2010-03

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素敵な話

 4月5日から中国青島に出掛けます。今回は観光ではありません。勿論街の様子は見て来ますし、知人も訪ねます。
 お世話になる方は昔青島に住んでいた日本人社会のことや、日本人の生活などの調査、分析をなさっております。
 データーは多いほど良いわけですが、私に出来ることは彼女の用意しているアンケートのお願い位です。
 出発までに送って頂けそうな方に用紙を送りましたら、皆さん快く送って来て下さっております。
 昨日は同じ道路に住んでいた方と連絡しました。
 彼女の家は当時の青島でも珍しい7階建てのアパート。一階に住んでおりました。
 
私  「ねー あなたの家は31号?だったかしら」
彼女 「違う、違う33号よ」
私  「だって角だったでしょ」
彼女 「そうだけれど33号なのよ」
私  「あなたの向かいの角の家、
    双子の素敵なお姉さんがいたでしょ」
彼女 「家の兄がね、青島中学に行っていたのだけど、
    上のお嬢さんに憧れてね」
私  「そうだったの」
彼女 「上の方も素敵だったけれど、妹さんは個性的でね。
    夕方になると中国人の男性が家の前に来るのよ」
私  「へーそんなことがあったの?」
彼女 「その男の人ね。来るとね ララララーラ
    ララララーラ と口笛を吹くのよ」
私  「セレナーデね」
彼女 「そうなのよ。すると彼女が出て来てね、
    デートに出掛けるの」
私  「素敵ね。ロマンチックね。青島って良かったわね。
    あなたの家のあった辺りを見てこられたら報告するわね」

 戦後彼女と会ったのは大学の女子寮で私の前の部屋でのことでした。
その日1949年の初め頃ではなかったかと思います。部屋の主は「今日友人が来るので一緒にご飯をしましょ」と誘って下さいました。
 そこに現れたのが彼女でした。お互い口をパクパクして相手を指さすだけで、興奮して声が出ませんでした。
 その後TVで「ご対面」というコーナーがあり、中村八大さんが出演し、そこに現れたのが彼女です。八大さんは思い出せません。彼女は「大きくなったら僕のお嫁さんになってといったのに」とスタジオで言いました。
 彼女は可愛くてね。バレエを習っていましたので、千葉の田舎から転校した私には本当にお嬢様でした。

 青島の日本第一小学校には大きなスタンドを持つ運動場がありました。運動会には親たちはスタンドに陣取り、子どもたちを応援します。

          運動会

 先進的だった青島の子どもの生活は恵まれておりましたね。バレエやピアノを習う方。琵琶を習うかた。また大人も優雅に過ごしておりましたね。彼女のお母様は短歌を詠み、戦後は作詞もなさりそれは灯歌集にも載せられております。

 ソウルに住む同級生から送られて来た1986年の青島の写真。カラーで見るとその美しい姿に一層の懐かしさを覚えます。今回は観光ではありませんが出来るだけ街の様子も見て来たいと思っております。

          青島市街の一部

 ソウルのKさんは実に多くのことを覚えております。メールも良く下さいます。先の突風の被害をニュースで知ったと、お見舞いのメールを頂きました。
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花・団子・イタリアン

 オパール・ネットワーク今月のサロン
 昨日は花を愛で、EM団子を投げ、そしてイタリアンレストランでの懇談会と期待のサロンでした。
 生憎の酷い寒さ。気温は零度とまでは行かなかったとは思いますが、かなり低い気温でした。
 集合は午後4時。飯田橋駅北側の「セントラルプラザ」の集合場所に行きましたが寒さが身に染みます。
 花見どころではありません。
 花も4分咲きほど。予定通りに行きそうもありません。セントラルプラザのビル前の桜が寂しげです。

       飯田橋の桜

 4時半頃に大凡参加者も揃い、散策の予定を変更し、食事場所の「CANAL CAFE」に先ず入り、時間を過ごしました。

       JR電車も見え

       デッキで待つ

 今回のサロンのイベントの一つ。EM団子の投与は午後5時です。江戸城の外堀だった場所だった飯田橋近くの堀に皆さんで水質浄化のためにEM団子を投げます。一人が10個、時間を待ち参加者で投げることが出来ました。

       EM団子投与

 とに角寒くて寒くて、体が硬くなります。この季節としては珍しですね。団子を投げ終わりレストランに逃げ込みました。
 レストラン「CANAL CAFE」 の食事はイタリアン。前菜が何品も付きパスタやピザも出ました。メインは牛肉とそれにデザートとコーヒー。お腹は膨らみ少し体は暖かくなって来ました。
 参加者の一人寿々万さんは江戸がたりの会を6月8日に銀座博品館で催されると、チョッと語って下さいました。

       寿々万さん

 今回は会員の吉澤文五郎さんのお世話で団子もレストランのセットも甘えて仕舞いました。
 CANAL CAFEのオーナーの羽生裕子さんのお話によりますとこのレストランは1918年におじい様が立ちあげた東京水上倶楽部を基に開業されたそうです。
 今は水質も良くなり、傍に蛍を育てる池も作られていると言うこと、EM団子のお陰と感謝の言葉を述べられました。

       マダムと吉澤さん

 蛍の池は団子を投げている後ろの位置に見ることが出来ます。そこでは水を循環させております。

       蛍の池

 やがて飯田橋から程近いこの場所で蛍が飛び交う風景が見られると良いですね。
 
 会も無事に終わり、空は晴れているようです。駅に向かう私たちの目に入って来た月は満月に近く、美しい色を見せておりました。それにしても冷えましたね。帰宅時の我孫子の気温は1度。
 
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佐橋さんちの大根二品

 オパール・ネットワークを主宰する佐橋慶女さん。牝馬?チョッとお転婆ではなかったかと言う気がします。
 午年生まれ。歩く姿もすっきりとしております。社会正義を体全体に付けているような、不正や嘘があれば足で蹴飛ばしそうな、そういった雰囲気を醸し出しております。
 この佐橋さん宅でのサロンは奇数月の最後の月曜日に開催されます。ゲストによるお話が済みますと食事を摂りながらの懇談となります。
 毎回そのサロンで出されるお弁当は赤坂の三河屋の二段重ねです。塗りの器は戻せます。オパール精神の実践です。
 佐橋さんは日本酒党です。いろいろな銘柄の日本酒が一升ビンで出て来ます。ビールはこれも返すことができますから瓶で出て来ます。
 大抵何かしら佐橋さん手作りの肴が一品か二品用意されております。冬はお得意の柚子大根と大根の皮のキンピラです。
 この大根料理は簡単で美味しく、我が家でもよく作ります。以下は真似で作る我が家風です。
 
 作り方  大きめの質の良い大根を先ず6cm程の長さに切り分けます。
      皮を丸みに添って厚く剥きます。
      剥いた皮を拍子切りにします。
      フライパンに鶏油を少し入れて炒めます。
      調味料として醤油と砂糖、若しくは味醂を入れます。
      更にそこに出汁を入れます。
      炒め続けて調味料が無くなったら輪切り唐辛子をチョッと入れます。
      一回しして火を消します。
      出来あがり。
 
          大根皮のキンピラ

 皮を剥いた残りの大根は適当に食べ易い大きさに切ります。器に醤油と柚子皮を入れ、その中に大根を漬けます。
 大凡30分もすれば美味しい柚子大根となります。
 我が家の長女はこの柚子大根が大好きですので、良い大根があれば時々作りますよ。
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サンマリノ共和国という切手

 23日に郵便を出しに行きますとカウンターに出ていた切手は発売初日の物でした。「サンマリノ共和国」の名の切手です。おや?何だろうと一瞬思いました。
 サンマリノ共和国は観光が重要な産業で、切手も多く発行する国として知られております。ですからあれ?と勘違いして仕舞う訳です。
 立派な日本の切手です。サンマリノの風景が頭の中をよぎり買って来ました。私は切手を蒐集する訳ではありませんので、記念切手でもどんどん使います。封書も良く出しますので、相手の方によっては切手の使い分けをしております。これは受け取る方にも喜んで頂け、出す私もチョと反応を楽しみます。

           切手

 サンマリノへ行き、もう14年が過ぎ去りました。イタリヤの旅は今の普通のツアーと比べますと少し長かったように思います。ハプニングもありましたが、まあまあ無事に帰国しました。
 サンマリノは世界で5番目に小さな国だそうです。行きました時は人口2万程度だったと記憶しておりますが、今は3万人位になっているようですね。
 高い丘陵地帯にあるサンマリノは農業が主な産業だそうで、高地と言われながらもなだらかな丘が続いている様に見え、視界全体に穏やかな空気が流れ、私たちをすっぽり包んで呉れているような温もりを感じました。
 視界が良い時には東にアドリア海も見ることが出来るそうです。

        サンマリノ風景

 現地ガイドの説明によりますとこの国は共和制と言いますか、執政官がおり政治は執政官が代表という珍しいことを話しておりました。そのことを覚えておりましたので、調べて見ますと世界最古の共和国だと知りました。
 首都サンマリノの広場には観光客が多く、全てが可愛く今の若者言葉の「超カワイー!」でしょうか。
 衛兵の交代に出会いました。嬉しかったですね。幾ら人数が少なくても公式行事ですからね。

        衛兵交代

 衛兵と並んだ写真も写してありますが、子供じみていておかしいので久しぶりに自分だけで眺めています。衛兵と並んだと言えばブラジリヤで首相官邸でも写しましたね。衛兵はどちらも表情一つ変えずに直立不動でした。思い出します。
 未だユーロも成立していなくて通貨はイタリヤリラが使われていましたね。
 穏やかなあの国を切手を見て突然思いだしました。
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中村八大さんを偲び

 昨夜NHKBSは午後7時30分から「昭和の歌人」という番組を午後9時近くまで放映しました。
 取り上げられたのは中村八大さんです。
 内容は八大さんの日本の音楽界への貢献と、その作った歌曲を中心に進められました。
 我が家で何時も話題になることと一つは作曲したレパートリーの広さです。今回この中で歌われた曲を聴きまして、一層それを感じたことでした。
 「こんにちは赤ちゃん」は皆さまご存じの通り永六輔さんが八大さんに送った詩に八大さんが曲を付けたものです。その赤ちゃんも出演し九重佑三子さんと並んでいます。
 ご覧になった方も沢山いられたことと思います。NHKと八大さんとの付き合いは長いのですね。多くの方の言葉に八大さんの人柄を偲び、あの優しさにどなたにも分かって頂いていたと嬉しく思っております。
 
 青島での八大さんはガキ大将とは程遠く、見るからにひ弱な男の子でした。
 お父様は小学校の校長先生でしたが、作詞、作曲もされる方で、恐らく八大さんの才能を最初に認めたのはお父様だと思います。小学校の時に日本に一人で音楽留学に行かせたと言うこと、作曲の勉強を既に小学生の頃に学ばせたと言うこと。
 もろもろのことから環境に恵まれ才能を発揮されたのですね。久留米出身八大さんは早稲田大学に入学後、石井好子さんのお父様の家に寄宿されたそうです。ある日好子さんが自分のピアノを誰かが弾いていることに気がつき、見に行きましたら、それは八大さんの弾く音だったそうです。初めは「失礼な」と思われたそうですが素晴らしい才能に感動しその後は自由に弾いても構わないと言って上げたそうです。
 
 昨日流れた映像を何枚か掲載致します。海外に住む小学校の仲間の目に触れれば嬉しいなーと思っております。

        八大さん1

        八大さん2

        八大さん3

        八大さん4

        八大さん5

        八大さん6

 多くの方にさまざまな角度から語られている八大さん。私たちの青島羊会の仲間にとっては特別な思いと親近感があります。男性は八大とかはっちゃん、また八などと呼びます。女性は八大さんかはっちゃんですね。
 私の心に残る八大さんの言葉は日経の「あの時の一言」の中で八大さんは「愚痴を言わない」と誓ったと書いております。素晴らしい覚悟だと良く思い出します。

        青島歌集ラベル

 上のラベルは私たち仲間のために作ったカセットテープのものです。全曲八大さんがピアノを弾いて下さいました。
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逝きし人を悼む

 昨日明治大学校友会我孫子地域支部の機関紙「てが白雲ニュース第8号」が総会の案内と一緒に届きました。

         てが白雲ニュース
      (ニュースは大きくしてご覧になって下さい)

 我孫子支部は設立10年となります。我孫子市在住の校友は1000名を超えておりますが、支部会員としては100余名の参加で聊かもう少しと言う感を持ちます。支部の発足当初から機関紙編集の中心になっていましたのは文学部35年卒の杉山和子さんです。
 杉山さんはこの8号を編集し、立派に出来あがりましたがご本人は見ること無く、逝かれて仕舞いました。
先月の27日支部常任幹事会に出て来られ、8号には昨年5月6日に逝去された前支部長の三宅恭雄さんを偲び追悼の記事を掲載したいと、今泉健一支部長に原稿を依頼されておりました。
 8号が届いた昨日は葬儀が営まれ、多くの校友も列席し、杉山さんをお送りしました。
 杉山さんは若い学生を可愛がり、マンクラ演奏会でも食事のことは若い人を中心に考えて準備を進めて下さいました。高校の先生をされておりましたから、若い人のことを良くご存じで心強い幹事でした。

       校友会全国大会栃木で

 明治大学校友大会にも必ず出掛けられており、明大を愛し、明大を応援しておりました。栃木大会での写真の一枚は校友会名誉顧問の村山富市元総理を真中にし、左に三宅さん、右に杉山さんと亡きお二人が並んでおられます。

       蕎麦を食べるお二人
 
 栃木大会に出掛ける途中、日光の蕎麦屋に寄り、昼食を摂りました。並んで蕎麦を召しあがる三宅さんと杉山さん、お二人ともお元気で大いに大会を愉しまれておりました。

       フリーバザールで

 我孫子支部が参加する市民バザールでの杉山さんは品物の仕分けや値付けを手際良く進めます。売り子としても勢いよく皆さんの足を止めさせ、売り込みも積極的です。
 
 支部でご一緒しましたが、特にニュースの編集には敬意を持ってその姿に接しておりました。
 三宅さんは「何であんた来たの?どうしたの」と驚かれていることでしょう。お二人のご冥福をお祈りいたします。
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時は移り

 1948年の秋からほぼ8年間ほど武蔵野市吉祥寺に住んでいました。60年以上の昔ですから、当時のことを知る方は皆さん高齢者となっていましょう。私とて人後に落ちません。まっとうと思っていても忘れ去っていることが多いのです。
 吉祥寺は武蔵野市になって間もなくて、住んでいた大学の女子寮の場所は今は吉祥寺東町と言われているようですが、1948年(昭和23年)は単に武蔵野市吉祥寺~番地でした。10年程前に大学の依頼で女子寮の記録を書くために出掛けました。その時にすっかり変わった吉祥寺に感慨を覚えてものでした。
 
    一昨日吉祥寺伊勢丹が閉店したと報道されました。

           吉祥寺伊勢丹閉店の記事

 吉祥寺は静かな都市で駅の西北方向には成蹊学園があり、武蔵野市ではありませんが近くに東京女子大や立教女学園などがあり、落ち着いておりました。
 前進座の本拠もありましたね。今はどうなんでしょうか。
 北口から五日市街道までの僅かの距離の通りですが、喫茶店は「ごほう・呉峰?」という名前の美味しいドリップコーヒーを出す一軒しかありませんでした。
 小笹の羊羹も直ぐに買うことが出来ました。何時の間にか立派な駅ビルも出来、街は若者中心のような聊か騒々しい姿へと変わって来てしまいました。
 
 井の頭公園の傍にも綺麗な店舗が並び、鄙びた風情はすっかり見られなくなりました。10年に一度ほど何かのことで吉祥寺駅に下りますが、昔日の面影は探すことも出来ません。

 吉祥寺の女子寮ではガスも水道もなく、井戸を共同で利用します。朝の洗顔も混雑します。手押しポンプですから押すコツも覚えます。電気も夜になると時間給電で使えなくなります。試験近くなりますと吉祥寺駅の待合室のベンチに座り本を読むなんてする人もおりました。吉祥寺駅のホームは狭く、それでも混雑していたと言う印象はありませんね。
 当時の人口は5,6万人位ではないでしょうか。
 本当に良い街でした。感傷的にはなりませんが思いだしますね。
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天壇前にて

 子どもの頃中国の北京は確か北平と呼ばれていました。家の近所の露店では世界各国の煙草が置かれておりましたが、特に中国煙草の中では天壇が高級だったようで、それは良く覚えております。専売では無く自由だったと思います。
 ということで北平と言えば天壇と、その姿が思い出されます。
 岡田多慶小さんからの小学校の修学旅行の写真の一枚には天壇の階段に並んだ同級生たちが写っています。男子は幼いのに姿勢も良く直立不動そのもの。女子は後方に並んでおりますが矢張り姿勢が良いですね。この写真も万寿山のと同様、誰かを見つけたくても分かりません。

           天壇階段に並んで

 戦後天壇を訪れた方も多いことと思います。私も生徒や知人と一緒に行きました時に記念の写真を撮って来ました。
 最近また行きたいと生徒から言われたりしますが、もうそれだけのエネルギーはありませんね。せいぜい数人で何かを求める旅ならば出かけても良いかなーと思う程度になっております。

           天壇前の記念写真

 この生徒や知人との旅は「チャイナドレスを訪ねて」というツアーで、北京、上海を廻るオリジナルのものでした。 訪問先もホテルも食事も全て此方で選び、出かけたのでした。楽しかったですね。安くとはゆきませんでしたが充実した内容で、皆さんに満足して頂くことが出来ました。


以前に掲載しましたが煙草の天壇の色をご覧ください。
 北京秋天のイメージでしょうかね。

         煙草天壇

 

 
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何時か必ず

 NHKハイビジョンで毎週土曜日に放映されている「蒼穹の昴」原作への興味と中国清代末期の服飾が見られることとで毎週見ております。
 舞台は北京。放映時間は短いのですが、台詞がチョッと聞き取れたりしますと単純に喜んで仕舞います。
 最後に流れる万寿山の風景を眺めますと、北京に行きながら未だ行って無く、必ずこの次は行くわよと自分に誓うのです。

           万寿山「蒼穹の昴」から

 昔々中国山東省の青島の日本人小学校では修学旅行は大連に行っておりました。私は修学旅行に参加する前に帰国しておりましたので、大連に行きたかったなーと、何時までも覚えておりました。
 戦後皆さんと再会しましたら、6年生の時既に海路は連合軍の制海権の下にあり、大連に行かず北京になったと知りました。
 当時占領下にあった鉄路とは言え、大勢の子どもを良く北京にまで連れて行ったことよと改めて驚きを覚えます。
 とても仲良しだった方は済南で盲腸炎になり、先生が付き添い青島に引き返したそうですが、皆さん無事に北京に行かれたのです。
 青島の資料集めに協力して下さった岡田多慶小さんの修学旅行の写真は私と同学年の物です。多慶小さんは良くお喋りもしましたし、共通の思い出を持っております。その写真の中に一同並んで写した物が何枚かあります。
 時は昭和18年です。

           万寿山をバックに

 背景に頤和園の昆明湖と万寿山を控えた一枚。私は写真を大きくして眺めても誰も分かりません。ブログをご覧になった方。分かりましたらご指摘下さいね。
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ホルダーを整理

 そろそろ春の香りが出て来ますが、大好きなクコの新芽はまだまだ先のことです。クコの新芽は温暖な地方でないと摘めないかもしれませんね。
 戦後は口に入る物は何でもということで、クコの芽も良く摘みに行きました。茎に棘がありますので、用心して摘みます。
 そうそうクコの時期より早い時期、今頃でしょうかね。田セリを摘みに行きました。家計の足しにと言うこともありましたが、食べ物が無いのです。
 引き揚げ者ですから、農家に行き交換する物がありません。仕方なく土地を借り開墾もしましたね。
 そんな所為か出された食べ物を先ず嫌いと言い切ることはありません。駄目な物は滅多に無いと言うことは良いですね。

 それでも高齢になりますと何と言っても煮物です。魚は刺身より煮魚や焼き魚それと干物ですね。
 肉はコクを出す程度です。使う肉は一回に100g程度ですが、何だか200g位を買って仕舞います。
 そんな食生活ですね。
 煮物の画像が溜まっています。ホルダーを整理し、他へ移したいと思いますので、一挙にと思いましたが、チョッと掲載します。それこそ色は春遠しです。

       ジャガ・人参・昆布・玉ねぎ・シメジ・豚肉

       蕪・揚げ・水菜

       五目豆

       こんにゃく・牛蒡・豚肉

       里芋・こんにゃく・昆布・ハス・人参

     このところポン酢は柚子や橙の果汁に出汁や調味料を加え、自然の味を毎日摂っています。
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知りたいなー

 長女の娘がオーストラリヤにホームステイに出かけておりますので、この機会にと妹の様子を見に行きました。運転は夫が止めて仕舞いましたので、娘に頼まなければ車での外出は出来ません。
 車の運転席の隣に座りますと前が良く見えますね。
 国道16号を南下して走りました。
 かねがね気になっている事の一つ。それは車輌ナンバーです。何時そうなったかは知りませんが、ナンバーを選ぶことが出来るようになっているのですね。

 良い番号はどうして選ぶのか、どういう動機で選ぶのか。 まーそれはそれとして良い番号の車の運転が良い運転をするのか、知りたいのです。
 偶に走る道筋の周囲の景色も気にならない訳ではありませんが、前に座りますと前の車のナンバーが良く見えます。
 
 「ほら1515だよ」「2323だよ」「4545だよ」「3456だよ」とか実に覚えやすい番号が付いている車が多いのです。
 「8、ほら8」唯一桁だけの8が現れました。もう気になって次々番号を娘の横で言います。
 出て来たー!「8888だよ」見つけたーという気分の高まり。
 「ねー ばーば 中国では8は良い番号でしょ」「そうそう良い番号だよ。9999だったらもっと良いのだと思うよ」「香港やシンガポールだと凄い値打ちがあるんだって?」「そうそう特にシンガポールでは車の台数が抑えられていると言うことらしいからね」
 「9はどうして良いの」「八は末広がり。九は久と発音が同じで永久とか長寿に繋がると言うことらしいのね。だけど王先生は10は行き止まりで9はまだ発展出来るからだと話していたと思うけどね」

 「良い番号と事故と関係があるのかしら。良い番号や覚えやすい番号だと運転も慎重になるのかもね」「それに拘る人は車も綺麗にしているかもね」「違反をしても人に直ぐに番号を覚えれるしね」
 「どうなんだろね。知りたいね」「誰か調べているかしら」「こういうことは警察とか検察庁で無いと調べられないかもねー」「調べて教えて欲しいー」「論文が書けるんじゃなーい」

 
 こんなやり取りをしながら車は館山に向かいました。長く行かないうちに道が変わっております。
 館山道が開通してから初めてでしたから、風景も気になり「へー!へー!」が続きます。

           菜花
 
 房総の街は過ってのような活気はありません。何だか淋しく辛い思いを抱き帰宅しました。妹の近所の方から頂いた菜花。柔らかくてほろ苦い房総の味です。
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旗袍あれこれ

 ある日私が留守にしている時、突然我が家に電話がありました。夫が受け「男性の声で既成品は何処で売っているかと聞いていたよ。だからオーダーだけだと返事をしておいたけれど」という話で不思議に思っておりました。

 その後ブログにコメントが入って来ました。この方が電話の方かと思いました。コメントでお答え出来ませんので、管理者あてに連絡出来るようにコメントを下さいと返事をしました。
 その方は「韓氏意拳」と言う武芸をなさっている駒井雅和さんと言う方でした。稽古着に旗袍を着たくて可なりいろいろと調べ、私のブログに辿りついたそうです。
 男性用の物は講座でも生徒はご主人やお父様の為に作ったりしますので、お教えはしますが全く知らない方に作ったことはありませんでした。
 しかしこの駒井さんの熱心さに応えて差し上げたいと思い、メールでのやり取りをしました。
 先ずその武芸の着衣はと尋ねました。着る物は特に決まりは無いと分かりました。その後駒井さんのイメージしている旗袍を知らせて頂きました。

        駒井さんのイメージ図

 念のため見本の生地を送って貰いました。ニットですので縫製は難しく、協力者の方に見て貰い、縫製可能ということでお引き受けしまた。最初はどうしたものかと思案しましたが、結局は勉強になりました。
 出来あがりお送りしましたら、とても着やすくサイズも問題ないと喜んで頂きました。

        駒井さん1

        練習中の駒井さん

 難しくてもお引き受けしたことは私の気持ちを引き締めることになりました。
 全く未知でもあり、耳にしたことも無かった「韓氏意拳」という事にチョッと触れることが出来ました。

 駒井さんのブログはここからご覧ください
 
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子どもも緊縮財政?

 もう言うまでもない日本の経済事情。お金の面で庶民が生活を切り詰めている様子は毎日報道されますね。
 今朝の新聞は大卒予定者の採用方針を撤回する企業のあることを伝えております。
 
 数日前、河北新報は「学生寮、不況で復権 家計に配慮、自ら希望 仙台・東京」という記事を掲載しております。
 宮城県登米市高校が仙台に設置している登米市立仙台学寮が老朽化しているにも関わらず、登米出身大学生12人が入寮して満室になっているという話から最近の親たちの事情と子ども達のことへと触れております。
 学寮は大学に置かれていることもありますが、県が昔から篤志家の援助や元藩の屋敷を利用したものなど、いろいろあります。戦後はそういった学生寮は都内あちこちにありました。
 学寮は普通は数人で一部屋を使う場合が多く、徐々に廃れて来ました。

 私も下宿案内の手伝いをしたこともあります。そうですね。もう余りに昔のことですから、多くの方には通じない話になることでしょう。県の寮も学生が増えて来ますと、入れる方が限られます。そこで大学の寮や民間の下宿屋アパートなどに入るわけです。
 入学試験の始まる前に電車の中吊りなどで家主さんを募集します。そして合格して手続きの済んだ学生に下宿を紹介します。

 その様子  1960年代は先ず小さな部屋から埋まります。3畳が先ずふさがり、4畳半、そして6畳と順に無くなって来ます。 大家さんは殆んど毎年登録される方ですから、係りの方には大凡どういう家か見当が付いています。悪徳大家は先ずおりませんね。
 賄いのある家は親は気に入りますが、子どもはなかなかOKしません。そういう下宿奪いい合いの時期を経て、経済の尻上りの時代になりますと、親も子どももより大きな、便利な部屋を求めます。
 バス付きでなければとか、部屋は大家さんから見えない所に玄関があることとか、自由な生活へと変わって来ました。
 下宿が大きい部屋になり、バスもあるとなりますと、係りはバスの手入れまで教えることになります。段々世の中の生活が派手になり、子どもは甘やかされておりますから、当世親子事情に触れることが出来ます。
 宅配便が出て来ますと、洗濯をせず親元に纏めて送るとか、食事を作って送って来るとか、いろいろと耳に入って来ます。 
 恐らく今は大学で紹介することは無くなっているのではと思います。
 
 部屋を探す事でも時代を反映しますね。

 私の同級生の奥さまは料理教室を開くほど、料理上手でした。毎年新入生を紹介します。預かる学生は数人ですが、食事が美味しいので、途中で出て行く学生はありません。ご自分の手作り料理を食べて貰いたい。それもご主人の出た大学からと決めて申し込んで下さいました。このような下宿は滅多にあるものではありません。
 
 マンションをと言う学生が多くなって昔からのようなアパートに住む学生は減っているかも知れませんね。
 ですが懐と相談しなければという最近の事情も記事を読み分かりました。

           昔の明大生田寮

 大学が管理する学生寮は女子のはあるかも知れませんが、男子寮は恐らく無くなっているのではないでしょうか。
 いろいろと考えさせる記事でした。
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安い物は嬉しい

 スーパーに行き、旬の安い物を見つけると堪りません。大抵は一度考えます。どうしたものかと。でもねー。結局手を出すのです。無駄な考えは止めようと必ず思うのですがね。格言などは何処かに行っています。
 長女から電話が入りました。「今ショッピングセンターにいるんだけれど、真子が半額になっているけど」「買って来ちゃった」「なーんだ、じゃー寄るわね」煮た真子を食べたいと言う意思表示です。「寄るわ」はそういう意味を私に発信伝える言葉です。
 これは少し前の話しでしたが、その数日間「真鱈の真子」が安く店頭に並んでおりました。その数日は数日で終わって仕舞いました。
 買いました。買いました。そして夜鍋で何回も煮ました。ゆっくりと含め煮にします。さーてと誰に食べて頂きたいかを考えます。
 娘も私もたっぷりと食べます。そして考えます「コレステロールは大丈夫かしら?」と。
 好きですし、どうあれ我慢せずに食べて仕舞います。こういう精神構造は○○中毒と言うのでしょうか。

          大きな真鱈の真子

 あちこちの友人・知人に送っりし、残りは小分けにして冷凍します。それを時々取り出し口にして喜んでいます。
 ですが、他の煮物と同様。出来あがって直ぐの物とは違い味が落ちています。まー良いかとなります。

 上の値段買いたくなりましょ。 
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チョッと見てみましょ

 明治大学は来年創立130年を迎えます。盛大な式典が挙行されることでしょう。
 創立70周年記念式典には昭和天皇をお迎えしました。大学祭も盛り上がりましたね。何だか凄く古ーい古ーい話ですね。私がばーさんになっているのも不思議ではないのですが、まだ心身のどこか隅っこに学生気分があるような気がしています。変だとも言えるかも知れませんが、染み付いているのですね。
 古ーい友人には見て頂けないかも知れませんが、チョッと新旧対比出来る事を載せて見ましょう。
 先ず試験料 現在は受験料は一般に35000円と聞きますが、明治は幾らでしょうか。
 この試験料領収書はクラスメートが持っていたものです。彼は一度退学して医学部に入ったのですが、どうしても明治に戻りたく、明治恋しさでこの一枚も大事に仕舞って置いたものです。試験料400円です。普通の受験料とは違い、学制変更により、移行試験の受験料です。通常の入学試験料の半分くらいではないかと思っております。61年前のものです。因みに前年の入学受験料は200円でした。
 彼は戻って来ました。そして念願の学生生活を送ったのです。

         試験料領収書

 アカデミーコモンの敷地には8階建ての大学院校舎がありましたが、昔はその敷地には石畳の崖があり、その上にテニスコートがありました。後ろに山の上ホテルが見えます。下は同じ位置です。

        テニスコート

        アカデミーコモンの前庭

 今は紫紺館となっている敷地の建物は小川町校舎と言われておりました。最上階に柔道部の道場があり、考古学博物館や刑事博物館、商品陳列館などもありました。文学部の教室があったこともあります。(画像は柔道部HPから)

           小川町校舎入口

         紫紺館

 紫紺館の東は現在は確かミズノの東京本社? 昔は佐野病院と言う精神科の病院でした。

 アカデミーコモンの北、道を挟んだ通りに面した角に8号館という建物がありました。昔経営学部を卒業した方には懐かしい校舎かも知れません。そのもっと前は政経ビルと言う雑居ビルでした。
 左に旧大学院校舎の一部が写っています。
          
          明治大学8号館

          8号館と同じ場所
 
 上は元8号館と同じ場所。暫らく前には富士銀行だったと思います。すっかり綺麗になって若者向けの店に変わっております。

 学生時代から変わらず、何かに付けてマスコミに登場するのが喫茶店のラドリオです。北海道滝川市に住む同級生はここに毎日のように行っておりました。軍隊からもどって来た彼は画を描き、ロマンチストでしたから、軍隊はさぞ辛かったことでしょうね。

             ラドリオなど

           神保町付近の喫茶店

 今回はこれで。また画像が集まりましたら掲載したいと思います。
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漢俳と一葉茶

 2月27日の中国語の授業
 何時もの通り老師は中国のお茶を入れて下さいました。名前は「一葉茶」という飲用既に2000年と言う誠に苦いお茶です。
 先苦后甜と言われましたが、先ず口にしますと一般のお茶と比べ苦く、その次に甘さがじわっと舌に上って来ます。
 舌火上留下了(舌に残った)という言葉が出て来ました。このお茶は一本の大きな葉をよってあります。一杯の湯呑みに一本の葉を入れて湯を注ぎ飲みます。中国では広西、海南、華東方面で採集され薬用(養生保健飲品)にもなっているそうです。一本の葉で何回も飲むことが出来ます。色が後の方が濃くなって来ます。何だか不思議な感じがします。
 
        苦丁茶(一葉茶)

        一葉茶

        開いた葉

        何杯目かの色

 老師が時々湯呑みを覗きこみ、お茶を注いで下さいます。そのお茶を飲みながら漢俳という中国での俳句の説明です。
 以前大岡信先生が中国に行かれて中国の文化人と俳句を語り合った事を新聞などで見ておりましたので、漢俳の話は割合スーと理解できました。
 
 勿論漢俳は漢字で詠む訳です。
 
 1 五字 七字 五字 となります。
 2 句末に韻をふみます。 (押韻)

 中国での最初の漢俳を詠まれたのは1980年。趙朴氏により始まりました。
 趙朴氏は中日友好協会会長や中国仏教会会長などもされ有名な学者であり、詩人・書家としても知られた方だと説明がありました。
 その趙朴氏が最初に作った漢俳が中国での一番最初の句だそうです。

  「 緑陰新雨来 山花枝接海花開 和風起漢俳 」味わい深く良いですね。漢字の持つ力を強く思ったことです。
 温家宝さんや林林という方の漢俳も板書されました。
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毎日毎日変わらず

 毎週一回は必ず道の駅や生産者直販の店に行きます。勿論野菜は新鮮ですので、比較的長く保存出来ます。
 値段も廉いのでどうしても多めに買って来ます。
 我が家の朝食は相変わらず和食が中心になっております。他の方の料理を拝見しますと料理とは実に多様な姿を見せて呉れる物で、楽しみ方も様々ですね。
 外食を愉しむ。手作りに熱中する。お菓子を創作する。魚を、野菜を、肉を、麺類をと幾万種類とも言えましょうね。そのようなことを知りつつ私の毎朝は相変わらず。茶色、黒、赤が中心の地味な色です。

       2月17日

       2月18日

       2月19日

       2月21日

       2月22日

 これは何のためにと自分で考えて仕舞いました。何を食べたかを忘れても良いけれど、食べたことを忘れたならばボの字だと言うことですから、毎日写すと言うことで食べていると確認出来る訳です。

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プロフィール

相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日86歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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