2010-08

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買って来れば良かった

 一昨日夜  BSJAPANのアルゼンチン絶景の旅という番組 アルゼンチンの魅力ある風物が次から次へと映し出されて絶景に相応しいイグアスの滝の迫力を改めて眺めました。
 1998年に南米への旅をしましたが、イグアスの滝はブラジル側からとアルゼンチン側からと二日間に渡り歩きました。TVでは滝へと乗り出す舟に驚かされましたが、悪魔ののど笛と言われる大瀑布の物凄い水量とそれに掛かる虹に何と歳月の早いことよと感慨一入な思いをいたしました。
 ブエノスアイレスの街並み 私たちはどう廻ったのかすっかり忘れておりました。

 カミニ―トのボカ地区は観光の場所 変らずタンゴバンドも人を呼び込んでおります。色彩豊かに作られている家々は移民時代の伝統を活かしていると聞いております。詳しくはありませんがお金のない人々が余ったトタンに色を塗って作ったことだそうです。

 南米はサッカーが盛んですから、ブエノスアイレスの街には大きなサッカー場が見られます。
 ボカ地区のお土産屋のショ―ウインドに掛かっていたシャツ 時々思い出しては買わなかったことを悔やんでおります。

          サッカーのシャツ

 若い人に差し上げたり、男の子に上げたりしたらどんなに喜ばれたことか。甥の長男はサッカーが好きだそうで、きっと喜び老婆の値打ちが揚がったと思うのです。

 ボカには観光客相手の様々な風景をみることが出来ます。タンゴバンドも路上で人を集め、そこで踊る人も楽しんでおります。
 自分の作品を並べている画家も何人もおりました。色彩豊かです。南だなーと感じたことでした。
娘の家に可愛い一枚をお土産にしましたが、改めて見ますと自宅に掛ける一枚を記念に買って来ればよかったと思っております。残念です。

       ボカ地区の画描き

 それにしましてもアルゼンチンは見るところが多く、迫力充分な素晴らしい風景は飽きさせませんでした。
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仕分けなくっちゃ

 暑い日がこう続きますと何だか物事を先送りにして仕舞います。家の中何処も物が散らがっております。
 夫は部屋は全部あんたの物だね― と言います。其の通りです。
 二女の娘がやって来ますと、これまたあちこちから物を取り出し、いたずらと言いますか、遊びと言いますか、物が散らばります。
 
 本も読まなければ、物も買わなければ、チャイナドレスも作らなければ、旅行にも行かなければ、物の買いだめをしなければ、オシャレもしなければ。どうでしょうか?
 時代にも関係なく、付き合いもせず、出かけることもせず、そうすれば片づくのでしょうか。
 
 夫の名言あんたそんなこと出来るかい。そうしたらたちまちノイローゼになって仕舞うんじゃないかい」
 嬉しいですね。片付けの出来ない理由付けをあれこれ考えなくて済みます。
あー良かった。
 
 でも家の中を綺麗に片づけて、素敵に暮らしている方も多いのですよね。どうしたら良いのでしょうか。
 そう思いだし始めますと、私はもともと家の管理の出来ないダメ主婦だったのです。主婦劣等感を持ち続けていたのです。

 元我孫子市長の福嶋浩彦氏が我孫子にある中央学院大学のオープンカレッジ2010年秋期講座開講記念の講演会で「事業仕分け」とは何かという講演をされると言うことです。

         福嶋さんの公開講座

 私が福嶋市長と直接話をしましたのはたった一回です。それは
 孫が小さい頃、公園で犬に足を噛まれたことからです。その犬は特徴がはっきりとして、飼い主は皆さん知っているようです。ですが犬を飼っている方からの情報はなかなか得られません。犬を飼っている人と、飼っていない人と意識の違いを知り、公園の管理をきちんとしてほしいと市役所に電話をしました。
 電話に出た方は「そういうことはよくあるんですよねー」とその口ぶりに何だか話を聞きたくない風に感じました。そこで私は市長宛に文書で公園の管理についてのお願いをしました。
 公園に間もなく注意書きの看板がだされ、今もその看板は見られます。

 そして秋の文化祭 地元での展示会に市長がお見えになりました。「先日は早速に処理して頂きありがとうございました」と挨拶をしました。
 「その後お孫さんの様子はどうですか。治りましたか」とおっしゃいました。以来私は誠実な方だと思っておりました。8月11日付で消費者庁長官に就任されましたが頑張って欲しいと願っております。

 孫は噛まれて以来犬恐怖症のようになり、最近ようやく逃げ出すようにはならなくなりました。
 私が今でも失礼だと思っているのは飼い主の親娘です。
 親の言葉「家の犬が噛んだと言うならお詫びします
 近所の方から以前この犬から被害を受けていたと言う話もお聞きしました。
 その犬は洋犬で電話をしましたら娘さんが出て「名前が違います」と言います。確かにチョッと違っておりました。ですが知っている方がその犬が引き綱も無く走り廻っていたと証言しておりました。この辺りでたった一匹しか見ることのない犬です。

 そして娘さんは精神科の医師だと言うことです。幼い子どもが犬に噛まれたらトラウマとして残ることもあることを知らないとは思えません。許せないのです。
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青島の家

 中国青島に住んでいるリカさん 昔そこに住んでいた日本人の生活振りを追跡調査研究しております。
 リカさんの研究に少しお手伝いをしておりますが、4月の訪青に際しアンケートをお持ちしました。それはリカさんからお預かりした記述式の物でチェックリスト式の物ではありません。
 住んでいた青島の住まいも書きこまれるようになっております。
 5月の羊会の懇親会に青島日本人会名誉会長と出席されたリカさんは当時の家のあった方にはその家、既に別の建物になっている方へはその場所や周辺の写真をお持ち下さいました。

 その中の一人 吉田睦子さんの家は青島の公共施設になっているようです。
 数年前に青島を訪問 自宅が明日ホテルになると聞かされた睦子さんは外装も綺麗になった家の中に入ることが出来、自分の使っていた部屋にも入ることが出来ました。

        訪青した時の吉田邸

        睦子さんが使っていた部屋

        今年5月の元吉田邸

 吉田睦子さんはアンケートを送って下さっていた一人です。リカさんはアンケートへのお礼としてお持ち下さったのです。
 青島の家は無くなってしまっている方も多いのですが、残りそして立派に保存されている物も少なくありません。思い出の家を見たいと思っている方は、管理者宛のコメントに住所氏名をご記入しアンケート用紙をご請求下さい。用紙を送らせて頂きます。
 私は9月17日にチョッと青島に行きますので、その時に間に合う様に返送して頂ければリカさんにお届けいたします。
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頭が混乱しています

 管さんだとか小沢さんだとかもう政治の世界は大騒ぎ?
 訳が分からず私の頭は混乱しております。でどうなって行くのかを見て行けば事態が分かって来るのでしょうか。
 新聞を朝食と一緒にカメラに収めております。最近の円高は外国への旅行のチャンスだと言う方がいたり、このまま円高が進めば日本の経済は沈没してしまうとか、一体どうなるのでしょうか。

      朝食8月26日

      朝食8月27日

 誰が党の代表になるのか、総理になるのか、党は分裂するか、国民への約束はどうなるのか。私は毎朝ニュースを見ながら頭は混乱しそして心は憤慨しております。
 そう言ってもニュース画面に文句を言うのが精一杯。
 
 今日は早朝ちりめん山椒を作りました。
 新しい包装紙を作ってみたいなーと朝食オンパレードのはどうかしらと考えて見ました。
 
 主役はトマト 殆んどどの日にもトマトが写っております。一年に何人も総理が変わるより安定しております。

       朝食パレード

 ちりめん山椒の佃煮でも牛そぼろ山椒でも皆同じ包装紙で包めます。また他の物を送る時にも通用します。
 
 政治を怒りながら、この包装紙は自慢になるなーと今朝から自画自賛しております。
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飛鳥Ⅱで繋がった麺

 8月16日から19日までの飛鳥Ⅱのクルーズ
 横浜港出航の7オープンデッキで見送りの方にテープを投げて私たちのクルーズが始まりました。  
 私の横に立っていたご夫人が声を掛けて来ました。
 「私たちは伊勢の近くですし、熊野も近いのです。車でも直ぐ往けますが、飛鳥Ⅱに乗りたく、新幹線で来ましたんです。戻って来ましたらまた新幹線で帰るのですよ」とおっしゃいます。
 私は昔を思い出し「出航の時は銅鑼を鳴らすんですが、どうでしょうかね」とチョッとしたり顔で言いました。
 そこへ丁度若い船員がデッキの上を歩きながら銅鑼を敲き傍にやって来ました。
 夫の写真を撮り、それから夫と一緒にテープの端を持ち知る人もいない桟橋に手を振りました。
 帰宅後写真をPCに取り込みましたら夫と奥さまが銅鑼を敲く船員の両側に並んでおりました。

 18日の夕食のことは既に書きましたが、帰宅して隣同士になった方の家業のHPを拝見しました。
 前川製麺所と言う会社です。夫と並んだ奥さまの写真を添付し、話でお聞きしたそーめんをお願いしました。
 翌日の夜 奥さまから電話を頂きました。早速送って下さると言うお話です。
 楽しみに待ちました。その荷物が昨日届きました。こういうことはわくわくしますね。

        そうめんと冷むぎ

 今日の昼にそーめんを茹でて頂きました。飛鳥Ⅱの小豆島そーめんはとても細かったのですが、前川さんのはそれよりはやや太め。腰がありとても美味しい麺でした。

 お宅は三重県四日市市 飛鳥Ⅱで繋がった麺です。嬉しいですね。最近は食生活に気を使っている私にとってとても嬉しく有難いご縁と思っております。ご厚意の冷むぎも丁寧に作られている姿を見せております。前川さんの麺はデパートなどには出していないそうです。今時珍しいようなお話です。
 麺類大好きな私ども。とても嬉しいご縁の麺です。
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違いすぎます

 アコーディオンを弾く安西創さんは若く、そして颯爽としております。私の前に現れる安西さんは中国の長衣か上着、または普通のスーツです。ところが先ごろ久し振りにお喋りをしましょと、待ち合わせしました。そこに現れた安西さん何と和服を着ております。それもキチンとして羽織姿です。着流しでは失礼ですからと。
 随分長い時間話しました。印象的な事も多く、着物の着付けや帯と下帯との関係など最近の彼の姿勢を知る話としてお聞きしました。
 空が夕暮れへと向かって来ておりましたが、話が尽きません。レストランの邪魔にならないように席を窓辺に移しました。
 果物をお願いし、私はその物を直接画面に入れるという趣のない方法でカメラに取り込みました。
 安西さんは遠くに見える東京湾方向を目立たせ、果物よりも風景に重きを置いております。

        安西さんの果物

        私の果物

 センスが違うのですね。私は野暮ったいのです。オシャレ心がチョッと?(うんと)欠けているのでしょうね。

 この日は和服でしたので最近の日本の着物業界のことに話が及びました。中国の服飾にも造詣の深い安西さん
 和服そのものにだけではなく、業界のことにも詳しくて私を驚かせて呉れました。
 安西さんは子どもの頃三味線や琴などの和楽器の手ほどきを受けていたそうで、その素養が今の安西さんの中で生き続けており、更に発展へと進んで来ているようです。 
 その内目の前に三味線を抱えて現れるようなことが起きるかも知れません。何となく期待して仕舞います。

 話は変わりますが、明治大学のOBのある方 生活の中で着る物は全て和服で通しているそうです。耳寄りなことですのでチョッと記して置きます。
 どういうことかと言いますと「最近着物に凝っていてね」と口にしますと「じゃ俺の着ないのを上げようか」となるのだそうです。そこで遠慮をせず有難く頂くと言うのです。
 まずその着物は上等な物で、自分で買うとなると結構な値段の物だそうです。結局そのOBは着る物に全く不自由もしなく、懐も痛まないのだそうです。奥さま孝行ですね。
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飛鳥Ⅱ乗船記 7

 8月19日 この日に船から降りました。あっと言う間に過ぎた4日間
 
 昨夜は食後少し船内を歩きましたが左程遅くならない時間にベットに横になりました。部屋のTVは全て衛星放送だけの受信です。時々船の位置を確かめたりしました。
 
 目が覚めましたら既に横浜に近いようです。荷物は宅急便にするので夫が7時前にドアの外に出して置いて呉れ、私は珍しく起こされた朝でした。
 何となく急がなければと気が付き和食の朝食を摂りに5デッキのレストランに行きました。11デッキでは洋式の朝食を摂ることが出来ます。

       19日朝食

 窓際の席でしたので、窓からの景色を眺めながら食事を済ませ、部屋に戻りました。
 買い物や飲み物の支払いの計算書が届いておりますので、目を通しました。船内では乗船してクレジットカードの登録をして置きますと、部屋のカードキーで買い物もアルコール類の支払いも、またスロットマシンやカードゲームなどの遊びも全て用が足せます。

       戻って来た横浜港

       サヨナラ飛鳥Ⅱ

 飛鳥Ⅱは午前9時に横浜港に到着しました。10デッキの方から順に誘導されて下船します。
 この日の朝もデッキでのウオークや太極拳の講習があったようです。私たちは素早い行動も、頭の回転の早さがいるようなことも駄目です。
 
 下船の順番が来ました。昇降口のデッキのそばでは別れの音楽も奏でられており、乗員の皆さんが並んで見送って呉れました。船内と違い日本人の乗務員が目立ちました。

 クルーズ専門の集合待合の場所から桜木町駅への無料送迎バスが出ております。折角横浜に来たのだから中華街に行きたいと思いましたが、余りの暑さにそんな気分は何処かへ飛んでしまい、まっすぐ帰宅しました。 
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飛鳥Ⅱ乗船記 6

 時間は待っては呉れませんが、気分は落ち着き船から眺める鳥羽港 竜宮を思わせる船、すっきりとした姿の観光船、夏満喫の人々が乗っているのでしょう。私たちは越し方と言う程大げさなことではありませんが、昔を偲び出会った人々の姿を思い出しておりました。このように何とか外へ出かけることが出来ると言うことを感謝すべきだと思ったことです。

       午後のひと時

 18日 この日は鳥羽の方々が船内観光に見えました。放送されていましたので驚きませんでしたが、皆さん胸にプレートを下げて回っておりました。飛鳥Ⅱの見送りに市民が船に乗り近くに寄ってきました。7オープンデッキに出て行きますと鳥羽市長からプレゼントされた赤いハンケチを受け取りました。
 御木本幸吉翁が渡米する際、赤いハンケチを持ち、再会の日を約束していたと言う故事に倣い、鳥羽を訪問する方へのプレゼントとしているそうです。船が近づき鳥羽市民は飛鳥Ⅱにハンケチを振って旅の安全を願って送って呉れています。 祝一路平安!です。謝々と私も一所懸命振りました。

       赤いハンケチを振り

 飛鳥Ⅱは抜錨し横浜へと走り出しました。船旅最後の夜です。まず飛鳥Ⅱプロダクションショ―『ミュージカルフォーエバー』を見ることにしました。一日目に飲むこともせずオーダーしただけで終わったカクテルは断りました。
 ショ―のメンバーは同じですがこの夜はミュージカルバージョンで構成されております。元気な若者の姿が舞台一杯に繰り広げられます。キャッツ、ライオンキング等オムニバス式のような楽しい舞台でした。
 次はフィリピンバンド ナマナの演奏を聴きに行きました。メンバーは一所懸命です。サービス係の男性に写真を写しても構わないかとお聞きしました。それがどうしたことか、いきなり私のカメラを手に、夫と私を舞台の前に連れて行きます。更に舞台にのぼるように勧めます。そしてバチッとシャタ―の音
 記念になりました。

       ナマナの舞台

 いつの間にか自然に心が解放されて舞台に立っております。将に非日常的な姿でしょうね。このバンドの女性の心遣いに感心しました。リクエストしたお客様の傍に行き、お礼の言葉を述べております。
 「皆さんどうぞ踊って下さい」と手をかざしますが誰もフロアーに出て行きません。日本の高齢者はシャイなのですね。
 ナマナの演奏を最後まで聴き5デッキの大きな部屋(フォーシーズン・ダイニング)へ夕食を摂りに行きました。案内されて席に着きますと既に着席していた女性の方から「またお目に掛かりましたね」と声を掛けられました。何と横浜港出航の時のデッキで横にいたご夫妻でした。三重県から横浜まで来てそして乗船されたのだそうです。前に他の船のクルーズを経験されたそうですが、飛鳥Ⅱに乗りたくわざわざお見えになったそうです。そして話すうちに麺類のメーカーの社長さんだと分かりました。製麺業のことをチョッと教えて頂きました。そこで私のアンテナは激しく動き社名を伺いました。帰宅後PCを開けますと100年も続く会社だと知りました。700人も乗ると言う飛鳥Ⅱですよ。これはご縁と言うことでしょう。最後の夜は思いがけないご縁のプレゼントを頂きました。

       18日前菜

       18日魚料理

       18日肉料理

 麺の材料の小麦のお話をお聞きし、ご主人さまの誠実な感じに私は直ぐその気になっています。それは早速取り寄せたいなーと言うことです。ワインも頂き楽しく過ごしました。
 お休みなさい!!!

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飛鳥Ⅱ乗船記 5

 18日船旅は三日目 早朝から空は晴て気温も高そうです。
 飛鳥Ⅱは三重県鳥羽港に投錨  船は大きく接岸は出来ません。穏やかな海が心を癒すかのように広がっております。目覚めも良く早速風景をカメラに収めました。

       鳥羽港風景

 朝食は和食にしました。金目鯛の開きは我が家好みの朝食で気分良く頂きました。

       18日朝食

 16日の夜 食事の際隣に座った女性の方は二度目の乗船と。 焼きノリが美味しいわよと話しておりましたがその通り、確かに美味しかったです。 

 この日はオプションで伊勢、鳥羽方面への観光が出来ます。私たちは最近この辺は廻っており、また伊勢神宮は歩く距離もありますので、上陸はしません。
 飛鳥のテンダ―ボートと地元のボートが飛鳥Ⅱと佐田浜桟橋の間を繋ぎ皆さんを運びます。

       鳥羽へと乗り込む

 これはオプションの方ばかりの送迎かと思っていましたら、誰でも鳥羽港に行けると知ったのは後のことでした。残念。
 午前の甲板はそれはそれは暑くて、プールサイドにも人がおりません。

       飛鳥プール
 
 午前 私たちは久し振りに映画を見ることにしました。『ハード・ロッカー』船内のハリウッドシアターの中にはほぼ40名ほどの方が座っておりました。スクリーンは大きくありません。

 2008年に制作されたアメリカ映画。イラクを舞台としたアメリカ軍爆弾処理班を描いた戦争アクション、社会派ドラマ。第82回アカデミー賞作品賞受賞作品。と言うことで見応えがありましたね。

 昼は小豆島ソーメン。11デッキではブフェも食べることも出来ます。ソーメンで足りない方はブフェに行っても良いのでしょうか。聞きたくなります。私は行きませんがね。

        18日昼小豆島ソーメン

 昼食後の後 昨日のスロットでの貰っていた6点を財布に交換 孫へのお土産を買い、其の後は出航までのんびりと船内のあちこちを見て回りました。図書室で本を読む方、お茶を楽しむ方。湾内を様々なタイプの遊覧船が走っております。ゆったりと時間が過ぎて行きます。
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飛鳥Ⅱ乗船記 4

 二日目の8月17日の夜 
 毎年この日に行われる熊野市での花火大会は300年もの伝統がある精霊供養の盆行事だそうです。
 
 飛鳥Ⅱの今回のクルーズの目玉がこの花火大会です。花火の紹介はASKA DAILYに詳しく掲載されております。
 飛鳥Ⅱ乗船記 3でご覧頂けます。(拡大してご覧になって下さい)
 
 夕食をゆっくり摂りながら窓外を眺めますと徐々に日が暮れて行きます。夏至はとっくに過ぎており、西に沈む陽も早くなって来ております。
 途中で気が付いたのですが、TVで見た太陽の沈む一瞬。この神秘的な姿を誰かが見たのでしょうか。
 何だかデッキに上がらなかったのが残念な気がしました。

 花火大会の時間が迫って来ました。艦内放送で間もなくと言うことで私たちは7オープンデッキに出て行きました。 椅子がキチンと並べられており、ゆったりと眺めることが出来ました。

  この花火を見るためでしょう。大型船が停泊しております。近いように見えますが距離はどれ位でしょうか。

       熊野沖に停泊の大型船

 花火が揚がり始めました。花火の写真は難しいですね。仕掛け花火は全く撮ることが出来ませんでした。
 迫力満点と言って良いでしょうね。夫は花火が揚がった後、音が聞こえるのが7秒ほど遅くれると言うのですが知る人が聞けば、会場と船のとの距離が分かるのでしょうね。

          花火1

       花火2

       花火3

 花火を見ている内に潮風の所為か、体全体が湿って来ました。夜風は嫌いですので最後まで見ずに部屋に戻りました。
 花火も終わり静かになりました。抜錨22時  飛鳥Ⅱは暗い海を鳥羽に向かいました。
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飛鳥Ⅱ乗船記 3

 二日目の船内行事は昨夜食事中にベットの上に載せてありました。ASKA DAILYです。

        17日の船内案内

 私たちの部屋は7デッキにあり、外側はオープンデッキですので出航の際にはそこでテープを投げ、岸壁を離れたのです。
 朝目が覚めカーテンを開けますと既にそのオープンデッキで歩く人が見えます。皆さん早起きですし、朝からクルーズライフを楽しんでいるようです。私は2日目と3日目は家事から解放されます。昨日はドレスのアイロンを掛けにランドリールームに行きましたが(これは部屋のカードを使い入って利用できます。洗濯も勿論出来ます)食後の食器洗いをしないで済むと言うのが、所謂非日常的と言うのでしょうか。
 毎朝食は和食ですので、これは洋式にしましょと11デッキに行きました。余り人がおりません。直ぐにテーブルにつけました。

        17日朝食

 この他にはコーヒーです。何だかもの足りません。タンパク質の物が何もありません。飛鳥では毎日がこのようなものでしょうか。西瓜は新鮮ですが味は今一つと言うところでした。

 さてと今日はどうしましょとなりました。夕方熊野に着くまでは只管波の上です。
 船内行事の一つ飛鳥乗務員による避難訓練が始まりました。7デッキのオープンデッキでその訓練があるので救命胴衣を身につけて船員が窓の下を通って行きます。

        乗員による避難訓練

 また昔のことになりますが、日本に向かう小学校5年生の私は青島港を出て直ぐに船酔いに悩まされました。日本が制海権を無くしていた東シナ海を通過するに、何時米潜水艦の攻撃を受けるかも知れません。泰山丸での避難訓練がありました。救命胴衣を付けて自分の決められたボートまで行かなければなりません。船酔いで吐く物も無くなっている私はフラフラになり、よろけながら自分のボートに急ぎました。忘れられない自分の中の一コマの風景です。

 飛鳥Ⅱはゆったりと海上を滑るように走っています。少しぼーとして二人で昔話などをしながら昼まで過ごしました。時々椅子から離れて船内の探索をします。

        ピアノを弾く男性

 昼食は11デッキのブフェにしました。まーこれはこれはと余りに人が多くてお盆を手にしてから、食べ物を取るまでの時間の掛かること。和食にすれば良かったね―と夫と言いながらもいろいろな味を試しました。

        17日のランチ

 私にはスペアリブが一番美味しかったですが、魚の燻製も良かったですね。

 熊野まではとに角船内で過ごすのですから、新聞に目を通し予定を考えました。チョッとした講習や体験等も用意されておりますが、どうも二人には向いておりません。そこで夕方ゲーム(所謂カジノ)コーナーに行きスロットをしました。日本船ですので賞金はありません。最低一人3000円からコインを買うことが出来ます。
 二人で6000円 決まったポイントが6点(これは品物と交換出来ます)
 コインを一枚ずつ入れますので埒があきません。すっかり右腕が疲れて仕舞い、僅かな時間で終わりました。
 カードタイムは遅くならないと開かれないと後で知りました。

        スロットを経験

        モンテカルロ・カジノコーナー

 スロットをする二人の女性には驚きましたね。「ほら来い・良いぞ・出た―」「ねー今度何時乗る?」と話しております。私が立ち上がりましたら「あなたもっといろいろと賭けて置かないと。良いとこ出ていたよ。折角のにー」と。この二人は飛鳥常連さんかもと一瞬思いました。いろいろとありますね。

 そして夜 この日は特に服装の指定はありません。熊野の花火を見ると言うのですから大勢の方が、浴衣姿で見えております。船内の資生堂でも着付けを頼むことが出来ます。
 
        二日目夕食

 昨夜と違って夕食は全員同じ時間で摂ることになっておりました。和食です。縁高重という名の品書の中身は上のような物です。最近の流行りのいろいろ食べたいと言うコンセプトと言うのでしょうか。品数は多かったですね。批評したいのですが止めて置きます。
 飛鳥Ⅱは夕方には熊野沖に投錨しております。花火大会は19時から21時までです。時間は十分ありますので、ゆっくり食事を済ませました。
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飛鳥Ⅱ乗船記 2

 このところクルーズに人気が出て来ているのでしょう。TVでも世界のクルーズが紹介されております。
 魅力が一杯ですし、廉いのです。 ですが乗下船の港まで飛ばなければなりません。日本でもにっぽん丸、ぱしふぃっくびいなす、またふじ丸と言った船の名前も聞きますが、矢張り飛鳥Ⅱが一番人気のある船のようです。

         飛鳥Ⅱの姿

 飛鳥Ⅱの規模 約51000屯 全長 241m  全幅 29.6m 
        旅客定員 720名  客室数 400

 私が中国青島から門司へと向かった泰山丸は3930屯 比べようもありません。船は船でも小舟ですね。

 16日午後5時に横浜港を離れた飛鳥Ⅱは滑るように熊野へと向かっています。
 船内は広く何処も安全に動けるようになっております。
 720名まで乗船していたかどうかは分かりませんが、案内が送られて来た段階で夜の食事は二回目にすることを選んでありました。
 部屋には当日の案内を詳しく説明するニューズが置かれています。そこで食事までどうするかとなりました。
 折角ですのでショウーを見ようと飛鳥Ⅱプロダクションショ―「アモール」を見ることにしました。
 流石に世界に出掛ける船ですね。ショーの構成がダイナミックで、それぞれのキャストが個性を発揮しますが全体のショ―の流れは乱れず見事です。愛がテーマのこのショ― 私でも分かるばら色の人生、べサメ・ムーチョ等が歌と踊りで50分。素早く変わる舞台の構成に拍手を一杯送り愉しみました。
 歌も踊りも男女ともに見せます。特にブッシュにそっくりなマイケル・ラメンド―ラの歌は際立っておりました。
 ショ―が終わり食事となりました。この夜は洋食「フォーシーズン・ダイニングルーム」
 服装はインフォーマルと言うのです。まーラフな格好は駄目と言うことですね。皆さん素敵なドレスを着ております。夫も久し振りにネクタイを結びました。私は乗船する数日前着られる筈のドレスを着て見ましたが、どれもピチピチ。首も太くなっていてロングは諦め、旧型のチャイナドレスに白のパンツに決めました。目立たないのですねー。 ところが男性も女性も素敵ですが皆さんが全体に埋没して仕舞い、殆んど目立つ方がおりません。華のある方がいないと言うことでしょうか。
 目立たなくても良いのです。食事は皆同じものです。夫の後ろの席に有名な方二人が座っております。
 橋田寿賀子さんと泉ピン子さんです。お仲間何人かと見えております。ですが全く目立ちません。多分高級なお召し物を着ていられると思うのですが、ダイニングルームの豪華さや多くの方の個性的?な姿に負けてしまうのでしょうか。
 船内の乗務員の80%が外国の方、中でも一番多いのがフィリピン人だそうです。たどたどしい日本語でメニューブックを差し出します。とに角分かり難いのです。何とか此方で判断して頼みました。

       メニューを決める

 いろいろチョイスするのは面倒とばかり、シェフお勧めのコースにしました。夫は飛鳥限定の生ビールを一杯 私は何時もの通り赤ワインをグラスで二杯。
 
       初日の前菜

       初日の魚料理

       初日の肉料理

 他には定番のスープ、デザート、コーヒーなどです。魚料理は鱧の香草蒸しでしたが私には全く合いませんでした。口が奢っているわけではありません。私には鱧は和食です。それだけ。
 食後はピアノバーにチョッと立ち寄り、部屋に戻らずフィリピンバンドの演奏を聴きに行きましたが、僅かな人が座っているだけです。なかなか上手なバンドでした。曲は高齢者向きの曲が多く、其の夜の二人の話題にもなりました。 飛鳥Ⅱの速力は12.5ノット位のようです。
 波も無く船の揺れは全く感じません。泰山丸で玄界灘を通った時の大揺れと全く違います。
 この揺れない私の感じと、夫は揺れてなかなか眠れなかったと言う感じの違いは聴力の関係ではないかと思います。
 「難聴も良いことがあるんだね」と眠れなかった夫は悔しそうに言いました。
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飛鳥Ⅱ乗船記 1

 昔は人生50年と言われており、50歳以上の人間にははそれ以上の生活はおまけのような日々と思われていたのでしょうか。
 戦争で多くの方が50歳を迎えることが出来なく、人生の終わりを迎えて仕舞いました。
 私は満80歳に向けて歩いております。今年の8月で丁度結婚50年が経ちました。世間で言う金婚式と言うことです。
 夫が記念にと飛鳥Ⅱのクルーズに行こうと準備をして呉れました。
 前々から一度クルーズを体験してみたいと思っておりました。夫は体調に問題があり遠くへの旅が難しく、また長い距離や坂の多い旅行も無理となっておりましたので、このクルーズには私も興味を抱いておりました。

 三泊四日というのも丁度良く、申し込みました。一番安い部屋と考えておりましたが、申し込んだ時点ですでに売り切れ、キャンセル待ちの方も多いと分かりました。チョと高い上の部屋をと聞きますとそこも駄目。ただキャンセル待ちが少ないと言うので、そこに申し込んで置きました。暫らく経ち受け付けて呉れると言うことで、それに決めました。

 16日の3時半に乗船手続きと言うことで桜木町から横浜大桟橋に向かいました。夫も私も40年ほど前に偶然にも別々の仕事で県庁を訪ねたことがあり、桜木町周辺の変りように驚きが続きました。

 飛鳥Ⅱは定刻通りに岸壁を離れ横浜港を出航しました。

     飛鳥部屋キー  出航の銅鑼

     出航をシャンパンで乾杯  テープで繋ぐ別れ

                 ベイブリッジ通過

 1942年の秋 中国青島港を離れる私は母にテープを投げ、お互いにそのテープの端と端を掴み、別れを惜しみました。私がタラップを上って行くのを下から眺めていた母は今生の別れとなるかも知れないと、切なく思っていたそうです。戦局は悪化しており、その頃日本周辺の制海権は既に米軍に手にあったのだそうです。
 
 船旅の出発は銅鑼の音が無ければなりません。飛鳥Ⅱでも伝統通りのセレモニーが展開されました。
 テープを投げるのは老人には難しく、昔は草野球のエースだったと言う夫も何本か投げましたが向かいの桟橋の人には届きませんでした。
 日が短くなり船足が速くなる頃には空も薄く暗くなり、やがて初日の夕食の時間が迫ってきました。
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重かった昨日

 1945年8月15日   絶対忘れることのできない日  一日中そのことと向かいあっていました。
 何回もアップの原稿を書き、そして何回も削除し結局アップしませんでした。
 でもこの重さを残したく、今朝は気を取り直し入れたかった画像をとり込みました。

          語り残す戦争体験

        抑留中でも差別があった

        皇居と議事堂

 死者 310万人  原爆  沖縄  太平洋  ソ連での抑留 
 引き揚げ  B29 サイパン  特攻隊 転戦 玉砕 戦災孤児  
 疎開  3月10日   飢餓  切腹  暗号解読
 余りに無残な戦争  
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素敵でもない、珍しくもない老人の朝食

 こう暑い日が続きますと、「熱中症に罹らないにようにねー」が挨拶言葉になります。二女の娘は虫取りの熱中症に罹っております。
 熱中症に注意し水分も沢山とりますが塩気も大事と、毎度のことながら血圧など関係ないような朝食です。
 出来るだけ自家製の物を食べる様にしておりますが、作る量がどうしても多くなって仕舞います。そこで相も変らぬ茶色オンパレードの食卓となります。更に味噌汁が加わりますから、茶色も更に増えます。

 新生姜の薄切りや茗荷を梅酢で漬けていますが、これは安心の一品だと楽しんでおります。胡瓜の佃煮や煮物、それに残り物。結構数だけは並んでいますが、まー変わり映えしませんね。

        朝食8月1日

        朝食8月3日

        朝食8月4日

        朝食8月6日

        朝食8月7日

 日にちが抜けている日があるのです。これは夫がチョッと早く起きて来て座り、新聞を読み始めて仕舞った日なのです。
 自分の趣味のようなことで、夫を巻き込むのはどうも良くないような気がするのです。
 何時かいやーだと思われると私もいや―だと感じるでしょうからね。
 長年一緒に住むと言うことは協調も、我慢も、譲歩もあるんです。
 夫は滅多に会合に出ません。誘いますと「おっかないがお世話になっております」と言っちゃうぞーと私に言います。
 だから俺は出て行かないんだよと。勝手に自分を弁護しております。が本当は恥ずかしがり屋なんです。
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旗袍あれこれ

 昔々遥かな昔 中国で暮らした明治生まれの女性の方は写真で見ますと殆んど和服を着ております。
 洋服を着ている方は極少なく、モダンな感じに見えます。
 私の母は戦前にミシンを踏むことを東京のシンガーミシンで習い、私の着る洋服は当時としては珍しく手作りでした。
 先日会いました中国時代の小学校の同学年の方から「あなたのキュロットとお揃いのブラウスが素敵で、良く覚えているのよ。だからあなたはチャイナドレスを作るようになったの?」と言われました。
 「そうじゃないのよ。ホラ中国の子どもの着ていたブルーの木綿のチャイナドレスが着たくてね。大人になってからそれが昂じた結果よ」
 「ええそうなの。内の母は青島時代から着丈の倍あれば出来ると、ずーと自分で作り着ていたのよ。
それでね、私が結婚後主人が病気になり、生活のために働くことになったの。子どもを母に預けて出掛けるのよ。着る物が無くてねー 母がチャイナドレスを作って呉れたの」
 「そのチャイナドレスは持っているの?」
 「持っているわよ。母の愛情が詰まっているでしょ。それに痩せたら着たいと思っているの」
 「どういう作りか見てみたいわ」
 「じゃー送るわね」
 そのチャイナドレスを手に取り私は驚きました。1930年代の旗袍と思われる作り方と同じです。袖口の僅かな広がりは当時の若かった彼女のために考えて作ったことでしょうか。ボタンの作りも本格的なものです。
 数多く作った方の作品の持つ力を感じました。

       母の作った旗袍1

       母の作った旗袍2

 この旗袍は裏も付いておりますし、紐ボタンも付けられております。私が憧れていた時代の旗袍です。
 生地も確りと張りのあるシルクです。裏地に和服の素養を感じます。お母様は青島時代短歌を詠み在住の文化人の一人でした。
 友人に電話をし、この旗袍の素晴らしさを伝えました。
 「母は何処で習ったのかしら?」
 彼女にとっても驚きのようでした。暫らくお借りして教室で皆さんに勉強のために見て頂く心算でおります。

 私の母は引き揚げ後「旗袍を何故習って来なかったのか」と何回も述懐しておりました。
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ブラジル便り

 電車に乗ると必ずと言って良いほど不愉快な情景が目に入り、老婆は憤慨して帰宅します。禁じられている筈のことも無視され、マナーの悪さはもうどうしようもないと言う感じです。老若男女を問いません。

         優先席
 
 最近私は出来るだけ相手の気をそーと惹くようにし、直して欲しいと言うメッセージを送ります。微かに細ーく声を出したり、所作で分かるようにしたりします。それで気が付き直す人もあります。ですが家族は逆切れする人もいるので気を付けるように言います。
 そんな私の気持ちが通じたかのような便りが今朝サンパウロから届きました。


ブラジルは老人の天国
      
           2010年8月11日   峰村 正威 
 自慢ではないけど、日本で電車に乗ったとき、いまだに席を譲られたことがない。
シルバーシートとか洒落た名前の老人席があって、その前に立つと、知らぬ顔の半兵衛を決め込むのは大概が厚顔な中年の男女である。若いのになるとさすがに気が引けるのか、眠ったふりをしている。いわゆる狸ねというやつである。
 それをブラジルで仲間に話すと、異口同音にそうだ、そうだという。それから話が脱線すると痴漢のことになる。
 日本の電車に乗るときいちばんおっかないのは痴漢に間違われること、だから、電車の中では両手を上にあげている、といった話である。
 ブラジルでは、電車内の痴漢の話など日常聞いたこともなければ、メディアで採りあげられることもない。日本がそれだけストレス社会であるということだろうか。男はストレスがたまると痴漢をしたくなるのだろうか。まさかねぇ。
 そして話の落着き先はブラジルのほうがよほどいいとなる。

 サンパウロの地下鉄にもむろん老人席がある。老人席に限らず混んでいるときはどの席でもすかさず立って老人に席を譲ってくれる。それは若いひとほど頻繁にである。中年層というのは中途半端なせいか、サンパウロでもあまり席を立つ人は見かけない。
 驚くのは若い娘たちそれも少女層にそれが目立つ。満員のメトロに乗り込むと、目ざとくこちらの姿を見つけ、笑顔のまま手招きしたり、袖を取ったりして、自分の席に導いてくれる。それが可愛くって無邪気な娘であるとむろん悪い気がしない。
 日本では、社会保障制度は完備し、老人の看護や介護はいきわたっているようだが、日常の生活面で、どれだけ老人が大事にされているか、ということを考えると、首をひねらざるを得ない。
 その点は、ブラジルは制度的にも老人を具体的に大事にしている。
 先ず第一に乗り物である。サンパウロの乗り物は、バスならば60才以上、地下鉄にならば65歳以上になると、いずれも無料になる。それも路線内どこまで行ってもであるから重宝する。なかには用もないのにただの地下鉄に乗ってひまつぶしをする老人もいる。次に銀行やスーパーなどの窓口である。いずれも一般とは別に老人を優先する窓口が設けられ、待たされることはまずない。
 このふたつだけでも、足腰の不自由な老人にとっては大変なメリットであろう。
 年寄りを大切にする、老人をいたわるといった習慣はおそらくブラジルの場合、カトリックの博愛精神からきているのだろうが、(日本の場合は戦後民主主義の負の遺産のせいか?)異教徒の日本人老人にとってもこればかりはありがたい。ブラジルは老人の天国だと吹聴したくなる始末である。
 だが、その天国に住んでいても、やれ治安が悪い、スモッグがひどい、交通が渋滞するとか、文句が絶えないやつもいる。所詮、人間は出来ることはしたくない、できないことがしたい、あるものはほしくない、ないものがほしい、という厄介な動物なのだろう。(老人を高齢者というが、レトリックで飾っても中身は同じじゃないですか。)

 峰村さんは私と同年生ですから80歳にならんとしている方です。
 中国青島中学では中村八大さんと一緒です。現在は峰村さんはサンパウロの日本人社会での長老になっており活躍されているようです。
 私は青島、日本、サンパウロでと何回もお目に掛かっております。
 峰村さんが子どもの頃住んだ青島の家の庭には黄海飯店が建ち、家の方は従業員の宿舎となっているそうです。広い庭だったのですね。青島に行きましたら寄ってみたいなーと思っております。
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謝々と再見

 二女の娘 小学校の2年生になりました。高校2年生の長女の娘と良く張り合います。昨夜は珍しく喧嘩もせずに帰って行きました。
 虫捕り、釣りなど外遊びが好きで、また小動物を飼うのも好きです。家ではカブトムシやカナヘビを飼い、外から帰って来ますと先ずハムスターを抱きます。毎晩母親は生餌を捕まえに出掛け、時には餌取りに長女も動員されます。毎日出掛けておりますので、すっかり日焼けしております。

         捕まえて来たカブトムシ

 その孫 なかなかです。良く言えば気骨があるとも言えるし悪く言えば強情で、なかなか言うことを聞きません。
 運動神経は抜群で、最近はキムヨナの真似も上達しているようです。食べ物には余り関心がありませんが、偶に美味しい口に合った物に出会いますと、それを欲しがります。
 
 先日山梨から立派な桃を頂きました。食べて美味しかったのでしょう。
 夜我が家に現れ「桃が食べたいので頂戴」と言います。手に持たせて「ばーばありがとうは?」と問いますと「謝々」と帰って行きました。
 次の日また桃とやって来ました。今度は帰りしなに「再見」と言います。
 心得ているのですね。他の家族には謝々や再見と言う言葉は使わないのです。いつの間にか私にはこれが合うと言うことに気が付いたようです。
 
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ラベルのリニューアル

 高齢になり、想像もしていなかったことの一つ  それは味の濃い食べ物が好きになったと言うことです。
 多分個人差があるとは思いますが、私の場合は基本が和食のせいか、手作りの物が多く、ベースは醤油です。

 佃煮などは良く作り、時には友人・知人に食べて頂くこともあります。半ば押し付けの物ですので、何とか喜んで頂けたらと、入れ物にラベルを貼り、チャイナドレス模様の包装紙で包んだりします。
 このような半ば遊び要素を取り入れたような事は、私が楽しんでいることの一つです。
 
 今までのラベルの製造日の表示が実際とずれて来ましたので、新しく作りました。これは私の手では難しく、以前同様若い助っ人の方にお願い致しました。

         ちりめん山椒の新ラベル

         牛そぼろ山椒新ラベル

 「賞味期限はご自分で判断!」 これは評判が良いようですよ。大体作った日から冷蔵庫で2ヵ月は持ちます。これらの佃煮は老婆の朝の食事にしょちゅう登場し並んでおります。

 ちりめん山椒のことはランキングで随分前から上位に並んでおります。 

 ある時期までこのことは全く知りませんでした。富山の瀬戸さんから山椒の実を差し上げましょとコメントを頂き、不思議に思っておりました。その理由をある日知ることになりました。

 それは2007年7月のことです。 

 ランキングをご覧になって下さった方。ランキングのGoodにぜひクリックしてくださいませ。下の方に「相子老婆の牛そぼろ山椒」も出ております。此方もご覧になって下さいませ。
 
 どちらもレシピをご覧頂けだけます

 現在もう一つ新しい佃煮のラベルを準備したいなーと思っております。それは椎茸・昆布の佃煮です。

         椎茸・昆布の佃煮

 乾原木椎茸と北海道の上質な昆布を合わせた物です。長女の娘が大好きで美味しいと褒めて呉れますので、これも良いかなーと思っております。
 
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二重被爆体験者 山口彊さん

 この数日 広島、長崎に投じられた原爆のことで初めて聞くことが出て来ております。
 「黒い雨の範囲」「入市被爆」「アメリカで封印されていた投下直後の米軍の要請に応えた医療調査」など
 
 慰霊祭の様子等はTVでは毎年放映されますから見ることは出来ます。今年のこの時期 私にとっては多くの事柄を知ることになりました。
 昨夜NHKハイビジョンで紹介された二重被爆体験者山口さんの悲痛な体験と、ほとばしる平和への願いに感極まり、暫し言葉もなく、その後に怒りがこみ上げて来ました。

       原爆で破壊された浦上天主堂

 私のクラスメートの浦上さんはこの地で被爆されたのだと、私は確信しております。夫と訪ねて以来心が落ち着きました。
 
 下記の記事は山陽新聞から転載させて頂きました。

広島、長崎の両方で被爆した「二重被爆者」で、1月に93歳で亡くなった山口彊さんが国内外で反核を訴える様子を、5年にわたって追い掛けたドキュメンタリー映画「二重被爆~語り部・山口彊さんの遺言」が完成し、7月末に長崎市で初上映された。

 監督の稲塚秀孝さん(59)は「山口さんがやり残したことを次世代にバトンタッチしたいという思いで作った。一つ一つの言葉をかみしめてほしい」と話す。今後の公開予定はなく、国内外で上映先を探している。

 山口さんは三菱重工業長崎造船所の技師だった1945年8月、出張先の広島と帰郷した長崎の2カ所で被爆。05年に次男に先立たれ「自分は語るために生かされている」と本格的に原爆の悲惨さを訴え始めた。

 映画では、06年に活水高(長崎市)の生徒の前で初めて本格的に被爆体験を証言し、声を詰まらせる様子や、ニューヨークの国連本部で「みなさんの力を貸して下さい」と涙ながらに訴える山口さんの姿を映し出す。

 亡くなる2週間前、米映画監督のジェームズ・キャメロンさんと初対面し、山口さんが病床で「I have done my duty(私は自分の役目を終えた)」とつぶやく場面も。』

         ジェームズ・キャメロンの訪問
 

 昨夜の放映はこの活水高校での語りから見ましたが、この作品はぜひ多くの方に見てほしいと思います。
 私は山口さんのゆっくりと語る言葉を聞き、戦争の齎す大きな負の遺産と実際の惨めさに、日本は強く核反対の誓いをしなければと思ったことでした。
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立秋

 今日は立秋 「どうしてもう立秋なの」 納得がゆかないような暑さが続いております。
 毎週土曜日はNHK柏文化センターで中国語を受講しています。でも今日は欠席します。体調が悪い所為ではありません。何か大事なことが入っているわけでもありません。
 手賀沼の花火の所為です。
 とに角柏市と共催ですが、会場へ向かうには我孫子駅からの方が楽なのです。
JR我孫子駅は時間が迫って来ますと、ホームにも改札前の南北をつなぐ通路にも人で溢れます。エスカレーターも止められて、駅から脱出するのは老人には大変なのです。
 私は人を押しのけて前に進めるような体力も気力もありません。それです。休む理由ですね。

 このところ中国語の授業で中国の二十四節気のことが出て来ます。老師は節気の特徴や諺等を詳しく説明をされます。あれ?以前聞いた話だなーと暫らく経つと気が付いたりします。おかしいです。老化現象かも知れませんね。

          実用万年歴

 この実用万年暦は先頃出掛けた中国青島で求めて来たものです。「袖珍日常事典」と言った感じです。内容は大きく暦法知識、気候・気象・諺語となっておりますが、日常生活の習慣や生活上の留意すべきこと等がぎっしりと詰まっております。二十四節気のことで老師は私に「これは?」と訊ねますがこの便利な本を良く忘れて行き、恥を掻きます。

 昨日人と会うので霞が関ビルまで出掛けました。都心は暑いですね。例の紙の帽子を被り出来るだけ日陰をと思いますが、財務省前も文部科学省まえも照りつけています。

 先月16日には梅雨の明けて行く空の様を眺め「これから10日位は暑さが続くのよねー」と何だか良いのか悪いのか、分からない言葉を交わしておりました。

        7月16日梅雨明けか

        8月6日霞が関ビルから

 昨日は楽しく話が弾み夕方まで過ごして来ました。明日は立秋だと言うのに我孫子に着いても暑さは猛烈です。
 紙の帽子の汗染みも大きくなっていることでしょう。

 
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蘇州夜曲

蘇州夜曲
詩もメロディーも心に沁みる歌ですね。
この歌は渡辺はま子さんの持ち歌だと思っていましたが、もともと李香蘭が唄う前提で作られた曲だそうですね。渡辺はま子さんと霧島昇さんのデュエットのレコードは昭和15年の戦時下で大ヒットしたそうですが・・・。山口淑子さんご自身の「李香蘭を生きて」の著書によると、日劇七回り半のときの演奏曲目の中に蘇州夜曲も入っています。また2~3年前にテレビドラマ化された「李香蘭」でも上戸彩さんが中国語で唄っていました。李香蘭本人が唄ったこの曲は聴いたことがありませんのでぜひ聴きたいものです

 先日林敏さんの揚琴コンサートの話をアップしました。遠くに住む方から上のようなコメントを頂きました。
 今週の月曜日 日テレ「BS日本・こころの歌」で久し振りに蘇州夜曲が歌われました。
 この番組で歌うのはフォレスタと言う名の男女のグループです。全員で歌うこともありますが、曲により男性だけだったり、女性だけだったり、また混声だったりと、美しいハーモニーを聞かせて呉れます。

         蘇州夜曲

 歌う女性4人はロングのチャイナドレスを着ております。この番組は毎週見ておりますがその時々のテーマにより、時代を歌っております。

         フォレスタ女性

 歌われる歌にそれぞれの思い出が重なります。フォレスタ公演の様子もこの番組で放映されますが、軍歌が歌われますと客席の高齢な男性の表情に大きな感動が走るようです。口が必死に涙をこらえようとしている風に見えます。
 決して戦争を是としているわけでは無い筈です。戦場での苦しみ、戦友の姿、死と向き合った当時のご自分、過ぎし日の悔恨など歌に連れ万感胸に迫って来ているのでしょう。この番組の意図したことの一つでしょうか。

 台北に生徒の一人と行きました。その直前ドレスの話を伺い生地を買って来ました。採寸の時、仮縫いの時などでお目に掛かりましたが、皆さん礼儀正しく感心しました。
 生徒はフォレスタと繋がりが深く、彼女のブログにフォレスタのメンバーのブログがリンクされております。ご覧ください。
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二胡もアコーディオンも

 知りあってから随分過ぎているような気がしております。若い男性の年齢はどうも分かりませんので彼が何歳かは知りません。
 その彼 中国文化、中国語、中国楽器など中国漬のような生活をしている安西創さんです。
 その安西さんはボタン式のアコーディオンの演奏者としてもまた稀な存在です。

 最近引っ越してなかなかお会いすることが出来ません。どうされているのかしらとブログを拝見しては安心しておりました。
 ところが発熱をされている姿に早速メールで様子をお聞きしました。返信に「近年仕事が減って三度の食事を一度に詰めたら熱が出ました。ぜひ仕事を依頼してください」と言う字が見えます。実際は風邪です。でも応援はずーとしますよ。

           楽屋の安西さん

  熱を出してじっと我慢しいる表情は辛そうですね。何時も明るく爽やかな安西さんにしては珍しい姿です。

 颯爽とアコーディオンで皆さんに語りかけながらシャンソンを歌う安西さんは素敵です。

        アコーディオンを弾く安西さん

 このような集まりは彼の人柄が良く出て来ますので、また聞きに行きたいと思っております。
 
 夏になりますと二人で渋谷に出掛けたことが思いだされます。デパートで骨董品のイベントがあり、中国物も出ていると言うので一緒に行きましょうとなりました。
 青山で落ち合いました。私は中国服ですね。ホームで待っていた彼
 グレーの長い中国服 パナマ帽を被り男性用の大きな扇子を片手にしております。
 この時の長着が上の楽屋での物です。ベストは着ておりませんでしたが。

 私は何だか若い男性に優しくされて優雅な気分でしたが、彼は大年増の太った小母さんとではどうだったでしょうか。可笑しくなります。
 その渋谷で出会ったのが謝黎さんです。謝さんとは以来ずーとお付き合いをしております。

         パーティーで

 右は安西さん 真中が謝黎さん 当時安西さんは他の二人の方とトリオを組み、舞台でも活躍しておりました。
 懐かしいですね。

 ある時安西さんがチャイナボタンの講習会を開いて下さいました。その時に見えた馮曰珍さんはそれから間もなく私の講座で受講をされるようになりました。
 
 安西さんと知り合った切っ掛けは何だったかしらと思い出しましたが、それに触れますと長くなりますので別の機会があればと思っております。

 佐橋慶女さんの喜寿のお祝いに二胡で祝って下さって以来、お会いしておりませんので、その内お会いしたいものだと思っております。


  謝黎さん 4月から東北芸術工科大学芸術学部歴史遺産学科 専任講師 
           (旗袍研究者)
 
  馮曰珍さん 文教大学講師 (朝日カルチャー中国語講師) 
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紙の帽子で思い出す

 2001年5月
 ニースのホテルはまー滅多に見つけられないような宿でした。旅行社は○○交通社 
 モナコグランプリの翌日でコースのスタンドも片付いておりませんでした。素敵な風景、整った街並み、陽光降り注ぐ海全てが気を安らげ、来たんだー!と自然に心が弾みます。どんな宿かと期待をしますね。
 夕方着いたホテルのフロント?カウンターは一間程の長さ。ええここ?
 誰もが顔をこわばらせているようでした。部屋が決まり水を買おうとしましたが、小さな売店は既に閉店。
 仕方なく外へ買いに行きました。人に聞きようも無く当てずっぽうに歩き回り、大きなスーパに入りました。
 水を買い、折角ですので店内を彼方此方うろつきました。
 何だか素敵な帽子が目に入りました。被って見ますとツバの大きさが気に入り買いました。それはそれは気に入り、道中は勿論成田まで被って来ました。
 旅の間皆さんに覚えられてまごまごしておりますと直ぐ見つけて下さいました。
 
 その帽子 イタリ―製のオールパルプの表示があります。この夏はもう随分被りましたね。

        ニースの帽子

 雨が降ったらどうなるのでしょうかね。まだ雨に遇っておりません。
 色は素敵なパナマ風に綺麗でしたが、黄ばみその上ツバの内側は汗染みでうっすらとそれと分かります。
 ずーと毎年出しては被っております。
 道で会う知り合いの女性方は「素敵ですねー とてもお似合いよ」と褒めて下さいます。
 褒めないのは夫 「まだ被るのかい」と。 だって1000円位だと知っておりますし、古いことを知っているからでしょう。
 
 ホテルの話になりますと二人で盛り上がります。「いくら寝てしまえば同じだといってもねー」となります。
 とに角窓のカーテンを開けましたら、驚くほどの汚いアパートの裏庭が見えます。もう私はそこから帰りたくなりました。バスルームも狭く汚れております。鏡もありません。
 そして極め付きはベット。寝たくなくても仕方なく体を横たえました。なんと毛布が破れているのです。カバーも被せてありません。
 二度とこの旅行社のツアーは使いたくないと思ったことでした。
 
 毎夏 お気に入りのこの帽子が出て来ますと間違いなくニースのホテル話になります。
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鰻釣り

 幼稚園児だった頃 住まいは千葉の館山北條町と言う所でした。地名の通り町は二つに分かれておりました。
 北條は今の館山駅の東側が中心で、商業地区と言う感じです。館山は町の南方向にあり、海軍館山航空隊に親近感を持つ街でした。
 北條と館山を分けているのは一本の川です。北條から大通りを南に行きますと潮留橋があり、そこが道路としての二つの町を分けておりました。
 潮留橋のたもとは簡単に降りることが出来、鰻の釣り場で夏になりますと父と一緒に良く出掛けました。
 先ず餌のみみず取りから始まります。家の近くの薄暗い畑の堆肥作りの場所に行きます。持ち物は竹竿とバケツ。何故か一人で行かせられました。
 堆肥の山に竹竿をグーッと挿しこみ、その竿を押したり引いたりします。すると堆肥のあちこちから太いみみずがにょろにょろと出て来ます。それを素手で拾いバケツに入れて持ち帰ります。慣れますと面白いのですよ。
 夕方に出かけ、翌朝竿を揚げに行きますから、当時の父の勤めのことを考えますとそれは土曜日の夕方だったと思います。
 釣り竿は長くは無かったと思います。道糸の先に針糸を何本も付けて、その先に釣り針を付けます。父は「じゅずご釣り」と言っておりましたがそういう釣り方法があるのかどうかは知りません。
 その針にみみずを付けます。長いので一所懸命息を詰めて上へと押して行きます。多分5、6本は付けたような気がします。
 そのみみずのお陰で後々のハゼ釣りのゴカイ付けなどは訳なく出来ました。
 翌日の釣果は全く覚えておりませんが、少しはあったのでしょうね。
 
 子どもの頃は鰻は食べられず、汁だけをご飯にかけて食べていました。それがどうしたことでしょう。今では鰻大好きのばーさんになっております。

 身内と言うか知り合いと言うのでしょうか。館山の新松という鰻の老舗は土用には大張りきりだと思いますね。
 この新松のうな重は鰻がご飯の間にも入っており、二段となっております。これは昔からです。

         新松のうな重

 職業人だった頃は駿河台下の寿々喜のうな重ランチを食べに偶に行っておりました。1957年頃クラス会を寿々喜で開いた時は会費が1000円位だったと思います。まだ木造二階屋で上の広間で集まりました。
 1953年の初任給は大手企業で9000円ほど、小企業で7000円から8000円程でしたから、1000円と言うのは鰻屋だったからで、その後一度も鰻屋でのクラス会はありませんでした。専ら居酒屋になっていましたが、今や皆老人になり、クラスでの飲み会は全くなくなりました。

 鰻は好きですが今ではわざわざ出掛けて食べに行くことはありません。宝井馬琴師匠のビジネス講談の会が開かれる池の端の伊豆榮の鰻は丁度良い分量です。好きでも沢山は駄目ですね。
 偶に買って来る鰻は夫と二人で大きいのが一本あれば足りますね。

         伊豆栄のウナギ

  鰻釣りからどんどん話がそれて仕舞いましたが、要するに夏は鰻だと言うことです。

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プロフィール

相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日86歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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