2011-08

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確りとお願いします

 今私たちの周りには多くの困難と苦しみが廻っております。政権交代で国内外の問題はどう進展して行くのでしょう。
 東関東大震災で受けた大災害の復興、脱原発の行方、低迷する経済の上昇。何も老婆が心配しなくても良いんだよと怒鳴られるかも知れませんが、気にせずにはいられません。
 福島の子ども達に安心を何時返して上げられるのか。情報隠ぺいと思われる政府の体質は改善されるのでしょうか。
 9月1日に新しい内閣が発足する訳ですが、国民の信頼は回復するのでしょうか。これからの政治に関心と監視を続けて行くことがとても大事なことだと思っております。

      主役交代  腕を組んで

 福島の子ども達を置いてけぼりにしないで下さいね。民主党総裁選に臨んだ方々を重要な閣僚ポストに据えるようなニュースをみますと、何としても(菅前総理が良く使いましたね)頑張って欲しいものです。
 まか不思議な言動をとった松本大臣のような、大臣はまさか任命しないでしょうが、真剣に学び生きて来た人間を大臣に据えて欲しいですね。野田新総理は挙党態勢を強く訴えています。私はそれを期待しています。
 国民は政府を選べません。頑張って貰うことを願うだけです。安全と安心を保障して頂きましょう。

      朝日8月18日福島の子ども  朝食7月10日

 この子ども達にまともな返事が出来るように。そして福島の犠牲を確りと受けとめて行って下さいと、老婆は思い続けております。
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悲しみ・怒り・切なさ

 1942年秋深い日本に帰国。小学校の5年生に編入しました。暖かいと言われている房総半島ですが、冬は矢張り冬 教室の暖房は炭火の大きな囲炉裏だけです。足元は寒く子ども達は足袋を履き授業を受けておりました。足袋の無い子どもは素足です。幸いに私は靴下を履いておりました。子ども達の履き物は下駄か藁草履です。
 6年生の夏休みの宿題に藁草履作りがありました。農家の子どもはそれをどのようにしたかは全く覚えておりませんが、親や祖父母に教えて貰っていたと思います。
 私は両親は中国に居りましたし、祖父母は全くそのようなことへの知識がありません。仕方なく知り合いの家に行き、作り方を教えて貰いました。
 藁草履には藁を使うのですが、その藁は藁の一本一本を綺麗にしてから藁叩きします。この藁叩きをするのには土に埋めた平らな石が無ければなりません。我が家には勿論ありません。そこで農家の土間にあるその石の台を借りて大きな木槌を振りおろして藁を柔らかくします。
 叩きながら時々口に含んだ水を噴きかけます。柔らかくなるまでに長い時間が掛かります。そして腕が使いたくなくなるほど疲れます。
 藁が柔らかくなりますと、先ずその藁で縄を綯います。今も縄綯いの記憶が手に刻まれております。長ーい縄が出来ますと、草履作りは始まります。祖母に不要になった布を割いて貰い、その布を藁に混ぜて編んで行きます。
 それはそれは大変なことでした。ようやく編み終わったと最後の縄引きをし、纏めますが、何回も何回も大きさが左右同じになりません。理科や国語の宿題は別にどうって言うこともなく楽に済みましたが、この藁草履は私を苦しめました。
 数日前二女が私の藁草履好きを知っておりますから駅の広場で老婦人が売っていたと布草履を土産に買ってきて呉れました。
 有難く頂戴し手に取りますと、驚き言葉もない程です。娘は私の顔を見て、不思議そうな表情をし「何か変?」と聞きます。私は返事に窮し有難うと一言言いました。娘は知識はありません。私が喜んで呉れると素直な気持ちで買って呉れたものです。
 娘が帰ってからゆっくり改めて良く眺めました。

     布草履表  布草履裏

 このような布草履は一体どうして作ろうと思ったのか、そして売ろうと思ったのか。不思議でなりません。
 布草履を画像で調べて見ました。なんと59万件もあります。そしてそれぞれ心を込めた作品を見ることが出来ます。

 最近と言いますかこの10年ほど前からでしょうか布草履の講座や、また自治体での講習会等があります。
 以前私は80歳を過ぎたという女性の作った藁草履を履いておりました。その藁草履の履き心地良さを知り夏はその草履を素足で履き、外歩きをしておりました。その草履は藁と布のバランスが素晴らしく、婦人画報でも紹介されたものです。房総半島の和田町から海岸通りを千倉方向入りますと竹専門の小さな店がありました。そこで売られていた藁草履を私は何足も買い置きしておりました。履ける物はすっかり無くなり手元には履いた草履を捨てがたく保存しております。
 生徒の方が布草履を作りに行ったと聞きましたが、縄を足指に掛けて作ると言います。そこで私は妹に、建て替えをする農家の人に藁草履作りの道具が無いかを聞いて欲しいと頼んでおりました。流石にこれは実現しませんでした。

           道具87件目の布草履

 この道具こそ私が使い、また人に差し上げたい台です。この台は布草履の画像を見ている中で見つけました。
 この道具を使い布草履を教えている方があるのです。
 
 私は布草履はあくまで部屋履きだと思っております。ただ経験上から言いますと、布を織り込んだ藁草履の弾力性と履き心地には比べられないと思っております。頂き物の布草履もありますが力が無いのです。

 さて話しは上の娘がプレゼントして呉れた布草履です。作り方はメチャクチャ。材質は全て化繊。心地良さとは程遠い物です。履いて見ましたが立つも歩くも駄目です。私はこの草履から多くのことを推察しております。
 安易な物作りに飛びつき、本物を知る機会もなく、自分の作る物に責任を持たず、出来るだけ価値以上の見返りを欲しがる。
 そういった反面この婦人の置かれている事情を考えずにはいられせん。若しかしたらこれを作ることで老化防止と考えているのかもとか、お小遣いの足しにしているのかとか、辛さも、悲しさも、切なさも胸に広がった布草履でした。
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ヒジキ・ひじき・鹿尾菜

 春は磯を賑やかにさせます。天草採り、ヒジキ狩り、磯遊び。岩と岩の間を行き来して子どもは子どもなりにいろいろな経験をします。
 昔々房総半島の白浜では天草の解禁の時には小学校はお休みとなり、町を上げて天草を採っていました。
 ヒジキ狩りは子どもは参加しません。ヒジキは船に乗り竹ざおに小さな鎌を付け、藻を刈り取ります。
 水中でヒジキの藻が育ち波に揺れております。
 ヒジキ狩りは春の季語 ある時ヒジキを薬草学の大家伊沢凡人先生のところにお持ちしました。偶然奥さまがそこにお見えになり「ヒジキ狩りって俳句の春の季語ですけれど、どういうことですか」とお聞きになりました。
 そこで長ーい波に揺れるヒジキの説明をしました。
 芽ヒジキと言う本当に細かいヒジキがありますが、あれはどうしてあのように細いのか、とても理解出来ません。加工過程でこぼれ落ちたものかなーなんて思ったり、また勿体ないのでそれを芽ヒジキと称しているのかしらーとも思うのです。
 ヒジキの栄養価は海藻の中では一番良いそうだと聞いております。
 私は大好きでので、良くヒジキを食べます。ヒジキの料理を画像で見ますと、もうその数は物凄くあります。

 ところが私は凝ったことはしません。殆んどは煮ものです。昔は白和え等も作りましたが、今は横着になり、組み合わせも似たり寄ったりな物です。

     ひじきと大根・人参  ひじき煮もの
 
 ヒジキの産地としては千葉県も大きな産地です。私が食べているこのヒジキは内房の勝山のものです。
 柔らかくて味も良く気に入っています。
 ヒジキは刈り取った後 漁協などで一括加工するのが普通です。勝山でもそのようだと思います。
 茹で上げて干すのですが、昔はドラム缶で茹でたりしておりましたが、今は茹で方も工夫されているのでしょう。昔と違い柔らかくなっています。
 数十年前まではヒジキ料理のレシピでは必ず、茹でこぼしてとありました。今は簡単に数10分水で戻してとなっています。
 上手に茹でてありますから、水で戻した物をそのまま火を使わず、サラダなどで食べることも出来ます。栄養価も高く戻せば簡単に食べることが出来ますので、我が家では一年中食べています。そしてそれも変らぬ煮物
 上の左ですが、調味料に出汁を入れた鍋に大根と人参を皮むきで剥きながら、落として行きます。火を付けて暫らく煮て、柔らかくなったところにヒジキを加えて、煮上げます。簡単です。歯ごたえはかんぴょうのような感じです。かんぴょう巻きにしても栄養のある巻き物になります。
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消え行く姿

 1939年から42年まで中国の山東半島にある大都市、青島に父の仕事の関係で住みました。
 千葉県の半農半漁の村から向かった青島 ヨーロッパのような美しい街の姿を目にした瞬間、子どもながら感動しました。
 玄界灘を通過する時 当時の客船では揺れも可なりでした。青島の埠頭に接岸し、マーチョで街に入りました。
 その時 街に流れていた淡谷のり子の「別れのブルース」は1937年に発売され、子どもの耳にも届いておりました。それが青島の邦人の間ではレコードを掛けている方が多くいたのでしょう。
 “何て港町に相応しい歌なんだろう”と心に響いた所為か、歌詞まで覚えて仕舞いました。

 話は変り、つい最近 私が通った小学校のグランドが駐車場になるらしいと、青島に住む同級生のブログで分かりました。
 第一小学校は青島で一番規模が大きく、当時の日本の小学校レベルでは想像も付かないような学校でした。
 日本人の設計になるというその学校は教室以外に医務室は勿論、図工室、音楽室、屋内体育館や観察池等があり、何と言いましても一周400mのグランドは圧巻でした。テニスコートなどもありました。私は1942年に帰国したのですが、そのごプールやスケート場も出来たように聞いております。
 三方を校舎に囲まれた校庭は朝礼をしたり、何かの集まり 例えば忘れ物を展示したり、回虫駆除の海人草を飲む時とか、そういう時に並んだものです。当時中村八大さんのお父様が校長でした。その校庭には沢山のアカシヤの樹が植えられており、日陰が日射病を防ぐと言われておりました。
 
 昨年4月私はその校舎に戦後の最初の日本人として入ることが出来ました。戦後長く軍が使用しており、立ち入り禁止が続いていたのです。
 中庭のアカシヤは取り払われて仕舞っておりました。

            一小の中庭

 その時にはグランドは塀で閉ざされており、覗くことも出来ませんでした。青島満帆さんのブログで校庭の様子は知ってはおりましたが、今回その校庭が無くなると聞きますと、様々な思い出が浮かんで来ました。
 運動会は勿論、ドッチボールの試合などで興奮しました。運動神経の鈍い私は何時も駄目生徒でした。紀元2600年に合わせ、2600と言う人文字もそこに展開されました。

 この校庭にはスタンド席が設けられております。とても広いスタンド席です。運動会の時には両親も駆けつけ応援をしました。
 1938年の4月 この小学校に軍人が宿営をしたようです。私は未だ日本でしたが、同学年生は1年生 入学したばかりです。全校生徒が宿営した軍人と一緒の記念写真がありました。私は資料収集の時によーく眺めました。顔は勿論分かりません。
 この写真を全紙位の大きさに伸ばし自分を見つけた方がおります。忘れ得ぬ貴重な写真ですね。
 そのスタンドに勢ぞろいした写真をご覧ください。そして今既に無くなっているかも知れないスタンドの無残な姿もご覧になって下さい。

   記念写真  校庭取り壊し
    ↑は宿営記念のスタンド   ↑は取り壊しが始まった校庭とスタンド

 取り壊しの始まったグランドの写真は青島満帆さんから転載いたしました。まだ校舎は後ろに屋根を見せておりますが、恐らくその建物も取り壊されることでしょう。
 昨年訪問出来て良い記念になりました。
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ぐっと我慢しました

 20日の土曜日の昼 一階にあるスーパーに行きました。入口にこの日のイベント カップラーメンの積み放題が始まっておりました。

         500円3分最高17個

 どういう積み方だと沢山積み上げることが出来るのかと、積む人の様子を眺めながら係の男性にいろいろと質問をしました。
 今回は一回500円で参加出来るそうです。積み上げたら手を放し3分間 そのまま倒れなければOK
 どれ位積んだ方がいますかとお聞きしましたら、今日は今までに17個だったと言うことです。
 暫らく眺めていますが、お客さんはあまり寄って来ません。
 実は私は珍しいことは眺めるのも、やるのも大好きです。このラーメン積みは失敗しますと5個お持ち帰りになるそうです。
 「500円か~?」と 誰も傍にいないチョッとの時間で積んで見ようかなーと思ったのです。
 ですがよくよく考えて見ますと、仮に失敗っしても5個は頂けるのです。でその5個をどうするかと考えますと95%くらいは食べないで終わると思うのです。
 私はインスタントラーメンを発明し、そして大きな功績を残した安藤百福さんと言う方を尊敬しております。
 初めてチキンラーメンを見た時、このようなことを思いついた方は中国の方ではないかと思いました。安藤さんのことを知りますと私の勘の通り台湾の方でした。インスタントラーメン発明記念館もあり、その業績の全体を知ることも出来ます。

 ずーっとカップラーメンは私は食べることなく来ております。最近は自宅の食品庫に2,3個位は置いてありますが、保存用の麺類はうどん、そーめんです。
 結局このイベントは眺めるだけで終わりました。
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水餃子を作る

 小学校の3年か4年の頃 中国青島の家でアマやク―ニャンと一緒に餃子を作り、たらふく食べたのですが、その味は若しかしたら上品では無かったのかも知れません。
 使用人は李村と言う郊外の村からの出稼ぎでしたから、田舎の味だったのかも知れません。ですが我が家では長くその作り方で来ました。
 日本食の一部になっているような餃子 今や至る所で食べることが出来ます。私も時々10個位の餃子を買って来ます。店頭で買うものは焼き餃子ですね。
 中国での餃子は水餃子です。偶に日本人向けの焼きを食べさせる店もあるようですが、基本としては水餃子です。
 先日北京出身の書の先生から手作りの水餃子を頂きました。私が作るものと何処か違います。先生のお父様は東京帝大に留学し、北京大学で日本語の教授をされていた方です。立派な中日語辞典も編纂されております。
 お母様は大連の日本の女学校を卒業されたと言うインテリな家庭です。ですから味もその家庭のものでしょう。品が良いのです。
 ぜひその違いを知りたくて作り方を教えて頂きました。早速作って見ました。

     皮を作り伸ばす  中身の餡を用意する

     餃子茹であがり  餃子食べる

 作りましたのは所謂三鮮餃子です。中身が三種類の物を合わせてあります。今回のは豚ひき肉・エビ剥き身・ニラです。
 私は薄力粉と強力粉を同量で合わせますが、先生のは薄力粉2:強力粉1です。寝かせる時間が私は30分程度ですが、先生のは2時間
 中身は刻みネギや生姜は同じ。酒は私は日本酒 先生のは紹興酒
 先生の中身はニラを除き、塩や紹興酒、ゴマ油などを入れて良く混ぜます。水溶き片栗粉を少し入れてかき回し、そして皮に包む直前に刻んだニラを入れます。
 この水溶き片栗粉を入れることとニラを最後に入れると言うことが違うのです。
 私は野菜はニラ以外は軽く茹でてそれを軽く絞り、肉と一緒に混ぜておりました。

 先生のもですが、私も包むのは皺を出来るだけ少なくし、寄せる程度にします。焼きと違い舌触りが滑らかに感じます。焼きの時は焼く時の安定のこともあり、何本も皺を取ります。
 
 右手で箸を持ち、左手で写すって難しいですね。ぐずぐずしている内に皮が破れて仕舞いました。他のは具が良く分かりませんので、仕方なくこれを出しました。
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木谷ゼミナール30周年 その3

 木谷先生が学生相談室の相談員になられたのは1986年4月です。私が退職したのは1990年3月でしたから仕事の上でご一緒しましたのは4年間でした。
 それにしましても実際のお付き合いと言いますか、ご縁は可なり前からのことです。
 学生相談室では毎年夏になりますと「相談室セミナー」を関係者全員参加で開催しました。二泊三日と言うのにそれは神経の疲れることでした。
 1989年の夏 山中セミナーハウスでのセミナーの最後の夜、食事の後近所のバーのような店で打ち上げのようなことになりました。私は昼のセミナーで重なっていたストレスのせいか、かなりハイになっていました。
 学生部長の後藤総一郎先生があまり上手でない歌を歌い、また先生方もドングリの背比べのように歌っていました。
 その席です。素晴らしい歌い手が現れました。噂には聞いておりましたが、その歌う声は柔らかくもありますが、何とも言えない力のこもった声です。
 そうです。木谷先生です。
 この11号に木谷先生のこの歌の上手なことが紹介されております。学部のカラオケ大会で優勝したと。私の友人の佐原はるみさんが審査員をしましたので間違いございません。
 木谷光宏解体新書とか木谷先生の七大ニュースとか、また木谷光宏のツイート等と言った木谷先生を様々な角度から分析、紹介しております。木谷先生丸裸と言ったところです。 
 これはもう木谷先生とゼミ員の心が確りと通じ合っている姿と言えましょう。
 総会の後の懇親会には23期の荻野芳隆さん経営の「結わえる」から料理が運ばれて来たとあります。写真がモノクロです。「結わえる」をPCでみました私はもう実際の料理が見たくてなりません。
 それを図々しくも先生に見せて下さいとお願い致しました。

           懇親会での料理

 素晴らしいOBですね。ご本人の写真も一緒に見せて頂きました。とても良い風貌です。ご本人には無断ですが掲載させて頂きます。頑張って下さい。

          木谷ゼミ荻野さん

 木谷先生をはじめ木谷倶楽部の皆さまのご活躍と結束を老婆は願っております。
 そして木谷倶楽部会報第12号がアップ出来るよう私も頑張って過ごして行きたいと思っております。
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木谷ゼミナール30周年 その2

 木谷ゼミの人数が数年前500名になっていたようですが、会報第11号で拝見しますと、ゼミ出身の卒業生は700名を超えると言うことです。
 この11号を拝見し、私が特に強く感じ、木谷ゼミならではと思いましたのは、オープンゼミのことです。
 そもそも前回10号で紹介されていた大垣雅則さんのことは存じ上げておりましたが、この企画は学生が中心になって運営して来たようです。25周年総会後、木谷先生からのオファーでもあったそうですが、ゼミ30期生が中心になり、各界で活躍しているOB・OGに講師をお願いし、開催して来たそうです。
 これまでのオープンゼミ全10回のテーマと講師がオープンゼミ後の感想を寄せています。これは実に得難いことです。講師をされた方も教壇に立ち、ゼミ生の役に立ったことを喜んでいます。在校生にも卒業生にもとても良い経験となったことでしょう。以下に10回のテーマと講師を記して置きます。(ゼミ生は敬称略)

 第1回 組織行動の理論と実践  木谷光宏教授 (ゼミ教授)
 
 第2回 
簿記と財務諸表の見方 荒木章税理士事務所長 荒木章 (2期)

 第3回 売り場は産業心理学  株式会社東武百貨店宝飾特選部
              ガンプス担当マネージャ 田中尚 (9期)
 第4回 テレビの仕事         
               日本テレビ「NEWZ ZERO」
                チーフデスク 高橋雅昭 (15期)
 第5回 飲料業界について
              サントリー酒類株式会社
                海外事業部部長 熊倉俊彦 (4期)
              アサヒビール株式会社 首都圏統括本部
                営業企画部  飯島宙子 (11期)
 第6回 人事関連オープンゼミ 
          東日本電信電話株式会社
             神奈川総務部 久多良木清志 (15期)
          パナソニック株式会社 インダストリー営業本部
          人事グループ人事チーム 坂本雄一(25期)
 
 第7回 オバマの草の根運動  明治大学政経学部教授 
                     海野素央  (3期)
 第8回 経営者目線の職業選択 
 
          合資会社エスピーエディ代表 渋川亮太郎 (9期)
          株式会社トップ代表取締役  岡本将 (9期)
 
 第9回 女性の視点で考える  明治学院大学講師 徳弘洋子(7期)
                ユニ・チャーム株式会社 
                グローバルマーケティング本部
                マーケティングコミュニケーション部
                グループマネージャー 石井慎一(7期)
 
 第10回 企業でどう生きる  東武鉄道株式会社取締役広報部長  
                       大垣雅則氏
 
 総会にはゼミOB・OG在校生を含め130名の出席があり、内ゼミ卒生が100名もお見えになったと知りますと将に木谷ゼミの姿を見る思いです。
 当日ゼミ出身一期生を初め一桁の方と並んだ写真に中野渡先生は額に納まり、出席されております。

            木谷ゼミ集合

 木谷先生から写真をお借りしました。その3は少し楽しい面をアップしたいと思っております。
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木谷ゼミナール30周年 その1

 木谷倶楽部会報第11号を頂きました。前2回の会報は2008年4月8日2009年4月6日に掲載し、私の感想を書いて置きました。
 第11号は昨年11月14日に開催された木谷ゼミナール30周年記念総会と懇親会の様子を詳しく掲載しております。
 
             木谷倶楽部会報

 木谷光宏先生とのお付き合いは長く、駿河台に行く時も出来るだけ火曜日と決め、研究室にお邪魔させて頂きます。研究室には木谷先生の恩師中野渡信行先生の大きな額が置かれており、私はそのたびにお二人とお会いしている気分になります。
 
 今回木谷倶楽部の総会に集まったのは木谷ゼミナールのOB、OGそれに現役の学生と合わせて130名に方々が出席。盛会だったことでしょう。
総会は二部構成で1部は木谷先生の特別講義 2部は懇親会となっています。

 特別講義の演題は「こころの道しるべ 感謝の30年」そのレジメは参加者に配られそれに手に皆さんはお聞きになったようです。その九つのテーマは下記の通りです。

     1 「現実から学べ」 2 「啐啄の機」
     3 「前へ」のこころ 4 「一期一会」のこころ 
     5 「仕事」のこころ 6「一隅を上げる者は三隅を上げる」
     7 「カミソリ型人間よりも、マサカリ型人間になれ」
     8 「人生に失敗はない」
     9 「人生には三度、花が咲く」
  
 第11号のトップに木谷先生の挨拶が書かれたおります。その挨拶の中で『産業心理学は社会生活に密着したすべてが研究対象であり、その研究範囲の裾野が広いダイナミックな学問です。人事管理やマネジメントに関わる「組織(職業)心理学」、ストレスや疲労を軽減し、仕事への満足感をいかに高めるかを追求する「労働心理学」、広告コミュニケーションやマーケティング戦略に関わる「消費者心理学」などの研究領域があり、「人間・産業・社会」の視点からの人間行動の真理の研究です』とあります。領域の広さに改めて認識しました。

 木谷先生のプロフィールをPCで見てみました。何だか知ったような内容ですので、全部読んでみましたら、相子の記事が掲載されていました。これは驚きでした。
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今日もあの日も晴れ

 今日も晴天 1945年8月15日も日本中が晴れていたようです。
 正午 日本の敗戦が天皇の言葉を通し、国民に知らされました。家のラジオでは雑音が気になり聴きとり難くやっと聴き終わりました。天皇の言葉の後に解説が流れたと思います。「ポツダム宣言受諾」という言葉で私は「無条件降伏」だと直ぐ理解しました。
 数日前から傳単でポツダム宣言の内容を読み、知っていたからでした。毎晩夜中にラジオで聞くアメリカの放送は確実に日本の劣勢を伝えておりました。

 12時前に飛行機の音も聞こえなくなり、蝉の声があちこちから聞こえておりました。そして放送が終わりますと、集まっていた人は暫らく声もなく、茫然としておりました。真空の中に入り込んだような、何も耳に聞こえて来ません。あの空の色は鮮やか過ぎる程青く透明に澄み、生涯忘れることはないでしょう。多くの人がこの戦争で犠牲になりました。どれほど多くの人が無念に命を落としたことでしょう。どれほど多くの家族が涙を流したことでしょう。虚しさが心の中を漂います。

 今日は月遅れのお盆です。新盆を迎える人はどれほどでしょうか。昨年と比べても、また統計的にも突出して多いとおもいます。3月11日の大震災で多くの方が亡くなり、未だに不明の方も沢山おります。

 昨年秋に義姉を亡くし、年末には叔母(92歳)と、そしてその叔母の夫(99歳)とを亡くし、段々年長の身内が少なくなって来ました。今年の今日は特別感慨深いものがあります。

 亡き叔母の可愛がっていたオウムは44歳  従弟が南米コスタリカから連れ帰ったのです。叔母も義理の叔父も亡くなった今 何を感じているでしょうか。

          ノリータ
 
 自分の名前を呼ばれるとオウム返しに自分の名前を叫んでおりました。子どもが小さい時夏には必ず会いに行きましたが、今は私も夏に出掛けることもなく、彼?に会う機会が無くなりました。
 数十年前 叔母が自家用のお米を植えて上げようかと、声を掛けて呉れました。既に安全を考えていたことを思い出しております。
 新米の出荷時期になりました。先日千葉県でも第一回目の放射能の検査がありました。どうなることかと新たな心配の種が増えました。戦争も酷い経験でしたが、原発はまた新たな酷い経験を強いていることになりました。
 
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佐藤秀一さん 只見町へ行く

 明大校友会我孫子地域支部副支部長の佐藤秀一さん 大好きな男性の一人です。逞しく、優しく、気配り満点 そして謙虚 世の中こういう人間ばかりいて欲しいと思いますが、なかなかそうはゆきません。
 先日の幹事会にお見えになりませんでした。何と福島県只見町の水害被災地での炊き出しボランティアにお出かけでした。
 彼は東京都司厨士協会の渉外啓蒙委員会委員長をしております。東京都の協会には2300名も所属しているそうです。どうも西洋料理が出来るからと誰でも入れる訳ではないようで、推薦されることが条件のようです。
 三宅島の噴火で住民が島を離れ、生活をしていた時にも協会の方は炊き出しをしたそうです。
 
 今回の炊き出しも協会から大勢で被災地へ出動 その様子は協会のHPで佐藤さんが報告をしております。
 津波で多くの被害が出ました。連日多くの方が現地に駆け付け、ボランティア活動がニュースで報道されておりました。
 先だって新潟や福島は豪雨に襲われ、此処でも多くの方が被災されていたのです。
 佐藤さんからの暑中見舞いで様子を知りました。渉外啓蒙の委員長は先頭に立って頑張ったことでしょう。

           福島佐藤さん

     良い男全員集合です。佐藤さんは前列右から2人目におります。

           盛り付けをする佐藤さん

 佐藤さんの動きには無駄がありません。私たちへの料理指導の時にもそれは遺憾なく発揮されます。
 
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いわきに住む人

 2009年4月からみずほ銀行に就職しいわき支店で3年目を迎えております私のパソコンの指導者 明治大学政経学部を優秀な成績で卒業しました。在学中はゼミ長も引き受け、大学の新聞でも紹介されていました。
 3月11日地震が発生し、テレビに映る各地の津波の様子、その中でいわき市の小名浜地区に押し寄せる津波を目にした私は驚きました。
 直ぐに彼にメールをしました。とに角無事でいて欲しいと只管それを願い、発信し続けました。何回しても返事は送られて来ません。メールはエラーで戻ってもおりません。
 待ち遠しい時間が過ぎて行きます。
 ようやく返事が来ました。「地震と原発で今此方に来ております」直ぐ発信しました。「此方とはどこですか」
 それ以降全く返事はありません。
 「無事かどうかだけでも教えてください」とのメールにやっと返事が来ました。その間みずほのいわき支店で検索しますと休業していると分かりました。(これは災害のためで、間もなく再開されておりました)支店に問い合わせることは、こんな最中不躾なことだと、心配しながら待っておりました。
 暫らくして返事が送られてきました。「大丈夫です。知り合いが沢山亡くなりました」と言うことで、現地でどう過ごされているのか心配は続きました。メールのあと電話がありました。「被災地の家のことなど毎日忙しく過ごしておりますが、僕は大丈夫です。時間が出来たらお邪魔し、報告します」声を聞き安心しました。

 彼はこの経験できっと人間が大きくなることでしょう。福島は大変な時を毎日毎日送っています。
 あの地震の余震でしょうか、殆んど毎日のように地震が起きております。
 
 先日偶然我孫子駅で彼に会うことが出来ました。やっと家に用足しに戻られたと言うことです。
 「もう普通に生活をしております。慣れました。頑張ってやります」声を聞き顔を合わせて彼の無事を実感しました。
 いわき周辺ではほぼ毎日地震が起きております。震度1程度のものもありますが、一昨日は震度3、昨日午前3時過ぎの揺れは震度5弱という強いものでした。
 彼はこのような中でどう過ごしているのかしらと、何時も夫と話しております。

        8月11日福島浜通り  8月12日福島県沖

 小名浜で2軒の鮨店を開いていた私と同期の長瀬寿夫さんは無事だったそうですが、矢張り想像していた通り店舗は2軒とも駄目だったそうです。
 災害に会った時、人はどう考え、どう行動するかを彼の経験を通じての感想を何時かお聞きしたいと思っております。

 
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チャイナドレスは素敵だ 64

 6月から新しい方が習いに来ました。一人の方は帽子制作者 もう一人の方は健康食品の輸入業者 それぞれ個性的です。
 
 私の教えるチャイナドレスは、生地に直接印をし、裁断をして行きます。基礎から順に進んで行きますが、折角お金と時間を使い作るのですから、出来るだけ効率良く無駄の無いようにと考え教えております。
 最初に袖なし、裏なしのワンピースの物を作ります。
 採寸から裁断 そして仮縫いと進みます。3回目には仮縫いとなります。
 ただ1回目から必ず自宅で宿題を済ませて貰います。こちらでは裁断と手作業での仕事をします。
 ミシンはご自分のを使い、ミシンで縫う部分は自宅で済ませて来ます。

 参考までに制作順序を簡単に並べて見ます。A=教室で B=家で

 A1 全体の説明・採寸・身頃裁断  
 B1 仮縫いの準備・ダーツを縫う・裾を上げる
 A2 肩を接ぐ・襟ぐりをカット・襟の型紙を作る・仮襟を作る 
 B2 仮縫いの準備・脇を縫う
 A3 仮襟を付ける・仮縫いを済ます 
 B3 ダーツの本縫いをする・裾を纏る・小襟の始末をする
 A4 テープを張る・大襟の見返しを裁つ・袖ぐりの見返しの説明 
 B4 肩を接ぐ・袖ぐりの見返しを縫う・襟芯をカット・本襟の裁断・
    大襟の見返しを縫う
 A5 襟の作り方の説明・襟ののり付けをする・脇縫いの説明・
 B5 脇縫いをする・襟を作る・全体にアイロンを掛ける
 A6 襟を付ける・脇のファースナー付ける
 B6 脇の始末・胸のホック付けをして仕上がり

 先日仮縫いを済ませた方は補正をするところが殆んど無く、ご本人も3回目でここまで行くとは想像しておりませんでしたと、感激しておりました。

      仮縫い  襟

 小襟とは前身頃の右側の下前の部分のところです。
 大襟とは前身頃のカーブになっている部分のことです。

 私は生地の斡旋はしておりません。原則として生徒がご自分で好きな色や柄を選び持って来て頂きます。作る物により、生地が違いますから、その点はアドバイスをします。
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香りの実山椒

 年齢が高くなりますと塩分控えめと、何かに付けて耳にします。ところが食が細くなり、また舌の感覚が変って来ているのか、朝食には塩分の多い物が並びます。
 先日お総菜は余り作らないようにしていると書きましたが、佃煮など保存食は作りたくなります。
 今日は朝食後に牛肉のそぼろ山椒を作りました。先日富山の瀬戸さんの丹精を込めた緑鮮やかな山椒の実を頂いておりましたので、それで作りました。
 今朝のテーブルの一番奥に並んでいますのは、実山椒の佃煮を使った物です。
 牛そぼろ山椒は一人暮らしの友人がこれが届くのを待っています。
 彼女はお酒が好きですから、つまみをいろいろと食べ、最後に一口ご飯を食べるので、このそぼろを一匙載せて食べるのを楽しんでいると、何時も知らせて呉れます。
 牛そぼろはひき肉を使いますが、ひき肉の質がとても大事です。
 スーパーで適当に買っては美味しくないのです。脂も多く出て来ますし、牛肉の良い香りが漂いません。
 以前 これを作り始めた時、安く上げようと普通のひき肉を使って作りました。どうも感心しません。

 専門店の高級な牛はそれこそ買えません。黒毛和牛のひき肉が値段を引いているのを見かけるとそれを使って作ります。安い物を使いますと、灰汁取りなどの時間も掛かり手間が掛かります。
 昨日はショッピングセンターで目に入りましたので、買って来ました。

      香り良いそぼろ山椒 チョッと気分が良いですね。

      牛そぼろ山椒  朝食8月11日

 ところでこの牛そぼろ山椒は山椒を使ったレシピ集のランキングで取りあげられております。
 ちりめん山椒は掲載されて以来長く上位にランクされておりますが、牛のは10位以下になっていることが多いのです。もしご覧になって頂ければGoodに一票入れて下さいませ。嬉しいです。

 今見ましたら「ちりめん山椒」は少し下がっていました。ですがこれは暫らくしますと必ず上位になるのです。何故かは知りませんが不思議です。もし未だこれをご存じなかった方これも一票入れて下さいますようお願いいたします。
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パナマの帽子

 3月11日の東日本大震災後 私はNHK文化センターの講座(直断ちのチャイナドレス)の講師を辞退しました。今は希望者の方が私宅まで来て下さっております。
 
 先ごろと言いましても6月ですが、思いも掛けず新しく2名の方から習いたいとの申し込みを頂きました。
 その一人の方は帽子制作者です。遠く駒沢公園からですから、驚きました。
 実は私のところに長く習いに来ております生徒が本で紹介されていた帽子が欲しく、駒沢まで出掛けました。その時に着ていたチャイナナドレスを見た、帽子の方は生徒にいろいろと聞き、是非習いたいとお見えになったのです。
 私のことをある程度ご存じの方は「さてはあれかなー」と気が付かれたかも知れません。そうです帽子です。
 
 2001年5月29日に日本を発った私たちはフランスに向かいました。フランスでの初日はモナコやコート・ダジュールなどの風景に酔いしれ、何てモダンで洗練されているのだろうと感じておりました。
 丁度前日にモナコグランプリが開催されたと言うことでコースの道も通りました。まだスタンドも片付けられていなく、私はグランプリが街中を走るなんて初めて知りました。
 ところが最初に泊まったニースのホテルはお話にならない酷さで、すぐにでも帰国したい気分になりました。水も買うことができず、仕方なく街に出かけ、大きなスーパーで水を買いました。折角ですから店内を一回りしました。私の目に入った帽子「欲しい。買う」と決めました。当然安いですよ。それからその帽子は帰国までずーと被っておりました。
 一行の方々に直ぐに覚えられ、その帽子は評判も良かったのです。
 2001年ですから10年は被った訳です。毎夏被り、汗滲みもあり、帽子の内側のリボンも黄ばんでおります。キャップも鍔も力が無くなって来ていました。
 とても気にいっていましたので、同じ様な帽子を随分探しましたが、見つけられずにおりました。
 そこに帽子制作をされていると方がお見えになると言うのですから、お見えになる前から、気分がハイになっておりました。

   
 ニースで買った帽子は「紙パナマ」なのです。紙ですから雨に濡れないようにと気を付けておりました。
 
            ニースで買った帽子

 6月に入りその新しい方がお見えになりました。最初にする裁断が終わりますと、私は古い帽子をお見せし、これに近い物が出来ましょうかと話しました。プロですね。即座に「検討します」と私のサイズを計り希望を聞かれてお帰りになりました。
 返事が来ました。「パナマが手に入りますから、お作りします」と言うことです
 出来あがり送られて来ましたパナマの帽子 もう期待した通りに出来ております。それも予想以上の仕上がりです。
 
            パナマの帽子

 お天気が定まらず、なかなか被る機会がありませんでした。日曜日に取手まで出掛けることになり、出番がやって来ました。何となく誰かに会わないかなーといった気分でした。
 
 帽子と言いますと漓江下りの観光船が接岸し、下船した陽朔の街で買った帽子

            陽朔の帽子

 どうも垢ぬけしません。ですが私には愛着があるのです。中国らしいところが気に入っております。チョッと小さかったので、被れません。でも多分被って歩くと人が振り返って見そうですね。
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シジミのみそ汁

 夫がC型肝炎のキャリヤだと知ったのは胆石の摘出をした時でした。その時に特に治療が必要だとは聞いていなかったので、何となく時間が過ぎて行きました。
 掛かり付けの医師を私ども夫婦は信頼しております。その先生からこのC型肝炎の詳しい検査をすることを勧めらました。
 取手の有名な病院で検査をし、最終的には新松戸の病院で治療を受けることになりました。先生はこの治療の研究で知られている方です。
 治療はインターフェロンによるもので、ヴィールスは消滅しましたが、体力の衰えは可なりのものです。
 ヴィールスを殺す訳ですから、当然普通の細胞にも影響があったのだろうと思います。
 軽い肝硬変も起きておりましたが、治療をした先生は徐々に治りますよと話していたようです。それでももう治っていますよとは言われておりませんから、生活も気を付けております。

 日常生活に大きな障害があるわけではありませんが、他に治療と予防を続けなければならないこともあります。
 食生活での注意もいろいろとあります。薬との関係で食べてはいけない物もあります。
 台所の壁にリストを貼ってありますので、注意をして食事を作ります。

 肝臓に問題があるわけですから、シジミのみそ汁は良く作ります。シジミって高いのですね。豆腐に若布なんて安上がりですが、シジミとなりますと毎日とは行きません。それに毎日では飽きます。
 そこで店頭で安くなっていますと買うことにしております。
 先ず泥を吐かせます。ボールにシジミを入れ、ひたひた程度の水を差し、蓋をして半日程置きます。
 泥を吐かせたシジミを良く洗い何回分かに分けて冷凍します。

        シジミ

 冷蔵庫に保存してある出汁を鍋に入れ、冷凍してあったシジミをそこに加えて火にかけます。灰汁が出ますので良く掬い綺麗にし、味噌を入れます。

 序で話ですが、私は生来肝臓が弱いと薬草学の大家伊沢凡人先生から指摘されており、私にとってもシジミはとても良い食品なのです。
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招集者はいなく

 昨日午前 明治大学校友会我孫子地域支部の幹事会が持たれました。
 議事は10月29日に開催します「明治大学マンドリン倶楽部チャリティー演奏会」のことを中心に進められました。
 この会議は可なり前に支部長名で案内を頂いておりました。支部長は4月16日の支部総会の日入院先から総会のためにお見えになりました。
 昨日はその支部長水野隆さんのお姿はなく、幹事長の司会で会議は終わりました。

 先月22日に水野さんはお亡くなりになり、その訃報は直ぐに私たちに齎されました。
 その数日前、ご自宅にお戻りになるかどうかを相談しているとのこともお聞きしておりましたので、ご回復に向かっているのかと、少し安堵しておりました。ですが病はかなり進行していたそうです。
 通夜の席で今泉健一前支部長からお聞きしますと、ご本人は覚悟されていたようだと伺いました。
 支部総会の議長として役目をきちんと済まされ、会員の席を廻り楽しそうな表情を見せておりました。
 水野さんは能弁ではありませんが、誠実そのものの口調で発言され、人柄が自ずとにじみ出ておりました。

      支部総会で  席を廻る水野さん

 水野さんの出棺に際し明大の校友たちは校歌でお見送りをされました。ご冥福をお祈り致します。
 
 代行を務められることになりました関俊雄さんから水野さんについて下記の紹介を頂きました。

 1.平成23年7月22日(金) 午後7時10分、前立腺がんのため、慈恵医大柏病院で逝去されました。    (享年78  昭和8年2月生)
 2.主な経歴  我孫子市柴崎生まれ 取手一高→明治大政経→元株式会社丸運常務取締役  
   ◆我孫子市防犯指導員協議会 支部長 
   ◆我孫子市湖北台地区まちづくり協議会 副会長  
   ★奥様も気さくな方で、地域・地元のためにご夫婦で大いに貢献されました。
 3.我孫子地域支部設立発起人6名のひとりで、支部を立上げ育てました。
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調理に必要な鍋

 人生何十年何て大袈裟なことではありませんが、たとえ家庭で作る料理でも実に多くの鍋が要ります。
 いろいろな方のブログを拝見しますと、食材も多様ですし、料理もグローバルですね。
 私の主婦生活の初期の頃、日本の普通の家庭の食事は、和風が中心で、それに中華料理、簡単な洋食まーそんな物でした。時代の変化と共に食生活も変り、自宅の食卓に並ぶ物も変って来ました。
 それでも姑との同居が長く続きましたので殆んど和食でした。イタリアンなどはこの20年程前からの物です。
 一回しか作らない料理でも作るとなると道具が要ります。そのせいで鍋が増え続けて仕舞いました。
 最近はパエリヤの鍋など出番がありません。焼き肉のも先ず出て来ません。
 出番の多いのは出汁を取る大鍋、味噌汁用の小ぶりの鍋、煮物用のゆき平鍋等でしょうね。
 フライパンなど大中小、鉄のもテフロン加工のもあり、厚焼き卵用の物、スキヤキ鍋、中華鍋、シチューの煮込み用の寸胴、台所の棚や引き出しを見ますと、何だか怠けものになったような気分になって仕舞い心が痛みます。 料理に精を出さなくなっていますね。

 最近は料理に時間をかけなくなっています。二人で食べる量は知れております。で作ると必ず数回同じ物が食卓に並びます。それを消化するためにはいろいろ作っては駄目なのです。
 私の心を癒す(作らないと言うコンプレックス)には保存食作りがあります。西京味噌漬や佃煮等を材料を変えて作ります。
 その中でも夫が好きな五目豆は良く煮ますね。大豆は御徒町の星野商店から一番良い物を送って貰います。
 鍋は決まっています。このホーロー鍋でしか煮ません。長年煮ておりますので、全ていい加減です。

       五目豆

 これで何回も朝晩出て来ます。夫はやや偏食です。ですが今さらあれこれ言うのは無駄ですし、健康に良いからと無理強いして、気不味い空気を家の中に漂わせることは精神衛生上も良くありませんから、出来るだけ食べて呉れる物を作っています。
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そこにある物は

 3月15日福島原発事故による放射能を連れた風はこの辺り、即ち千葉県東葛地区まで及んでおりした。
 事故発生後直ぐにはこのような事態は知らされず、住民は不安を抱きながらも普通の生活をしておりました。
 我孫子も数値が高いことがいろいろな情報から分かって来ました。
 
 数日前マンションの砂場の砂が全部入れ替えられました。管理組合からは特に理由は示されておりませんでしたが、恐らく放射能の汚染を考えてのことだと思います。
 この砂場には小さなお子さんが毎日遊びに来ております。元気者の孫も出掛けます。

 最近「生涯許容量を100ミリシーベルト」という文字が目にちらちら入って来ます。と言うことは「これだけ放射能が体内に入っても大丈夫ですよ」と言うことでしょうか。
 だとするとこれからは汚染されたものが体内に入って来ますよと言うサインではないでしょうか。
 そうだと考えても差し支えないような気がします。
 米の収獲期に入って来ます。関東東北また東京でも米の放射能を測定すると発表されました。既に米穀卸商は22年米の保存買い入れを始めたと紹介されました。
 近くのショッピングセンターのコメ売り場では急に品物が薄くなっているそうです。毎日散歩がてら眺めていますが、今日の夕方確認して見たいと思っております。
 
 食品の不安を自己責任とはまさか言わないでしょうね。
 政府・東電の責任が問われるべきでしょうね。
 原発関連3首脳更迭をしても炉は元にもどりませんよね。
 南相馬市は原発交付金辞退へと方針を決めたそうですね。
 安全と安心を求めて人々が右往左往するような社会になって欲しくはないです。

     朝食7月30日  朝食7月31日

     朝食8月1日  朝食8月2日

     朝食8月3日  朝食8月4日
 
 平静を装いながら過ごしておりますが、地震と放射能とに心の半分は解放されず、毎日が過ぎて行きます。

P.S
夕方 ショッピングセンターに行きました。お米は沢山各地の物が並んでおりました。TVで知るとすぐ駆けつける方がいるのでしょう。極端なことを言えば毎日気を付けていなければと言う感じです。
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孫とフリーマーケット

 住むマンションには1977年に入居し、小学生だった二女にも女の子がおります。
 勿論私の孫です。
 この孫について語れば笑いが止まりません。生き物が大好きでその餌のコオロギに毎月2000円も掛かるそうです。コオロギの餌は小松菜です。親はご苦労さまです。
 この孫、好奇心旺盛で、運動神経は家族を振りまわし、疲れを知らないと言った毎日を過ごしております。
 
 7月30日、31日と自治会の夏祭りがありました。30日の昼には祭りの始まりのフリーマーケットが広げられます。
 今回はこの孫と一緒に出店者として参加しました。
 孫の興味は采配を振るうことのようです。値付けから売り子、レジ係 どれもやって見たいのですね。
 私はまごまご(孫孫)していれば良いのです。
 丁度29日から新潟、福島方面での集中豪雨があり、開催が危ぶまれておりましたが、僅かに霧雨程度の降雨で済みました。 
 孫の商品はヌイグルミです。自宅での収納も限界になっていたようです。抱いたりはしておりませんので、どれも新品同様です。
 孫は自分で値段を決めたようです。私は身近にあった小物などを横に並べ、一緒の出店ということにしました。

           いらっしゃいませ

 販売が始まりますと、孫はどうも普段と勝手が違うようで、大人しいのです。お客さんはなかなか傍に寄って来て呉れません。子どもが大勢群がっているところもあります。偵察に行きましたら、ヌイグルミの値段はそう変わらないようです。そこで開店直ぐに半値にしました。
 顔見知りのお嬢さんが寄って来ました。小さな物から売れて行きます。売れ始めますと大きな物へとお客さまの手が伸びて来ました。孫も小さな子どもに景品に用意したストラップなどを差し上げたりし、元気が出て来ました。初めての経験を楽しんでいます。
 大凡売れました。良かった良かったです。
 
 「ばーば来年もやろね」「そうだね。やろうね」無事に時間が過ぎました。

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プロフィール

相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日85歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになりそうです。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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