2012-07

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岩魚の焼き枯らし

 本当に珍しい物を頂戴しました。ブログを始めて直ぐに知り合い、以来お付き合いが続き、何かとお世話になっております富山の瀬戸さん ブログはリンクしてありますが、富山市内でラーメン店を開いております。
 食についての追求心と動じないその姿勢に感銘を受けております。
 沢山のことを教えて頂き、時には珍しい物など送って下さり、我が家の食生活に大きな刺激を与えて下さっております。
 瀬戸さんのお味噌は品質も問題なく、その味は口に馴染み、毎朝の食事には欠かせません。身近な存在です。

 今回味噌と一緒に岩魚の焼き枯れという真に貴重な渓流に住む魚を頂きました。
 炊き込みご飯用にと、具も出汁も一緒に送って下さいました。

            岩魚

  この岩魚の焼き枯れに付いて瀬戸さんの説明をブログから転載致します。
 
 夜、焚き火の回りに距離を置いて串刺しにした魚を並べ非常にゆっくりと焼き上げるものです。
焼くというよりむしろほぼ完璧に乾燥させた状態で完成していますから保存性に優れ旨味が凝縮されるというわけです。
 山だったら軽量化と小さく縮む分荷がかさばらないという利点も出てきます。

 この焼き枯らしで骨酒やイワナ飯を作るそうです。旨そうです。


 今日はこの岩魚ご飯を炊きました。岩魚ニ尾を入れて炊きました。パウチングしてある岩魚を取り出し一尾づつ紙に包み、20秒ほど電子レンジで加熱します。それをほぐして、身と骨を分けます。
 具と出汁を分けて、お米を研ぎ水を切り、お釜にお米、出汁を加えてその上に具を載せます。具の上にほぐした岩魚を載せて炊きます。炊きあがったら刻み茗荷を加えてざっくりと混ぜます。そして頂きました。

    岩魚ほぐしと骨  炊き込み具

    炊きあがり  岩魚ご飯

 身を分けた後の骨は熱燗で飲むと美味しそうですので、冷蔵庫にしまいました。瀬戸さん有難うございます。
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自家製鮨シリーズ 第13回  と関心事

 夏は事の他お鮨が美味しく感じられます。勿論鰻もですが、鰻はそうそう食べることは出来ません。
 先日長女の言葉に従い、チョッと新しい食器を買いました。食器については娘とは割合趣味が合います。
 楽しくなっておりますが、夫は「鮨シリーズは未だ続くのかね」と聞いております。「勿論ですよ」と返事をしております。ことの始まりは夫が毎日少しでもお鮨が食べたいと言ったことから始まったのですからね。
 
 今回はどうでしょうか。失敗もあります。それは棒寿司です。切り方が大きすぎて、2個も食べればお腹に応えます。これは力がないことと巻いてから確りと時間を取らなかったことにもあるようです。それと包丁ですね。妹が来ておりましたので、何とか消化しました。

      鯵ちらし  〆鯵・スモークサーモン棒鮨

               天然マ鯛

      バチ・〆鯵にぎり  ホタテ・スモークサーモン握り

 一昨日と昨日はこのマンションを含む町内会全体の夏祭りが30回を迎え、広場では大勢の人が集まり、賑やかな祭りが開催されました。子ども達はハシャギ、大人も楽しみました。このような時間は失いたくありません。
 ホットスポットは近くにあります。我孫子も決して問題がない訳ではありません。

 賑やかと言えば昨日は首都圏反原発連合の呼びかけで、脱原発国会大包囲のデモが行われたのです。それぞれの方が周囲と一体になり行進していたようです。新聞がトップにそれを取り上げたことはとても大きな意味があるのではないでしょうか。

               朝食7月30日

 新聞や各報道機関などの記事を読みますと、あの酷暑の中、全国から人々が馳せ参じたそうです。特に福島からの方は、このデモに参加していた民主党議員に元に戻して欲しいと強く訴えたようです。民主党の鳩山由紀夫さんも先ごろのデモに参加して話題になりましたね。何故党内でこのようなおかしなことになっているのでっしょうか。心底そのことを知りたいですね。大飯原発再稼働を野田総理が決めた時、反再稼働の党員は国会内でハンストでも座り込みでも出来たのではないですか。何故総理に決定をさせてしまったのですか。不思議な集団ですね。
 
 今朝のNHKのニュースは短い時間ですがデモの様子を放映しました。

     デモ1  デモ2

 参加者の人数ですが、主催者側はのべ20万人と、警視庁は1万4千人と。これはおかしいですね。警視庁は少なく言っているのではないでしょうか。勿論主催者は大きく言っているのかも知れません。ですがこの警視庁の数字は何を意味しているのでしょうか。私には無視できません。

 動画で見ますと大勢の方が集まったことは確かです。動画の見られるサイトは→赤☆でどうぞ。 
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オリンピック

 昨日日本時間午前5時 ロンドンオリンピックの開会式が始まりました。
 日本からも大勢の選手が出場します。開会式は壮麗でした。
 
 『』の中は東京新聞筆洗から転載しました。

『美しい田園風景にシルクハット姿の一団が姿を見せると、巨大な煙突がせり上がった。緑の大地ははぎ取られ、溶鉱炉を持つ工場に。歴史絵巻のようなロンドン五輪の開会式に目を奪われた▼産業革命がもたらした光と影。華やかな演出の中に、考えさせる視点があった。大会の運営理念は地球環境を守るサステナビリティー(持続可能性)。その象徴が五輪スタジアムのある公園だ▼産業革命時代から続くロンドン東部の工業地帯は土壌汚染が深刻だった。巨費を投じて汚泥やがれきなど三万トンを撤去し、四千本以上の木と三十万本の水生植物が植えられた。スタジアムの屋根は不要なガス管。五輪後は五万五千人分の客席が取り外され、二万五千人規模の施設に衣替えになる▼ロンドンでの五輪開催は史上最多の三回目である。日本は一九〇八年は不参加、占領下だった四八年は参加はかなわなかった。産業革命の果実を享受し「富国強兵」の道を突き進んだ結果だ▼女性にとっては新たな歴史を刻む大会になった。イスラム教の戒律を理由に女性の参加を認めなかったサウジアラビア、ブルネイ、カタールの三国が女性を派遣し、すべての競技で女子の種目が実施されることに▼カタールとブルネイの二人は、髪を隠すヘジャブ姿で入場行進の旗手も務めた。晴れやかな表情。スポーツが差別の壁を崩した瞬間だった。』

       朝食7月28日

 日本は1940年夏季オリンピック開催を予定されていたのが、日中戦争の影響から政府は辞退を決めました。
 オリンピック第18回として戦後1964年10月10日に東京オリンピックが開催されました。
 国民は熱狂し、この大会を歓迎し、勿論私もニュースで一所懸命に応援しておりました。特にマラソンでは職場の前の甲州街道を走るアベべの姿に興奮したものです。

 東京オリンピックを辞退した昭和15年と言う年 1940年 私は中国青島の小学生でした。その年は日本は紀元2600年と言う事で、日本の建国の大きな節目として行事が進められました。
 青島でも花バスを仕立て、旗行列が市内を廻りました。そして小学校の校庭ではマスゲームでしょうか、全校生徒で奉祝の2600と言う文字を描いております。学校でも「金鵄輝く日本の~」と歌っていたものです。

       2600年人もじ

 この奉祝式典に合わせての邦人の姿を被占領下で暮らしていた中国人の方はどのような目で見ていたでしょうか。
 私はこの写真を見る度に当時の日本の姿に思いを馳せずにはいられません。




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収束も復興も未だし

 大飯原発の再稼働 そして3:11の進まぬ復興 政府の早い動き 
 私たちの命や生活を真剣に考えていて呉れる筈の国 どうもどうなって行くのか、全くお婆さんには分かりません。でも何故か怒りが溜まって来ます。
 この一週間ほどの朝食の写真を改めて見直しますと、なんと東関東大震災と福島原発に関わる内容が毎日のように報じられているのです。国も電力会社も知らぬとは言えませんでしょ。

      朝食7月21日  朝食7月22日

      朝食7月23日  朝食7月24日

      朝食7月25日  朝食7月26日

 これを見ますと事態の容易ならざることを考えて仕舞います。今日は日本各地で原発再稼働反対の行動が行われ、また29日の日曜日午後7時 首都圏反原発連合は脱原発国会大包囲をすると言っております。

 国の姿勢はどうでしょうか、ブロ友のお二人のある日の内容を読んで頂きたく紹介致します。
 一つ NANTEIさん 右の☆からどうぞ   
 もう一つ 彼岸花さん 同じく右の☆からどうぞ  
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水着いろいろ

 子どもの頃から海水浴は大好きで、特に小学生のころから女学生の頃は、シーズンになりますと毎日のように泳いでおりました。
 色が黒いのに、夏中太陽の陽を受け、真黒に焼けていますから、次のシーズンになっても前年の水着の跡がハッキリと分かりました。
 幼稚園の頃はよく覚えていませんが、安物の水着を着せて貰っていたと思います。
 小学校4年,5年と水泳協会の講習会に参加 水着は黒のワンピース型の木綿のものでした。
 千葉の田舎に帰りますと、水着を着て行きますと、どうも違和感があり、地元の子供と同じ様に、スリップや下着にパンツと言う姿で泳ぎました。
 このパンツって泳ぐのは難いのですね。水中に入りますと、パンツから空気がボコボコと出て来るのです。
 スカートで泳ぐ子どももいましたよ。スカートの裾を両手で持ち、岩から飛び降りる時に、水の上から被せるように広げて飛び降ります。チョッと浮くんですね。子どもなりにいろいろと冒険に近いことをするのです。
 女学校には水泳部があり、小学校の経験がありましたので、入りました。部活ですね。ここでは黒のランニングタイプの水着でした。
 学校とは別に私は父の妹から貰ったウールの背中の開いたブルーの水着。モダンで素敵でした。それを着て町の海に泳ぎに行っておりました。
 そこで前に書きましたように「あ~んだよ。海水着あんか着てよ。チャラチャラ泳いでば~りいね―でよ。おかずでもとんねえ~んかよ」とからかわれました。

 話は変りますが、青島の海岸では中国人の姿は見られませんでした。家のアマも一緒に泳ぎに行ったという記憶がありません。資料の写真を見ましたら、昔(写真の風景は1940年頃だと思います)は中国の堅気の女性は他人に肌を見せないと説明が書かれております。
 
         海に入らない

 確かに家のアマの肌は見たことはありませんね。入浴はどうしていたのか、関心がなかったのでしょう。どうしても思い出せません。

PS 体型が変り、中年以降になりますと、ワンピース型の水着は駄目になったのです。少々お笑ですが、肥満で背が低いので、普通のLの水着を着ますと、丈が合いません。お腹の辺りに布がダブついて、泳いでいても、そこに水が寄って来て、重く感じるのです。そこでやむを得ずセパレート型の水着にしました。上下が分かれていますから、お腹の回りに水が溜まりません。でもこれは勇気が要りましたね。
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チャイナドレスは素敵だ 71

 旗袍の襟元を見ますと如何にもゆとりが無く、夏は暑そうに見えます。
 このチャイナドレスの襟は年齢や着る人のタイプや好みで高さを変えることをします。
 先頃沖縄から集中で受講に見えて方は首が長く、またなで肩そして左右の肩の下がりに僅かな差がありました。
 そのために襟を高くし、なで肩に合わせて襟を作りました。
 暑い夏は生地は木綿や麻なども良いですね。
 先日お気に入りの一枚を持って来た生徒の旗袍は、浴衣地のメーカーが織った珍しい生地です。

        夏旗袍

 チャイナドレスは体にキチンと合わせて体のラインを全部見せると言うイメージが強いのですが、それでは体を動かすことが出来ません。
 適当なゆとりが必要です。体型に合わせてゆとりを入れます。
 チャイナドレスは縦の線でその着る人の特徴を見せているとも言えましょう。
 上から裾まで一枚の生地ですから、ウエストの所で重なりがありません。夏物は裏地を付けずに作りますと、軽くて決して暑くはありません。ゆとりで体との間を空気が流れます。

 私も夏でも旗袍を着ますが、そう暑さを感じることはありません。写真は77歳の時のですが、この旗袍は長袖ですが、裏なし、丈は短め、ズボンにもスカートにも合わせて着ることが出来ます。軽くて着心地も良く、とても気にいっております。

      旧型を着た77歳

 中国で旗袍をお求めになる時、シルクの物が多いと思います。もし夏でも着たいと思われましたら、ブラウス風の木綿の物をお買いになると楽しめると思います。

 旗袍への質問やお問い合わせ 
 必ずお名前、質問やお問い合わせの内容とメールアドレスを入れて鍵コメでお願い致します。内容が反社会的なものでしたらお答致しませんことをご承知下さい。
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海女の一日

 房総のと言いましても今は昔 白浜という半農半漁の町がありました。
 灯台と海女が有名ですが、昔海女を撮影に来る人はそう多くなく、そのような人への気分良く付き合っていた時代。私が知っている海女の姿には何とも言えない力強さを感じたものです。
 海女として海に潜ってはいても稲作をしている家も多く、海女の一日は労働時間は10時間以上ではないかと思います。
 早朝起きぬけに田の除草に行きます。今のように除草剤を播くのではありませんよ。手掻きで雑草を抜きます。
 また田に行かない日は町の北側にある山に出掛けます。萱山の間に山百合が見えます。
 EGUTIさんのブログで山百合に似たような百合が綺麗に掲載されていました。
 
       ユリ

 山に出かけた海女は百合を沢山採り、背負いこに括りつけて帰って来ます。その百合を小屋などに置き、それから弁当を持ち、浜に出掛けます。朝食をどうしていたのかは分かりません。お弁当は二食分だったのかも知れません。
 海女はそれぞれ自分のグループの海女小屋に着きますと、背中の背負いかごを降ろし、潜る準備をします。
 海女は潜るのは一日2回です。一おりと言うのが一回を現します。午前一回、午後一回 二おりです。
 一回の時間は結構長いのです。午前の潜りが終わりますと、小屋の中で焚火をし、体を温めながら、干物を焼いたり、収穫のサザエを焼いたりっして、昼食を摂ります。それからお喋りをしたり、チョッと横になったり、ゆっくりと体を良~く温めます。乳飲み子のいる海女の所にはお守の人が赤ちゃんを連れて来ます。
 そして午後の潜りに出掛けます。午後は大体3時頃には陸に上がってきます。
 その日の収穫は仲買いの浦受けに売りに行きます。それから帰宅します。それから百合の始末です。
 朝の百合は露も切れていますので、花を薄紙で丁寧に包みます。山百合は一年に花一輪が増えるそうです。ですが余り多く花が付いているのは売り物としては価値が無いそうです。花の処理が終わりますとそれを簾のこのようなもので纏めて束にし、農協の出荷所の所に持って行きます。夕方トラックで東京の花市場へと向かいます。
 それから夕食の支度です。人によっては花卉の移植を夕方の涼しい時にする方もいました。
 
 もう私なぞ遊びの司と言われましたよ。ですから海女の経済力は都会の人には知られていないものです。
 呉服屋で亭主と相談をしてから買うと言う人は殆んど無いと聞いております。

 多分これは今の町の海女の姿とは違うと思っています。働き者の海女になった同級生は今はどうして居るのでしょうか。
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自家製鮨シリーズ 第12回  と関心事

 昔は食器も時々買いに出掛けたり、時には合羽橋に流行り物を見に行ったりしておりました。
 食に関しては貪欲なのに、どうもセンスが無く食器に統一性もなく、その場で衝動買いで求めた物が溜まっております。
 先日長女に「お鮨の食器に何だか気配りが足りないね~。自分では毎回中身が違うからと思っているのかも知れないけれど、他人から見れば、殆んど変っているとは分からないんじゃない?良いお皿を買えば」と言われて仕舞いました。 
 食器が無いわけではありませんがね。確かにセンスが無いと思います。少しはお鮨に合う物を買い足して来ようと思っております。
 そんなわけで今回第12回も変り映えがしません。でも中身は違うんですよ。

     バチ・目鯛・鯵  キハダづけ

              〆鯵・カツオ

     カンパチ・〆鯵・スモークサーモン  バチとろ

 今日は整体治療を受けに行きました。昨年11月頃の酷さを思いますと、可なり良い方向へと行っているようです。
 2か月ほど前から足ツボマサージもして頂いております。下肢から足全体をマッサージと指圧。そして細かい刺激を足指の先まで、丁寧にして頂いております。
 最近夫が「痛い痛いと言うのが少なくなっているね」と言います。確かに寒い頃朝食の準備をする時、重くズーんと痛むのです。そして台所からお味噌汁を運ぶ時、物凄く痛み、新聞を手にしている夫に向かい「あ痛い、何だか痛い」と口に出します。口に出さないと痛さが伝わりません。言葉のデモです。
 それがいつの間にか出ていません。薄皮を剥がすと言う言葉が浮かんで来ます。希望が今までより出て来ております。

                足部反射図

 足には多くの内臓と関係のあるツボがあるんですよ。手にも指先にもツボが沢山あるんですよ。でも足は手より広くて治療がし易いのですと先生は仰います。壁に貼られている図を眺めますと、実に多くの臓器への関係が分かります。
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海・海水浴

 今日7月22日 暦の上で大暑 字を見ますと暑さが体全体を覆っているような気がします。
 この季節の挨拶 大暑の候で始まるのを良く目にしました。今は手紙も分かり易い文章が多く、候文は滅多に目にしません。中国語の同学の一人の方のメールは候文に近いものです。お互い高齢の所為か体を案じ合うことも多く、暑さも気をつけてと言葉を交わします。
 梅雨明け十日(とうか)の暑さかなと言われますが、この数日は涼しく、今日の我孫子の気温は最高で24度 最低で19度 夏休み最初の日曜日子ども達は海水浴に出掛けていることでしょう。
 福島のいわき市勿来海水浴場が福島県で唯一16日に海開きをしたそうです。いわき市には9か所の海水浴場があるそうですが、勿来だけで海水浴が出来ると言うのですから、今日も子ども達が集まっていることでしょう。福島の海水浴場がこの勿来しか開かれないと言うのは放射能の影響もあるのです。福島の子どもの多くが夏は他所に出掛けるようです。海を前にして他所に行かなければ泳げないとは悲しいことですね。

 中国青島は中国では珍しく砂浜が何か所もあります。夏は家族と出かけたのは忠の海という海岸です。今は第一海水浴場と呼ばれている海岸です。

        忠の海

 これは1940年頃の忠の海ではないかと思います。右上に見える建物は華北交通が経営していたと言う「東海飯店」です。当時青島の中でエレベータのあるビルはここだけだと聞いておりました。青島に戦後初めて行きました時、黄色に塗られていて驚きましたが、今は何色になっていましょうか。
 夏休み以外にも暑い日には泳ぎに行きました。
 中心部に見える監視塔もあり、ある時弟が突然見えなくなり、母が半狂乱状態になり、海岸を駆け巡り探しておりました。勿論私も大声で弟の名前を叫び駆けずり回り探しました。母が監視塔にいる弟を見つけた時母はどうして上に登ったのか記憶に無いと言い、その時の様子は何回も話しておりました。その母の喜んだ様子が今でも忘れられません。
 忠の海は遠浅の砂浜ですから、子どもにとってはとても安心な海岸です。
 ずらりと並ぶ小屋は殆んど社用の海の家で、父の勤める会社の小屋もありました。社員の家族はそこを利用します。大きな有料の海の家もありました。
 長時間海水に浸かっていますと、夏でも体が冷えますね。
 海岸には「飴湯」をうる屋台のような店があります。飴湯は関西方面の物でしょうか。私は青島で初めて口にしました。熱々の飴湯をフーフー吹きながら飲む。美味しかったですね。
 海岸では水際近くの水の中で、小さな小さな貝を見つけることも良くありました。ムール貝のような貝ですが1.5cm程の小さな黒い貝でした。
 砂浜では砂山を作り、その砂山に穴を掘ったり、らせん状の道を付けたりし、確りと固めた砂団子を上から滑らします。結構時間を掛けて作りますから、上げ潮になって来ますと、水が寄せて来ます。段々水が寄せて来て、最後は山は消えて無くなります。大抵その頃は夕方でしたね。その崩れて行く山を後ろにして帰ると言うのが私のパターンでした。
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義弟を悼む

 6年前 夫の弟は前立腺がんと分かりましたが、手術は無理だと。それはそれでと言う生活を送っていたようです。
 13日の夕方義弟の長男から義弟が重篤な事態になっているのでと、電話がありました。
 翌日約束の人が見えることになっていましたので、早めにお帰りになって欲しいと連絡しました。
 14日の午後夫と二人は病院に駆けつけました。
 体格の良い義弟はベットが小さく見えます。人工呼吸のマスクを装着され、力の限りと言うように息を吸っております。時々看護師の方が、口の中を綺麗にする為に見えます。
 顔も艶やかで、やつれてもおりません。熱もなく何でと言う感じでした。
 暫らく傍で過ごし、帰宅しました。
 翌15日の朝長男から亡くなったと電話が入りました。通夜葬儀のことについては決まり次第連絡をしますと言う言葉で、それを待ちました。
 義弟は墓地を用意してあったようですが、お寺が決めてなかったようです。親の菩提寺の宗派を聞いて来ました。待つことがこんない長く感じたことは最近はありませんでした。夫はセピア色になっているアルバムを出して来て、義弟が可愛かったと言いながら眺めておりました。義姉が既に亡くなっており、一人残った自分の心を自分で推しはかっていたことでしょう。
 18日通夜 19日葬儀告別式と決まり、私たちと娘たちは一緒に参列するために出掛けました。
 通夜には義弟の元の職場の方々も大勢お見えになって下さいました。

 通夜はお寺さんの読経が始まりましてから、直に焼香をするようになり、親族の焼香のあとお見えになった方々は焼香を済ませせますと、横の扉から斎場の人の案内で席から出て行きます。
 読経の後、遺族、親族にお寺さんの説法がありました。その間に参列者の方々は通夜ぶるまいをとり、それぞれお帰りになったと思います。
 説法の後、私たちも席を2階に移り、故人を忍びながら食事を済ませました。

 19日の告別式 猛烈な暑さです。車で行きましたが、渋滞もあり漸く時間の7、8分前に到着出来ました。
 葬儀告別式も済み、火葬場に移動、そこでお別れの焼香を済ませて、控室で待ちました。
 義弟の火葬が済むまでの間に昼食となりました。
 お酒の好きだった義弟の写真の前にもお料理と飲み物が供えられております。

         義弟にお供え

 夫と私は義姉の葬儀のことが印象に残っていますので、義弟の場合もそれに近いことになるのではと思っておりました。ところが義弟の娘の夫が義弟の勤めていた会社の社員で、忌引きの届をしたために、家族で送ると言う事は無理になったようです。
 義姉の時は受け付けも要りませんし、特別なことも感じませんでしたが、今回は違った印象を受けました。
 通夜も葬儀も全て葬儀を引きうける会社のセットされた式次第に従い進んで行くと言う事です。
 全てが整然ととり行われていますが、この流れに従わなくてはなりません。
 故人の遺志や家族の思いを現すには困難が多すぎると思いましたね。
 便利で助かりますが、画一された様式に従って行かなければなりません。
 
 通夜ぶるまいの席でお寺さんの傍に行きお聞きしました。読経の途中で参列者が次々に席を外して出て行くのをどう思われますかと。答えは「今は義理で来る方も増えているので、こういう流れになっているのですが、決して良いことは思えません。でも仕方がないですね」「故人に対してもお経に対しても失礼なことだと思うのですが」
 読経の最中で焼香の指示を出されたのはお寺さんでしたからでしょうか「それは私に対しての言葉ですか」「いいえ今の葬儀のありようで、何時も思っていることですので」「それは有難いことすから、思っていてお過ごしになって下さい」と。
 
 葬儀の際 弔辞を述べた方のことは今までになかった弔辞とその方の様子です。
 杖を持ち、前に進んで来た方は義弟の部下だったそうですが、年齢は75歳の義弟より上で80歳だそうです。
 弔辞は義弟に対して、体から絞り出すような力と親愛の情をこめて話されます。書いた物は手にしておりません。形式ばった弔辞とは比べようもなく、その義弟を慕う言葉に感動しました。
 この歳になりますと沢山の葬儀に参列しております。ですが義弟への弔辞は最高のものだったと感じました。
 火葬に付す時、この方が義弟に大きな声で別れの言葉を掛けておりました。喜びも悲しみも、そして楽しみも長~く一緒に過ごされたことでしょう。
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昔日の感一入

 1949年に明治大学和泉校舎に通い始めました。明大前の駅舎は木造の小さな駅でした。
 私は吉祥寺からの始発で座って行くこともよくありました。
 久我山駅の近くを流れる川では浴衣地をさらし流す風景も見られました。本当に未だ都会の喧騒とは関係ない風景が広がっていました。
 明大前駅から甲州街道を渡り、校門をくぐります。校舎は3階建て。暖房もありません。設備はあったのでしょうが使われておりませんでした。
 
           和泉校舎25年040

 暗い感じですね。でも張り切って入学した私には暗さなど全く気になりませんでした。夏までは女子学生用のトイレもありませんでした。
 そんな大学も今や様変わりしております。2007年3月所用があり、久し振りに和泉校舎に行きましたら、明るいキャンパスに変っております。その時にも大変驚きましたが、その数年後再度行きましたらイルミネーションの煌めく校庭にまた驚かされました。

     07年3月 056和泉  07年3月 058和泉

 先日我孫子に住まわれております、流通経済大学の生田先生とお喋りをしておりましたら、和泉校舎の新しい図書館のことに話が及びました。「ぜひご覧になりにお出掛けになさって下さい」と仰います。
 そこで新図書館を卒業生に見て欲しいと言う学生のブログを紹介して下さいました。それはから見ることが出来ます。
 新図書館が実に見事に紹介されております。卒業生の皆さま是非ご覧になって下さいませ。
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海女の実力

 昨日 千葉県南房総市白浜町では町最大のイベント海女祭りが開催されたそうです。
 今日も引き続き開催されると知りました。今回は48回目となるそうです。両親が亡くなり何十年も経ちますと、町の消息も聞こえて来ません。
 昨夜は千葉県夜の祭りでも大きな祭りとして大勢に方が白浜町の海女の大夜泳の見学に見えたそうです。
 NHKの放送によりますと1万人もの方が見えたと言っております。
 遊泳の場所は野島崎灯台のある場所の付け根のような位置にある湾だと思いますね。
 松明を手にした海女が大勢夜の海に入り、列をなして泳いでおります。海女の数は減るばかり。今年は都会の若い女性が7名もボランティアで参加したそうです。花火も打ち上げられ、立派な夏祭りとなっています。

     海女まつり1  海女祭り2

     海女まつり3  海女まつり4

 海女祭りが始まった初期の頃 それは考えると可笑しいのですが、未だシーズンには早い6月末辺りに開催しておりました。梅雨もあけない頃ですから、観光客は見えません。段々時期も内容も考えて変えて来たのでしょうね。
 今はこの季節を変り人々がやって来ます。

 以前にも書いた鮑を取った私 海女には全く縁がなく、若い時には海女にからかわれておりました。
 女学校の水泳部に入っていましたので、海は怖くありません。泳ぎも好きです。学校の休みには町の海岸に泳ぎに行きます。チョッとオシャレな海水着(スイムスーツ何て言いませんよ)です。
 海女は海女小屋と言う小屋に集まり、その中で焚火をし、昼食を取り、昼寝をします。私を見ますと時々言います。
 「あ~んだよ。チャラチャラ海水着を着ちゃってよ。おかずでもとらっしぇーよ」
 からかわれても小屋に行きますと、ウニやトコブシ等の焼いたのをご馳走して呉れます。当時の海女の姿は絵葉書ですがご覧ください。

              白浜の海女

 この海女の姿を見ますと、姿も出で立ちもベテランですね。海女が潜る時には顔の半分も隠れるような眼鏡、獲った鮑を入れるスカリという網、貝を剥がす磯っかねという鉄の棒です。そして曲げ樽。これは潜るまで海の中を眺めて泳ぎ廻る時にお腹に当てて、樽に乗っているように使います。眼鏡は顔に合わせて作る特注の物です。

 今は分かりませんが、海女になるのには昔は今の中学生位の年齢から始まります。若い女性は新米ですから、まず若い海女のいる海女小屋に入ります。ベテランはベテランで一緒の海女小屋でお喋りをし、情報交換をします。
 段々海女仕事に慣れて来ますと、収穫も増えて来ますね。ベテランともなれば昔は1日に10貫目も獲りました。40年ほど前ですが1日に5万円にもなったようです。漁協での発言力も強くなります。
 大海女と呼ばれる海女は40歳前後から50歳位でしょうか。この時期は経験も体力も、気力も充実しております。
 家での実力も備わって来ております。海女に旬があるとすれば人生の女盛りと合うような気がします。
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自家製鮨シリーズ 第11回  と関心事

 魚屋に行きますと「お母ちゃん 今日は何食べるの」と聞かれます。
 「お鮨よ」「どんな鮨かね」
 「美味しくて、安くて、綺麗でね」「じゃこれだな~」と決まって行きます。勿論他にも美味しそうな魚を買いますよ。私は煮魚が好きです。賄い人の特権ですね。どうしても煮魚に向く魚に手が行きます。

 自家製鮨の第11回は少し凝りました。

     天然カンパチ  ホッキ・トリ貝・ホタテ・バチ

              うなぎ棒鮨

     たいらぎ  メバル・バチ・〆真鯛

 棒ずしは鯖かアナゴで作って見たいと思っていましたが、鯖は夫が食べませんし、アナゴは私が多く食べたくなりそうで、チョッと考え中でした。
 そこにちゅんごさんのお母様が作られた鰻の棒ずしが紹介されました。もうこれだとちゅんごさんのアドバイスを参考に作って見ました。
 タイラギの貝殻は一枚開いて貰った時のをとって置いた物です。これは柱2個で握ったものです。〆鯛は一尾買いましたのを少し〆て使いました。と言う次第で相変わらず安く出来ました。鰻はチョッと奮発しましたがね。

 最近話題と言いますか、問題になっているのが大津市の中学生の自殺関連ニュースです。
 学校や教育委員会 そして大津市市警 それぞれの隠蔽体質が齎した結果ではないかと思っております。
 私は在職中 学生の悩みに付き合って来ました。
 精神的な問題を抱えて来談する学生も多く、中には早急に治療を要すると思われるケースもありました。
 守秘義務を学生に示し、学生が安心して相談に来られるよう、充分配慮して仕事をしておりました。
 治療をする必要があることを学生に伝えますね。勿論専門の精神科医師が判断します。
 それから本人に親に連絡をして良いかどうかの承諾を貰います。これもスムーズには行きませんが、本人が承諾して初めて親に連絡をして、来て貰います。 その時の親の動きですが、何回も経験して困ったことは、親が学校の管理職だとなかなか上手く行きません。理由や理屈をいろいろと並べ、やって来ません。
 その言葉の端々に面子の問題が見えるのです。我が子より自分の保身ですね。苦労しましたね。
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冷やし中華そば

 我が家の昼食の第一番はソーメン これは夏ばかりではなく、四季何時でも。そして次はソーメン以外の麺類と余り変化はありません。
 一番豪華と言いますか、品数の多いのが朝食。 これは多いと言うだけです。
 夜は魚中心で、それに煮物や酢の物など。和風バージョン。ステーキは滅多に食べません。
 昨夜夫が偶には牛も良いなと言います。で今夜にでも薄~く切った柔らかい牛の焼き肉でもしましょう。

 昨日の昼 久し振りに冷やし中華そばを作りました。
 麺は一階の店で買いました。
 茹で鶏はチョッと昼食会がありましたので、それにもって行った残り。茹で鶏は今回は中華風に八角を指の爪程の一片を加えました。
 先日また仕入れを間違った魚屋の小父さんから買った鱶ヒレがあり、それらを盛り合わせて盛り付けました。
 チョッとタレの味が濃いのが良くなかったですが、ま~ま~美味しく出来ました。

       冷やし中華

 先月10日に夫が救急車で取手まで搬送されましたが、その帰りは我孫子にタクシーで戻り鰻を食べる心算でした。
 ところが途中で私の気が変り、タクシーを取手駅に付けて貰いました。(ケチったのです)
 で何か食べましょとなりました。取手の駅ビルの中の中華屋さんを覗きますと、コックさんが全員中国人に見えます。でこれまた私の虫が動き、一言でも喋りたいと思い、その店に入りました。もっと店内を見回すべきでしたが、夫も疲れていると思い、ま~良いかと座りました。見まわしますと広い店内にお客は一組しかおりません。
 そこでまた悪いことに冷やし中華を頼みました。(夫がお腹が痛くて運ばれたのですよ)
 その冷やし中華の不味いこと。驚きました。ほんの数口食べて終わりにしました。
 全員中国人ですから、日本人の口に合う味つけでなかったのでしょうかね。夫も直ぐに箸を置きました。
 ビックリした所為か、急に私はお腹を壊し、一気に体重が2kも落ちて仕舞いました。
 ビックリ中華でした。
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紫陽花の君

 1944年(昭和19年)4月 私は千葉県立安房高等女学校に入学しました。
 良妻賢母が女性の生きる道のような教えが普通の時代です。中国青島で自由な学校生活を経験した私にとっては厳しい日々が待っていました。
 入学前から町の上級生が流した情報で、私は入学後から上級生の虐めに会う破目になりました。
 理由は見当も付きませんが「生意気」とことあるごとにその言葉が耳に聞こえて来ます。
 多分帰国した時からその兆候はあったと思うのです。
 先ず着ている物が違う。靴を履いている。言葉使いが駄目。親がいない。支那人に近い。
 子どもは堪りませんよ。でもそのような虐めに私はへこたれませんでした。そしてそれが上級生に伝わっていたのかも知れません。教師も何故か私に意地悪な言葉を吐きます。おかしな時代ですね

 それでも同級生は誰もかれも親切です。そして今も連絡し合いお互いの身を案じあっております。

 女学校の生活は忙しいんです。校舎の掃除も確りとします。小学校と違い科目によっては教室が変ります。
 昨年NHK千葉放送で話をしました時「お割烹」という授業があったと話しましたら、友人から直ぐ電話があり「懐かしかったわ。お割烹ってね」と言います。
 この女学校は創立100年を迎えた後、安房高校と合併しました。そのことで妹3人、弟1人そして私と全員同じ高校の卒業生となりました。多分区分けはあるんでしょうがね。

 授業のことに話を戻しますが、小学校と違う化学や物理を一緒にしたような科目がありました。
 その先生の名前は「有本進作」と言います。生徒の噂では有本邦太郎(国立栄養研究所長を務めた栄養学の有名な先生)先生のご長男だと言われておりました。

       紫陽花1

 紫陽花の花を沢山紹介しておりますEGUTI YOUSUKEさんのブログを拝見していましたら、有本先生のことを思い出しました。
 有本先生は当時新婚間もなくだったような感じでした。オシャレで毎日ネクタイを変えて来ます。当時の先生方はネクタイは数本位しかもっていなかったと思いますね。
 
 有本先生 その年の冬のある日 赤ちゃんを背にし、ワタ入れのねんねこ袢纏を着て教室に現れました。どうでしょう。
 今でしたら許されるでしょうか。当時でも許された行動でしたのでしょうか。とても強い印象を抱いております。
 
 その有本先生の渾名「紫陽花の君」です。ネクタイを毎日変えて来ることに由来しております。何だか良いでしょ。紫陽花の君が赤ちゃんをおぶい、綿入れのねんねこ袢纏を着た姿。覚えていないはずのねんねこの模様まで目に浮かんで来ます。
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青島の思い出‥ 1

 拙ブログで時々紹介しております中国青島 私はその地に数年住みましたが、その数年のことが大きく私の人生に影響を与えていたことと強く感じております。
 小学校2年生の夏 日本の田舎から青島に行きました。それは大きなカルチャーショックを私に与えました。
 当時の日本人の中国への印象は貧しい国で、人々の生活は日本と比べてレベルの低いものだという見方が強かったのでしょう。その国へ行く私に教師は可哀そうがっておりました。
 ところが青島はヨーロッパではないかと思うほど美しく、近代的な姿の街でした。
 青島の生活になれて暫らく経ち今度は小学校5年生の秋 日本に帰国しました。これが二度目のカルチャーショックとなったのです。
 帰国した日本は子ども心にも何処か狭く遅れた田舎の姿に見えました。

 その青島の小学校で学んだ仲間の会は「青島羊会」という名のもとで長く交流を続けております。
 多くの仲間が既に鬼籍にあり、また年ごとに昔を知る仲間も減って来ております。共通の話題は懇親会を盛り上げますが、それも参加者が少なくなり、徐々に会員の消息も途絶え勝になって来ております。

 数年前から青島の古い資料を保存しようと言う動きが起き、私たちも出来るだけ協力をしようと資料を集めました。
 青島で資料を集めを進めていた足立吉弘さんが6月12日に心筋梗塞でお亡くなりになりました。

             足立さん2010年4月

 彼は「青島満帆」というブログで青島を多角的に紹介し続けておりました。

 私たち羊会の会員から送られて来た写真や記録などは、一昨年にほぼ整理が済み、その資料を青島に送りました。複数ある実物は出来るだけ分散し、写真等はCDに取り込み、私のPCと羊会の世話人、そして玉川大学にも保管という手を使い、資料が長く無事に保存されることを願っております。
 青島に送った資料の扱いについては、大変気になっております。昨年暮れに帰国した足立さんにお会いして、具体的にどう処置されているのかをお聞きしたかったのですが、適わぬ内にお亡くなりになったのです。
 で私の手元に保存してある、写真を時間を見て、少しづつ紹介して置こうと思っております。

     一小運動会  一小校長官舎

 彼と私は家も近くにあったのを知ったのは数年前でした。私は青島に行く度に彼と会い、連絡を密にしておりました。二人は青島第一日本小学校での同級生です。学校の規模は大きく、今見ても感激して仕舞います。
 広いグランドは400mのコースを持ち、スタンドには多くの人も集まれる規模の物です。
 右の写真の校長官舎で中村八大さんは育ちました。
 
 今回は第一小学校の姿を紹介致しました。徐々に掲載したいと思いますので、青島に所縁のある方々は時々覗いて下さいね。
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自家製鮨シリーズ 第10回  と関心事

 鮨シリーズを重ねて10回を迎えました。日本のお米は美味しいですね。
 私が中国青島で食べていたご飯は、当時朝鮮米と言われておりました。多分旧朝鮮から送られて来ていたお米だったのでしょう。親たちの話す言葉で美味しいと言うのが耳に届いておりました。
 日本人小学校に持ってゆくお弁当は何時もご飯でしたが、学校では毎日玄関の近くの部屋にパン屋が来てパンを買うことも出来ました。パンを食べたくても親がお弁当を持たせるので、とうとうパンを学校で買ったことはありませんでした。その場所では毎月運動靴も売られておりました。
 お鮨は滅多には食べることはなく、外食と言えば家族で支那料理屋(中華料理店)に行き、テーブルを囲み食べた記憶しかありません。その時に母は小さなお鉢にご飯を入れてもって行きました。
 コカコーラはあの瓶で売られておりましたが、とうとう飲ませて貰えませんでした。
 そんな事など時々思い出します。
 
 第10回の鮨 5回分を並べて見ます。

     いさき・〆あじ  ばち漬け

              蟹の押しずし

     バチ炙り  またい・バチ・おまけのカンパチ

 毎週月曜日午後10時からのBS日テレでのフォレスタというグループの歌う歌を楽しみに見ます。
 関心事の一つです。時代を感じ、時には出ない声を絞るように出して、二人声を合わせて歌ったりします。
 昨夜は久し振りに「蘇州夜曲」を聞くことが出来ました。

     蘇州夜曲1  蘇州夜曲2

 関心事と言いますのは、このドレスです。時々と言いますか、本当にたま~に見ることが出来ます。
 この蘇州夜曲にはいろいろな方が解説や紹介をしております。 
 その一つはこれ  もう一つはこれ 未だ未だ沢山ありますよ。良い曲です。
 この曲のすぐ次に歌われたのは別れのブルースです。

              別れのブルース

 この曲は青島の街でも良~く耳にしておりました。日本人の芸能人として知った名前は淡谷のり子さんが最初だったと思います。そして他には風の又三郎で主演した片山明彦ですね。映画の中で歌われた風の音を現すどどど どどど どどどど~と言うメロディーは男の子が廊下を歩きながら大きな声で歌っていました。がき大将は今もその気分を引きづっていますね。
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隠元の餃子

 数年前中国青島のリカさん宅でお世話になりました。お手伝いさんはアーイと呼ばれていました。昔は既婚の女性のお手伝いはアマと呼ばれていましたが、北京ではアーイと呼ばれていたようです。日本で言えば小母さんというのと同じでしょう。
 このリカさん宅のアーイですが、誠実清潔な仕事ぶりで感心して見ておりました。リカさんと私の帰りが遅くなった日、アーイはリカさんの二人のお子さんを自宅に連れて行き、お迎えを待っておりました。
 下のお嬢さんは帰りたくない、泊まって行くと、駄々を捏ねましたが、最後は車に乗りました。それほど気持ちが通じていたのです。
 このところ用がありまして、何回かメールのやり取りがありました。
 リカさん宅でアーイの作って呉れた隠元の餃子が大変美味しく、作り方を知りたいと思っておりました。
 先日書の先生から隠元の餃子を頂きました。隠元豆は初夏から秋口までが美味しいですね。

     隠元餃子  隠元餃子中身

 餃子は昼食に頂きました。大皿一杯ですので、食べ切れるかどうかと言っておりましたが、すいすいお腹に入って行き、珍しく沢山食べることが出来ました。
 後日先生に作り方を教えて頂きました。
 
 隠元は蒸します。茹でてはいけません。豆をそのまま切らずに良~く蒸してから冷まします。
 それを細かく切り、豚ひき肉などと合わせ葱や生姜の微塵切りなどと調味料を入れます。

 分かりました。隠元は良~く蒸して冷ます。そして具を作り皮で包み茹でると言う手順です。

 今回とても勉強になったこと それは餃子をお皿に載せる時の順序です。
 先ず茹でますね。そして茹だりました。
 お皿を用意し、茹でた餃子をそのお皿に取ります。 
 次に別のお皿に素早く並べます。そして食卓に出します。

 この上げ方の意味は 餃子を茹でますと、皮に水分が付いています。それで最初のお皿に載せることで水分を切って、食卓に出すお皿に載せるのが美味しく食べられると仰るのです。初めて知りました。
 確かに茹でてお皿に載せた餃子の下に水分が溜まりましたね。先生から届く餃子にはそれが無いのです。
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原発は人災

 一昨日(7月5日)国会事故調査委員会の福島原発についての最終調査報告書が衆参両議長に提出されました。
 調査報告書の提出を受け、その内容については国会議員に託されたことになります。
 ニュースで知る限りですが、福島第一原発の事故は政府、東電双方にその責任があると言い、それは人災だと断定しております。

    国会事故調1  国会事故調2

             朝食7月6日

 この報告書はどうしてもっと早くに提出されなかったのでしょう。報告書は「東電・国、安全策を先送りにした」と断じていると記し、事故は未だ終わってはいないとも書かれていると報じられました。
 と言う事は安全対策は必須の条件ではありませんかね。大飯原発は先送りで再稼働をしましたね。全く分かりません。国・政府はこの報告書が発表されなくても、また発表されても、再稼働をしたのでしょうかね。

    朝食4月14日  朝食6月10日                           
    
  事故調では福島の事故は未だ終わっていないと言うのにですよ。おかしいと思わずにはいられません。
 委員を務めた方で福島で被害に遭われた方は「
訴え続ける」と話しております。
 昨夕は総理官邸周辺で「大飯原発再稼働反対」のデモがありました。 
 ニュースなども紹介しておりますが、政府は全く聞く耳を持たないようですね。総理は前回よりは感想を少し気を使った風ですが、内心はどうでしょうか。
 
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自家製鮨シリーズ 第9回  と関心事

 段々握りも小さく出来るようになって来ました。 
 夕方に何か用事が詰まっている時には、お鮨は良いですね。とに角これで一品になりますし、酒肴にもなります。唯夫はニセビールを飲みますから、酒肴とは言えないでしょうね。本人は晩酌の心算ですから、その様に話も弾みます。年齢が近いと言う事では殆んど通じます。スポーツは私は聞き役。毎度トンチンカンな質問をしています。
 魚も夏の物が並んでいます。毎日魚屋のケースの前に立ちますと、どれもこれも欲しくなります。
 煮たり焼いたりしたい魚も目に付きます。その中でジッと眺めて値ごろな物を買い、夕食の鮨にします。
 第9回はこんな物です。

     バチ・湯びき真タイ  鰹生

              いさき・タコ頭

     天然カンパチ・生シラス  〆さば

 夕食は朝の煮物の残り物や冷蔵庫の中を覗き、ゴミに出さないようにと僅かな物でも出して食べます。
 最近は食べる量が少なくなって来ています。腹8分目と言いますが6分目かも知れませんね。ですが自己満足して楽しんでいます。

 書の先生の所に伺いますと、TVは中国のドラマや料理の紹介など、中国語の放映です。中国や台湾に行きますとTVには必ず字幕が流れています。先生宅のも字幕が流れています。もうこの中国語のチャンネルが欲しくてね。
 とうとう一昨日設置して貰う事が出来ました。

     CCTV大富1  CCTV大富2

 設置に見えた方は60歳?位に見えました。設置が済み初期設定も済み、申し込み書の説明もテキパキです。
 「さ~やって見て下さい。大丈夫ですか?もう一回練習をして見て下さい。大丈夫ですか」ととても優しく繰り返します。彼が帰ったあと「私たち凄く年寄りに見えたのね」「そうだよ歩き方や何だか様子で分かったんだよ。確かに世間から見れば老人だものな」と半ばおかしいと思いながらも自覚させられました。
 で早速見ることにしました。ニュースは日本語も流れています。
 「おかしいわ。先生の家では日本語は聞かれないけれど」
 工事は午前中早々と済みました。で昼食に出掛け帰宅してから、見ましたら、完全に中国語だけです。時代は清末あたりのドラマです。ほんの少し読めますが、字幕の流れが速いのです。これは分からなくても見ることで少しでも勉強になるだろうと、老化をチョッと遅らすことが出来るかもと、眺めています。
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鰻は蒲焼きが好き

 歳の所為か最近は霜降りのステーキなどには目が向きません。
 殆んど毎日魚と野菜、それに豆腐などの組み合わせの食事となっております。肉は少々ですね。誰かがご馳走して下さると言いましたら、ステーキよりは鰻ですね。唯鰻も高いので気易くご馳走になるには憚ります。
 と言う事で鰻は夫に奢って貰います。昨日は長女夫妻と4人で出掛けました。車は娘がいませんと動きません。夫は高齢者の事故を考え、ハンドルに触れないようにしております。瞬時への対応に自信が無いと言います。
 予定していた店が休みと言うことで、初めての店ですが我孫子の天王台駅近くの「小倉や(こぐれや)」に行きました。午後1時でしたが空いています。娘の話で頼んでから時間が掛かると言っておりましたので、ゆっくりお喋りをしながら待ちました。
 私の都合と言いますか、所用と言いますか、私に合わせて鰻を食べることが多いですね。
 最近では柏にある赤坂の富貴貫の出店に2回行きました。昼時は混んでいますね。

     小暮や鰻  富貴貫ひつまぶし

 富貴貫にひつまぶしがあります。欲張って二度に食べられるという言葉に釣られて食べました。
 簡単に結論を言いますと、鰻は蒲焼きが美味しいです。ただ蒲焼きを食べるよりは蒲焼きのうな重が好きです。
 白焼も魅力はありません。
 昨夜偶然「ガイアの夜明け」で夏の味覚 争奪戦 ~安くておいしいウナギはどこに?~というテーマ
 ガイアの夜明けは良く見ますが、今を知ると言う意味でとても勉強になります。
 案内人は江口洋介 ナレーターは蟹江敬三 

 昨日知りましたが、世界の鰻を日本人が一番多く食べていると言うことですが、特に夏の土用の丑の日の鰻を調達する争奪戦は世界を股にかけずり回る人々の活躍に支えられいるのですね。
 鰻を求め、アメリカに飛んだり、遠くマダカスカルまで出掛けたりして調達しているのです。

 千葉県館山市に鰻の老舗があります。縁がありますので、食べたいな~と良く思うのです。身贔屓と言いますか、ここの鰻は美味しいですよ。名前は新松と言います。この店では毎日その日の鰻の産地が店頭入口に出されています。

              新松うな重

 このうな重は鰻がご飯の真ん中にもあり、鰻が二段になっているのです。ブログでお世話になっているマムチさんもお好きな店です。
 序でにこれまた身贔屓で浅草のストロバヤを紹介させて頂きます。両店とも親戚です。ぜひご利用下さいますよう、お願い申し上げます。
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名人・難聴・鰻

 このところ毎日気に掛かることが沢山あります。世の中の方はどうなんでしょうね。
 国って政府?何だか訳が分かりません。何時の間にやらいろいろと変って来ております。
 どうなっているのかと、脳足りんすの私はキョロキョロし、あれやこれやと眺めます。
 新聞はざーと目を通します。それから
 
 東京新聞社説・コラム(TOKYO Web)
 社説・コラム YOMIURI ONLINE(読売新聞)
 ニュース 速報 YOMIURI (読売新聞)
 新聞社説一覧
 
 等々覗きます。昨日の東京新聞コラム・洗筆は何だか気になり、読みました。
 八代目桂文楽師匠が難聴になってから、対話にどうしたか。難聴の私には参考になりました。
 その話にうなぎが出ています。鰻ね。明日は夫がご馳走して呉れると言うのです。即ち今日の昼です。
 これからご馳走になります。

 その洗筆は下記の通りです。『』の中に転記させて頂きます。

『名人と呼ばれた落語家の八代目桂文楽師匠が晩年、評論家の矢野誠一さんと鰻(うなぎ)屋で杯を傾けていた時の話だ。「近頃、耳が遠くなりまして」と文楽師匠がぽつりとつぶやいた後、こう言った、と矢野さんが自著『落語商売往来』に書いている▼「きこえなくても、きこえたふりしてしゃべってますとね、どうしても返事をしなきゃならないときがある。そんなときは『近頃はたいていそうだよ』と、いってやるんです。ほとんどこれで用が足ります」▼矢野さんは「すごい老人の知恵だと思う」と感心している。ただ、ともすると、この言葉は現状追認になってしまいがちだ▼総選挙での約束は果たさず、やらないと言った増税に血道を上げる野田首相。原発事故の原因も未解明なのに、安全対策を先延ばしにしてまで再稼働を急ぐ政府と関西電力。「近頃はたいていそうだよ」とは、言いたくない▼全国各地の抗議活動を無視し、関電はきのう、大飯原発3号機の原子炉を起動させた。八木誠社長は株主総会で「原発は重要な電源。脱原発は全く(考えに)ない」と言い切り、なし崩し的な再稼働への意欲を隠していない▼未来のエネルギー政策は、経済界だけではなく、国民の声に耳を傾けて決めなければならない。声を聴いたドイツとイタリア政府が選んだのは「脱原発」の道。文楽師匠の決めぜりふはここで使いたい。』

    朝食7月2日  朝食7月3日

 マスコミの様子も変ってきておりますね。お婆さんといえどもない知恵を叩いて働かせなければなりません。
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鮑ってね~思いが一杯

 「磯の鮑の片思」なんて昔は良く耳にしましたよ。片思いとは相手は知らないが自分だけが思いを寄せていると言うことでしょうね。
 若い時にはいろいろとありますよね。私の磯の鮑は本物の鮑に付いての思い出です。

 今は鮑が解禁されている筈です。いつも優しいコメントを入れて下さるちゅんごさんの住む徳島では鮑漁が蓋開けし、始まったようです。その画像 実に迫力があります。お借りしました。

     アワビ1  黒アワビ

 の旬は夏 季節ものではありますが、そう食べたいからと簡単には食べることが出来ません。ヤフーの画像を見ましたら82,024件もあると出ています。最初のページと少し先まで眺めましたが、鮑って人気があるんですね。
 でも自分で捕まえて食べると言うのは都会に住んでいますと適わぬ望みになって仕舞うのが普通だと思います。

 私は中国青島で水泳教室に入っていましたから、泳ぎは当時の子どもとしてはキチンと出来ていたと思います。
 ところが帰国しますと町の子どもは天草取りも、磯遊びも得意です。情けないことですが、仕方なく見よう見まねで同世代の子どもと浜に行きます。小さな貝(石畳)偶にチョと大きな貝を取ります。
 ある時泳いでいましたら岩に貼り付いている鮑を見つけました。何だか岩から少し浮き上がている風に見えます。ぐ~と下に潜り素手で掴みました。なんと簡単に捕まえられました。大きさは手の平で持てる程です。
 もう嬉しくて、嬉しくて。意気揚々と家に帰りました。それからです。
 「その鮑はお腹を壊していたんだ」「きっと居眠りをしていたんだ」と大人が言います。
 もうもうとはこういうことです。悔しくてね。どうしたかと言いますと、焼いて一人で全部食べたのです。子どもですね。その後また鮑を獲りました。家族は前の私の怒りように気が付いたのですね。今度は褒めて呉れましたよ。

 鮑の話しですが、千葉県の南部は鮑漁が盛んです。白浜の鮑の漁獲高は昨年は21㌧392㌔だったそうです。その主役は海女と海人です。私が住んだ白浜というところは毎年6月末辺りに海女祭りが催されます。夜 野島崎灯台の傍の湾で松明を片手に掲げた海女が泳ぎ、観光客の喝采を受けます。
 海女になる女性が少なくなっているとは前々から聞いております。海女は春は天草を採り、夏場は鮑に精を出します。私の若いころ知り合いの海女は当時すでに大海女(おおあま)と言われるベテランでした。今はどういう方が海女となっているのでしょうか。
 海女はシーズン中一日に2回潜りました。午前に一回潜り、昼食と午睡をし、また一回潜ります。
 海女小屋の焚火で焼いたウニやサザエそしてカニなどを頂戴することもありました。掘立小屋の様だった海女小屋も今は確りとした物へと変っております。
 夕方 鮑は海女から仲買いの人が買い取り、漁協で出荷したと思います。今の方法はどうなっているのでしょう。
 夕方その仲買いの男性が鮑を量り買い取る時、傷貝を買いに行きました。出荷できませんから安く買えます。

 鮑の食べ方が一番好きなのは若い時は刺身でした。それと殻付きで焼いた物、今は蒸した柔らかいものです。
 肝は大好きですが、もう20年位は食べていません。

 母の鮑 夏は蒸しアワビを作り、ソーメンの上にそのアワビを切って載せ、椎茸の甘く煮たものを一緒に載せます。そしてその上にある物を彩りよく載せて汁を掛けます。この美味しいこと、忘れ難い味です。美味しい良いアワビで一度作って見たい一品です。

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プロフィール

相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日86歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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