2010-07

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久し振りの駿河台

 このところ何かと忙しく、明治大学に足が向いておりませんでした。
 先日久し振りに研究棟4階のロビーで親しい先生と落ち合いました。
 随分昔4階のロビーで簡単な食事を摂ることが出来ました。長女と一緒の時、丁度そこに醍醐作三先生が食事中で私に茹で卵を下さいました。以来娘は大学の先生でも可愛い人がいるんだねと。時々話に出ます。
 
 お待ち下さった先生と近道を通り山の上ホテルのシェヌーに行きました。毎度のことですが先生は最近の資料をお持ち下さいました。

          明治大学案内

          明治複数受験案内

 最近の大学案内や受験案内はビジュアルで綺麗ですね。掲載されている女子学生はこれまた感じの良いお嬢さんばかりです。昔は大学の格と女子学生の器量は反比例するなどと言われておりましたが、そのようなことはありませんね。今は何処の大学にも素敵なお嬢さんがおります。
 私などはイモねーちゃんと言われるほど野暮でしたね。

 先生は私に「和ランチ」を勧めて下さいました。「何だかサマランチ見たいな名前ですね」なんて言いながら頂きました。先生と話しをしておりますと昔に帰ったようで楽しいものです。だからと言って回顧談と言う訳ではありませんよ。大学の新しい試みなど、前向きな様子も伺うことが出来ますから気分が若返るのです。

        和ランチ

 この山の上ホテル別館の場所は戦後暫らくは普通の屋敷でした。当時の駿河台は駐留軍の家族用に接収された家が多く、山の上ホテルは米軍の女性の宿舎となっており、毎日ホテルから颯爽と出勤する姿が見られました。
 女性達は揃ってショルダーバックを肩に掛け、ハイヒールです。
 現在の山の上ホテルの別館の北側に明治大学女子専門学校(通称女子部)の粗末な木造の校舎が建っておりました。
 地味でしたね。今の女子学生と比べますと烏のようなものです。配給のキップで服を買うことが出来ましたが、そのキップは人数に対して五分の一位でしょうか。皆さんいろいろと工夫をしてやり繰りをしておりました。
 ララ物資と言う米国の援助物資の洋服や靴などを受ける学生もおりましたが、それは戦災にあったという条件が無ければ駄目です。
 今の学園は花盛りのような感じですね。平和の有難さを感じます。来月早々にはオープンキャンパスに多くの高校生が集まることでしょう。リンクしてあります明治大学のHPをぜひご覧になって下さい。
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久し振りの揚琴

 この暑さは何時まで続くのでしょうか。「梅雨明け十日の暑さかな」と言いますが実感します。
 昨夜は久し振りに都心に出掛けました。本当に暑いですね。

 先ごろ日本に戻って来た林敏さんの揚琴コンサートです。私の「チィナドレスを楽しむ交流会」で既に顔見知りの方も含めて8人での応援となりました。
 会場は内幸町ホール 小さなホールですが観客の皆さんの雰囲気が良く分かる広さです。
 舞台の様子や照明の位置などから音楽ホールとしてのホールとなっているようです。座席は200ほどでしょうか。
 
           揚琴コンサートパンフレット

 林さんの演奏は蘇州夜曲から始まりました。私の好きな曲です。蘇州の風景が目に浮かびます。
 演奏はパンフレットと同じ曲もありましたが違う曲も演奏されました。
 以前より表現に深みが見えます。最後まで揚琴の変化に富んだ音色を愉しみました。バックの3人の演奏が良かったですね。あくまで控え目、林さんの演奏を引きたてる姿に感心しました。
 
 林さんは良い方に恵まれております。彼女の謙虚さが日本人に受け入れられていることだと思います。
 
 コンサートが終わり皆さんに挨拶をする林さんの周りには中高年の方が大勢見えます。とても良い会でした。

          林さんの挨拶

この日の番外編

 新橋駅日比谷口から機関車のある広場に出ました。何かありますと通行人への取材がよくされる場所です。
 TVの取材班が待ち受けるだけのスペースがあるのですね。また官庁街にも近く、サラリーマンから女性まで通ります。
 都内ではこれだけのスペースがあり、また取材に便利な場所はありませんでしょうね。まーそんな感想を抱きながら「ここで良く取材をされているわねー」なんて言いながら歩き始めました。
 突然一人の仲間にマイクがだされ「辻元議員の離党をどう思いますか」と始まりました。一人置き先へと行く訳にもゆかず、様子を眺めておりました。ところが今度は私の前にマイクが出されました。本当にビックリしましたね。そして何と上手く話せないものかと我ながら参りました。 
 新橋駅周辺と言うのは飲み屋が多いのですね。チョッと何かをお腹に入れましょうと、適当な店は無いかと探しましたが見つかりません。
 やっと見つけたドイツ酒場 偶然そこに現れたのが仲間の一人 4人で座りソーセージ、ジャーマンポテト等をゆっくりとることが出来ました。
 「偶には東京に来ないとね―! 何だか違うわね―! また来ましょうね」と
 コンサートプラス東京でした。
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新聞は後で見る

 毎日朝食の準備が出来、卓上にいろいろと並びますと、新聞を置きカメラを向けます。
 夫はその後に起床。手を洗い口を漱ぎうがいをしてテーブルに向かいます。その間新聞の一面の大見出しを眺めます。
 大凡其の日前後の政治や社会の動きを眺め、それからどうなるかと言いますと、忙しく動き回りますので、なかなかゆっくり読むことが出来ません。結局夜中に夕刊と一緒に雑な読み方をしております。
 外国の新聞事情を知っているわけではありませんが、日本の新聞の配達は助かります。もし外に買いに行かなければならないと言うことであれば、老いて外出も難しくなりましたら、知るというか文字を辿ると言うことが無くなって仕舞うかもしれませんね。活字は本を読めばまーある程度は確保出来ますが、ニュースは入って来ませんね。
 TVが唯一なんてことになりかねません。多分TVは鬱陶しく感じることでしょうね。新聞が読める内が華かと言うことでしょうかね。

 時々朝食の画像を見返し、はっはっー!こんなことがあったんだと。時間の流れの速さに我ながら驚きます。
 次々変わる世相。変わらないのは我が家の朝食方式。そしてトマト。

        朝食7月7日

        朝食7月12日

        朝食7月14日

        朝食7月16日

        朝食7月23日

        朝食7月25日
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誌面で対面

 明治大学広報誌季刊「明治」が届きました。手に取ると何時ものように先ずパラパラとざーと目を通します。

         季刊「明治」47号

 ページをめくりながら私の目は「卒業生探訪インタービュー」で留りました。他のページを忘れてしまったかのように、釘づけになりました。
 1958年に大学に職員として就職した私の配属された職場の課長は講道館高段者会のメンバーでした。
 確かその頃柔道部の師範は姿節雄さんではなかったかと記憶しております。同じ柔道部の出身者と言う親近感からか柔道部の学生、卒業生など良く課長の所に何かと見えておりました。学生は3段、4段と言う方もあり、明治の柔道部は今と同じく輝いておりました。
 その中で温厚さと品性の良さ、それに知性を漂わせていたのがマネージャーの押切さんでした。特に目立つ体格ではありませんが、がっしりとしておりました。
 その押切義春さんが今回のインタービューを受けている卒業生です。

          押切さん

       押切さん略歴

 押切さんがポーラーに就職したことはお聞きしておりましたし、一度銀座ポーラーにお訪ねしたこともありました。それでもそれは50年程前のことになります。
 改めて今の押切さんの姿を知りました。チュニジア柔道の父と呼ばれ、チュニジアでの柔道の興隆に貢献されたのです。
 学生時代のことにも話が及んでおり、お父様から柔道の手ほどきを受け、ごく自然に明大に入り柔道部に入部したそうですが、多くの強い学生の中で鍛えられ、学んだことは生涯の糧になったそうです。怪我をしたり不調の時には指導法を研究したと言う言葉に私は並みの学生では無かったのだと感動しました。
 このインタービューを読みますと、指導者とはかくあるべきだと言うことを強く感じさせられます。
 学生たちは大学で多くのことを学ぶでしょうが、是非このインタービューの中で語られている、リーダーとなるべき心構えをじっくりと読んで欲しいなーと老婆は切に願っているのです。
  昨日柔道部の顧問をされている百瀬恵夫先生に電話をしました。勿論押切さんのことです。
 百瀬先生も「実に立派な方で、時々お会いしているよ」とお褒めになっておりました。
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布ナプキン

 以前沖縄に行き、ひめゆりの塔に詣で資料館で当時のことを偲びました。
 激戦の中で軍と行動を共にし、最後は軍から見放されたような乙女たちの実際の生活は知ることは出来ません。
 凄まじい攻防、米軍の恐ろし程の全力戦の姿。映像で沢山目にしております。逃げ惑う沖縄の人々。壕から這い出て来る襤褸をまとった老若男女。心が締め付けらえるような風景は目にしますが、戦いの中で、壕の中で、敗走する山中の中で。どのように生きて来たのかまた過ごしていたのか、そういうことを私は知りません。

 女の子は少女から乙女へと成長して来ますと、当然何時かは女性としての整った体の証の時を迎えます。
 昔々女学生になりますと学校での説明がありました。私はそれを確りと理解してなくて、体操を休む人が見学と言いますので、「見学」と言う言葉で通じると思っておりました。
 実際親が中国にいましたので、祖母に「見学なんだけれど」と伝えましたが通じませんでした。
 
 その頃、日本の軍部は前線では敗走していたり、制海権や制空権も殆んど無くなっていたのでしょう。生理用品は簡単に買うことが出来ませんでした。アンネとかナプキンと言うような物は皆無です。そのよう物は戦後の品物です。
 女学校の中では生理帯と言う簡便な物に油紙を当てて使う方もあり、パンツにゴム布を貼った物などを穿いておりました。今の若い女性には考えられないことでしょう。

 先日新聞に布ナプキンが自然派に人気という記事が大きく掲載されました。

         布ナプキン記事

 戦争が激しくなり、脱脂綿(今の生理用のカットメン)などは売っていなく和紙で包まれた中に何か吸収する物が入っている物が売られました。脱脂綿は救急袋に入れるのが精一杯でした。
 その頃私は親からの送金が途絶えると大変なので、節約する為に祖母から古い浴衣などを貰い、ほどいて切り分け、それ用の蒸し器で消毒をして使いました。この記事を読みますと私がやっていた方法と似たような感じがします。 
 沖縄戦で働き、果ては命まで落とした乙女たち。この女性としての生理的な問題をどうされて過ごしたのか。
 沖縄に行きそして記録を読んだり、またTVで語られる当時の様子。それらには出て参りません。
 きっと女性だけの経験でしょうから、発表にも遠慮があるのではと思っております。

       沖縄に咲く花

 沖縄には南国に似つかわしい綺麗な色の花が咲き乱れております。このような鮮やかな色に接しますとあの切ない日々を送った方々のことに思いを馳せずにはいられません。
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集まりは楽しい

 9月9日に私たちのオパール・ネットワーク我孫子支部の第3回ワンコイン寄席を開催します。
 整理券も出来、またチラシやポスターの準備も出来ましたので打ち合わせ会を持ちました。
 皆さん積極的にPRと販売の協力をして下さると力強い言葉がありました。
 仲間の方が夏らしいチラシ寿司を持って来て下さり、打ち合わせの後は雑談のひと時を過ごしました。
 
 近く我孫子で「なんでも鑑定団」の収録があるのでと市の広報の中に応募を促すチラシが入っておりました。そのことから一気に話が盛り上がりました。
 「ねー弥生軒さんは絶対出るんじゃない。我孫子って結構いろいろあるかもねー」
 「ところであなたの家には何か無いの」「家には無いわよ」そうこうするうちに棟方志功さんと親戚の方へと話が振られました。
 「何か出したら?駄目?見せて欲しいわ?」皆さんの興味の目に親戚の方は家に戻り一枚の墨画を持って来ました。
 その画は昭和16年の夏に彼女のために志功さんが目の前で描いて下さったものでした。
 「ねー応募して皆さんに見て頂いたら」と勝手なことを言いながらも感心しました。大きな掛け軸ですので、背の高い方がテーブルに上り掲げて皆さんで拝見しました。

 写真もお持ちになり、彼女のおばーさま(志功さんの母)と一緒に並んだ写真です。

          ワンコイン打ち合わせ

          志功さんと

 一番右端が仲間の方です。少女らしい可愛いい姿です。

 画は当日の出席者の方には写した物を差し上げ、記念の一枚にして頂くことにしました。

 PCは便利ですね。写真はキャビネ判でしたので大きくコピー。彼女に差し上げました。
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もの言いたき歳

 日々のニュースや巷間耳にする事柄にとかく文句を言いたくなっています。夫は私に輪を掛けて文句を言っております。ですが夫は体調の問題もあり、外出は滅多にしませんから、出先での文句を言えません。
 その点私は買い物に、会合に、授業にと外へ出て行くことは多いのです。時々街中で会う方に「今日お出かけですか」と「も」付きで声を掛けられます。
 
最近その外でのこと
 近くのショッピングセンターに買い物をしに出掛ける時
 重い物を持つ力が無くなり、カートを引いて行きます。R6号を越えるのに歩道橋を渡ります。
 数日前買い物を済ませてカートを引き、歩道橋の坂を下っておりました。
 後ろから自転車のチリンチリンの音が聞こえます。振り返って顔を上に向け眺めました。60歳代と思われる男性  自転車にまたがり盛んに手を振り、私にどけどけとサインを送っています。「降りないわよ」と私がスロープの上を降り出しますと、またベルを鳴らした男性が手を振り「どけどけ」とサインを送っています。
 そこで私の怒りが爆発。 
「よけないわよ。あなた降りなさい」「そこに自転車に乗ったまま降りないようにと書いてあるでしょ」と声を荒げて言いました。まだにやにやして自転車に跨って降りる体勢を取っています。
大人がそんなことしてはダメでしょ。私はよけないわよ」と大きな声で言いました。

       R6歩道橋

 スロープからどうしろと言うのでしょう。失礼も良い加減にして呉れって言うものです。
 やっと男性はこのバーさん通じないと思ったのでしょう。自転車から降りて下へと来ました。
 
 「ここで自転車に乗ったまま降りて来て怪我した人がいたのよ」これは本当です。
 「俺も怪我したよ」
 「ここで?」
 「車にやられたんだ」
 「だから気をつけないといけないのよ。歳なんだからね。気を付けなさいね」
 「分かったよ。じゃねー」60歳はスピードを出して去って行きました。

 ほんとに分かったどうかは分かりませんが、この足元に見える文字を見ると
 おっかないバーさんがいたなーと、思い出し多少気を付けるかも知れませんね。
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Hさんとの台湾話 5

 Hさんと食事を取りながらお喋りが続き、話はあちこちに飛びますが何時も感心するのは彼が日本をとても好きに思い、台湾に帰りますと家族に日本のことを話すと言うことです。
 15日に一泊で東京に来た時TVで芥川賞と直木賞が決まったと知り、そのことを息子さんに教えたそうです。
 明治大学農学部からマスターコースへと学んでおりましたし、また教授の手伝いもされておりましたので、中島公子先生とは知り合いでした。たまたま来日しており直木賞のことを知ったわけですが、中島先生のお嬢さんと知り驚きましたとメールを頂きました。
 家族思いのHさんは私が台北に行きますと、必ず一回はご家族との食事を用意して下さいます。

        圓山大飯店で飲茶

 Hさんと台湾企業のことが話題になったのは中国でのストライキの話からでした。その会社のこともレポートにして送って下さいました。以下のような内容です。

鴻海(FOXCONN)グループ

創業者:郭台銘(1950年10月8日~)
学歴:台北市私立中国海事専科学校(現在、台北海洋技術学院)
主な企業:鴻海精密工業有限公司、富士康科技集団
営業項目:IT関連の部品製品の研究開発及び製造
基金会:永齢教育慈善基金会
個人資産:60億USD(2008年現在の資料)

事業概略
1、幼い頃から貧しいため、在学中ゴム・砥石・製薬等の工場でアルバイトして家計を助けたことがあった。
2、1974年退役後復興航空に就職。
3、1974年母親が互助会(註1)から借金した10万NTD(約当時2年分の賃金)で「鴻海プラスチック企業有限公司」を設立、白黒テレビのボタン製造から事業をスタートした。

4、1981年コネクターの開発に成功し、ノットブックPC用コネクターを生産することになった。
5、1982年社名を「鴻海精密工業有限公司」に変更、資本金10万NTD。
6、1985年アメリカ支社設立。
7、1996年中国シンセンに「富士康科技集団」設立。
8、2005年売り上げ280億USD達成、2008年倍増で618億USD。
9、郭台銘氏は現役中だが、後継者は家族ではなく、企業内の優秀な人材
  から抜擢することをアナウンスした。
主な慈善事業
1、2008年7月22日に将来は個人資産の9割を公益に使うと宣言した。
  金額からすると世界第6位になる。
  (60億USD x0.9=54億USD 約4800億円になります。)
2、2007年9月、国立台湾大学に150億NTDを寄付、その内100億元を五百個病床規模の台湾大学病院ガンセンター及び陽子線センターに、50億元を永齢教育慈善基金会経由で台湾大学と「先端設備醫療」、「幹細胞移植」、「予防医学」及び「医学工程」の四項目の提携に使用する。
 これは今まで世の中で単一の大学医学部に対し最大金額の寄付額。

3、1998年以來、医療、教育、社会福祉援助のため中国山西省に計3億人民元を寄付。
4、2007年5月 500万NTDを寄付して、台北県に「飼い捨て犬の家」設立援助。
5、2007年4月 より2年の間7億NTDを寄付、「台灣の希望教育工程」を発足させ、辺鄙なところの子供に教育を受ける機会を提供。

註;互助会:
1、金融業が発達していなかった時の民間金融システム。
1、誰かが発起して定期定額で出資する会員を募集。
2、定期出資すると同時会員同士で融資の入札を行なう。
3、金利の最も高い会員の一人が入札する。
4、一回落札すると会期(期数=会員数)終了まで入札参加できません。
    いわゆる「死会」になります。
5、そうすると会員一人は最後まで落札しないことになります。
    その人は結果として借金せず金利全数を手に入れることになります。

 このシステムは民間行為で、法律の規制も保護もされず、複数の互助会に参加し、悪意で高金利で落札した高金額を持ち逃げ事件もしばしば聞きました。

(昔日本でも流行っていた無尽講のようなものと同じでしょうか。注=持永)

         台北の駐車場上の公園

 台湾は暑いのですがこの公園の下は駐車場になっており、車は日に当たりません。広くてビックリしました。
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Hさんとの台湾話 4

 Hさんの住む街は台北の中でも閑静なところです。PCで眺めたことがありますが街路樹が綺麗に整備されておりました。先日お会いした時に最近買ったマンションも近くだそうで、覗けるように場所を教えて下さいました。
 台湾に行きました時、新築の家の上に鉄骨の見える家が良く目につきました。聞きますとそれは後で上へと建て増しができますよ。という力の誇示らしいと分かりました。今はそれが意味を無くしているそうです。何故かと言いますと多くは違法建築になるもので、現在は航空写真で監視されており、もし違法と分かれば処罰を受けると言うことになったそうです。実施された年もお聞きしましたが忘れました。Hさんにまたお聞きしましょう。
 Hさんは毎日ジョギングをしながら、街の様子を眺めているそうです。
 近くに台湾プラスチックの本社があると携帯で写しましたと画像も送って下さいました。


台湾プラスチックグループ

創業者:王永慶(1917年1月18日~2008年10月15日)
台北近郊生まれ、台湾では経営の神様と称されている。


グループの主な経営項目
プラスチック関連、石油化学関連、発電所、電子、医療、学校

1、貧困な農家出身
2、15才小学校卒業後、茶畑及び精米工場で雑用
3、16才の時父親が借金した日本円200円(
   註:当時の10数ヶ月分の平均賃金相当額)精米工場を設立。
4、第二世界大戦期間中、精米工場は一時休業を余儀なくされたため、
  ガチョウの養殖をすることもあった。
5、1954年累積してきた資本金で政府にタイヤの製造申請をする計画だったが、
  タイミングを逃して実現しなかった。
  其の後政府からPVCの投資案件を通知され、
  PVCはどういうものかさえ知らなかった王氏は台湾プラスチック公司を設立した。
6、現在台湾で最も収益の高い製造業と言われている。
  2007年年度決算でグループ純利益約2190億NTD(約6300億円)
7、王氏は2008年アメリカ視察中病気でなくなった、
  現在家族のメンバーが事業を受け継いでいる。

慈善事業
1、王氏は勤勉と簡約な生活を堅持することで有名、
  また絶対の誠実及び環境が如何に厳しくてもギブアップせず努力し続けることは
  経営の信念だそうです。
2、常に社会奉仕をし、また学校及び病院を通して社会救助を行なう。
3、近年30億人民元(約450億円)を寄付して、中国で1万校の希望小学校の建設助成。

         台湾プラスチック本社
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Hさんとの台湾話 3

 台北空港に降り、空港から台北市内に向かう道で、何時も目にするのはエバグリーンのコンテナーを載せた大型トラックです。
 見慣れたと言う程ではありませんがとても目につきます。
 Hさんに「偶に日本の道路でもエバグリーンのコンテナを見ることがあるけれど、凄ーいんですね」と話題になりました。Hさんは「大きな会社ですよ。バックも無く自分の力で作り上げた会社です」と。
 そしてその会社の資料を送って下さいました。

長栄グループ

一、創業者:Mr.張栄發(1927年10月6日~) 
 1、台湾西側にある澎湖島生まれ、7歳台湾基隆(港のある最北部の都市)に移住。
 2、18歳で日本の船会社に入社、船室管理員。
 3、独自の苦学で航海士を経て船長にまで至った。
 4、1968年航海生涯に終止符を打ち、創業に踏み切った。

二、主な企業 
 1、長栄海運
  ①1968年設立、中古貨物船「長信輪」を購入して海運事業をスタートした。
  ②創業初期は財政難で毎日銀行へ頭を下げに行く時期もあったという話し。
  ③其の後、綿密な営業計画を提示して日本丸紅株式会社からの
   資金援助を獲得した。
  ④1979年ヨーロッパ航路を開拓した。
  ⑤1982年世界不況時低価格で24隻のコンテナー船を発注した。
  ⑥1984年世界一周の航路を開拓した。
  ⑦1985年長栄海運が世界最大規模のコンテナー会社になった。
 2、長栄航空(エバー エアー)
  ①1989年設立、設立と同時にボーイング社及びマクドネル・ダグラス社
   に飛行機26機発注し、世界の航空業界から注目を浴びた。
  ②1991年7月1日正式にオセアニア、欧、亜、米に就航。
   (一民間企業で一気に26機の飛行機を購入して、世界中に乗り入れることができ、
    数年で台湾のラッグ・キャリアである中華航空に匹敵する規模まで発展しました。)
  ③2010年現在、航空機55機も所有。


機型 架數 訂購
B747-400 3  
B747-400 客貨兩用機 4  
B747-400 (全貨機) 9  
MD-11(全貨機) 8  
MD-90 6  
B777-300ER 14 1架
A330-200 11
    總計: 55 架
                    出所:EVA AIR投資家情報

三、慈善事業
 1、張栄發氏の理念:「善事をし、徳を積むために生き、
   一企業家として成功し儲かった時、
   恩を感謝する心を持ち、もとを忘れることなく、
   適時に善の実践として、布施し社会奉仕をするべき。」
 2、1985年「財團法人張榮發基金會」の設立によって、
   長期的な社会奉仕発足。
 3、社会調査または病院や慈善団体を通して援助必要情報を入手して
   確実且効率的な救援活動を行なう。

          エバーエア―の航空機

 最近Hさんは搭乗する際、携帯を切る時に極自然に何かを写すことが習慣のようになっているそうです。
 可愛いキティーちゃんの絵が見えます。
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Hさんとの台湾話 2

 Hさんとお会いしますと台湾の様子がいろいろと出て参ります。それでも食べ物や観光関係のことは殆んど出ません。一つには彼の仕事が光学関係と言うこともあるからかと思いますね。それと明治大学のことも出ることが多いからかも知れません。そうそう故宮博物院の話は割合出る方でしょうか。話が進むうちに必ずまた行きたいとなります。Hさん宅から松山空港までは徒歩10分。羽田との直行便が開通するそうで、楽しみです。
 
 ところで先日は私が訊ねた中国で起きたストライキの話から台湾の大企業の話になりました。
 そういうことでHさんは自分の力で成功した方のことを話して呉れました。
 前回書きましたように台湾で改めて調べレポートを送って下さったのです。
 先ず以下にHさんからのメールを記して置きます。

『台北では35℃を超える日が続いています。 真夏でこのような暑さは幼い頃から
あまり変わっていませんと記憶していますが、 どうも近年は暑さに対しあまり苦しさを感じな くなっています。

 歳と共に落ち着いてきた精神状態、それとも 毎日の運動による皮下脂肪減が原因か知りませんが、
とにかく33℃の室内にいても扇風機さえあれば 充分です。

 さて、裸一貫の成功者についての概略資料を添付通り 整理しました。

 台湾プラスチック、エバーグループ、鴻海を選びました。
 
 有名だから、普段はこれらの企業のすごさはよく聞きますが、 それでも断片的な知識に留まりました。
 今回は資料を整理する機会で少しこれらの企業家に対する認識が深くなりました。

 やはり、大変感動しました。

 これらの企業家について、数多くの研究や論述の出版物は ありますが、私流からすると「感動される理由」は少なくとも 次の3点はあります。

 ①独自の努力
 ②製造業や運輸業で、地道な経営
 ③社会貢献に尽力  
           』

 と言うことで三社のことを教えて下さいました。

          台北タワー
 
 上の写真は台北で有名な「鼎泰豊」本店前の道路から見える台北タワーです。

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第3回ワンコイン寄席開催のご案内

 オパール・ネットワーク我孫子支部が開催しますワンコイン寄席。
 今年も9月9日(木曜日)に第3回を迎える準備が進んでおります。会員の皆様のご協力で何とか席を一杯にしたいと一昨日打ち合わせを致しました。
 それぞれメンバーの方からお願いをさせて頂きますが、更にこのページでもお願い申し上げます。
 会場は200席ですので、10万円での運営は厳しいものがあります。
 と言う訳で早々とご案内させて頂きます。
 下のポスターをご覧下さり、前売・予約のお申し込みは管理者宛てのコメントにフルネームと電話番号をお知らせ頂けますと、私から改めてご連絡させて頂きます。
 私の電話番号をご存じの方は直接電話を頂くことは差し支えございません。

       ワンコイン寄席ポスター

 毎回ご好評を頂き、メンバーも感謝いたしております。
 
 公的な掲示版でのお知らせは1ヶ月前から掲載出来ますので、それでもまたご覧いただけます。
 
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京子さん直木賞受賞

 今朝何時ものように朝食と一緒にテーブルの上に朝刊を置きました。あれ?これは?
 第143回芥川賞、直木賞の受賞者の名前が見えます。中島京子さんの名前が見えます。
 直木賞の受賞は中島京子さんと言うことです。

 中島京子さんの新刊をお母様の中島公子先生から頂いておりました。それが受賞作となった物です。

        受賞作

 少し前、京子さんのことをお聞きし、そう遠くない時期に何かの賞を頂けるのではと思っておりましたので、今朝の新聞には驚きましたが、予想もしていなかったということではありません。頂くべきして頂いた賞だと感じております。
 
 実力派と早くから注目されていたのです。
 
 京子さんのお母様からは今回受賞された一冊の他にもう一冊の本を頂いておりました。
 その一冊は京子さんのお姉さまの中島さおりさんの近著です。共に5月の発行です。
 さおりさんは7月2日にパリから帰国されていられるそうで、一家で祝杯を挙げていられることでしょう。
 さおりさんは日本エッセイスト大賞を受賞されておりますので、中島姉妹の才能の素晴らしさを改めて感じております。

         さおりさんの近著

 京子さん、さおりさん姉妹のご両親は共に仏文学者です。私はお母様の公子先生とのお付き合いが長く、時々お会いしご高見を拝聴する機会に恵まれております。有難いことと思っております。
 今回の受賞はどこか親戚のお祝いごとのような気分でおります。嬉しいことです。
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Hさんとの台湾話 1

 先だって親しい台北在住のHさんと楽しい一夕を過ごしました。
 明治大学を卒業後日本の企業の台湾駐在員としてかなりの実績を上げたようです。
 日本企業の撤収後台湾の会社で頑張っております。
 時々日本に参ります。その都度お会いして、四方山話のひと時を過ごします。
 今回の話題の中で参考になりましたのは、台湾の大学受験事情と小、中、高校と親の関係でした。日本の現状は直接知るところではありませんが、台湾の親たちの様子を聞きますと大変考えさせられました。
 
 霞が関ビルでの食事は殆んど昼のランチタイムですが、久し振りにディナータイムで過ごしました。

       ワインと

 ビールが大好きなHさんが珍しくワインにしましょとなりました。私はビールは冷えますのでワインに賛成。
 
 Hさんが先ごろ訪問した天津、北京の様子と感想をお聞きしました。天津では親戚を訪ねたそうです。
 話の中では中国の歴史と文化の奥深さに感動されたと強調されました。中国話はお会いすると必ず出て来るわけですが、今回は中国に進出している台湾企業の話も出て来ました。興味を誘われます。
 知りたがり屋の老婆は詳しく知りたく、台北に帰られたら少し教えてくださいねー。とお願いしました。

 私は最近夜食の量を少なくしておりますので、オージービーフの小さなステーキを頼みました。

       けやきオージービーフ

 食事中にHさんの奥さまがたしか「チェンジ」と言うドラマを見て総理官邸に興味を持っていると伺い、食後何時も眺める窓の所に案内しました。官邸は灯りも微かで何となくひっそりと言う様子で、Hさんは眺めただけでした。
 台北に戻り、奥さまに報告したとメールを頂き、それはそれはと改めて画像を一枚お送りしました。

 暫らく後、Hさんは私が知りたがっていた台湾での有名な企業のことを、何枚かのレポートで送って下さいました。

 それは何回かに分けて掲載したいと思います。 今日はこれで。
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鰯のすり身団子

 掛かり付けの先生から脂ののった魚は出来るだけ食べないように指導を受けております。
 魚好きにはきついですね。買ってはいけないと思いますが毎日魚売り場に足が向きます。
 このところ鰯の良い物が並んでいます。
 刺身は最近欲しくありません。塩焼きにと思ってパックを手に取り、しばし考えます。人がそのような仕草をしますと昔でしたら、何でそんなに考えるのと思ったものです。残酷ですね。
 それはそうですが、今は恥ずかしながらパックを何回戻したことでしょう。
 昨日は鰯が特に新鮮でしたので2パック買いました。
 フライも、塩焼きも、刺身も、天ぷらも、酢の物もと次々浮かびます。散々考えた末全部を鰯団子にすることにしました。

        鰯すり身準備

 これは頭と腸ぬきをし、手で骨と皮を剥ぎ、すり身の準備をするところです。
 これを包丁で叩き、ある程度細かくなりましたら、すり鉢でよく摺ります。生姜汁を加え、薄めに塩を加えます。隠し味に味噌を少し入れ、繋ぎに鶏卵を混ぜ、片栗粉を少し入れます。更に良く摺ります。
 お湯を沸かし、酒をやや多めに注ぎ、沸騰したその鍋に鰯を団子状にして少しづつ落とし茹でます。
 この鰯のすり身団子はそのままでも美味しく食べられます。
 酢醤油でも、辛子醤油でも、生姜醤油でも結構です。更に油で揚げても良いし、甘辛煮にしてもまた結構です。
  
 新鮮さが大事です。これは私の先生にも許して頂ける魚料理ではないかと思っております。
 魚屋の店頭に立ち止まらないのが良いのですがね。好きなものでついつい行ってしまうのです。
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大相撲って?

 私の心に最初に入って来た相撲 それは中国青島の青島神社での巡業の相撲
 双葉山の姿にわくわくして見ました。覚えているのは不思議な事に相撲の取り組んだ姿よりは、力士の普通と違う様子です。
 双葉山が神様みたいです。取り組みが済みますと若い力士が双葉山の背中に噴き出ている汗を拭くのです。その拭き方です。長い竹を割って出来た汗ふきを両手に持ち、しながせて双葉山の背中の汗を掻き取るのです。普通の人ではなーいと 子ども心を震わせました。
 
 昔から巡業はあったのですね。母方の祖父は私を力士に抱いて貰うために勧進元をしたそうです。田舎の言葉で「相撲を買った」と言います。
 その買った相撲が何時、何処で、抱いた力士は誰?知りたく叔母に訊ねました。当時子どもだった叔母はあったことだけは覚えておりましたが、その細かい内容までは覚えておりません。
 祖父は見難い字でしたが日記を確りと書いており、その字は母にしか読めない特徴を持った髭字でした。で母と相談し、日本の「サルベージの歴史」に役立つのではないかと、読み取り 書き残そうとしました。それが出来ていましたら勿論相撲のことも分かるはずだったと思います。
 祖父亡き後それは実現出来ず、母も亡くなり母の実家も無くなり記録は出来なくなって仕舞いました。

 話は変わり国技館での相撲です。蔵前の時に何回か観に行き、両国に移った後の初場所に観に行くこともありました。 
 私は蔵前の升席の狭さに毎度不審の気持ちを持っては観てきており、両国では改善されていると思っておりました。
 ところが升席の大きさが全く変わっておりません。狭い升の中に4人で座りますが、初場所の時はコートを置くので一層狭くなります。コートを預かる場所はありません。
 そこで何故大きく出来なかったかが知りたくて、いろいろな方に聞きました。それはお茶屋が反対したということも聞きました。
 升席の割り振りはどうされているのかは門外漢の人間には全く分かりませんが、後ろの方の席を持つお茶屋が自分の所のお客さんが土俵より遠くになって仕舞うから反対だと。
 そうか そういうことかと謎解きの一端を覗いたような気がしておりました。あの観戦中の飲み食い 両手に持つ重い土産 全て繋がっているのですね。

           朝食7月5日

 お茶屋の存在は長く私に疑問を抱かせております。相撲改革はどうなりますのでしょうか。関心は続きます。
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美容院にて

 私が化粧をしたのは20歳を超えた時でした。子どもの頃から色グロでしたが母親が何と「あんたがお化粧をしたら拭きたての黒板だね」とのたまわり、当時のお化粧の基本のような白粉には拒否的でした。まず口紅だけはと思い塗ってみました。さー気になって神経が唇に集まり、唇自体が顔より前に出てしまったような感じになりました。喋るのも緊張して唇が邪魔になります。
 
 パーマネントをかけたのが21歳。新宿三越の美容室に行き、所謂電髪ですね。頭全体にクリップが並び、コードが下げられております。下げられているとは言いながら、かなりの重さを感じました。電気を通してのパーマネントは、チリチリではありませんが、固い感じのウェーブです。
 そんな話を美容室で話をしますと「授業で習ったことがあるんですが実際はしりません」と言います。「どういう科目で?」「歴史です」「なる程ね」
 最近の私の髪にはパーマが要りません。僅かですが自然の癖があるのです。何で長こと気が付かなかったことかと思いますが、済んだことですから仕方がありませんね。
 
 美容院は予約は出来ますが、忙しいのでついつい予約をしないで過ごし、時間が出来ると急いで行きます。
 
        美容院店内

 皆さん親切ですし、予約で詰まっていても待っていますと、やり繰りして済ませて呉れます。一ヶ月に一回は行きたいのですが、少し間が開くこともあります。
 店が忙しい時にぶつかることが多いのです。店内では美容師?美容士?さんと言うのですか、そういう方々が盛んに手を動かしております。
 洗髪もありますね。洗髪が済み椅子に案内されますが、その時担当者が「お疲れ様」と大きな声を出します。
 するとそれに合わせたかのように他のお客様の髪をやっていた店員さんも「お疲れ様」「お疲れ様」「お疲れ様」と自分の前の鏡に向かって声を出します。
 「ねー何だか関係ないような感じだけれど?誰に向かって言っているのかしら」おばーさんはうるさいですね。
 「言えば良いと言う感じで、誠意が感じられないじゃない。やった人が言えば良いと思うんだけれど」と言います。「そうですね」と必ず返事が来ます。
 ですが変わりません。娘に言いましたら「そういう風にしないとサービスが悪いとか、丁寧じゃないとか言う人もいるんじゃないかしら」なる程そういうこともあるのかも知れないと納得しているような感じでおります。
 美容院の向かいはショッピングセンターです。眺めながら良い場所に構えているわ―なんて考えております。

        美容院店外

 私のような余りオシャレでない者は、一旦決まって通う美容院を変えると言うことはなかなか出来ません。
 ですから良いお店として頑張って欲しいと何時も思うことです。
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差が付きました

 小学生の最後の夏は千葉の浜辺で毎日のように泳いでおりました。その頃(67年前)町の子どもは水着を着ておりませんでした。ウールの水着(海水着と言いました)で泳ぐ私は子どもなりに肩身が狭いような気がしておりました。男の子は褌、女の子は上半身裸のような時代です。
 ただ泳ぐだけではなく、「しただめ」という小さな巻貝を取り、偶にはトコブシや小さなサザエ等を取り意気揚々と帰宅することもありました。
 宿題などは何処吹く風かです。昼食後から陽が落ちて行く頃まで泳ぎます。
 
 サザエなどは滅多に獲れる訳ではありませんが、其の滅多にが嬉しいのです。
 サザエの身の取り出し方は自ずと身についております。クラスの飲み会で男の子がサザエを貝から引っ張り出し口に入れ「うまい!」なんて言いますと「そのまま食べないで~」と直ぐにお節介をして仕舞います。
 身としっぽの間は砂が有ったり、またハカマも苦いのですね。

 そんなことはとも角、1階のスーパーに鮮魚売り場があります。大体午前中に一回りして入荷の品物を眺めて来ます。
 偶にサザエが並んでいます。「これは絶対売れない!」と確信します。夕方遅めに再度行きますと先ず半額になっています。
 先日は小ぶりですが20個 1000円となっていました。

        20個1000円サザエ

 勿論買いました。持ち帰り直ぐに茹でました。それにしても小ぶりですから合わせても左程の量ではありませんね。獲れたての強い磯の香りがしません。当たり前のことですね。まー良いかと夜の肴になりました。

 ところが長崎の金子さんの今夜のおかずという画像をみまして、その新鮮さと磯の香りを強烈に感じて仕舞いました。何と言うこの違い。(田舎暮らし狂想曲ブログ日記から)

        金子さんの今夜のおかず

 この画像は今日は見ることが出来ますが、恐らく明日は目にすることは出来ないと思います。
 画像に顔を近づけて匂わないはずの香りを恰も匂うかのように感じております。
 
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共通の思い出

 誰かと共通の思い出を持つことは少なくありません。子どもの頃、学生のころ、仕事をしていた頃と、その体験や感動を一緒に味わい、時に悲しみ、時に喜び、また助けられたこと等記憶の中に沢山詰まっております。この歳になりますと実に多くのことが改めて思いだされます。
 先日の甲府行きでも然り。その時二人の間で出て来た同級生やお姉さま方やお兄さま方。懐かしさが募りました。
 二人の通った小学校の同級生の女子に広瀬小児科医院のお嬢さんがおりました。先頃青島からお見えになったリカさんは「広瀬病院の名前が良く出て来ますが、どういう病院ですか」との質問がありました。

 青島羊会が発足してから暫らくは広瀬さんの消息は分かりませんでした。ある時青島中学卒業生の川村正さんの編集発行されていた「青島」という会報に広瀬先生のご住所を見つけました。先生に手紙を出し、お嬢さんの玲子さんの住所が分かりました。青島のリカさんは戦前から青島に住んでいた方の資料を集めております。いづれ分析しライフワークの一つにしたいと思われているようです。

 資料収集に役立つのではと玲子さんにお聞きしました。

 広瀬小児科病院の広瀬徹夫先生は総合病院の青島病院の小児科の先生だったそうですが、昭和5年頃鉄山路10号に病院を開業されたそうです。病院の規模などは幼かった玲子さんには良く分からないそうですが、建物は大きくて、庭には樹木が茂り、ブランコ等も置かれていたそうで小児科らしいですね。私が遊びに行きました時庭の方にも行きましたが、確かに緑が多い庭だったと記憶しております。
 病院のスタッフは20名ほどだったそうです。
 玲子さんは敗戦前に帰国されておりますが、先生は戦後佐賀市に引き揚げてそこで病院を開いたそうです。そこは現在弟さんが引き継いでいるそうです。
 青島の鉄山路の病院には第一小学校の生徒の多くがお世話になったことで、子どもなりに青島の記憶の一つになっていましょう。

 4月の青島訪問の時に病院の場所に行きました。病院はなくなり、今は医療関係の建物が建っていました。

       広瀬病院跡地

 玲子さんにお聞きしましたが青島当時の病院の写真は見つからないそうです。仕方がないですね。皆さんの多くが引き揚げで持ち帰れなかったのが普通でしたからね。
 
 先生のお気に入りだったと言う晩年の写真をお借りしました。ご覧になって下さい。

         晩年の広瀬先生

 私は小学校の2年生の二学期に青島に転校しました。玲子さんと同じクラスになり、受け持ちは古賀光一先生(作家の南條範夫さんの弟)校長先生は中村八大さんのお父様。
 
 一年生のクラス写真があります。前列右側から4番目が玲子さんです。

       一年生記念写真

 写真にはコメントを下さる方も並んでおります。私は上のようなことで写っておりません。

 お詫び  知人のブログで拍手をしますとコメントが送れると知りました。今朝自分の拍手のコメントを初めて開けて見ました。沢山の方から好意のコメントを頂いておりました。有難うございます。皆さまどうぞ失礼をお許しください。
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老師はサッカーがお好き

 中国語の老師は学生時代からサッカーが好きだったと聞いたことがあります。
 今回のサッカーのW杯は南アフリカでの開催と言うことですが、先週の授業で先ずサッカーの予選と言うのでしょうか、そのことが話題になりました。その前には中国で報道されている全試合の日程も頂いてあります。

         先週の板書

 昨日の授業は先ず先週に続きサッカーのことから始まりました。スポーツには余り目が行きませんが、試合のあることや日本が予想外の活躍だったとか位は知っております。老師は組み合わせと試合経過、また結果についてもメモも見ずに黒板に書きます。私はサッカーの試合のルールも頭に入っておりませんので忙しかったですね。

 例えば 烏龍球を オウン・ゴール と言われますとそれがどういう事かが分かりません。急いで大辞泉で見て見ます。「味方のゴールにボールを入れること」なる程となります。
 また 越位球 オフサイド と言われますとまた大辞泉です。「サッカーやラグビーなどで、反則の一。」またなる程と自分に言います。
 老師の奥さまは子どもの頃外交官だったお父様と一緒にヨハネスブルグで過ごしたことがあります。老師はそのせいもあるのかも知れませんね。サッカーの話題に熱が入ります。

 サッカーから話が変わり漢詩に移りました。私たちが漢詩と言っているの詩の多くは唐の時代のものですね。
 唐代を初唐、盛唐、中唐、晩唐と分けてそれぞれの時代の有名な詩人の名をあげました。
 
 そして晩唐の詩人 杜牧の詩 「清明」を読み 書きとりをさせました。

        清明

    清明时节雨纷纷,路上行人欲断魂.
    借问酒家何处有,牧童遥指杏花村.
 

 耳が悪い所為にしたくなります。なかなか聞き取りが出来ません。全員が書き終わり、皆で一緒に訳しました。
 出ましたよ。そこに詩の中の杏花村のお酒。

 汾酒 1500年もの歴史のある中国での八大名酒の一つだそうです。45度と言うアルコール度

         杏花村の酒

 老師が酒を語ればその知識に驚かされますが、中国の文人、詩人は酒文化に詳しいのだそうです。それが嗜みと言うことなのでしょう。
 老師が皆さんに勧めて下さいましたが、私には強すぎます。瓶を寄せて嗅ぎましたら甘ーい香りが昇ってきました。
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脚が短いと

 私は余り自分の体型のことは気にしませんし、気にしても矯正することは出来ませんから深く考えることがありません。
 チャイナドレスは長所を活かし、短所を補うと言う大変良い面を持っておりますし、教室でもそれを強調しております。
 実際受講している方はそれを実感していることと思います。
 近所に店舗を構えている方のカウンターに可愛いペンギンが置かれております。何だろうとお聞きしましたら、金属の種類を見分ける物だと言います。
 金と金メッキ、また単なる金色のチェーンなどが区別出来るのだそうです。その姿が実に可愛いのです。

          ペンギン

 僅か2.5センチ程の大きさです。脚が短くてもこの姿で歩く様子は想像するだに楽しくなります。

 ペンギンパレード等を見物しますと矢張り可愛いなーと思うのです。
 振り返って我が脚。短く太く若い人とは比べられません。この脚の短いと言うのは実際困ることもあるのです。
 家では先ずテーブルと椅子の問題です。かなり探してテーブルは低い物を求めました。椅子もそれに合わせてありましたが、歳をとるに従い足を下に下ろしておりますと疲れます。そこで下に発泡スチロールのブロックを置くことにしました。これは冬は暖かく、夏は足が冷えません。とても良いですよ。

 スタイルを気にしないと言いますが、太っていて且つ背が低いと言うことはやや問題なのです。
 洋服を買う時ですね。まずバストに合わせますと丈が長すぎます。更に首回りは大きくなっているからでしょうか、襟あきが大きすぎ、何だか老人臭く???見えるのです。
 ポケットは下になり、手を下にグーと伸ばし腰を曲げて使うのです。特にコートが困りますね。
 その点チャイナドレスは将にオーダーメイドですから一番合っていますし気に入っています。

             短脚を証明

 上は数年前生徒と上海で食事をした時の写真です。これほどとは自分でも思っていませんでした。足が宙に浮いています。見ては笑っちゃっいます。おかしいでしょ。このベストは香港のスタンレーで買いとても気に入っております。色あせており、毎年出て来ますと夫はまた今年も着るの?と呆れております。
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話したいなー

 中国語の仲間の方が定年後北海道に移住。中国語のガイドを目指して頑張っております。
 もともと中国語を使う仕事に就いていたようで、時々中国には行かれておりました。老婆のひん死状態の頭とかけ離れております。
 成語は勿論比喩も俗語も自由にこなしておりました。「何時勉強したの」と伺いましたら「まー苦労はしましたね」と軽く言います。ですが相当頑張ったのには違いはありません。

 昨日から中国から個人での入国条件が緩和をされたと言うことで、観光地の様子や様々な業種の期待がニュースで流れております。

           中国人客ニュース

 買い物が凄いとは前々から報道されておりますから、その手の話はもう珍しくありませんね。
 北海道は人気があるようで、同学のSさんはきっと忙しくなることでしょう。今朝のTVで箱根の大涌谷で温泉卵を食べている中国観光客の姿が紹介されていました。あの硫黄臭い卵は中国の方には抵抗なく食べられるような気がします。

 今回の緩和でビザ対象は10倍に増えて1600万世帯になるそうですね。
 来日した方が観光と買い物で秋葉原は行くはずと誰もが考える場所ですね。他には何処でしょうかね。
 日本各地の業者が腕を拱ねている筈はありませんね。中国語の観光バスも沢山運行されるようですし、中国人専用のホテルも出来ていると。報道は溢れております。

 最近は都内には余り出掛けませんが、チョと興味が湧いて来ました。
 とに角機会があれば少しでも喋ってみたいのです。間違っていても下手でも話をする機会があれば声を掛けたいなーと思ってしまっています。病、病、病ですね。相手に迷惑を掛けないように、簡単な言葉を使ってみたいのです。ですが悪い人に気を付けなければなりませんね。軽くね。

 国内旅行をしても中国に関係のある物を見ると直ぐにカメラを向けたくなります。あるホテルで見た中国のボトル 何だか強そうに見えますね。

         中国の酒

 このお酒を飲む方があるかも知れませんね。最近、中国の若い人にはビールが好かれているそうです。きっと青島ビールは飲まれるでしょうね。

 

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プロフィール

相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日86歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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