2012-05

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自家製鮨シリーズ 第3回 と関心事

 魚屋の小父さんは私が夕方遅めに行きますと「おか~ちゃん遅いね。何してたの」と聞きます。
 「いろいろあるのよ」「そうかい。ところで今日は何食べるの」と聞きます。
 「う~んどうしようかな。お寿司の種も決めてね。それから考えるわ」
 昨日「おか~ちゃん 寿司始めるよ」
 何よじゃ私は困るのよ。新しい飯台も買ったのにと心の中で呟いて来ました。

 ま~それはそれでその時次第で行きましょ。そこで第3回めの自家製鮨をアップします。何れも一人前が基本です。で私はチョコと味見をします。

      バチとカンパチ  006鯵たたき丼

               本マグロ・ブリ・鯵

      001まぐろ切り落とし丼  サヨリ・桜エビ・カツオ

         握りは一人では多すぎました。ブリ二切れはおじさんのおまけ
 おじさん私が帰ろうとしますと必ず「おか~ちゃん気をつけてね。転んじゃ駄目だよ」と一言声を掛けて呉れます。背筋を伸ばして歩かないと駄目ですね。今日は何にしましょう。

 お寿司とは違いますが、気になっている事それは下記のようなことです。どうなるんでしょう。掲載して置きます。

      5月6日朝食  朝食5月31日

       多くの方に影響がある事柄です。私は見続けて行きます。

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薪割り

 日本に帰国したのは1942年11月末  小学校5年生に編入しました。小学校までは集団登校します。歩いて20分位でしょうか。旗を先頭に一列に並び学校に向かいます。
 祖父母の家は木造平屋 外風呂です。風呂のある小屋の中には竈が2台据えられております。
 風呂の水は井戸から取り込みます。風呂も竈も薪を使います。
 中国へ行く前の日本で過ごした小さい時のことは特に印象に残っている程のことはありません。竈もあり風呂もありましたが手伝う事がなかったせいでしょう。
 帰国しますと祖父は私にいろいろと家事の手伝いをさせます。ご飯炊きや風呂焚きをします。
 薪をくべるのですが、先ず火起こしをします。火のつき易い新聞紙などに火をつけ、直ぐに小枝を寄せてそれの火がつくようにします。それが上手く行きますと薪を丁寧に組み炎が上手に燃え上がるようにします。
 これも上手に行きますととても満足感を抱いた物です。時々火が弱くなりますと薪の間を広げて火吹き竹で空気を送ります。この火吹きもなれませんと上手く行きません。そんなことが出来るようになりました。
 薪は何処からか買っていたようですね。ですがその薪を割るのは一仕事です。
 祖父が片袖を脱ぎ斧を振り降ろした姿を思い出します。この祖父は何だか健康に注意しているらしく、養命酒を飲んでいました。そんなことでしょうか、私は帰国早々に薪割りを手伝うことになりました。
 青島では燃料は石炭ですし、家事は母と使用人がしておりましたので、私の役割は買い物と餃子作り位でした。
 薪割りも仕掛かりますと良い物ですよ。
 斧を振る力と、タイミング、そして薪に斧が命中し、スパッと割れる瞬間の気分は実に良い物です。子ども心にも爽快さを感じたものです。

        薪

 数年前宮城県登米市に行き武家屋敷で見た風景です。昔は民家でもこのように薪を軒下に積んである家が良く見られました。

 話はチョッとそれますが、テレビドラマ「坂の上の雲」の中で秋山真之の兄秋山好古の薪割りの姿は実に良かったですよ。薪を見ますとあの姿が目に浮かびます。
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電話

 電話をかける時 掛けようか掛けまいかと考えることは先ずありません。掛ける必要があるので掛けると言って良いでしょうね。
 携帯電話を使うのも余り金銭感覚を持たずに使っております。全部がそうでもないでしょうが、電車で見る風景は多くの方が携帯画面を見つめて指を動かしております。
 昔電話が声を運んで呉れると言うので、電線に手紙をぶら下げたなんて笑い話がありましたが、私が就職した頃、大学の教職員の名簿に電話番号が掲載されている割合は恐らく5%位ではなかったかと思います。
 職場の電話は交換台と繋がっており、内線は直接繋がりますが、外線に掛ける時には交換台に掛けて繋いで貰います。ですから緊急の教授会が開催される時には中央郵便局まで行き、同文電報で知らせていたのです。
 今や電話は基本台帳のようなものですね。電話の無い家は滅多にはないでしょう。固定電話が無くても携帯電話を持っておりますね。便利になっています。
 子どもの時自宅に電話はありませんでしたが、小学生の時中国の青島に行きましたら、既に電話はダイヤル式の物でした。
 当時 電話の掛け方では中国人と日本人では大きな違いがありました。
 日本人は「○◎ですが、そちらは△□さんですか」で始まります。
 中国人は「あなたは誰ですか」で始まります。子どもながら失礼なと思ったものです。ですがこれは民族性の違いでしょう。社会の成り立ちも環境も違うことの表れだと思います。今はどうでしょうか。中国の知人や友人との交流はメールが殆んどですので、電話の時の記憶が頭に浮かんで来ません。

 1942年に日本に帰国しました。電話はありません。電話は郵便局、役場、学校、警察、灯台等にありました。町で電話を引いている個人では旅館、医者、米屋や酒屋位でしょうね。
 電話はそうそう必要のない物でした。それでも東京等に用事があり、掛けなければならない時はどうするかです。知り合いの家で借りるか、郵便局の公衆電話を利用します。
 この郵便局の公衆電話は直ぐに分かる所にありますが、それで直ぐ繋がると言う物ではありません。
 
         電話

 先ず郵便局の人に電話を掛けることを伝えます。電話機の右側の取っ手をグルグル回して、左側の受話器をとります。そしてそれを耳に当てて、電話機の真ん中のラッパの所に相手の番号を言います。すると交換手が分かりました。受話器を戻してお待ちくださいと言います。それで直ぐに繋がるかと言いますと、これも直ぐには行きません。待つこと近くても数十分、遠い東京等ですと1時間位 時にははもっと掛かります。
 交換台から繋がったという連絡が局の人に伝わりますと、名前を呼ばれます。それから話が出来るのです。
 
 でも電話を使う事は滅多にありませんし、当時は誰も不便だと言う事を話していた記憶がありません。
 時は移り1955年頃でしょうか。町に有線電話が設置されました。各家に送受信器がおかれました。町役場に交換台が設けられて、町から伝達事項が放送されます。個人は交換台に相手の電話番号を伝えます。そうしますとね。
 「○○の何番から■■の何番に」と聞こえます。しますとね「○○さんちだ何だろう」と分かります。
 夜中に「○○さんから××(病院の番号)に」となりますと「○○さんちの誰かが病人だっぺよ」と町の人に分かります。
 本来聞いてはいけないはずの物ですが、広報活動にも使われますからオープンです。受話器を耳に当てれば内容を聞くことが出来ます。昼間は余りそういったことはありませんが、夜中は町中に知られて仕舞います。個人情報とかプライバシーや守秘義務など知う言葉など全く知らずと言いますか、関係ない時代の話です。
 
 有線電話は割合早く廃止されました。今は都会と同じです。
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アカシア

 EGUTI YOUSUKEさんのブログに素敵なアカシアの花が紹介されていました。EGUTI YOUSUKEさんは信州は松本に城を構えております。日々美しい風景や草花、そして鳥等の珍しい姿を見せて下さいます。奥さまを亡くされていらっしゃるようで、親しい食堂で夕食を頂いております。自称「賄い定食」これが実に心が籠っている食事なのです。そして同じ食卓を囲む方たちとの会話。ご自分の半侶のような目がパッチリの犬BIBIちゃんが登場しています。
 松本から洋品店を営むという方がNHKの教室に受講しに来ておりました。大手町と言うところでは同期の方が住んでいました。何となく親近感を持ちながら毎日の画像を眺めております。下のアカシアの写真はそこでお借りしました。

         松本のアカシヤ

 アカシアと聞きますともう私には中国青島です。友人の情報によりますと今頃はアカシアやプラタナスの緑が街を彩っているようです。アカシアの花は天ぷらにして食べると言われておりますね。日本でも実際アカシアの天ぷらを出しますと言う宿もあるようです。
 青島ではアカシアの花が咲きますと、町の中国人がある日集まり、道路の端からアカシアの花を集めて行きます。その時の男性の姿は逞しく、子どもながら凄いな~と思ったものです。
 清岡卓行さんの「アカシアの大連」と言う小説が芥川賞を貰いました。確かに大連には立派なアカシアが茂っております。数年前に眺めて来ました。
 ところが青島びいきの私には何でこのタイトルなんだろうと思ったものです。そして小説にも左程魅力を感じませんでした。本当に可笑しいな~と自分でも思うのです。
 アカシアは青島 
 ところが青島のアカシアは樹齢が高くなって仕舞った所為か、街路樹として今やアカシアはプラタナスへとその地位を譲って来ているようです。
 急速に発展して市街が大きくなって来ている青島。昔の青島小唄の「緑ひとはけアカシア並木~~」という町並みは徐々に薄くなっていることでしょう。
 2014年には国際園芸博覧会が開催されことになっているそうです。その時には街は花一杯になる筈です。
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自家製鮨シリーズ 第2回

 娘がシドニーに住んだ僅かな経験での話ですが、外国人は日本人の家庭に招待されますと寿司と天ぷらが出て来ると信じているようです。娘の所では何とか希望に添うようなご馳走を作っていたそうですが、困る方もあるようです。
 そこで寿司は握りだけではなく、海苔巻きや稲荷またチラシ寿司のような物を覚えていると良いのではないかと思います。で我が家の夕食用に作った鮨

 出来るだけ安くと思っています。一回の寿司ネタはほぼ400円  今回最高のは三種の握りの1000円です。

      エビ・シイタケ散らし  ぶり丼

               金目・マグロ・カンパチ握り

     鉄火丼  蟹ほぐし丼

 握りを小さく作るのは難しいですね。ネタを薄くしたらご飯が小さくても馴染み、上手く収まるかも知れませんが、これは今度プロに聞いてみましょう。
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日本酒 鍋島を探し求め

 今から去ることと言う程時間を感じましたこの年の初め 「酒吞親爺の酔って候」というブログに佐賀のお酒
 鍋島という凄いお酒の紹介と言いますか、飲んだ評価がアップされております。もう世の中にこんなに良いお酒を求めている人がいるのかと知った内容でした。
 夫の亡くなった姉の主人は所謂佐賀もん 佐賀出身で佐賀大好き人間です。義姉が一昨年亡くなってから一人暮らしで頑張っております。
 時々夫と訪問し、一献かたむけ長時間お喋りをして来ます。訪問する時には義兄の好きな物を持参してゆきます。
 正月過ぎに知った鍋島 もうネットで探しまくりました。先ず醸造元のHP それから他のHP 探してもない ない ない  やっと見つけたので2本申し込みました。ところが1本にして下さいと。それでも義兄が喜んで下さると思い取り寄せました。
 冷蔵庫にしまい義兄宅に行く日を待ちました。
 ところが 偶然佐賀出身の方が此方の様子伺いの電話を下さいました。いろいろとお喋りをしている内に気が付きました。
 「あなた鍋島というお酒をご存知ですか」「よく知っていますよ。最近は何だか有名になっているらしく人気沸騰ですよ。僕も彼方此方に送りましたよ。要るんですか」「欲しいですけれど」「それじゃ送りましょ」
 何と三日とおかず一升瓶2本が届きました。

 それから数日後娘の運転する車で義兄の家に持って行きました。

         鍋島3本

 義兄は驚きました。「佐賀に帰った時飲んだんだけれど、この酒はなかなか手に入らないって聞いていますよ」
 佐賀のお酒は甘いのです。義兄宅で頂く佐賀のお酒は甘くて飲み易く思います。どうもこの鍋島も甘いのかも知れません。こんなに喜んで下さるならと、4月に入りまた探しまくりました。あの店 この店と。 
 何処を見ても売り切れ。画像で調べて見ますと鍋島の瓶がある ある ある でも良く調べて見ますと矢張り品物は無いんですね。
 そこでSOSを発信 「あの~若しお願い出来るようでしたら鍋島をまたお願いできませんか」「分かりました」と送って下さいました。今回のは前回のより良い物のようです。

        鍋島2

 義兄は喜びましてね。一緒に写真を撮ってと言いまして、そこで一枚。義兄と夫と一緒のも撮りました。

 実は私は未だ口にしていないのです。それは義兄はこの鍋島が来るとは知りませんから、別のお酒を用意して待っているのです。ですから口を開けません。
 なんとこの鍋島を送って下さったかたは下戸 彼も鍋島の味を知らないと言うのです。義兄の喜びを伝えてお礼を申し上げました「佐賀のアドバイザーとしてとても有難いことです」と仰って下さいました。
 今度機会がありましたら、絶対に事前に持参することを伝え、私も飲みたいと思っております。
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昨日から今日へ

 昨日は昼ごろ天気情報通りの雨風と雷 義兄の所に行くことになっていましたので、困ったな~と様子を見ておりました。午後2時過ぎ雨も上がり、夫と家を出ました。
 杖の代りに長い傘を持ちました。武蔵野線は風が強く吹きますと直ぐに電車が止まります。何となくヒヤヒヤです。足が悪いので、遠出は心配が付き纏います。
 義兄の家でお喋りをしていますと、午後5時過ぎに地震の揺れを感じました。ナマズ速報で見ましたら震源地は 茨城県南部 震度4 
 義兄の住む埼玉県越谷の天気は綺麗な晴 我が家と直線距離で20㌔余りでしょうか。随分違うものです。

 今日昼過ぎ断水のアナウンスが流れて来ました。聞きとれません。マンション周辺では音が反響して聞きとり難いのです。
 私は市の広報を受信する届を出しており、そこに防災無線情報のメールが来ました。
 
 11時45分 断水 江戸川からの取水に基準値を超えるホルムアルデヒドが検出されましたと言う内容です。
 17時30分 取水を再開
 21時30分 断水解除

 テレビでこの断水情報が流れ、我孫子市も全市で断水と出ていますので、友人からのメールや電話が相次ぎました。昨年の災害以来皆さん敏感になっていますね。私も直ぐ魚屋の小父さんに伝えようとスーパーに降りて行きました。
 一階の酒屋さんの前では土曜日の所為かカップルが何組も見えております。あまり気にもせずに魚屋に行き、店員さんに伝えました。そして家に戻るので酒屋さんの前を通りますと、何だか店の前が品物が少なく感じます。
 張り紙を見ますと「水はありません」と書かれております。皆さんが駆けつけて来たのです。

        断水ニュース

 マンションは汲み上げているタンクがあるせいか断水はありませんでしたが、これが長く続きますと困って仕舞うでしょうね。今この時間でも断水が続いている市もあります。

     朝食5月19日

 今朝の新聞に天皇の英国エリザベス女王戴冠60年の式典に参列されたことが報じられております。
 天皇は皇太子の時(1953年)に昭和天皇の名代として戴冠式に船でロンドンに向かわれました。
 船内で随行の記者と将棋?か囲碁をされている写真が朝日新聞に掲載されました。
 その記者は「斎藤信也さん」名文家として知られた方です。懐かしく思い出しました。
 私は大学の女子寮に住んでおり、同級生の所に斎藤さんが何回かお見えになったのです。今日改めて調べて見ますと、既に有能な記者として活躍していたのです。
 ところが若い女性と言うのはいい気なものです。「レディーの所に来るのに破れた靴下を履いて来るなんて、駄目。ユ~付き合っては駄目だよ」と言ったのは「おのこは東大でなければね~」と常々口していた元気者でした。斎藤さんは誰かとお付き合いをしていたわけではなく、別のシャイな男性に付き合って遊びに来ていただけなんですよ。
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体験を思い出す

 長く生きているだけでも自慢できると言う方もおります。生涯立派に生きて来た方もおりましょう。ですが私は立派な人間として生きて来たとは言えません。立派ではありませんが、80歳過ぎて見ますといろいろな出会いや体験が沢山ありますね。そんな中でも仕事や学びのことも沢山ありますが、生活上でも記して置きたいな~と思う事が多くなって来ております。年輪のなせることでしょうか。

 徳島で頑張っているちゅんごさんのブログを拝見しましたら、新緑に囲まれた水車小屋を目にしました。

     ちゅんごさんの水車  ちゅんごさんの水車と水

 自然の力を利用して生活をして来た時代は日本の農村風景の中で多く目にした姿です。これをここに出したから原発問題を論じると言うことではありません。
 5月1日にアップしましたような戦中の生活を思い出すのです。私の住んだ半農半漁の田舎では見られませんでしたが、女学校に通う途中に水車がありました。水車は随分早く片付けられて仕舞い、今は見ることは出来ないと思います。バスが止まってしまい、16㌔の道を歩きますと、気が付かなかった風景を目にします。
 四季折々の風景や人々の動く姿です。
 既にこの時期は田植えは終わっていましょうが、苗を植える人々が田の傍でお櫃を囲み食事をする姿。いつもお腹の空いている私はそれでも羨ましいとは思いませんでした。
 水が飲みたくなりますと、道すじの農家に入って行き、外井戸の水を頂戴します。釣るべの家もありますし、ポンプで組み上げる家もあります。
 NHKの朝のレンドラ「梅ちゃん先生」で女性が帰宅しますとポンプの水で手を洗います。その時ポンプの上に呼び水を柄杓で流しいれて手で柄を押します。この仕草が自然で感心しております。チョッと見落とす場面ではないかと思うのですが。毎回必ずそれを見せて呉れます。
 このドラマの場所は東京の蒲田駅周辺らしいのですが、実際の当時とやや違う感じを抱きますが、それでも戦後の貧しさや、人々の暮らしの一部を知ることが出来ます。
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本土並みと言うが

 1972年5月15日 沖縄は本土復帰 返還されたと言われ40年が過ぎました。
 国の方向は分かりません。現政府も過去の政府も共に本気さがあったのかなかったのか。
 総理の言う事が上っ面な言葉に聞こえて仕舞ったことが屡ありました。
 沖縄の問題を聞く度読む度に難題山積で個人の思いなど役に立たないと思いつつ過ごしております。ですが忘れているかのように無関心で過ごして行こうとは思っておりません。
 過ぎし太平洋戦争を自分の生きて来た時代と重ねて来た人間。そして戦争末期の沖縄の人々の思いを少しは知っている人間として、何時も忘れず、関心を持ち続けて行かなければと思っております。

     朝食5月16日

 南亭さんのブログに多くの方が思いを込めて発信しております。ぜひご覧になって下さい。

  参考 ひめゆり学徒隊この方達は私と同世代です。
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優しかったお二人

 明治大学で学生相談室が開設されたのは1959年4月です。
 当時は所謂カウンセリングと言う言葉は世間周知のことではありませんでした。学内でも関係者以外の方には馴染みのない言葉でもあり場所でもありました。組織も整備されてなく、人員もごく少数で発足しました。
 今年の5月1日付の大学広報に掲載されている学生相談室のスタッフは、教授・弁護士・精神科医師・臨床心理士も加わり、施設も立派になり、これらは時代の要請でしょう。将に隔世の感そのもです。
 
 発足当時はないないづくめの相談室でしたが、それなりの熱意が関係者全員に満ちておりました。

 今回の広報に掲載された故人の方のお名前を目にし、感無量の思いを抱いております。
 新聞紙上で報じられた元学長のお二人(山田雄一先生・戸沢充則先生)の他に元短大の事務長の小宮久さん
 そして元文学部教授の小室栄一先生、元経営学部教授の大久間喜一郎先生のお二人です。
 
        明治広報から

 大久間先生は1961年から65年まで、小室先生は1964年、65年と相談員をされておりました。
 お二人は良く気が合いましてね。何かとご一緒になって行事も引き受けて下さいました。
 大久間先生から年賀状を頂くと何だか難しい言葉を覚えた様な錯覚を起こしたものです。毎年漢詩を記し、日本読みにして、送って下さっていました。そう20年ほど前でしょうか「これで年賀状は終わりにします」と記してありました。ただ健康状態が悪いとかはお聞きしておりませんでした。
 大久間先生は終戦まで満州放送でアナウンサーをされていたとお聞きしておりました。森繁久弥さんとご一緒の部署だったとも話されておりました。和物がお好きで、セミナーの時などでは浄瑠璃などで渋い声を披露されたりなさいました。相談室で新入生を対象にしバスで都内を案内する時の資料は先生がガリ版で書いて下さいました。下町の紹介は得意の所。国語の先生は字がお上手で読みやすいのです。今もそのパンフレットが目に浮かびます。 パンフレットを手にし学生は浅草を散策し、東京タワーに喜び、バスが高速道路を走りますと歓声を上げて喜びました。良かったですね。

 小室先生は以前にもチョッと触れましたが、シャイでね。何となく恥ずかしげになさいます。
 ある時私は友人の結婚式に招かれ、国立にある谷保天満宮に行きました。時間が少し早かったので境内をウロウロと眺めまわしておりました。そこへ何故か小室先生が歩いて来ました。
 「先生どちらへ」「僕教え子の結婚式に出るので」「ええ!じゃご一緒かしら」と本殿に行きました。
 間違いなく一緒の席でした。披露宴の席で友人代表で挨拶を求められたので、「新郎は小室先生のお弟子さんですから立派な方です。小室先生のお人柄から保障します」とそんなことを述べてお役を済ませました。

 大久間先生 94歳   小室先生 99歳 お二人とも天寿を全うされたと申し上げてよろしいでしょう。
 学生相談室で沢山の先生方とふれあい多くのことを学ばせて頂きました。発足当時の諸先生、そして相談室の縁の下の役割を担った職員 皆さんが故人となられました。昔話も出来なくなり、寂しさも一入です。
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自家製鮨シリーズ 第一回

 娘に言われるのですが、私の料理には独自のシリーズがあると言います。そう言われて見ますと前は良く煮物を作りブログでも載せておりました。最近は新聞と一緒の朝食を良く載せています。厚焼き卵となりますと、飽きるほど焼きます。夕食の総菜も新しいものを作りますと、一週間もたたない内にまた作ります。これって母の味と言えるかどうか疑問ですね。
 そう言え今日は母の日だと、長女が珍しいイタリアのワインをプレゼントして呉れました。
 
 先日鮨酢のことを知りましたことを記して置きましたが、実際に作って見ますと、安く出来るのです。
 と言う事で今日は自家製鮨シリーズ第一回を載せて見ます。
 先ず鮨種ですが、最高でも500円 安いのでは290円です。ご飯は鮨用に3カップを炊き、酢飯を作りそれを冷凍しました。冷凍する一つの包みは男物お茶碗一杯程の大きさです。
 夕食の前にレンジで軽く温め、冷めたら種を載せて供します。

      鮭と青シソチラシ  青柳チラシ

      帆立と赤貝  鯵・ガリ・三つ葉

 何か足りないと気が付いたのは生姜いわゆる「ガリ」です。これが無いと間が抜けたような感じになるのです。 そこで今日は新ショウガでガリを作りました。美味しく作れました。

            ガリ

 さて明日は何を作りましょうか。
 考えるのは楽しいんですが一つ困ったこと。今まで私は夕食にご飯物を食べなかったのです。ところが鮨を作ると口に入れて味を確かめますから、肴が残って仕舞うのです。それで肴がまた次の食卓に出て来ます。朝食の場合や夕食での再登場となります。煮物の時もでしたが、なかなか少なく作れないのですね。難しいです。 
 そしてお婆さんは捨てられないのです。
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旗袍あれこれ

 沖縄に住む方から旗袍を習いたいと申し込みを頂きました。
 長く機会を待っていたそうです。最初に私のことを知ったのは、沖縄新聞で紹介していたのを見たのだそうです。
 それは多分共同通信が取材し全国に配信した物だと思います。その記事を見てNHKの講座に長野県から見えた方が二人おりました。
 沖縄の方は当時いろいろな事情もあったそうですが、PCを使えず私への接触が出来なかったそうです。
 PCを習ったので、探し当てたと言うのですから、時代を感じますね。私もPCを使っていなければ、このような出会いはなかったことだと思います。
 沖縄から千葉県まで習いに見えると言う事には驚きました。今回は7月初旬まで滞在し、出来るだけ多くのことを学んで帰りたいという希望です。
 昨日が初日でした。これから週に2回見えることになりました。
 私は授業と宿題を組み合わせて、授業6回で最初の物が作れるようにしております。今回は12回を予約して頂きました。これで2枚の旗袍が出来ます。
 普通は月に2回の授業ですから1枚を作るのに3ヶ月掛かります。

 作る物は最初が袖なし裏なしのワンピース型、2枚目は袖つき裏なしのワンピース型です。次は袖と裏ありのワンピース型です。今回見えた方は出来れば3枚作ってみたいとのことですが、これは無理でしょうね。
 ご本人にも話して、今回は2枚でとしました。
 1回が3時間ですから、大抵の方は予定通りに進みます。昨日も無事に予定通りで済みました。

 旗袍(チャイナドレス)の中でどのような物を作るのかですが、謝黎さんのコレクションのを見て見ましょう。

         チャイナドレスの変遷

 この中の1930年代と記されているスタイルの物が中心だと思って下されば宜しいでしょう。
 最近はキラキラのチャイナドレスは見かけなくなりましたが、私はキラキラはお薦めしたくないですね。
 縫うのは手縫いでも出来ますが、脇を縫う時などはミシンがあると良いですね。
 昨日見えた方はミシンを滞在先に送ってあるそうです。熱心さが良く分かりました。

 ☆(チャイナドレスへの質問は内容を書いて鍵コメでお問い合わせください)
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税務署に行く

 どうも税務署と言うのは苦手です。別に脱税をしている訳でもなく、特に関係を密にすることもなく、毎年の確定申告をする時位しか、思い出さないものです。
 4年前、チョッとしたことから青色申告をすることになりました。少々頼まれ事もあったり、既製品を作ったりしましたので、正直にキチンと申告をしなければ国民として良くないことだと言う、自分の気持ちで開業届を出してありました。
 申告をしたからと良いことは特にありませんね。中国にチャイナドレスの勉強に行くのに、旅費が経費で落とせました。ま~そんな程度です。オーダーを頼まれても都心に出掛けますと、採寸、仮縫いと2回ゆき、食事をしますと先ず赤字です。ま~人に喜ばれると言うのがプラスでしょうか。後は殆んどマイナスですね。

 昨年3月の地震以降何も申告しなければならないようなことがなく、過ぎた確定申告の時「あの廃業したいんですけど」と申告を手伝って下さった方に伝えました。
 「それでは昨年何もなかった訳ですね。それでは体が良くなったら届けを出しに行かれて下さい」と無事に青色申告を済ませました。
 何れにしましても届けに行かなければ、あの煩わしい帳簿を眺めなければなりません。
 昨日は長女が送って呉れると言いますので、届けを出しに行きました。良いお天気です。気分も良いですね。

         1号棟前道路

 昨日はこの道路のように気分は爽やかになりました。
 
 何故かと言いますと、先ず税務署の中に入って行きました。入口で「段差がありますからお気をつけて」「今日のご用は」と丁寧な言葉の案内です。
 「廃業届を出しに来たのですが」「印鑑はお持ちですか」「持って来ました」「ではこちらでお書き下さい」
 書類は廃業届と、青色申告停止の二種類です。「こちらでお座りになってどうぞ」「有難うございます」
 税務署の男性が覗くようにします。「そうそうそれで大丈夫ですよ」「写しもあった方が良いでしょ」と親切です。用事は簡単に済みました。
 

 「ね~凄く優しいんだけれど。おば~さんに見られたのかしら」
 同行し車で待っていた夫「おば~さんと言われたと言うけど、まぎれもないおば~さんだよ」
 「ふ~んそうか。やっぱりね」
 
 税務署の方は今まで行った公共機関の中で一番優しく、気を使って対応して下さったのです。
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改めて気合いを入れ

 ネットでお寿司を注文したらと書きました。いその爺さんから鮨酢というコメントを頂きました。
 そこで鮨酢を買って来ました。
 下の魚屋の小父さんに「鮨を作るんだったら、言って呉れよ。種を何時でも切ってやるよ」と言われていたのを思い出し、頼みに行きました。
 「何人前作るんだね」「二人だけど少しで良いのよ。サーモン抜きでね」
 「分かった。切って置くから後で取りに来て。俺がいなくても分かるようにして置くからよ」

 夕方受け取りに行きました。何だか予定していた量を超えています。マグロの赤身・やり烏賊・カンパチ・鯛そして子柱 見ただけでこれは一回では食べ切れないと分かりました。

 昔は随分自分で握っていましたので、握ることには特に心配はありませんでした。ただ酢飯の量をすっかり忘れております。取り敢えず米3カップを炊きました。そして先ず半分に鮨酢を掛けようとしましたら、どうも甘すぎます。そこで普段使っている酢を足し、味を調えて酢飯を作りました。
 種が大きいのでご飯も自然に大きくなりました。でもこの位の大きさは昔と同じような物です。
 
       握り寿司

 これは一昨日の夕食ですが、思っていた通り食べるのにフウフウでした。残りの種は昨夜の散らし鮨となりました。久し振りのほんわかと温かいご飯の握りを食べることが出来ました。矢張り冷たいご飯では美味しくないです。

      チラシ寿司

 今回久し振りに握りを作りましたが、いその爺さんのお茶碗一杯から使えますよというヒントを頂きましたので、先ず自分の好みに合った鮨酢を作り置きし、ご飯を炊いた時に酢飯を作って置こうと、そして握る前に少し温め、そして作る。
 ふ~ん そんなこと誰でもやっているわよ~と言われそうですが。こうすれば安くなった刺身の盛り合わせが活きますよね。もう今夜から作ろうと言う気分満々です。
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嬉しい頂き物

 富山の瀬戸さん ブログを立ち上げてから直に知り合い、そして信頼関係が続いております。
 瀬戸さんの味噌を始め色々な食品や食材を送って頂いております。
 瀬戸さんの心意気ですが、ラーメン店ですので、お客様に野菜を食べて頂きたいとミニ丼を昼に200円で提供しております。そのミニ丼ですが、時々一挙にアップされています。
 とても参考になりますし、瀬戸さんのお考えを良く知ることもできます。
 ミニ丼の魅力の一つに押しずしがあります。私はこの瀬戸さんの押しずしに魅了されて、重石にする石も頼んで頂きました。人数が揃ったら作りたいと思いながらも未だに作っておりません。

 話ですが先日味噌と一緒に送って下さったのは「岩魚の開き」岩魚は瀬戸さんが釣った物の中で選んで送って下さったのではと思って仕舞いました。形が大きいのです。

         岩魚干物

 岩魚は渓流で釣る難しい釣り魚だそうです。その貴重な岩魚を頂き嬉しくてね。
 岩魚と一緒に送って頂いたのが「ヤナギバチメ」という赤い魚です。一見メバルかな~と思いましたが、名前が聞いたことがありませんでので、検索して見ました。とても美味しい魚でメバルの一種だと分かりました。
 このヤナギバチメを食べて褒めている方のブログを見つけました。それはこちらです。
 「生で塩をしてありますから焼いても揚げても良いですよ」ありましたので、そのまま揚げました。
 身も締まっていて揚げたての香ばしい皮と一緒に口に入れて堪能しました。

        ヤナギバチメ

 レモンがあれば更に美味しかったことでしょうが、塩加減も丁度良く、本当に嬉しい頂き物でした。
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明るい月

 YAHOOのトピックスを眺めていました。
 そこに今夜の月がスーパームーンという普通の満月と比べて明るい月だと出ていました。PCの前に座っていた私が右側に目をやりますと月が昇って来ておりました。目の前です。下手でも構わない撮ってみようとカメラを向けました。

      スーパームーン

 この月はスーパームーンと呼ばれ,NASAによりますとこの満月は通常の満月より大きく明るい満月のことだそうです。2012年の他の満月より14%大きく30%明るいのだそうです。
 月の軌道が楕円形を描いているためで、月が地球に一番近づくのは5日の昼の12時34分。
 日本で見られるのは5日~6日の夜だそうです。

 昨日のようなお天気でしたらとても見られなかったでしょう。今日は見事な五月晴れ。良かったです。

 良~く覗きますと星も光って見えます。これは見つけものでした。
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憲法守って下さい

 昨年最高裁が一票の格差が最大2.30倍となった前回の衆議員選挙を「違憲状態」だと判断しております。
 前々から私の住む地域は格差が酷く、何とか是正して欲しいと思っております。
 最近の朝日新聞の記事によりますと、この違憲状況を直すのに、なかなか道筋が決まらず、政党間の駆け引きが続き、国民の参政権の行方が心配です。確かに各政党も是正をしなければならないとは言っております。
 しかしその前にやるべきこがあるとか、様々な理由で検討が進まず、どうも停滞状態らしく感じて仕舞います。

 この地域は人口が多く、一票がとても軽いのです。ですから合憲というレベルに改善しても、尚その格差は残って行くことだろうと思います。
 今までの政治家と言いますか政党は地域利益誘導型で長年過ごして来たということは否定できないでしょう。世襲もその形の一つの表れだと思います。人間その立場に立てば成長して立派になると言われております。
 ですがそれは事実でしょうか。この数十年世襲で政治家になった方たちの力量は分かりません。
 極端なことを言えばごく普通の小父さん小母さんでも言えそうなことをしゃべっているような人もおります。
 議員の数を減らせば力量のある、真の政治家が出てこられるのでは思って仕舞います。
 政治家の数は多いと、出来るんだか出来ないんだか、見えませんね。精鋭主義で臨めなければ政党の価値を高めることは無理でしょう。
 多くの国民が納得できる政治を進めて欲しいと思うのです。全てに満足が行くとは思ってはいませんが、理解できる範囲が広がれば、国民はその国に住んでいると言うことに安心を感じる筈です。
 政党政治を土台にしている日本の政治風土をどのように変えて行けるか、目が離せません。
 昨年の天災人災は国の姿勢を多くの国民が知った転換期です。そこを見た国民が次の選挙にどう臨むか、どの政党も真正面に向かい合わなければならないでしょう。今は合憲へと進める姿勢を見せなければその政党は駄目と言う烙印を押されて仕舞うでしょう。
 
       朝食5月3日

 戦後の生活を思い出せるドラマが放映されています。我慢の時代も人々は一緒に耐えて来ました。今は様々な分野で問題が起きています。制度の見直しも必要になっているでしょう。政治家も諸官庁も国民生活を良く見て欲しいと思います。これから生きて行く孫や子どもの未来に、希望が持てるような政治と制度の構築を期待したいです。
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ネットでお寿司

 段々出かけることが少なくなって来ております。一階のスーパーには傘要らずで行かれますから、とても便利です。
 我が家二人暮らしですが、肉より魚です。毎日行きますと先ず魚売り場に行きます。
 「小父さん今日のお薦めは」「おか―ちゃん今日は何食べたいの」「煮魚か焼き魚かしら」
 「そんならよ~金目かタカベだな~」「じゃ~タカベね。塩焼きでね。鱗綺麗にとってよ」「分かった」
 とこんな具合です。鱗を綺麗にねと言うのは魚の首周りの鱗がとれていないといやなのです。
 
 この魚屋では鮮度の良い魚が並んでします。開店当初はお寿司も置いてありました。鮮度の良い魚を使いますから、スーパーのお寿司としては良いな~と買っていました。
 ところがどうも売れ行きが芳しくないようで、最近は出て来ません。鯵のお寿司なんて可なり大きな鯵を載せていました。普通のスーパーの4貫位に当たりそうでした。
 夫は夕食に僅かでも良いからとお寿司を欲しがります。私も好きですから少な目の物を買って来ます。
 少しですからネットスーパーで アナゴ2貫 イカ2貫 マグロ2貫なんて頼んでいました。どうもこれではいろいろなネタが食べられません。ですからネットで頼む時には書き込みでお寿司をお願いします。

 醤油の良いものは下では安く売られません。時々スーパーで安くなっています。そういう時は先ず醤油。それからあれこれ選び時間を指定し配送して貰います。
 このところと言いますか節季変りは天気が不安定になりますね。足の悪い所為もありますが、風が強かったり、寒かったりしますとネットに頼ります。

        880円の寿司

 このお寿司は握りは小ぶりですが880円とは安いなと思いました。下の小父さんは「その内寿司も並べるよ~」と言っておりますので、携帯で写し見せて見ました。「これは安いよ」と言います。これは並べる時には良いものを並べて下さいね~と言う私のサインです。
 これを二人では多すぎるのです。でも頑張って食べて仕舞いました。今度はアナゴ混じりの何貫のをと書きこんで頼みましょう。
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バス通学

 大きなバスの事故が相次いで起きています。特に先日の夜行便の事故は人々に大きな衝撃を与えました。
 居眠り運転の結果とは言われていますが、様々な検証と原因究明の報道が出て来ております。監督官庁の姿勢やツアー企画会社の問題、下請けバス会社の体質、地震以来の来日旅行者の大きな変化、顧客のニーズの分析。
 それらのことを聞く度見る度に問題の起きる背景の多さに驚きます。

      朝食4月30日 朝食5月1日

 
 1944年4月 私は女学校に入学しました。中国から帰国して祖父母と一緒に住んでいました。
 住む町から女学校まで行くには女学生は全員バス通学でした。当時は鉄道省の路線バスで省営バスと呼ばれるボンネット型のバスでした。朝一番バスに乗ります。夏は良いのですが冬は夜明け前に駅に向かって歩きます。
 中学生の多くは自転車です。当時の中学は男子のみ女学校は女子のみの学校です。
 バスはほぼ満員の状態で出発します。途中の停留所で乗って来る人もありますが、始発駅からその殆んどは今の中学生です。他に少しの勤め人。
 片道16㌔ほぼ4里 歩くと4時間掛かります。戦争が激しくなり本土も空襲をうけるようになりますと、バスもそれなりに運休します。
 バスが運休と分かりますと、直ぐに歩き始めます。それは朝のこともあり、また帰りの時でも起こりました。
 今の自分の足を考えると良く度々歩いたものだと思い出しております。

 満員のバスの中では背の高いがっしりとした中学生の横に立つと楽なんです。田舎道ですからカーブでバスが左右に揺れます。その時は横に誰がいるかで体の動きが楽か辛いか決まります。
 町から市まで行くには峠を二か所通ります。ガソリンが無くなり、やがて燃料は木炭になりました。
 木炭になる頃バスは何台かあったでしょうが、私たちの乗るのは無蓋車になりました。トラックと同じですよ。
 車体の上を柵で囲み、私たちは後ろから飛び乗るようにして乗り込みます。柵は50センチ程位の高さしかありません。柵の傍のお客は座り込み、枠に掴まります。出来るだけ大勢乗らなければなりませんから、座った人の後ろから中の方のお客は立っています。お互いの体を抱き合うようにして乗っています。
 カーブになりますと体がカーブに添って斜めになります。女学生はその都度キャーキャーと声を上げます。
 それは厳しいものでした。勿論道路は舗装されておりません。
 トンネルを通過するのは上りと下りの坂があります。当り前ですがね。
 木炭バスは力がありませんから、お客を乗せたままでは上れません。そこで坂が急勾配になって来ますと、全員バスから降ります。バスが走るあとからバスに付いて歩きます。トンネルを過ぎてバスが止まりますと、また飛び乗ります。これが大変ですよ。冬は木炭を焚いている傍は暖かいので、我先にその傍に行こうとします。
 雨が降っていたり、また雨上がりの道はバスが泥濘に嵌って走れなくなります。
 その時はお客はバスを一所懸命に押します。バスのエンジンが掛かりますと、また急いで飛び乗ります。
 
 このバス路線は今は本数も少なくなり、定期券が高いそうで、親が学校まで送迎している家が多いと聞きます。
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生きたあの頃

 1931年5月1日 誕生 私の肺は息を吸い込み産声を上げたのです。そして今日81歳になりました。
 生まれは千葉県の南端 育ちは千葉でもあり中国でもありといったように感じております。
 
 幼稚園に3年10カ月 そして小学校の転校3回 小学校卒業後女学校に入学
 この女学校の生活では様々なことを経験しました。戦時中ですから物がありません。食料も段々少なくなって来ました。戦は負けへと進んでいます。
 戦争が齎す悲惨なことはニュースや記録でも知る通りです。厳しいものですね。
 私が女学校に入学して間もなく勤労奉仕ということが科せられました。それはどういう事かと言いますと、戦争の為に男性が戦場へと招集されます。男性のいなくなった農家では手が足りなくなります。
 そこで、私たちは授業を休み農家に手伝いに行く訳です。NANTEIさんのブログを拝見しましたら田圃が見えていました。田圃を見ましたら昔を思い出したのです。

         NANTEIさんのブログでの田圃

 勤労奉仕は非農家の子どもが行きます。農家の子どもは自家作業と言うことになり手伝いには行きません。
 ところがこの農家のお嬢さん方は家は殆んど裕福なので、家でのんびりと過ごしております。
 勤労奉仕の仕事はいろいろです。春の田圃作業(代掻きや田植え) 夏の田の草取り 秋の稲刈り 冬の麦踏み 春先の麦刈り
 なんと多くのことをやったことでしょう。

 写真の様に田圃を綺麗にし苗を植えると言うのは女学生には難儀なことです。今の中学1年生2年生ですからね。農家の方のような仕事着がありません。仕方なく体操着にブルマーと言った出で立ちとなります。
 田圃で履く物がありませんから裸足です。
 その姿で何をするかと言いますと、上の写真で分かりますように田圃を綺麗にし、そして田植えをします。
 犂を牛や馬に曳かせる地域と違い千葉県の南では人が曳きます。その曳き役です。
 同じ家に行った女学生二人で綱を持ち田圃の中をグルグル回ります。犂は農家の方が押します。
 大きな田圃ですとこの代掻きというのに時間が掛かります。家で何もしてない二人は辛くても我慢して曳きます。何日か行きました。
 ある日フト目を県道に向けましたら、最終便の上りのバスが走っています。突然二人は同じ悲しさに襲われたのでしょう。期せずして田圃にへたり込んで仕舞いました。泥の中に腰を落としたので、ブルマーも泥まみれです。
 涙が溢れて来ました。勤労奉仕先は自宅のある町ですので、何とかそのまま歩いて帰宅しました。
 優しい農家もありますが、酷い農家もあります。お昼におむすびを出して呉れる家もありましたが、ピンポン玉のようなジャガイモの茹でたのだけという家もありました。農家は純朴だとは限りませんね。
 経験は全て教訓になります。
 今日は生きて来たある一時を記しましたが、時々は越し方もブログで描いて見ましょう。

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プロフィール

相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日86歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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