですね。アサリはアサリの味ですから問題はありません。美味しく頂きました。
 取り皿を頼むと何だーと言った態度で持って来ます。お客の方が気を遣ってお願いするような感じです。 日本人の習慣からしますととり箸やとりわけ用のスプーンなどはレストランでは当たり前ですね。それは無理なのです。中国人は自分の箸を使い、人に取って上げるのがマナーですから。
 サーズが問題になった時、中国政府はとり分け用の箸を使うことを勧めたそうですが、そんなことは何処のことかと言う感じです。
 取り分け用の箸やスプーンを頼みますと、これも横柄に差し出します。中国好きな私でもこういう態度はとても残念に思います。
 大連では店内に鮮魚が並べられておりますが、匂いが室内に充満しており、臭くてなりません。でも大連っ子にはこれが良いのでしょうね。
 最後の晩は天天漁港という名のレストラン。この店内のお客は300人ほど。全部日本人だと言われびっくりしました。

                              つづく
 
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53340円の旅  つづき 7

 遼東半島の瀋陽にも大連にも博物館があります。今回の旅行でも両方の博物館に行きました。
 

 遼寧省博物館 
 
 瀋陽に到着して最初の見学場所は立派な博物館でした。
 遼寧省の博物館は歴史博物館として中国の古来からの文物を展示しております。
 1949年にオープンした東北博物館が時代を経て2004年に新館が落成し、一般に公開されたそうです。
 入館しますと空調もしっかりとしていて、見学も気分よく進みます。建材も立派で照明も博物館らしいものです。掃除も行き届いてきれいな床は人の影もうつりそうです。
 台北や上海などでも博物館を見ましたが、ここは参観者も少なく、館内はゆったりとしていて慌ててみる必要もありません。 
 しかし観光ツアーと言うのは時間の制限があり、一部を見るだけで我慢です。

 博物館の周囲では太極拳?のような仕草をする人が見えます。建物の窓に自分の姿がそっくり映り知恵の見せどころを感じます。私には馬蹄銀の小さな物が目を引きました。チャイナドレスにも餃子にも繋がる物です。一番上に置かれていた大きな物より下の小型の物が強く印象に残っております。
 多くの人は館の中に足を入れますと先ず大きな4本足の鼎に目を奪われましょう。立派な物です。

              遼寧省博物館入口

              遼寧省博物館正面玄関から

              可愛いい馬蹄銀


 旅順博物館
 
 旅順博物館は1917年に発足した関東都督満蒙物産館から、いくつかの変遷を経て1949年に旅順博物館として公開されたと言うことです。
 この博物館に到着しますと、何だかおかしいことになりました。開館されているのか、この日は休館なのか分からぬ内に中に入りました。他の来館者は一人もおりません。
 日本で言えば学芸員のような方でしょうか。研究者という方が日本語で説明、案内をして下さると言うのです。
 今日は特別に裏から案内しましょと何室かで説明がありました。横山大観の画や陶器や磁器なども見ることができましたが、量はどうも僅かなような感じです。少し進んで行きましたら小部屋に案内されました。
 「現在この博物館は収蔵品の整理をしており、その費用を捻出する為に、貴重な品物を売ることにしました。これは公認されたことで、品物も間違いありません」
 「この品物はケース共、送料も保険料も全て含み、100万円です」「関心がありましたら良い買い物です」
 これって何でしょうか。上海でもある政府関係の物産館で同じ方法で、品物を勧められました。
 いささか鼻じろみましたね。誰も興味を示しません。
 そこで見学は終了。見せて頂いた収蔵品は失礼な言い方ですがすぐに忘れてしまいました。

             旅順博物館

             博物館に入るカップル

 中国では結婚したカップルが記念の写真を撮り、立派なアルバムを作るのが大事なことのようです。先日も上海で収録したカップルの頼んだアルバムは25万円と話しておりました。この博物館に入って行く二人は、カメラマンと照明の方と一緒に颯爽と歩いて行きました。
 この日は土曜日の所為か、結婚披露宴に行く赤いベンツがリボンで飾り、列をなして走って行く場面に何回も出会いました。ガイドの話によりますと車はそれ用のリースの車だそうです。
 面子を重んじることが非常に大切なことだと改めて感じたことでした。

                                 つづく



 
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53340円の旅  つづき 6

 日本軍は203高地を1004年12月5日に占領しました。翌年の1月1日ロシヤ軍は旅順の開城をすると乃木将軍に伝え、1月5日に水師営での会見となりました。

  水師営 
 
 私たちは203高地を離れ旅順の北西方向にある水師営に向かいました。営というのは兵営のある場所を指す言葉でもありますから、日露戦争の時も重要な地点の一つだったのかも知れませんね。
 西村さまのコメントに「おや?」と思いまして調べてみましたら、水師営の会見所の家は1996年に当時の資料を基に再現されたと知りました。
 私が歌っていた水師営の会見。その言葉に合うような民家と違うなーという気はしておりました。
 
            会見所門

            会見所入口

            水師営会見所

            調印した部屋とテーブル

                乃木将軍漢詩(金州城外の作)

                三代目という棗の木

            会見を済ませた両軍の一行

            会見所に向かうステッセル将軍
 
 水師営の会見所の左側の部屋で、乃木将軍とロシヤのステッセル将軍とで「旅順開城」の調印がされました。
 部屋の中に置かれていたテーブルはその時の物で、建物は野戦病院として使われていたという説明です。
 普通のテーブルよりは高い作りですので、なるほどと思いましたが、100年以上の昔のこと。これを実際に知る人は恐らく誰もいないのではと思いますと、どうかなという気もします。
 部屋に掛けられていた軸はかの有名な乃木将軍の「金州城外の作」と言われる漢詩です。
 女学校の漢文の時間で初めて習った漢詩がこれ。山川草木うたた荒涼という詩を暗記しましたね。思い出しました。
 右側の部屋には若干の資料があります。何回も目にした会見後の二人の将軍を囲んだ写真もあります。また日本軍の為に殺された無辜の民云々という写真もあります。

 白玉塔で求めた冊子に載っていた水師営へ向かう馬上のステッセルの写真が最後の写真です。
この白馬は乃木将軍にプレゼントされ、後に寿号という名で乃木将軍の愛馬となったそうです。
 
 日露戦争は1005年9月5日のポーツマス条約の調印で終結しました。

                                     つづく

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53340円の旅 つづき 5

 旅順口を確りと眺め、あの虎の尾の半島から右方向の湾内に、ロシヤの艦隊が集結していたという姿を想像しました。日本軍は船を沈めて出撃を防ごうとしたのですが、失敗したのですね。
 旅順口を攻めるに必要になったのが203高地。203高地は旅順攻略の一環の作戦だったそうですね。簡単に占拠出来ると思ったのが予想外の強さ。そこで苦労したのが乃木司令官。
 白玉山塔を後にし、バスは203高地に向かいました。
 司馬遼太郎の坂の上の雲から想像していた203高地の壕が意外に粗末なことで、驚きました。
 
  203高地

            203高地

           203高地

               爾霊山塔

           ロシヤ軍の塹壕

          ロシヤの大砲

          203高地から旅順口を望む

 1904年11月26日に日本軍は約4万人の兵を投入、203高地へ総攻撃を始めた。12月5日に日本軍は203高地を占領し、1905年1月1日にロシヤ軍のステッセル将軍は降伏。

 乃木司令官はこの戦いで二男を失い、先に戦死した長男と二人を亡くすことになりました。
 203高地に建てられている塔は戦場から集められた砲弾などを使い建てられたものです。
 2を爾、0を霊とし3を山と記して「爾霊山」と記し、慰霊の塔としました。
 
             粛親王府旧跡
 
 道中バスから見られた粛親王府旧跡。川島芳子の数奇な運命に関わる建物です。                                    つづく
                                              
                                               
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53340円の旅 つづき 4

 日露戦争は1904年~1905年。その10年前には日清戦争があり、この二回の戦争で旅順は戦場となりました。
 私が小学校に入学したのが1938年ですから、日露戦争の話はいろいろなことを通して知ることがありました。1940年(昭和15年)を一区切りとして見ても、日露戦争は35年前のことですね。
 旅順口での広瀬中佐のこと。日本海海戦の東郷平八郎のこと。203高地での乃木希典のこと。
 また歌でもいろいろと歌われておりました。
 そういうことで遼東半島が激戦地だったということは子どもなりに知っておりました。
 今回の旅行の三日目、大連での観光が前日に続き午前中あり、午後は旅順に向かいました。
 旅順は大連市の一区域。遼東半島の先端にあり、不凍港を抱えている国の重要地点です。

 旅順
 
 旅順と言いますと先ず心に浮かぶのは「広瀬中佐」の歌、文部省唱歌です。
 
     轟く砲音(つつおと)飛び来る弾丸
       荒波洗う デッキの上に
     闇を貫く中佐の叫び
       杉野は何処(いずこ)杉野は居ずや

 画は閃光が激しく船上を照らし、船の周囲には爆弾が打ち込まれた水柱が立ち昇り、広瀬中佐の姿が綱を掴み、大きく口を開けております。
 船を沈めてロシヤの艦隊を封じ込めるという、そのことはどういう地形で出来るのかとは思っており、また多少なりとも分かっておりました。
 今回は直接上から見ることが出来ました。

              旧旅順駅

             白玉山での韓行恕氏

               白玉山塔

            旅順口へ

            旅順口を望む

 旧旅順駅は満鉄の始発駅でした。現在は大連からの便は路線バスや車によるのが普通で、駅も別の場所にあるそうですが、利用客が少なく、一日に数便になっているそうです。
 白玉山塔には小型の車に分乗乗り換え登って行きました。そこの待ち合い室と言いますか、休憩室と言いますか、強いて言えばお土産屋?のような場所があります。
 中に入り、日本の教育を受けたという83歳の韓行恕氏から日露戦争に関わる様々なことを詳しく説明を受けることができます。立派な日本語です。22歳の時日本は第二次大戦に負けましたが、韓氏は日本語の教師をされて来たそうです。
 白玉山塔は日露戦争後、東郷平八郎元帥と乃木希典大将との発案で、日本の戦没者を慰霊する為に建てられたそうです。
 そこの展望台から旅順口を見ることが出来ます。入口は狭く真ん中の水深が塞がれるとロシヤの太平洋艦隊は出撃ができなくなるということで、日本はそこに船を沈めるという作戦を行ったのです。

 ここで暫く過ごし、203高地に向かいました。       
                                    つづく

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Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日85歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになりそうです。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

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