2010-09

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青島再訪 8

 劈柴院を一回りし、私たちは楊夫人の店に寄り、ジャスコに月餅を買いに行きました。
 9月18日の青島ジャスコは熱気に溢れておりました。仲秋節を目前に控えて月餅を大量に買い、また他の物も積み大きなカートが軋むほどに見えます。
 中国ではこの仲秋節の贈答品は日本のお歳暮やお中元に当たるようなとても重要な風習だそうで、人々は身内や会社の上司、またしかるべき地位にある人へも贈るのだそうです。品物を盥回しにすることもごく普通に行われているそうです。
 宿泊したシャングリラホテルでも月餅の予約を受け付けております。リカさんはホテルの様な所で買うより庶民の味の普通の店の物が好きだと言います。そこで私たちもジャスコで量り売りの月餅を買いました。
 私は随分買ったような気がしましたが、金額は日本円で1200円程で驚きました。
 
 劈柴院から車は旧市街を走りましたが、道の左側に車が隙間がない位に停まっています。駐車違反ではないかと聞きましたら、一方通行の道は何処も左側は駐車場になっているのだそうです。
 車は道路を埋め尽くすほど多いのですが、運転は可なり乱暴ですね。無言の喧嘩をしているような運転です。

 旧市街の昔は街路樹はアカシヤが主な樹でしたが、今はプラタナスが主流のようです。プラタナスも大きく成長し、道路は涼しげに見えます。その日は28度程の気温でしたが未だ日差しは夏 海岸では水泳を楽しむ人が大勢目につきます。
 ジャスコで買い物を済ませましたら既に夕食の集合時間に迫っております。大急ぎで書店に寄り私たちは由さんに夕食会場まで直接送って頂きました。
 この日の夕食は青島料理と言うことで、かなり期待しました。旅は美味しく、また珍しいものにぶつかるのも楽しみですね。最後に今回の青島再訪での食事を掲載しましょう。

     17日夜 17日夜2

     18日朝 18日朝2

     18日昼 18日昼2

     18日夜 18日夜2

     19日朝 19日朝2

     17日の夜 燕京でしゃぶしゃぶ
     18日、19日の朝 ホテル
     18日の昼 東方飯店飲茶
     18日の夜 銀海閣大酒店

 私が一番美味しかったのはホテルの朝の野菜です。将に老人の食ですね。
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青島再訪 7 

 今回のフリータイムは皆さんに喜んで貰えるようなことで纏めたいと思いました。東側に広がった新しい青島はツアーの中に組み込まれておりましたので、4月に私が行きました青島の古い街を復元した劈柴院に行くことにしました。その後は楊夫人のお店と書店に行くことになりました。

      復元した街1 復元した街2

       復元した街3 復元した街4

       復元した街5 復元した街6

       復元した街7 復元した街8

       復元した街9 復元した街10

 写真の2番をご覧ください。小さな貝が山に積まれております。どうやって食べるのかを聞きますと、爪楊枝でほじり出して食べるのだそうです。中心に見える貝の大きさは1,5㌢程です。時間がかかりましょうね。

 生きているサソリには驚きましたね。前回は気が付きませんでした。父が足を刺されて大騒ぎをしたのを思い出しました。
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青島再訪 6

 今回の青島ツアーは夫が見つけて呉れましたが、私は出来れば毎月でも行きたい所です。
 18日の午後はフリーですので、前もってリカさんに連絡 昼食を済ませてホテルに戻った私たちをリカさんが迎えて呉れました。
 「お久しぶり お会いしたかった お元気だった?」とお互いが同じ言葉で抱き合いました。感激です。
 お願いしてありました由さんの車でホテルを出発 
 何をさておいてと青島病院へと向かいました。現在は青島医科大学付属病院と言われているようですが、私の子どもの頃は 青島病院 即ち同仁会青島病院でした。
 この病院は当時から青島での一番大きな病院でした。既にこのブログで紹介しました、矢内原先生や広瀬先生もこの病院で勤務されました。
 私は体は丈夫で大病はしませんでしたので、ここでお世話になったことはありません。
 下の妹二人はこの病院で生まれました。下から二番目の妹が生まれた日 青島は停電になり我が家の食卓ではすき焼きの鍋を囲み、暗い中で食事をしました。とても印象に残った夜でした。
 その妹が生まれた時 ただ一度この病院に母を見舞いに行きました。丁度青島に来ていた叔母が一緒でした。この叔母は現在91歳 ハイヒールを履き、素敵なブラウスとスカートで颯爽と出かけ青島の水先案内協会に勤めておりました。叔母にしてみれば余りに古い話で驚くことでしょう。
 
 今回は妹の希望でフリ―タイムの一番に青島病院を訪れました。
 病院は車が多くて前面には止められず、後ろの方に車を止めて頂きました。

       青島病院

       青島病院と信号山

 4月の青島訪問時にウェイウェイさんはご長男の肩の脱臼で青島病院に駆けつけました。私は丁度ウェイウェイさん宅に居合わせ、お嬢さんと病院からの帰宅を待ちました。
 青島病院は綜合病院として今も青島の人々の為に立派になっているようです。院内を見ることは遠慮しました。
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青島再訪 5

 9月18日 ツアーの青島観光は午前のみ この日北京の日本大使館前では尖閣諸島の問題で中国の人々の抗議集会があったとニュースは伝えておりましたが、青島の五四広場は平穏な空気の中、多くの人が集まっております。
 赤いモニュメントは五月の風と呼ばれるそうで、重さは500t 風が隙間を通り抜けるように出来ているのだそうです。
 見渡しますと岸壁で釣竿を下ろす人も見えます。広場の周辺では凧を揚げて楽しむ人もおります。
 猪八戒や孫悟空の姿で一緒に写真を撮ることを勧める人、また軍人の姿をした人が歩き回っております。
 何れもモデルになって呉れるようですが、まず広場にいた数十分の間では一緒にカメラに収まる人は見かけませんでした。
 傍に物乞いの人が寄って来ます。気の毒な姿にどうしようかと迷いが出ましたが、一人に何か差し上げると、次々付いて来ると言うので止めました。

 若い男性が広場に来た人に小さな五星紅旗を渡しております。私たちにも手渡します。

       五四広場モニュメント

       五四広場で釣り

       五四広場旗配り

 私たちは五四広場を後にして八大関景区の海岸。更に青島博物館に入場見学。

 青島博物館は1965年に建設され、所蔵品は10万数件と言うことです。館内でまず紹介されたのは大広間に立つ二体の石仏像です。説明によりますとこの仏像は大きくて、中に運んでから後ろの部分を作ったそうです。
 高さ6m 重さ30t 俗称八丈仏陀と呼ばれているそうです。

        博物館の仏像

 案内の学芸員のような男性は日本語が上手です。物腰も柔らかく研究者らしく感じました。館内を廻り最後の部屋に行きました。
 飾り棚の中に陶器などが並んでおります。嫌な予感がしました。果せるかな旅順でも上海でも経験したお勧め品の紹介でした。「この数日だけの値段です。鑑定書も付けます。日本までの輸送もします。受け取ってから鑑定をして貰ってからお金は払って下さい。全部で100万円です」
 折角の見学の価値が一気に下がって仕舞ったような気分になりました。時間も勿体ないですね。誰も購入しませんでした。

         青島市博物館玄関

 何だか残念な気持ちで博物館を後にしてバスは出発しました。

        大きな浮山見える
 
 博物館から昼食の食事会場の東方飯店に向かう途中バス前方に大きく浮山が現れました。即言葉が出ました。「小学校の時あの山に登ったのよ」
 モヤの掛かった山頂での食事を思い出しました。体の廻りをモヤが流れて行きます。最初雲かしらと思いましたね。子ども心にも素晴らしい体験をしたものと時々思いだします。

 
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青島再訪 4

 中国で結婚するには家、車、預金が大きい要素だと以前聞いておりましたが、本当はどうなんでしょうか。
 恋愛で一緒になる方もいる筈だと思いますが。
 青島二日目 五四広場に行きましたが、人で溢れております。五四広場のことは後日に回しまして、八大関の海岸で見かけたカップルの姿をご覧になって頂きたいと思います。
 土曜日は結婚式も多くあるようで、旅順で見かけたように、ピンクのリボンで飾った車が列をなしてすれ違います。
 シャングリラホテルでも式場の準備がされているようです。玄関先に飾る物が持ち込まれております。
 八大関景区の海岸は岩場が綺麗で、結婚記念の写真を撮る絶好の場所
 以前真冬と言いますのに、肌を刺すような寒さの中で何組かのカップルがカメラマンを連れて写真を撮っておりました。
 18日は天気も晴れ 青島の天気は先週当たりは曇りや雨で海岸の撮影には向かないようだっと言うことです。 
 土曜日ですので海岸に記念写真を写すカップルが数え切れないほど見えております。
 カメラマンがモデルになりポーズを取っているのを目にしますと、若いなーと感じて仕舞います。

      記念写真1 白いドレスが目立ちます

 海岸の傍には貸し衣装屋の小型のワゴン車が止まっております。女性がドレスを着て靴を合わせております。

 その貸し衣装屋の傍に貸し犬がおります。その犬を間にしてカップルが写真を撮っています。

         借り犬と

 撮影が終わり、犬は車の方に連れて行かれました。ところが外の方が気持ちが良いのか、乗りたがりません。
 男性二人が押し込み載せました。

 ガイドさんの説明によりますとこの場所には青島市内からばかりでなく、遠くの市や街から車やバスでやって来て撮影が済むと、直ぐに帰る人も多いのだそうです。そういうことで土日は賑わうと言うことでした。

 結婚式の様子や記念の姿を、豪華なアルバムにするのが大事なことのようです。西安のホテルで店員さんから立派なアルバムを見せられて、感想を求められましたが、綺麗、素敵としか答えられませんでした。
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青島再訪 3

 青島初日 と言いましても二泊ですから改めて言う程のことではないようにも思えますが、私にとってはとても嬉しい夜となりました。 
 午後9時近くなりましたら、ウェイウェイさんから一階のロビーでお待ちしますと電話が入りました。
 急いでロビーに行きますと、そこに楊夫人もお待ち下さっています。ウェイウェイさんとはお会いできるかもと思っておりましたが、楊夫人がお見えになるとは全く思ってもいませんでした。
 部屋に来て頂き、私たち全員が集まり、ミーティングが始まりました。
 ウェイウェイさんは素敵な旗袍を着ておりますし、楊夫人はこれまた何とも言えないシックな旗袍姿です。

          ウェイウェイさんと楊夫人

 ウェイウェイさんは旗袍のオーダー専門の仕事をされる方です。日本語が堪能で控えめ 中国女性としては珍しいタイプに見えます。4月にはウェイウェイさんの仕事を引き受けている方に会わせて下さいました。
 楊夫人は青島で最高のデパート サンシャイン(陽光)の2階にショップを開いております。
 デザイナーでもあり、店のオーナーでもあります。楊夫人は自在なデザインで旗袍を作り出してはおりますが、それは実に個性的で渋く、全てシルクの物です。男性の物もあります。
 デパートの近くの事務所は工房も兼ねておりますが、インテリアも楊夫人の個性が遺憾なく発揮されております。眼下に美しい海を眺めてお喋りをしたのがつい先日のような気がします。

 ウェイウェイさんは私たちの持参した旗袍を手に取り、丁寧な作りだと褒めて下さっておりました。そして直ぐに着て良いでしょうかとなり、身に着けてご覧になりました。何度も何度も褒めて下さり汗顔ものでした。
 
 お互い旗袍談義にとっぷり浸り、それは楽しく充実した一時でした。お会いできて良かったです。またまた青島が近くなりました。
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青島再訪 2

 日本の方が初めて中国青島を訪ね、その風景に接しますと、驚かれます。一般に中国と言いますと、汚れた街、緑の少ない街といったようなマイナスイメージを持てれている方も多いことと思います。ですが青島に足を下ろしますとそのイメージが見事に変わり、青島の街並みに感心されます。
 海あり山あり、夏もそう暑くなく、また冬になってもそう寒くはありません。
 迎賓館の見学を済ませてツアーの一行は前海桟橋へと向かいました。
 この桟橋は私が子どもの頃は海軍桟橋と呼ばれていました。清朝末期に清朝海軍の桟橋として作られ、物資の上げ下ろしに使われたそうです。その後ドイツ時代に延長され、400mの長さだそうです。先端に八角形の廻瀾閣と呼ばれる亭があります。四季を通じて人々が押し寄せております。
 先端に向かって左側で小学校5年生の夏、1マイルの遠泳をしたことが思い出されます。

      前海桟橋 桟橋の賑わい

          桟橋の物売り

      貸しボート 大市禮堂

 青島の風景のシンボルのようになっているこの桟橋は何時来ても人が一杯です。桟橋の両側には貝殻細工の物や、玩具のような物等をうる人が軒を?ではない敷物を敷き人々に声を掛けております。
 餃子を包む器具も売っております。以前日本でも流行った物です。時間がありませんから急ぎ足で往復しました。
 桟橋から道路の方に目を向けますと、建物の真ん中に時計が嵌まっている古めいた建物が見えます。
 今は音楽堂になっているようですが、昔も催し物の会場でした。クラスの何人かがバレエを習っており、発表会に母と観に行きました。青島の子どもは恵まれておりましたね。

 桟橋を後にして車は青島ビール博物館へと向かいました。道路は車がひしめいております。5年前は気になりませんでしたし、4月の時にも余り強く感じませんでした。こう渋滞が酷いと大変ですね。

         車は進みません
 
 青島で何故このように渋滞が起き、車の数が増えたのでしょうか。ガイドさんの説明によりますと  

 1 車の価格が下がったこと  
 2 ナンバープレートの交付が合理化されて手続きが簡単になったこと
 3 免許証が取り易くなったこと こういった点で車が増えているのだそうです。
 
 車に巻き込まれてやっとビール博物館に入ることが出来ました。

      綺麗なプレート 工場再現

 青島ビールの生産は1分間に2トン 工場内でビールの缶が帯状になって流れて行きます。
 見学が終わり出来たての生ビールを頂き、バスはシャングリラホテルに向かいました。
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青島再訪 1

 4月に一人で中国青島に行き、大いに楽しみ、また新しい発見と懐かしい風景や街の姿に心は満ち足りていました。
 先ごろ夫が「こんな良いのがあるよ」と新聞を目の前に出しました。わ―青島だ。気分は青島に飛んで仕舞いました。二泊三日 良いですね― 誰と行こうか? 
 妹が生まれた病院を見たいと言っておりましたので、声を掛けましたら即OK
折角なのでもう一人そこで生まれた妹を誘いましたらそれも即決 もう一人は上海に一緒に出かけた生徒の方に話ましたら、喜びこれも即決4人の団体となりました。
 9月17日の朝 ANA の直行便で青島に出掛けました。
 青島は先週からお天気が悪く心配しておりましたが、15日当りから晴れて来たようでした。
 青島流亭空港に着くまで何人のツアーか分かりませんでした。到着しましたら19名でした。
 
 空港に出迎えていた現地ガイドの方は青島出身の唐合梅さんです。中国山東省の濟南にある山東大学の日本語学科の卒業生でした。青島っ子ですね。
 バスに乗り空港を出発しますと、もう何回も目にしたような風景が目に次々入って来ます。

         青島市内へ道

 青島の人口も増え続けているそうですが、車の増加は特別に感じられているようです。 
 道路の交差点では信号横に信号が変わるまでの数字が秒単位でております。
 
 バスは青島空港から青島市の東側へと進み、西へと折れて行きました。途中で私は慌ててカメラを構えました。
 青島羊会の仲間の一人 サンパウロに住む峰村さんが過って住んだ家の庭に立つ黄海飯店が見えたのです。

        黄海飯店

 何故か私はバスの一番前の席に座っておりました。ぐずぐずしていたのが良かったのでしょうか。カメラも座席の前の台に手を載せて写すことが出来ました。それが最後まで続いたのです。一緒の方々に申し訳ない気分でおりました。
 青島での観光で下車し、中に入ることが出来ましたところ最初は迎賓館でした。

     青島迎賓館正面 迎賓館プレート

     迎賓館ホール 迎賓館孫文

 迎賓館には多くの方が見えております。私は建物の中に入ったのは初めてでした。保存状態が良いのかどうかは私には分かりませんが、ドイツらしい落ち着いた空間と色彩を見ることが出来ます。
 この迎賓館には多くの賓客が訪れ、また宿泊もされたそうです。その歴史を語るパネルが何枚も掲げられております。時間がなくてゆっくりとは眺めることは出来ませんでしたが、100年前の青島のパノラマ風景も飾られておりました。機会があればまた入館し見たいものです。
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明日は青島です

 中国青島への成田からの直行便は午前、午後それぞれ一便しかありません。聞くところによりますと可なり利用者が多くて、席も満席に近いそうです。
 4月青島からの帰国では席を窓際でない所にしましたが、飛行機が青島流亭空港を飛び立ちましたら左に美しい風景が見えます。窓脇でしたらその姿を写すことが出来ました。残念でなりません。明日はツアーですから自分で席は選べません。何とか行きは右、帰りは左と座席が決まって欲しいものです。
 昨日TVで青島に本拠を置く、海爾集団が大きく日本の家電製品店に進出すると言うニュースを流しておりました。
 2005年に夫と青島に行き、労(労は山偏に労の旁)山の麓まで行きましたが、その帰り道ではなかったかと思います。 海爾路と言う道を通りました。
 海爾(ハイアール)のことについては随分昔話題になり、関心を持っていました。その話題になった頃の社長は女性でした。その頃の海爾の販売方法は日本のアート引越センターを見習いサービスに力を注いでいました。
 海爾の中国での販売方法はお客さまへの徹底的なサービスです。
 以前は中国はサービスと言うことは可なり疎かにされておりましたね。中国のあちこちに行きましたが、余りお客の立場を考えない様子をしばしば径験しております。売る時はしつこいのですが、後はうんざりが多かったですね。その中国での海爾は見事なばかりに違っていました。

 海爾の女性社長は徹底したサービスを始めました。覚えていることをチョッと記して見ます。

 1 顧客の電話には時間を問わず直ぐ対応すること。
 2 家電製品を届ける際 部屋を汚さないこと。製品を設置したら掃除をし包装した物を全て持ち帰ること。
 3 アフターサービスを徹底させるために、全国にサービスセンターを設けること。

 海爾を検索しました。日本への進出は以前から始まっていたのですね。足取りを見ますと実に慎重ですね。
 昨日の発表は大型白物への積極的な参入だそうです。
 明日はホテルで部屋の冷蔵庫も見て見ましょう。好奇心が疼きます。

        青島地図

 ツアーですが青島日本人会の資料室へお渡しする物も持って行きます。4月にお世話になったリカさんやウェイウェイさんともお会いできるようになっています。楽しみです。
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カラムシって

 戦時中1943年頃だったでしょうか。もう毎日の生活が戦時色に色どられていました。
 中国から帰国した私は慣れない田舎生活に右往左往しておりました。
 春まだ浅き海辺での天草とりも辛いことでした。小学校は天草採りの為に休みになります。確か4月頃ではなかったかと思います。大人は天草を採り漁協に売ります。子どもも浅瀬で天草を採り大人と同じように漁協に売ります。天草採りが終わり、学校が始まりますと先生は教室で生徒に採った天草の値段を聞きます。
 ~さん 「30銭でーす」 ~さん「50銭でーす」 ~さん「40銭で―す」
 あい子さーん「15銭です
 悲しい思い出です。
 また山に焚き木採りに行きます。背負い子を背負い山に行きます。枯れ枝を鎌でひっかけて落とし集めます。それを束ねて背負い子にくくりつけて山道に並べて置きます。全部終わって皆で家路につきます。
 山道に置いてあるとき、大人が通ります。小母さん達は遠慮会釈がありません。
「まー何処の子かねー。まるで赤ん坊のようなのがあるよー」と大きな束を背負い子に載せて通って行きます。  それって私のだ もう堪りません。 こうして日本での子ども生活が続きました。
 悲劇だったのは慣れない田んぼでの勤労奉仕でした。田んぼを牛の代わりに代掻きで歩き回ります。
 農家といますと純朴だと思いますが、必ずしもそうとも言えませんね。勤労奉仕で行った農家で小さなジャガ芋の丸茹でだけの昼食を食べたこともありました。13歳位の時ですから、まだ子どもですね。でも歯を食いしばって頑張りましたね。小学校6年生の時、軍馬の為に飼葉を供出する為に草を刈り、干して束ねて学校に持って行ったこともありました。
 いろいろなことを経験しましたね。稲だけでも田植え。代掻き、田の草取り、脱穀機の足ふみ、暑い夏の草取りは辛かったですね。稲の葉が目を刺しそうですし、田の水は熱くて体は汗もで酷くなります。足を蛭に食われ、私の血を吸いころころになるほど膨れた蛭が足から落ち、その後の痒みと腫れに参ったこともあります。
 稲刈りや麦刈に使うので、鎌の研ぎ方も覚えました。
 先ごろ柏駅の近くでチャイナドレスの生徒と偶然お会いしました。素敵な薄物の上着を着ております。

           からむしの上着

「素敵ですね―。その上着は何ですか」「カラムシです」と言うことです。可なり高価だったのではないかという気がし、思い出しました。
 カラムシの茎を集めて供出したことが思いだされました。本当に集めて役に立ったかどうかはわかりませんん。現在カラムシと言うものは上等な繊維のようです。1944年頃中学生の着る、荒い織りの制服がカラムシだと聞いておりましたが、あれがはたしてカラムシだったかどうだったかは確かめることは出来ません。戦時中と言うことで多くの体験をしました。時に役立つこともあります。三角巾のことも、止血法も、非常食の作り方も、包帯の巻き方なども。 体験を通じ今でも一家言あるのは藁草履の作り方。言わせて欲しいなー!
 経験はそれなりに価値がありますが、戦時中だからこそ学んだと言うことで楽しい経験とは違いますね。切ない経験とでも言いましょうか。
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最近の中国語の授業

 NHK文化センター柏教室の中国語の講座ですが、私の受講しているクラスはこの数年5人 新しい方が全く入って来ません。長く一緒に過ごしておりますから親近感も強く感じております。
 老師も何時の間にかその姿に年輪を感じさせて来ております。
 受講生の一番高齢な方は80歳を幾つか越えておりますが、旧制中学を卒業されたことで、漢文にも精通しております。
 彼は台北中学を卒業 日本の大学で終戦を迎えたようです。現役時代には台湾での仕事も多かったそうです。
 最近の授業は教科書は殆んど使われず、人民日報海外版とかまた他の新聞などからのトピックスを取り上げております。
 老師の記憶力と目の良さには毎々驚かされます。その老師に台湾事情や台湾語等を説明するのが高齢の彼です。 
 先日は台湾の地図を板書して老師や私たちに見せて下さいました。

        台湾の説明

 台湾での言い方等のことも積極的に発言します。生徒は皆さん熱心に耳を傾けます。私もで―す。

 最近の授業で良く話題になりますのは、中国の最近の家族関係と経済発展の齎す様々な問題です。
 
 先週からの話題に一人っ子と孤独老人の問題があります。中国では両親が働きカギっ子は当たり前。また子どもが親から離れて出稼ぎや、海外へと移住したりで、孤独老人が年々増えていると言うのも極めて当たり前のような話です。
 人口13億の内65歳以上の高齢者は1億6000万。毎年全国で800万人も増えて行くということです。
 未富先老 (富むより先に老人先進国)になって仕舞うということです。
 昨日は北京周辺の老人の訪問記で如何に孤独老人が多く、福祉の問題が深刻だと言うことが分かりました。
 孤独感越来越強 老人の心理状態は厳しさを増しているようです。

 老師は授業の時には必ず中国茶を入れて下さいます。昨日はお茶の他に珍しい物を頂きました。
 日本のハッタイ粉のような、または麦こがしのような物にお湯を注ぎかき混ぜて食べる物です。
 老師は西安の朝食で食べると仰いましたが、5人は誰も食べたことも無く知らない食べものでした。

         練った食べ物

 私は中国の食べ物には滅多に違和感や拒否感を持ちませんが、これはチョッとと感じて仕舞いました。香りが複雑で、塩が効いております。何だか老師は生徒の顔をオヤと言う感じで眺められているように見えました。

 傍のインスタントスープの素の袋は中国から戻られた方からのお土産です。毎月のように中国へ出張されております。
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ゴーヤの一代?

 9月8日(水) 台風9号が急に方向を変えて関東地方も襲われました。
 NHKの講座はそのせいではないでしょうが、生徒の方の欠席が多くそうなりますとお喋りにも花が咲きますね。ゴーヤを自宅で育てている生徒さんからゴーヤを頂きました。
 その日にもいだものと、前日にもいだものと合わせて3本です。 
 たった一日の違いですが、新鮮さの違いが良く分かります。

       ゴーヤ

 手前の一本がその日にもいだ物です。違いますね。
 
 「先生 家の2階にまで蔓が延びているんです。これこれ 一番下に小さいのが見えますでしょ」「どれ?どれ?なる程ね。見える見える!」携帯で写した可愛いゴーヤの姿を見せて呉れました。
 「先生これってゴーヤ一代のような写真でしょ」
 確かに生り始めから大きくなり、花が咲き花弁が弾けるまで見ることが出来るのですね。
 この生徒さんは好奇心旺盛なのです。時々思いもかけないことを教えて下さいます。
 こう言うことは大歓迎です。他の生徒さんも一緒に楽しみます。

           ゴーヤの成長

 「ゴーヤの花は見たことあります?これですよ」「へ―こんなの」
 「母は茂原の出ですが、ゴーヤはレイシと言っていたそうですよ。花が割れると赤い実があり、食べていたそうです。ご存知ですか」「いや―知らないわね」

 帰宅してPCで検索して見ましたら、綺麗な花の中から何だか堅そうな円い実が出ている写真がありました。

 昔からニガウリとかレイシと言う言葉は知っておりましたが、ゴーヤと言うのは本来沖縄での呼び方だそうですね。
 
 
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第三回ワンコイン寄席

 昨日 オパール・ネットワーク我孫子支部主催の第三回ワンコイン寄席を無事に終えることが出来ました。
 一昨日は関東地方は台風9号が急に曲がって来て、その影響で雨風の酷い日でした。翌日(昨日の9日)はどうなるかと心配をしておりましたが、天気も持ち直し、気温も少し下がり安心しました。

 会員は午前中から会場の設営に取りかかりました。我孫子支部の会員は全員女性ですので、舞台や屏風などは力が足りません。今回は取手に住むオパールの吉澤文五郎さんと奥さまの妙子さんご夫妻が応援に来て下さり、また私の住むマンションの小松自治会長(明大OB)も最初から最後まで手伝って下さり、助かりました。

 ワンコイン寄席には宝井馬琴さんの弟子の伊藤琴遊さんが毎回お世話をして下さいます。今回もそうでした。
 
 会場はあびこ市民プラザのホール 席数は200ですので丁度良いと言えましょうか。ほどほどの会場ですが、整理券200枚を捌くには努力が要ります。
 500円でこそ皆さんに喜んで頂ける催しですね。10万円で賄うには厳しいことです。
 会員の皆さんが一致協力 また友人知人の方々にも応援して頂きました。皆さま有難うございました。

 初めに伊藤琴遊さんの講談
 
 長谷川伸原作 「夜もすがら検校」 伊藤さんは毎回腕が揚がって来ております。
 
 私は耳が良くなく、なかなか聞き取れませんでしたが、結末が良かったことが聞き取れ、講談の最後は教えだと改めて感じました。

        伊藤琴遊さん

 伊藤さんの推薦でお招きしましたのが次の
 
 宮田章司さんです  「江戸売り声」 舞台の袖から「今にちは!」と大きな声で壇上に登って行きました。
 
 江戸売り声は将に庶民の生活を映し出して呉れます。懐かしく会場からの拍手が次々と送られます。
 宮田さんも応援に応え熱演です。宮田さんの売り声に合わせて会場の方も手拍子を打ちます。宮田さんとお客様とで会場は盛り上がりました。

        宮田章司さん

 来場の方々の殆んどは高齢の方です。私を初め会員も高齢です。宮田さんの売り声は皆さんの記憶にある売り声です。そういうことで会場が一体になったひと時でした。

 我孫子市では市民会館が閉鎖されてからと言うもの 会場確保が大変です。半年前には演者がほぼ決まっていなければなりません。
 その点伊藤さんは前々から心づもりで演者のかたの内諾を得て置いて下さっております。有難いことです。

 今回の寄席には特筆しなければならないことがありました。
 8日の午後 伊藤さんから電話を頂きました。
 「宝井馬琴師匠の弟子の椋代琴紫さんと言う方から、皆さんにとどら焼きが届きました。重いのですが我孫子までは自分が持って行きますので、迎えをお願い出来ましょうか」というお話です。
 驚きましたね。どういうことかと言いますと椋代さんと言う方は、ご自分の体が不自由になりながらも、いろいろな形でのボランティア活動をされているのだそうです。
 今回の宮田さんのことも良くご存じで、応援として木挽町のお菓子の老舗のどら焼きを差し入れて下さったのだそうです。
 私も勿論ですが、オパールの会員の方々も驚き、感動しました。何と嬉しいことでしょう。
 
 開演前に手分けして客席を廻り、一人一人にどら焼きを配りました。お客様もさぞ驚かれたことと思います。
 どら焼きのことについては、伊藤さんから紹介して頂きました。

 オパール・ネットワーク我孫子支部会員にはお料理の先生もおりますし、また料理上手な方が揃っております。
 午前中に全て準備が済み、食事となりました。予定では各自自由にとしてあり、私もお弁当を買う心算でおりました。そしましたら何と控室にご馳走がセットされておりました。

        ワンコイン準備OK

 本当に良い日でした。天気も良くなり、お客様にも喜ばれたようで、終演後皆さんをお見送りする廊下では私たちに「とてもよかったわ。笑ったわ。楽しかったわ」と良いお顔で沢山の方々から声を掛けて頂きました。
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何もない時

 朝食は和食 殆んど毎日野菜を主として煮たり、和えたりして食べております。
 季節の野菜を中心にしておりますが、偶に冷蔵庫でストックしてある物が切れる時があります。
 そういう時にはジャガイモを粉吹き煮にします。ご存じの通りジャガイモも新ジャガは粉吹きに向きませんね。

 先ず皮をむいたジャガイモを2㎝位の角切りにします。水で軽く洗います。
 鍋にジャガイモを入れて、水をひたひた位注ぎ、火にかけます。
 
 ジャガイモが煮えたら、余分な水を捨てます。そこに砂糖と醤油を適量入れ、箸や杓子で焦がさないようにかき回し水分を飛ばします。醤油は入れ過ぎない方が良いようです。
 ジャガイモは多古の農家の方から取り寄せてありますので、何時でも出動出来ます。
 簡単ですがまーまー美味しく食べることが出来ます。

        粉ふきジャガ

 朝食にも少しずつ季節の味が登場します。今日は勿論このジャガイモが出ております。

        朝食9月8日

 遡って数日分を掲載して見ます。よそ様には分からないと思いますが、僅かながら自分では変化が分かります。
 
        朝食9月7日

        朝食9月1日


昨晩の残り物も登場します。鮭の腹子も廉くなって来ましたが、まだ皮がスーッと剥がれません。味も今少しです。矢張り確りとした腹子が良いですね。待ち遠しいです。
  何しろ二人で食べる量は知れております。仕舞ったり出したりの毎日です。 
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三宅島噴火から10年

 明治大学校友会我孫子地域支部の佐藤秀一さんに急用があり、携帯に電話を入れました。
 「今よろしいでしょうか」「三宅島から帰る船に乗るところですから、何か?どうぞ」
 「市民祭りのバザールのことですが」と話し出し「何で三宅?」と急ぎ伺いましたら「噴火で避難した時の関係で」と仰います。急いでおりましたので、詳しいことは分かりませんでした。

 今朝電話を頂き、NHKTVの首都圏ネットで「噴火から10年火山を観光資源に」と言う番組があると教えて下さいました。そこで人間と言いますか、私は何と忘れっぽい人間かと何だか恥ずかしいような、申し訳ないような気分でTVを見ました。
 タイトルの通り、島民が力を合わせて島のハンディーを逆手に取り、観光資源として復興に賭けている姿の紹介でした。

       NHKTV首都圏ネットから

       三宅島式典会場

       NHK三宅島ガイド

 2000年6月から始まった三宅島の火山活動で全島民が島を離れて避難。2005年の避難解除から5年後の今年 避難当時島民の生活支援をしたボランティアや自治会関係者をお呼びした式典が開催されたそうです。
 佐藤さんはその式典に招待されたということです。
 参加報告を送って下さいました。それは下記の通りです。

 三宅島帰島五周年記念
     『感謝と交流の集い』 参加報告  専務理事 佐藤秀一

 9月4日(土)東京都三宅村主催による表記の集いが開催され当協会から飯塚隆副会長と共に参加致しました。
 平成12年6月に始まった三宅島雄山の噴火活動により同年9月より避難解除までの4年半不慣れな東京各地区での避難生活を送った人々がお世話になった関係者に復興途上にある島内をみてもらい三宅島島民の元気をアピールするための『感謝と交流の集い』でした。
 私共の協会も通算6回にわたり芝浦小学校での『島民の集い』開催時にオムライスやケーキを提供するボランティア活動で支援活動を行いました。
 9月4日当日は熱気溢れる主催者側の意気ごみが会場内にあふれ空調施設の無い体育館は40度近くの気温となりクールビズの服装でも大汗をかきながらの式典となりました
 その後の交流会では島の名産アシタバを使った料理やサザエ、とこぶしなどの水産物が地元婦人会や商工会の皆さんからふるまわれ会場内は旧交を温め合う人たちで大いに盛り上がり陽気な声と笑顔あふれる交流会となりました。
 翌日の島内視察会では十年前の立ち枯れた木々や溶岩流を見学し規模の違いこそあれほぼ20年に一度繰り返される噴火、マグマ流出に対応する島民皆様のご苦労とそして又それに負けないたくましさを感じつつ帰路のカメリア丸に乗船した集いでした。(東京都司厨士協会HPから)

 佐藤さんからの画像を載せましょう。ご覧ください。

       三宅島記念会場

       三宅帰島5周年記念会場看板

       三宅島の樹木

       アシタバの天ぷら等

       式典での佐藤さん 右

 佐藤さんの身のこなしはキビキビとして無駄がありません。ボランティアもきっと持ち前の身のこなしで頑張ったことでしょう。
 私どもの会(オパール・ネットワーク我孫子支部)では11月にまた料理の講習をお願いしました。早速承知の返事を頂いております。
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秋の気配

 まだまだ暑さが続きそうな気配ですね。 今日も熱中症のニュースに驚いております。
 このところ右肋骨の当たりに可なり強い痛みを感じ、午前は接骨院に行き、治療をうけました。先生の仰るのは「五十肩」だと 「八十でもですか」 「歳じゃないんだよ。症状だね」「へ―そうなんですか」
 痛みはすっかり消えて呉れました。その足で霞が関ビルまで出掛けました。
 財務省当たりの暑さにうんざり 早く日陰に入りたく何時もは通らない文部科学省の脇を通り、ビルの前に行きますと、昼食時だと言うのに流石に広場は人が殆んど見られません。

 何時も通りに総理官邸を眺め、議事堂を見ましたら修理が始まっております。知りませんでしたね。
 レストランけやきでオパール・ネットワークの吉澤文五郎さんと奥さまの妙子さんとバッタリ。

       9月6日官邸

       9月6日議事堂

 毎日民主党代表のことが取りざたされておりますね。官邸に入る人は来週決まるのでしょうかね。総理続投か、それとも大きく変わるのか。手続きがありましたね。それからですね。

 空は秋の気配を感じさせ始めております。ビルの35階から見える空 秋の雲です。

         9月6日東京タワー

 今朝の我が家の食事 新聞は「首相には菅氏」65%の文字が見えます。どうなるのでしょうか。

       朝食9月6日

 秋になると人の口にのぼる言葉 食欲の秋 秋の日は釣瓶落とし 読書の秋 日が短くなりました。 

 桐落一葉而知天下秋 何となく行く道の険しさを感じる言葉ですね。

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女子学生は見られません

 昨日は時々お目に掛かり、何かとご指導を頂いております、R大学のIY教授と昼食を摂りました。
 二人の共通点は明治大学の同窓生ということ。そして明治を熱烈に応援する同志と言うような点です。
 干支では一回り私が上ですが、頭の構造はかなり違います。何時も私の為を思ってか資料をお持ちになったり、私が知りたいと思っているようなニュースを耳に入れて下さいます。
 昨日は先ごろ発刊された「MEIJI UNIVERSITY by AERA」を前にしてお喋りが続きました。

           明大紹介のAERA

 私も先日朝日新聞の販売店に注文をしてありましたので、パラパラッとページは捲っておりました。最近の明治の姿を推測することが出来ますが、昔と様変わりした学生生活には目を見張ります。

 IY教授が私に見せたいと思われたのはこの冊子ではなく、一枚のプレートだと思います。

        もう一歩前へ!

 このプレートのコピーですが、ロゴは紫紺色になっているそうです。「明治の人間ならこの意味と意図することがお分かりになりましょ。面白いですね」とおっしゃいます。
 大学の男子のトイレの前にこのプレートが貼ってあるのだそうです。「前へ」とは亡き北島忠治先生のラグビー部での言葉ですね。明治のラグビー部の監督として長くこの言葉で選手を指導して来たのです。
 とても気さくな北島先生の姿を思い出します。背は高くはありませんでしたし、格好が良いとは言い難しでしたが、私は大好きでお会いするとチョッとした立ち話をしました。
 今回発売されたこのAERAにラグビー部の紹介記事があります。矢張り「前へ」です。

           前へ

 大学の季刊冊子「明治」の編集委員をされている作家の藤原智美氏(1992年芥川賞受賞)の編集後記を見てみましょ。
 
 おもしろがる精神 
 編集委員になって4年目ですが、毎年のように難しいなあ、と思います。(以下中略)
 先日、りっぱになったお茶の水の校舎で一日すごす機会がありました。途中、トイレにたったのですが、そこで私は大笑いしました。男子の「小」の便器のまえに、さて、という段になって、正面の壁を見るとこういう文字が目に飛びこんできました。
「前へ!」
 分かる方は、ここは笑いどころです。ラグビー部のモットーとして大変に有名な「前へ!」にひっかけて、行儀のいい使用をといているわけですが、おかしいでしょ!
 そのとき私は、ああこれが明治なんだと思ったわけです。私にとって明治という学校は、このユーモアにあります。面白がる精神とでもいいましょうか。そういう空気というのが、そこかしこにあって、そんな大学は案外少ないのではないかと思ったわけです。
 教育というのは面白がるというところがないと、つまりません。その点明治はいいなあ、とあらためて思ったしだいです。

 藤原氏が面白がったこのプレートの齎した効果はさて何でしょう。IY教授の私へのクイズ。 答 掃除経費の節減に繋がっているのだそうです。
 私が見ることが出来ませんので、お持ちになったのです。大学に行きましてもこれを見たいと男子トイレには入れませんね。楽しませて頂きました。
 
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クルーズ余談

 飛鳥Ⅱでクルーズを経験しましたが、豪華客船でも自分にとり楽しいことが無ければ感動を覚えることが出来ないと分かりました。
 飛鳥Ⅱの設備は良くて、安心の船です。確かに非日常的な時間を送ると言うことは気分もゆったりと解放されます。
 この非日常的と言いましても、船内をまめに廻ったり、沢山の催事に積極的に顔を出すには、高齢過ぎました。
 毎日が日曜日のような私たち夫婦、船内でも時間の過ぎて行く感覚は家と同じです。私の場合強いて言えば炊事をせず、食器洗いをしなくて済むって言うことでしょうか。何だか日が経つうちに感動が薄れて来ております。
 食べ物も普段と違い豪華です。我が家では日常飲まないスープや食べないデザートは凝っております。そういった意味では価値があり、また自由時間をどう自分で選ぶかも自由ですから、本来楽しかった筈です。
 
 今のこの気分は一体何でしょう。多分私の求める人と人との交流がないと言うことではないかと思います。
 飛鳥Ⅱの乗客は700名余 私たちは最後の夕食で隣の人と言葉を交わし、知り合うことが出来ました。それ以上の方との交流は全くゼロと言えましょう。
 乗船に当たりディナーでの服装についてはその日毎に指定されております。ですからそれに見合った何かがあるのかと思っておりましたが、ただ部屋に行き案内された椅子に座り、コース料理が出て来ると言うだけのことです。服装云々と言うような意味をどう理解すれば良いのでしょうか。ジジババは庶民ですから分かりません。
 
 折角の時間を二人で向かい合い食事を摂るということは日常的以上の物ではありませんでした。周囲の方をさりげなく眺めましてもグループでもなければお喋りの声は聞こえません。特に若い方は周囲の方と話をする雰囲気を感じさせません。不思議な不思議な時間が過ぎて行きます。

 それに比べますと小さな船のクルーズは実に楽しく、また心に残るものでした。1996年のナイル川クルーズ
 川船ですから大きくありません。ですが船室の窓は一枚ガラスの嵌まった額縁のようなことで、流れに沿って風景が次々に現れては消えて行きます。デッキに上がればナイルの両岸を見ることが出来ます。
 小さな船ですので、乗客も少なく、日本からの一組とオーストラリヤからの一組だけでした。船内でオーストラリヤの子どもと話をしたり、ツアーの方々との交流も実に楽しくて忘れ得ぬことでした。
 船内の広間でのガラベイヤパーティー  これこそ非日常的な空間でした。
 
          ガラベイヤパーティ1

        ガラベイヤパーティー2

 パーティーで着るエジプトの民族衣装は船内で借りることも出来ますが、私たちはカイロのホテルで求め、夜裾上げをして用意して置きました。
 この衣装は国際交流の会にお貸ししますよと、知り合いにはお伝えしてありますが、未だにお声がかかりません。

 船内でのパーティーの日 売店の方が有料で化粧をして呉れ、そして頭に布を巻き付けて呉れます。
 日本人の一行は添乗員も一緒になり、全員で記念写真を撮りました。長野県から見えた林業組合の理事長さんだと言う方はアラブの高貴な男性のような風格をみせておりました。
 皆さんでゲームをしたり、ダンスをしたりで実に愉快に時間を過ごしました。
 他の日の夜 カイロ大学の教授の講話もありました。これはついつい居眠りをしてしまいましたが、有意義な時間だったのです。
 また別の日、男性の舞踊家の見せてくれてダンスはそれまでに見たことがなく、その後も一度も眼にしたことない激しい動きのものでした。その日の女性のベリーダンスも見事で、ベリーダンスは華奢な体では出来ないものだと強く感じたものです。
 旅で知り合った方とは今も賀状交換をしている方もあります。もし出来ることならばこのようなクルーズにまた参加したいと思っておりますが、残念ながらこれこそ夢です。

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プロフィール

相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日85歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになりそうです。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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