2016-11

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里芋の煮ものと蕎麦のこと

 秋も深まり、里芋も良い物が出て来ております。
 里芋も色々なお料理があるでしょうが、私は専ら煮物です。

    里芋・人参・牛蒡・隠元  里芋・人参・昆布煮

 仲良しの友人が自分で煮たいのだけれど、下手だから煮ないと言うのですね。
 ですから煮た時に小分けして置き、他の物と一緒に送って上げます。
 味など関係なく押しつけですよね。
 それでもとても喜んで呉れます。
 年齢も同じですから、煮た物が好きだと言うことも似た者同士なんでしょうね。

 今日は蕎麦の日だと出ていました。月の終わりの日が蕎麦の日になっているのですね。
 業界の~~日ですね。
 田舎の町では昔蕎麦屋はなく、蕎麦を食べる機会は皆無でした。ラーメンは良く食べましたがね。
 上京してからも蕎麦を食べることは余りなく、偶に食べても美味しさを感じるよりも蕎麦独特の香りが気になり、飲み込むとき気になって仕方がなかったですね。
 それが学生と一緒に上高地に行った時、泊まった白骨温泉で食べた蕎麦で開眼したのです。
 美味しいな~と感動したのです。こんなに美味しい物なんだってね。
 それ以来蕎麦の香りもまた良い香りになって来ました。今では数日置き位に自宅でも食べております。

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駿河台に行く

 今日はお天気が良く、暖かいのに北風は強く、オーバーを羽織り出かけました。
 我孫子は千代田線の始発駅ですから、座って行くことが出来ます。

 木谷先生とお会いする時間に合わせ、先に学生相談室と史料センターを訪問しました。

 新お茶の水駅に11時半に到着。相談室には12時半に伺うと連絡してあり、その前に昼食を摂ってと思っていたのです。
 ところが驚きました。駅周辺の食事所は行列ばかり、ラーメン屋が多く、老人にも良いような店が見当たりません。

 ぐるぐる回って見ましたがダメです。ミロの看板を見て前まで行ってみましたが、スパゲッティーはどうも。 
 そこでまたぐるぐる回りましたが、時間になったので食事は諦めて相談室に伺いました。相談室でお茶を頂き一息つきました。

            相談室

 相談室では事務長の和田さんとインテーカーの方と昔の相談室のことや現在の相談室のことを話題にし、2時に失礼しそれから資料センターに伺いました。
 史料センターには以前は良く伺っておりましたが、久しぶりに村松さんにお会いしました。
 私の欲しい資料のこと等を話し、また古い和泉校舎のこと等を説明しました。

 相談室の和田さんは資料室に、資料室の村松さんは木谷先生との待ち合わせの場所へと送ってくださいました。
  恐縮しました。
 木谷先生とは昔話のあれこれを思い出し、また古い写真を見ながら懐かしみました。
 木谷先生は新御茶ノ水駅まで送って下さり、これまた恐縮し、帰宅しました。

 ミロと歩き回って見つけた居酒屋徳兵の看板 懐かしいです。

    ミロ  徳兵

 お茶の水駅から駿河台下へと向かう道筋 左側は楽器店が犇めいております。
 日大病院が出来ておりました。
 変われば変わるものです。それでも私はそう驚きませんが、長く訪問していないかたは驚くことでしょう。
 
 めいじろうのカレンダーを頂きましたので、目の前に置いて夕食を摂りました。

            カレンダー

 可愛いカレンダーです。無風流だった昔の明大と大違いです。

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私的明大昔話 15

 昭和28年2月16日 大学初出勤です。
 保証人は理事にお願いし、誓約書は出しましたが、辞令は頂きませんでした。
 ですから自分は課内でどういう立場か分かりませんでした。
 ですがまず窓口ですね。
 定期券購入の証明書や学生割引証明書の発行です。当時二部の学生は勤労学生が多く、定期券は一カ月ずつ買う人が圧倒的でした。それですから窓口は何時も込み合っておりました。
 
 会計課では学費の納入は現金ですから、そちらも込んでおりました。

 二部学生課は27年の秋に開設されたばかりの課で、課長以下私を含めて7名です。
 女性は一人。課長は柔道六段。柔道部のOBです。週末は栃木に帰り普段は校内に住んでおりました。
 父親と同世代ですが、役人から転身して来た方です。
 女性に理解?私に理解? 色々な仕事をさせて下さいました。

 窓口の仕事は新人が入って来ましたので、ほぼ1年で終わり、次は学生の教室借用の手続も担当することになりました。クラブや研究会の学生は借用願いを持ち、手続きに来ます。
 私は二部教務課で空きを確認し、管財課や必要な部署を回り、それぞれの印鑑を貰い、集会許可証を学生に渡します。 
 そう言うことで多くの学生たちと知合いになりました。

 2月末は雪が良く降りました。建設中の大学院校舎はネットの覆われ、雪で真っ白な姿を見せたことが何回もありました。

 校内には暖房はまだ通らず、事務所の暖は炭火です。地下で用意されている火種を貰って来ます。炭継ぎも仕事のようなものです。

        雪の校舎

 新学年までの間の一カ月半 緊張続きでした。3月の給与は7300円。現金です。給与が振り込みになるまで随分間がありました。

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チャイナドレスは素敵だ 120

 最近 生地屋が少なくなっていますし、少なくなったばかりではなく、商品も少なくなっています。
 生地もですが、色々な細かな物も探すのに困って仕舞います。
 特に私は出かけることが中々出来ませんので、時には生徒さんに頼み買って来て頂いたり、また手持ちの物を大事に使っております。
 
 昨日は日暮里で買ったと言う生地のチャイナドレスを裁断、仮縫いまで済ませて来た生徒さん。
 話によりますと、日暮里でも変化があるようです。トマトがあちこちに出ているようです。

        河合さん仮縫い

 仮縫いは殆ど補正はなく、バストの位置で幅を前後とも1㎝小さくし、袖ぐりを僅か直しまして終わり。
 30分ほどで済みましたから、残り時間はコサージ作りをしました。

        河合さんコサージ

 今回も自宅の庭から材料を持って来ました。季節柄枯れたような花や葉です。
 左はユーカリの葉 紫蘇の穂 などですね。 右は紫陽花の花 ヒイラギですね。 
 ヒイラギの葉の先端は尖っていますから、丁寧に先を切り落とします。
 黒いセーターを着て来ましたが、胸に当てて見ましたらとても素敵でした。

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私的明大昔話 14

 昭和28年卒業の学生は旧制最後と新制最初の者が一緒ですから就職は大変でした。
 出て行く人は私の推定では明治では7,8千人がいたでしょう。
 クラスでも皆さん中々決まらず、と言うか求人が少ないのです。朝鮮特需も終わっておりましたから景気も悪くなっていたのでしょう。
 私もですが、女子学生は苦戦しておりました。

 正月が過ぎ、寮に戻って来ましたら、大学から呼び出しがありました。連絡をして下さった方の所に伺いますと、2階の人事の方の所に連れて行かれました。
 「履歴書が出ているけれど、本人の意向が分からない。希望があるのかね」と聞かれました。一瞬訳が分からず、何だろうと考え気がついたのです。「ハイ あります」と答えました。そしてその日に決定。今ある私の出発点です。
 次の日から出て来なさいと言われましたが、卒業試験もありますから、試験終了後からとお願いして帰って来ました。
  
 前年の夏、田舎で明大の学生の懇親会があり、出席しました。その席にお見えになった田舎の中学出身の大学の理事の方が私に「君は卒業したらどうするのかい」と。「勤める心算です」と答えたのです。「そうかいそれじゃ履歴書を送って置きたまえ」と仰るので送ってありました。
 それを私はすっかり忘れていたのです。それにその方がそう偉いとは思っていなかったのです。
 その履歴書が大学に提出されていたのです。後日知ったのですが、当時専務理事と言い、今の理事長なんですね。
 あの時に出ていなかったならば今の私はなかったのです。懇親会の僅か数時間が私の道を開いたのです。

 卒業試験も終わり、クラスの中で就職の決まった人は半分もいませんでした。仕方なく大学院に進んだ者も何人もおりました。

 卒業試験が終わってクラス毎に記念館の前で写真を撮りました。アルバムはなかったですね。

           卒業記念写真

 私は2月16日から二部学生課に勤務。早速に仕事が始まりました。クラスの方とは殆ど顔を合わせることがなくなり、卒業式を迎えました。 
 卒業式の記念館講堂は超満員。私は入り口からやっと入って首を伸ばして様子を眺めるだけでした。
 式の最後に歌った校歌 これで学生として歌う校歌は最後だなっていささか感傷的になりましたね。

   昭和28年頃記念館  記念館内部

           写真は明治大学史資料センターから
 
 卒業証書は学部ごとに教室で受け取り、それでお終いとなり、皆さんと別れの言葉を交わすこともなく、大学生活が終わりました。
 今の卒業式などを見ますと、雲泥の差ですね。セレモニーなんて縁のない時代でしたね。
 最近の卒業式の校歌や卒業式の様子をお聞きください。

 この日は冷たい雨が降っておりました。クラスの誰とも言葉を交わさず握手もせずに別れましたが、私は就職が出来て感謝をしておりました。

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昨日今日

 昨日は余りに寒く、大腿部が痛みます。ズボンも冬物にしたのですがね。
 ま~仕方がないかですよ。
 一階のスーパーで雪にも関係なく濡れずに買い物が出来るのですが、それも億劫です。
 朝食は普通に済ませましたが、昼食は冷凍野菜と冷凍エビを使い餡かけラーメンにしました。

       餡かけ冷凍ラーメン

 ま~ま~美味しかったのですが、お肉は入っていませんから、何となく物足りない気分です。夕食は残り物でお終い。
 
 午前の中國書法は老師の風邪気味と言う連絡でお休み。
 この際だからと、ゆっくり調べものに取り掛かりました。そこで思い出したのがタイマーを傍に置いて30分置きに立ち上がることです。セットをして置き、繰り返すだけです。

       タニタタイマー

 これは先ごろNHKのためしてガッテンと言う番組で見たのですよ。
 これは良いな~と実行です。今も傍に置いています。

 今日は憂国忌と言われている日です。三島由紀夫が割腹した日です。 
 ウィキペディアでこのことを読みましたら、初回追悼会の発起人の一人に武田繁太郎さんの名前が見えて驚きました。
 何回もお会いし、長話もしましたのに、全く少しも口にされなかったのですよ。

 盾の会の制服に係わったのは、友人の西部博之さんです。時々盾の会制服と言うのでブログを覗きに見える方がおります。
 それはこれです。

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私的明大昔話 13

 4年生になるとゼミのテキストは「文化論」と言うのになりました。文章は矢鱈複合名詞が多く、それを訳すのに私はとても時間が掛かるのです。
 ゼミ員5人は授業の前に集まり、読み合わせをし、発表は誰がどこを担当するかを決めます。
 私は何時も一番先にと言い張りました。訳すのが間に合わずに後半が出来ていないことがありましたからね。
 先生はお見通しだったと思います。
 5人ですから時々先生宅に呼んで頂きました。
 頂く食事は有難く、皆喜んで行きました。豚の水炊きが多かったですね。帰り道4人が言うのです。
 「先生はあい子さんの方に肉をやってた」ってね。思い出しますよ。

 未だ大学の周辺には洒落た食事処どころか、安い食堂もそうありません。そば屋はありましたが、仲間と一緒にとなると限られています。
 すずらん通りに大きな揚げ物専門店が2軒並んでありました。コロッケ・フライの揚げ物ですね。
 キャベツは付けて呉れます。
 表に揚げ物を並べ、お客はそれを買って中に入り座ります。長椅子の相席です。
 ご飯は未だ配給制時代ですから、ありません。
 皆自分で持って行ったご飯を出して食べるのです。
 そこは情報交換の場でもあり、交友関係の広がる場でもありました。

 4年生の時の女子寮の同室者は広島出身の二部短大の方でした。岩波書店でアルバイトをしていた時、勤労学生に贈る幣原賞を受けました。その後朝日新聞の論説の方の秘書になっていました。有能だったのですね。
 ある日 秋です。社からお料理の記事を明日までに書いて来るようにと命じられたのです。
 私も一緒に考えましたが、良い物は浮かんで来ません。そりゃそうですよ。学生ですからね。
 私が持っていた主婦の友の料理本に栗の渋皮煮と言うのが出ていました。「これで行こう」と彼女はそれを丸写しのようにし、翌日持って行きました。新聞に掲載されました。クレームが来やしないかと、二人でヒヤヒヤしていましたが、何もなく済みました。

 秋も深まり、卒業クラス旅行に行くことになりました。クラス主任の久野勝先生も一緒で伊香保温泉一泊です。費用も安かったのですね。覚えていませんが、クラス全員で二部屋ですよ。雑魚寝も良いとこ。殆ど夜通し騒ぎ、疲れて帰って来ました。

 田舎の学生が守衛所で働いていました。その学生から頼まれて、後輩の応援団の学生にノートを時々貸しました。
 数十年後、彼と会いました。私の肩に手を掛け「会いたかったよ~」と言うのです。そして続けて「俺何で知り合ったのだったけ」と言われいささか呆れました。彼は県会議員になっていたのです。

        07年1月 すずらん通り

 07年1月のすずらん通りです。この左側の先の方に揚げ物屋があったのです。ネットで写真を探しましたが余りに古く見つけられませんでした。
 
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地震にびっくり

 昨日の朝 寝ている自分の体が揺れ始めました。周りの壁か?空調機か?ビシビシっと軋む音がします。
 「ね~地震じゃない」 「そうらしいね」 
 急いで起き上がりパソコンを立ち上げました。
 福島沖を震源とする地震です。
 余震が来るといけませんので、朝シャワーはなし。ネットで様子を見ていました。
 午前7時丁度朝食作りに取り掛かる時間ですから、そのまま朝食の準備をしました。
 8時夫が起床。テレビを付けますと、津波情報も流れております。
 千葉県館山市布良で30cmの津波観測と出ました。
 21日に義妹が都心の病院で手術を受けており、その日に手術が無事に済んだと連絡はありましたが、詳しいことを聞こうと帰宅していた弟に昨日の9時に電話を入れました。
 弟は津波を心配する息子に呼ばれ館山に避難し、電話を受けた時は自宅に戻ったところでした。

 松戸に住む妹が今日の昼に遊びに来ました。義弟は地震に気が付かなかったそうです。
 妹によりますと、松戸でも可成り揺れたと言うのですね。
 義弟は難聴ですから、若しかしtら音への反応が鈍いのかも知れません。
 難聴の私も反応が鈍いのです。
 夫はこれがまたやけに耳が良く、地震への反応が凄いのです。そして地震恐怖症です。
 最近は言いませんが、昔は良く言いましたよ。地震がくると「だから日本は嫌なんだよ」ってね。
 「嫌なんだよって言ったってね。どこに行くのよ」と私も言ったものです。
 
 ニュースによりますと、今回の地震はあの3月11日の余震だそうです。今後も更に余震はあるかも知れないと言うことです。
 地震国の日本 何時また発生するかも知れません。心構えを忘れず、過ごして行かなければと思ってことです。

      11月23日中央公園

 下の公園の姿 どんどん葉が落ちて、冬らしくなって来ております。
 天気予報では明日の気温は雪を見るかもと言っております。 寒さは嫌です。
 老人の私 もう体のあちこちに痛みを感じております。

PS
  11月24日 今朝6時23分 福島県沖震源とする M6.1の地震発生。
   我孫子では小さな揺れでしたが直ぐ起きました。 
   友人の住む村は震度4 電話をしましたら、村の中でも震度が違うようで、彼女の所は大丈夫だったと聞き安心しました。
   気温は下がり雪が降りだしました。

     11月24日雪

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私的明大昔話 12

 3年生になった頃、時々クラスメートが何人も入っている「法律問題研究部」と言う部室に寄りました。
 場所は記念館の後ろの廊下のような場所から2号館の入り口へと繋がっている場所の一角にありました。
 廊下を挟んで何部だったか覚えていませんが、社研と言う多分「社会学研究部」等の部室があり、通称レッド横丁と言っておりました。写真の右に出口が見えます。

       2号館出口

       写真は明治大学史資料センターから
 
 法律問題研究部は出来立ての部だったと思います。部長は後日「高崎経済大学の学長」になられた三瀦信吾先生でした。
 その部で夏休みに岐阜市で模擬裁判をすると決まったのです。そこで部員でもない私に被告人の母親役をやって欲しいと言うことで、岐阜まで一緒に行きました。どういう訳か、野間繁先生も一緒に行きました。
 法律問題研究部は今も公認クラブとして名称が大学HPで見られます。どういう形で継続されているのでしょう。

 3年生の終わりか,4年生の初めの頃だと思いますが、大学の鈴木理事から生田校舎に女子寮を作って上げるからと、寮の主だった数人で鈴木理事と生田校舎に行きました。 
 生田校舎はまだまだ整備されてなく、空き地は草ぼうぼうと言った感じで、元の兵舎を使った建物も多く、ビックリしました。
 鈴木理事は立派な女子寮を建てるとその構想を説明して呉れました。夢が膨らむ話です。
 ですがそれは何も実現しなく虚しくお終いを迎えました。鈴木理事が亡くなったこともありますが、あだ名がほら吹きスズケンと呼ばれていたことを後で知り、その所為かなとも思っております。

 大学祭は寮にも及び、男子寮の堀切寮や生田寮などでも寮祭が行われ、女子寮にも招待状が届き、堀切寮に表敬訪問をしました。
 堀切寮は料亭を買い取ったような建物で、広い和室で寮生が余興をしておりました。何だか汚らしく感じたことです。

 4年生の秋から冬へと向かった時期だったと思います。
 ある日学生課長から呼び出しがありました。課長に会いに行きましたら「女子寮は寮祭をしないようだから、これで何かやりなさい」と500円を人数分下さると言うのです。
 女子寮には広間もありませんし、皆で何かをすると言う雰囲気もありません。そこで私は「何に使っても構まいませんか」とお聞きしました。課長は「自由にしなさい」との返事です。
 私はそのお金を持ち帰り、皆さんに相談しました。結論はどこかで食事会をしましょうとなったのです。
 偶々吉祥寺の田舎の知り合いの魚屋の前に料理屋があり、魚屋のおっさんに話して貰い、その料理屋で全額使い切りました。
 500円と言うのは使い出がありましたね。皆で大騒ぎをしました。全員輪タクでの帰寮ですよ。

 後々考えるに、私は領収書を書きませんでしたから、課長が自由裁量で使えるお金ではなかったかと思っていました。
 深く考えれば、私は買収され損なたのかも知れません。怪しげなお金だったと思いますね。
 
 こうして色々とありながら大学も終わりを迎える頃になっていました。
 
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ムカゴ

 富山の瀬戸さんから頂いたムカゴ 下のスーパーで見るのと違い、大粒です。
 どうして食べたら良いかと調べましたら、矢張り炊き込みですね。
 丁度状況が合っていました。
 お米を炊く日、出汁がある日、材料のある日 ピタリでした。

     ムカゴ1  ムカゴ2

    素朴な味です。ムカゴは軟らかく、ややぬめりを感じます。
 
     ムカゴは汚れを落とし、綺麗にして使いました。
 出汁は冷めたものを使い、塩小さじ1を入れ、酒30ccほど注ぎ、炊きます。

 お米2カップで、ご飯を炊きましたが、ムカゴの半分は油炒めにし味付け、酒のおつまみにしました。

             ムカゴ3
 
    初めて作りましたが、大きく美味しく、食べ応えがありました。

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私的明大昔話 11

 昭和25年11月17日 創立70周年記念式典が記念館で挙行されました。
 天皇陛下御臨席の式典は盛大だったのです。式典には幣原衆議院議長・佐藤参議院議長・南原東大総長・島田早稲田大学総長からの祝辞が述べられたそうです。
 学生代表は後に職員になった天野孔さんが選ばれました。一般の学生には校舎を模った小さな文鎮(ペーパーウェイト)が配られました。

    70周年天皇  70周年天王2

            写真は明治大学史資料センターから

 3年生になり、専門科目が増えて来ました。法学部ですから当然中心は法律ですね。それが困ったことに私は法と言うものが分からず、日が過ぎてゆくばかりで、迷いに迷っていました。
 ゼミは我ながら不届きにも独法を選びました。
 ドイツ語は入学してから習い始めたのにですよ。
 皆が初めてだから、何とかなるのではと、甚だ安易な愚かなことでした。
 ある時ゼミの先生 久野勝先生に「先生!私 法と言うものが分からなくて、とても困っています」と訴えました。
 すると先生は「分からなくて当たり前です」と仰るのです。何かふ~としました。
 そういうものなのかと、心が落ち着きました。
 ゼミのテキストは「Eigentum」と言う文献です。所有権と言って良いでしょう。
 久野先生の解説で法の始まりは所有権だと分かりました。
 それは私の心を激しく大きく揺るがし、その一つで法と言うものの特性を知った思いになったことです。

 授業のあるなしに関係なく学校に行きました。そして校庭で会う人との交流に励んだものです。

 戦後の街では何かを学びたい、何かを知りたいと知識に飢えたような人々が沢山おりました。
 
 郷里の千葉の館山や郡内からの明大生が40人位もいたでしょうか。そこで夏休みに「夏期講座」を開いたのです。
 大学から先生をお呼びし、市の施設をお借りし、2日間開催しました。それは2年で終わって仕舞いました。
 続けることって難しいことですね。

 何かに参加することで、学びそして人との繋がりが出来て来ます。私は多くの学生の知り合いが増えて行きました。

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今日のラーメンと孫のこと

 昨日、一昨日と良いお天気でしたのに、今日は一日中気温も上がらず、小雨が降っております。
 こう言う日は買い物に行くのも何となく面倒になります。
 昼食には麺類が多く、そのために色々な麺が買ってあります。
 ですがソーメンは冷たすぎますね。時間のかかる乾麺を茹でるのもこれまた面倒くさいのです。
 老人性~~でしょうか。である物で温かいものをとラーメンにしました。

        焼き豚ラーメン

 これは昨日の午後イトーヨーカ堂で買ってきた物なんですね。
 上に乗せてある肉ですが、セブンの「焼豚切り落とし」と言うのですよ。
 下の孫の好物で良く食べているそうです。好物は好物でそれは良いのですが、これには曰くがあるのです。

 最近の話 卓球場のオーナーの方がクリスマスケーキを頼んで置きましょうと仰ったそうです。
 そのことを聞いた孫「他のが良いな」と言ったそうです。
 その場にいた他の子どものお母さんが「何が良いの」と聞いたのだそうです。
 すると孫は「セブンの焼豚切り落とし。どこにも売っているよ」とさも楽でしょと言わんばかりらしいのだそうです。
 普通はそれではシュークリームとか、モンブランとか、違うケーキを言うでしょうに、孫は違うのですね。
 とても面白い子です。だからと言ってこだわる子ではないのですよ。
 先日、誕生日のプレゼントを買いに行った時、買い物を済ませて車に並んで座りました。
 私の顔を見つめて「有難う」の後に「ばーばブスだね」と言うのですね。
 長女がその話を聞いて「プレゼントを貰ってブスだねはないでしょうよ」と呆れながらも楽しんでいます。

 昨日は孫に買って上げようとし、序に自家用にも買って来たのです。二女にメールをしてありますが、今日はダブルダッチの練習に出掛けていますから、未だ家の冷蔵庫に収まっています。明日にでも取りに来ることでしょう。

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私的明大昔話 10

 戦後の生活は衣食住どれをとっても貧しさからの出発です。
 人々は必死に頑張って生きていました。
 昭和25、6年頃はまだまだ貧しかったですね。
 鞄が買えなくても、ブックバンドで本を縛るのがファッションのようになっていました。
 貧富なんて大体話題になりませんでした。
 誰もが似たり寄ったりの生活ですからね。勿論裕福な学生もいましたよ。毎日ラドリオに行く人もおりました。
 
 駿河台は空襲の被害を受けることがなく、大学の中のあちこちの小さな部屋に教職員が住んでいました。
 それは和泉でも生田でもそうだったのです。
 当時復員してきた教授や焼け出された教職員などですね。
 
 山の上ホテルはGHQに接収され、米軍の婦人兵士の宿舎になっていました。
 彼女たちは肩にショルダーバックを掛け、軍服を纏い颯爽とあの坂を下りて来ます。背筋が伸びているのが印象的でした。
 大学の向い側に主婦の友ビルが建っておりました。そこも接収されており、同じく女性軍人の宿舎になっていました。
 
 クラスの男子は向かいの主婦の友ビルの窓から下着姿の女性兵士が見えると騒いでおりました。
 それがいつの間にか兵士の姿は見えなくなっていました。任務が終わたのでしょうかね。

 当時の学生にとって娯楽の一つは麻雀です。休講になりますと、直ぐに仲間が出来、雀荘に行っておりました。
 六大学野球の応援も熱が入っておりましたね。
 クラスの男性でダンスに熱中している彼は、教室の中を歩くときもステップを踏んでいるような歩き方をしており目立ちましたね。
 図書館は狭く、椅子取りが大変で、女子寮の熱心な学生は、弁当を二食分持って行って頑張っておりました。

 クラスの飲み会 コンパなんて言っていませんでしたよ。飲み会は新宿の居酒屋のような所でありました。 
 会費は300円位ですね。飲み会にビールが出ると情報が流れて来ますと「今日はビールが出るってよ」なんて興奮したものです。
 教室は足りなかったようで、ぎゅう詰めの時もありました。
 一号館の階段教室は割合ゆとりがありました。多分合同授業ですから、出て来ない学生が多かったのかも知れませんね。
 試験前になりますと、廊下に立ち開いた窓から顔を出して授業を聞くなんて風景もありました。

 大学祭は展示が主でしたね。記念館講堂では今でいうイベントですね。私は殆ど見ておりませんでした。

 今日から三日間 生田校舎で生明祭と言うお祭りだそうです。昔は生田祭と言われておりました。
 1963年11月22日 ケネディ大統領が暗殺されました。私は長女を連れて妹と3人で生田祭に行くので、新宿駅に行き、そこで号外を見て驚きました。当時の生田祭では屋上でジンギスカン鍋を囲み学生も、教職員も一緒にビールを飲み楽しんだものです。
 今の生明祭ではアルコールが禁止だそうですが祭りの規模は大きいですね。

        駿河台校舎2
      写真は明治大学史資料センターから提供

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コラーゲンやゼラチン

 和食中心の食事ですが、タンパク質は魚肉や鶏卵また大豆製品等で摂っています。何れも量は大したことはないですね。
 最近生魚が昔のように食べたくありません。お鮨は大丈夫なんですがね。
 牛肉は美味しいのですが高いでしょ。 
 それでも時々二人で150g位をちょと焼いて食べます。
 豚肉はコクを出す程度に良く煮物に使います。
 鶏肉は安く、良く食べます。昨日は手羽先を圧力鍋で煮ました。
 
      手羽先煮物

 出汁に醤油と砂糖・酒を足して煮込みました。加圧15分。これで柔らかくなり、先まで綺麗に食べることが出来ました。
 コラーゲン一杯ですね。サプリメントは要りません。

 ゼラチンはコラーゲンと同じ成分ですね。これは毎日ゼラチンパウダーを味噌汁に入れています。
 味噌汁が出来上ったら、忘れないように直ぐ入れます。
 サプリメントを沢山買っている方もおりますが、私は出来るだけ食品から摂るようにしております。

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私的明大昔話 9

 女子部に入学した秋 吉祥寺の女子寮に入ることが出来ました。
 部屋代は月80円です。送金が大体3000円から5000円時代です。
 大学は自治寮として、寮生の生活には全く関知せず、寮生はそれなりに自主的に過ごしておりました。
 新聞の記事で前にもアップしましたが、寮の中では若さなりの生活を楽しんでいたものです。
 寮の周りは囲いもなく、怪しげな人も寄って来ることもありました。
 私はいつの間にか寮長のような立場になっていましたので、怪しげなことが起きたら、皆で一斉に鍋などを叩き、大声で騒ぐようにと言って置きました。
 それは実際何回かあったのですが、私は何十年も後に、後輩にそのことを言われて思い出したものです。

 ある時 学生課から警視庁に行くようにと指示がありました。呼ばれるような心当たりもありませんし、何だろうと警視庁に行きました。
 古い警視庁は入って行っただけで暗い感じです。
 小部屋に案内されました。(これが取調室かと思いました)テーブルを挟み、警視庁の警官と向かい合い、先ず氏名、住所などを聞かれました。
 いや~な気分ですよ。
 窃盗犯で検挙された男性の自供で、女子寮から下着を盗んでいたと分かったのだそうです。
 要は被害届けが出ていないと言う内容なんですね。怒られましたよ。
 でもこれっておかしいと思いますよ。大学に注意をすることで済む話でしょうに。何か意図があったのかしらと、思ったことです。

 私は昭和28年3月に卒業しましたから、寮から出て行く筈でした。ところが2月から大学に就職していたこともあり、寮のことで6月まで引っ越さないように学生課長に言われていました。 
 懸案の全体の畳替えの目鼻も付き、引っ越し先を探そうかと言う頃です。
 ある日の昼過ぎ寮生の一人が夕刊を持ち帰って来たのです。私は大学に出勤するところでした。
 その夕刊のトップに大きな見出しで「明大女子寮で~~~」と言う卑猥さを思わせる文字が出ているのです。
 私は直ぐに学生課長に連絡をしました。課長は直ぐ大学に来いと言うのです。
 そこでその日にいた寮生数人を連れて大学に行きました。
 学生課長は一人で待っていました。事情を聞き、ロッカーの扉を開け、札束を出すのです。帯で巻かれた新札ですよ。
 これで新聞を買い集めろと言うのです。課長は総長のクライスラーを用意してあり、その車に私たちを乗せて、盛り場に向けて出発しました。
 小雨の降っている日でした。池袋・新宿・上野・渋谷・有楽町などの駅前の新聞売りの人からその新聞を買い集めました。
 車に乗せては学生課に戻ります。車の数も知れている時代ですから、道も空いています。
 新聞は学生課の奥の部屋に積み上げられました。
 新聞に書かれていたことは、一時寮に入っていた女性の離婚訴訟の問題で、全く迷惑な話です。

 総長の車に乗るなんて、思いもかけない事です。札束が直ぐ用意されていたこと。新聞のこともですが驚くことばかりでした。
 
 翌日発行元の新聞社に課長と抗議に行きましたが、窓から女性が顔を覗かせただけで、抗議は出来ませんでした。
 数日後課長が起訴状を見に行こうと言い、私は裁判所に行き、課長と内容を確認して来ました。

          06年11月校庭陽だまり

 10年前の11月14日の駿河台の一角です。穏やかな風景です。今日の内容とはかけ離れていますが、良いでしょ。

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つい欲張ってしまう

 10日ほど前、ローソンにココアの休日を買いに行く序にアリオ柏まで行きました。
 二女の運転で夫も私も街並みにキョロキョロ目をやり座っておりました。
 家の形は如何にもお洒落で新しく、新興住宅のような感じの家並です。
 昼食時に掛かり、雲龍一包軒で食べることにしたのです。

 何を食べるか?どれを見ても食べ切れそうに思えません。一番シンプルな物は普通のラーメンです。
 これなら良いのですが、お店に入りますと、どうも変わった物に目が行きます。

       アンカケソバ

 これは確か餡かけ海鮮ソバだったと思います。これが熱々で来ました。中華店で麺類を頼むと中々冷めないのですね。
 こうして写真で良く見ますと表面に脂が一杯に広がっています。これが大きな違いでしょうか。
 選んだものの矢張り食べ切れません。それも半分ほども残ってしまう始末。

 この店に3人で行ったと聞いた長女が「行きたかったわ」と言っていると分かり、昨日は4人で行きました。
 そして私はまたラーメンではなく、ワンタンメンにしたのです。

       ワンタンメン

 私は学習をしておりません。
 大きなワンタンは美味しく全部食べることは出来ましたが、麺は殆ど残り、食べられません。
 長女は夫から沢山分け前を差し出されて、それでお腹一杯。二女は餡かけ海鮮ソバでこちらもお腹一杯。

 結局私は二回とも食べ切ることが出来ませんでした。自分ではもっと食べられると思っているのですが、実際は厳しいものです。

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私的明大昔話 8

 昭和23年の秋 全学連の決起集会で日比谷に行った時、女子寮があることを知りました。
 甲府から進学してきたクラスメートと入寮出来るかどうかを聞きに行きましたら、直ぐに入ることが出来ました。
 武蔵野市吉祥寺187番地です。当時は人口も少なく、住所表示も簡単なものでした。
 和泉校舎には井の頭線で、駿河台には中央線で直通です。
 
 2年生になり、駿河台に通うことになりました。電車は各駅停車です。
 駿河台の校舎は将に満員状態です。学生が溢れています。新旧制度の学生が一緒ですから、記念館前にはお昼ともなりますと、通るのも人を分け分けと言った感じです。
 男子学生の靴はラバーソールが流行り、上着は詰襟の学生服。そんな中に軍服を着た学生もいました。
 全体に粗末な服装でした。
 
 1号館の左入り口の桜の木の下のタンポポはそんな中で2年前と同じにまた咲いていました。とても鮮明に覚えております。
 
 授業は語学以外は殆ど合併授業で時には大教室での講義です。
 今の大学会館の場所には木造二階建ての校舎があり、新館と呼ばれていました。一階二階ともに大教室がありました。
 うすっぺらなラミーのようなカーペットが廊下に敷かれておりました。
 下駄履き禁止の札が掛けられており、真面目なクラスメートの一人は下駄を脱ぎ、裸足で校舎の中を歩いていました。
 
 一号館の地下には万年筆屋・靴修理屋・床屋など入っており、中庭の二階建ての建物の一階は子弟食堂、二階は教室。
 食堂には柄の悪い学生が目につきどうも食べに行けませんでした。
 学校周囲には喫茶店はなく、お茶の水駅付近に外食券食堂があり、靖国通りに行けば、ランチョンと言うレストランがありました。 ランチョンは今もあります。また今もある有名なラドリオは貧乏学生には縁遠く、卒業までの間は一回だけウィンナーコーヒーを飲んだ記憶があります。

      第2回明治大学小史展昭和10年頃
        第2回明大小史展から転載

 大学の設備もまだまだ整っていなく、学生の集会室のような場所もなく、教室でお喋りで過ごす時間が多かったですね。
 専門部や女子部から転入した私たちのような者は、また駿河台で女子部や専門部の方と会うことになりました。
 
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今日の一品とエレベーターの話

 幾ら好きだと言いましても、予想外のことに驚くこともありますね。
 ニシン蕎麦のニシンですが、うっかり丼に入れたのです。
 ニシンは温めてありますから、それで冷めてしまう訳ではありませんが、如何にも大きくてね。
 半分に切って入れれば良かったと思いましたよ。

       ニシンそば

 それでも食べて仕舞いました。美味しくて満足ですよ。

 今日は我国最初のエレベーター運転開始と出ていました。調べて見ましたら11月10日が正解のようです。
 日本のエレベーターの性能は優れていますね。このマンションのエレベーターも点検は確りなされており、心配をしたことはありません。
 
 そこで今日はエレベーターの話 
 1 大学のクラスメートに四条清一さんと言う方がいました。
   彼の親戚が福島にいたそうです。
   彼は鍼灸師として有名でした。
   その彼の親戚の方が上京して来たので、日本橋三越に案内したそうです。
   エレベーターに乗り、上で降りたら、その親戚の方は下駄を履いていなく、驚いたそうです。
   親戚の方は座敷にでも入るかのように、エレベータの前に下駄を脱いで乗ったと言うことですね。
   信じられないような話です。60年ほど前の話です。

 2 インスブルックのホテルのエレベーターですが、二人乗りなんですね。
   部屋には乾燥室もあり、立派なんです。
   スキーを持って乗ればぎりぎり。こんなのは日本では見たことがないです。

 3 木更津に住む友人の家は二世帯住宅です。彼女は2階に住んでいます。
   二世帯住宅にしたとき、エレべーターを設置しました。
   車椅子でも乗れるようなスペースです。長女と試しに乗って見ました。
   そのスピードですが、鈍いのなんの。
   長女に言わせますと、日本一鈍いエレベーターではと言っております。

 4 韓国慶州のホテルでの話
   中國青島の友人がソウルに住んでいます。
   その友人を訪問しようと元気者の友人と出かけました。
   ソウルに直行せず、釜山から慶州に向かいました。
   慶州のリゾートにある、ま~良いホテルでした。
   到着した日の夕方、クリスチャンの会合があったようです。
   ロビーに立派な男性が大勢おります。
   会合は終わったらしく、エレベーターの前に皆さんが詰めています。
   並ぶのではなく詰めていると言う感じです。
   私と友人が乗ったエレべーターに背の高い男性が次々乗り込んで来ます。
   警告のブザーが鳴っても誰も降りません。
   そうしているうちにドアが閉まったのです。
   するとエレべーターが下に沈み始めたのです。もう身体に衝撃が走りました。
   一番奥に二人はいますし、身動きが出来ません。
   「誰かSOSと言って下さい」日本語が通じないのに騒いで仕舞いました。
   エレべーターが止まりました。
   暫くしてホテルの方が駆けつけ、ドアを開けて呉れました。
   床まで1メートル程だったでしょうか。 
   這い上がってやっと生き心地になりました。
   二日間の間、もうこのエレベーターは怖く、二人で相談。
   従業員の使うエレベーターを使わせて貰いました。
   そこのホテルにいる時、ソウルの友人から入院したとの連絡が入りました。
   忘れ得ぬ慶州です。

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鍋焼きうどんと雑談

 昨日はペインクリニック内科での受診日でした。4週間ごとに行きます。
 娘のどちらかが送迎して呉れることも良くあります。
 4週間に一回の鰻の日でもあります。昨日は二女の運転で出かけました。
 二女は鰻より色んな物がある方が好きです。
 夫は先ごろ行った夢庵が良いのではと、二女に言いましたら、OKです。
 夢庵にはメニューが多くて目移りします。これにしようかと決めてもまた気分が変わります。
 二女が「鍋焼きうどんがあるよ」と気が付き、夫も私も鍋焼きうどんにしました。

    鍋焼き1  鍋焼き2

 店員さんが点火して呉れます。小さなコンロです。「良いな~欲しいな~」ってつい言葉に出して仕舞いました。
 二女は「よしな。道具が増えるだけでしょ」と言うのですね。
 考えて見たら、非常用に普通のはあるのですね。夫は「ボンベも沢山あるよ」と言います。
 ボンベと言われ「そうだ最近バーナで焼くこともしていないな~」と気が付いたのですよ。
 私のシリーズから忘れられていたのです。そう気が付きますと、何か炙りたくなりますね。

 今日の昼夫に「昨日の店は何と言う店だったかしら」と尋ねました。
 「何だよ。夢庵だよ。忘れたのかい」と言われて仕舞いました。こうなんですね。
 「で何か」と聞かれ「鍋焼きは土鍋が良いわね」と言いますと、夫は「500円位だから1000円以上のと比べてはな」と言うのですね。確かにそうですよね。
 夢庵のうどんは長くてなんだか取り難かったですね。割りばしが欲しいです。
 箸は纏めて置いてある塗り箸ですから滑って中々受け皿に取れなくてね。

 今日は皮膚の日だそうです。11月12日これをイイヒフと読み、皮膚の日だと言うんですね。
 子ども頃ヒーフーミーヨーイツムーナナヤーと言いながら遊んだことを思い出しました。お手玉などの遊びの時に言ったものです。

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私的明大昔話 7

 和泉校舎の1年間はどんどん過ぎて行きました。何しろ毎日が忙しいのです。
 語学は第二外国語と合わせて、毎週13時間だたっと思います。いくら1回が50分とは言いましてもね。
 
 私は授業の合間や夕方は共済部に行き、品物を売ることや、部員とお喋りにも忙しい日々でした。
 秋に第一回和泉祭が開催され、実行委員が共済部に出入りします。
 
 和泉校舎の学生会の委員長は渡部哲寛と言う商学部1組の学生でした。彼が実行委員長です。 
 彼が女子学生に仕事を無理強いしたことから、私と言い合いになり、彼が謝り、それ以来彼と親しくなり、商学部の学生とも交流を持つようになりました。
 
 和泉祭は展示中心の祭りで、食べ物や何かを販売することはしませんでした。
 ただ講堂ではのど自慢や、雄弁部の学生の発表などがあったようです。
 私の記憶ではダンスパーティーがあったことは確かです。

        和泉旧講堂411

        これは古い講堂の入り口です。 

 ドイツ語の管藤高徳先生の履く靴がハイヒールだと言う噂の確認をしようと講堂に入って行ったからです。
 暗い講堂で管藤先生は踊っていましたが、靴の確認は出来ませんでした。
 
 祭りの最後は展示品などを積みげてのファイアストームです。
 校庭に積み上げた木材やポスターなどに火をつけ、その周りを肩を組み、校歌を歌い、最後の仕上げとなる筈でした。
 それが突然ならず者の乱入で中止となり、雨も降り始めあっけない幕切れとなって仕舞いました。

 和泉祭の後の記憶には大きなことはありませんですが、思い出しますと、先生方の張り切りようは凄かったですね。
 
 そして試験も終わり、2年生からは駿河台に通うことになりました。

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ハチビキと言う魚

 魚好きと言うことを口にしている私 知っている魚も沢山ありますが、名前だけは知っていても見たことのない魚も沢山あります。
 火曜日に何時もの北辰に行きましたら、全く知らない魚が並んでいます。名前も知りませんでした。
 「ハチビキ」と言う名の魚です。

           はちびき北辰11月8日

 一尾しか並んでいません。魚に詳し小父さんがいましたので、聞きましたら、滅多に入らない魚だそうです。
 そう聞きますと、買いたくなるし、食べたくなります。
 下ろして貰いました。片身は刺身用に皮も引いて貰い、もう一枚の片身は骨付きで皮付きのままにして貰いました。
 折角ですので頭も二つに割って貰い持ち帰りました。
 
           一昨日の夜は刺身ですよ。

            はちびき1-1

 たまたま葉付の大根がありましたので、ケンも作り、葉の茎の太いところでツマらしい物を作って彩に載せました。

          昨夜は塩焼きと頭の味噌汁ですよ。

    はちびき2  はちびき3-1

 うんと美味しいとは言えませんが、かなり美味しかったですね。
 値段が気に入りましたよ。一尾498円です。一回が250円程でしょ。
 こう言うことって嬉しいですね。

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椎茸と雑談

 椎茸の産地は大分が有名ですね。時々頂く椎茸は立派な物で、頂くと嬉しく早速煮ます。
 戻すときは一遍に沢山戻し、それを薄く切って冷凍にもします。
 
         椎茸甘煮

 煮る時も沢山煮ます。そしてこれも冷凍にして置きます。椎茸は他の物と一緒に煮ますと、匂いが強く、全体に椎茸の匂いが回って仕舞います。  
 煮た物は他の煮ものと合わせる時、解凍してレンジでチョッと温めて添えます。

 今日は木枯らし一号が吹き、気温も下がり寒さが肌を刺します。マンションの中央公園の樹々は色づき、激しく揺れています。
 流石にベランダには洗濯物や布団は干してはありません。

         11月9日中央公園

 午後1時半からマンションの集会室で開催された体操とコミュニケーションの会に出て来ました。
 体操は椅子に座っての高齢者にも出来るものです。何とか付いて行こうとしますが、どうもぎこちなく感じます。
 多分年齢的なものでもありましょうが、普段の生活のありようにも関係しているのかも知れません。
 体操の後はテーブルを囲み、参加者の方とお喋りをして来ました。来月も行く心算です。

 今日は国鉄の鶴見事件のあった日です。
 大きな事故で、その凄まじい様子を知り、電車に乗るのも怖くなりそうでした。
 あの事故で当時ラジオ東京の交通情報を担当していた友人のアナウンサー浜島義江さんの妹さんも犠牲者の一人でした。

 事故の後、父から連絡があり、六三型の電車に乗るなと言って来ました。
 六三型と言う電車の窓は三段にはまっており、何があっても窓から出られません。
 それを父は知っており、乗るなと言うのですね。
 乗るなと言われても、走っている電車はどれも六三型ですから、乗らずにはいられませんでしたね。

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私的明大昔話 6

 和泉校舎に通学は1年間で終わりました。
 その1年間の間で最も記憶に残る事柄は共済部に入部したことでしょう。
 たった1年間の部活でしたが、そこで得た多くの方との交流は長く、今日まで続いております。
 それは共済部に学生会執行部の人が出入りしたからです。学生なりの人脈と言えましょうか。
 共済部に時々寄って下さった靴屋さんが窪島誠一郎氏の養父だと知ったのは随分後のことでした。
 
 当時の和泉校舎の入り口はと言いますと、甲州街道の北側を流れる玉川上水に掛かる橋を渡ると校門になります。
 甲州街道もまだ狭く、車も殆ど走っておりませんでした。車どころか馬車が走っているような時代です。
 路上に馬糞も落ちています。
 入学した頃、橋の辺りから校門までの間に、学生ヤクザの花形敬などがたむろしていました。
 
 昭和23年 太宰治の入水と言うことがありました。その影響か24年の梅雨時、玉川上水に入水した仏が左に見える柵で止まって、その情報は直ぐに広まり、怖い物見たさに一回だけ見に行きました。
 ですが、それは続いて何日も上がったのです。

         和泉校舎と玉川上水

 教室も予科時代のものだけでは足りなかったのでしょう。今学生会館になっている辺りに、急造の大教室が出来、そこで合同授業が行われました。合同授業は旧武道館でも行われましたが、そこでは政治学の藤原弘達先生や社会学の泉靖一先生の授業もありました。
 
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動物病院のこと

 昔人々は動物病院のことを良く「犬猫病院」と言ったものです。
 動物病院にも得手不得手があるようですね。
 二女がダブルダッチの世界選手権に出掛けた時、預かったペット「ふと顎髭トカゲ」の病院は松戸まで行かないとないと言われており、もうそれは心配で、夜中に大丈夫かと覗きに行ったりしておりました。帰国した二女に渡したときは本当に安心したことです。
 実家のシェパードがバスに轢かれた時、普通の動物病院では手に負えず、馬・牛の獣医さんの所に駆けつけ、手術を受けたこともあります。友人のペットの文鳥が足を怪我をした時診察券を見せて貰いましたら、ちゃん付けの診察券でああ~そなんだと思ったものですよ。

 昨日会った友人の話
 彼女の家には猫がおります。以前聞いていた政宗は雄の三毛猫です。政宗は人間の心が読めるような猫でした。
 その政宗が病に掛かり、前に手術を受けた病院でまた手術を受けることになったそうです。
 その病院は獣医さんの腕が良く、その獣医さんが他の病院に移っても診て貰いに行っていたそうです。
 政宗が手術を受ける時、手術室から聞こえる政宗の鳴き声にどんな手術を受けているのか分からず、心配していたそうです。
 一旦家に戻っていたそうですが、、危篤状態の連絡を受け、病院に駆けつけたそうですが、政宗は亡くなって仕舞ったそうです。
 病院からは詳しい説明はなく、使った薬なども分からず、支払いは高額だったそうです。家族の一人ですからね。良い治療を受けさせてやりたいですね。

 政宗亡きあとのもう一匹の猫はアズキと言う名前です。アズキの具合が悪くなった時、息子さんが聞いてきた病院に連れて行ったそうなんですね。
 その病院は余り目立たない場所にあり、建物も立派なものではなく、そこの獣医さんは動物第一の先生で、スタッフにも厳しく指示しているそうです。多くの犬・猫が診て貰いに来ているそうなんですね。
 その犬や猫の様子を見ますと、鳴いたり、怯えたりするような様子はなく、何か安心出来るような雰囲気が待合室に漂っていたそうです。
 アズキが治療を受ける番になったら先生は「どうぞご覧になってて下さい。飼い主には見る権利がありますよ。傍に付いてあげ声を掛けて上げて下さい。安心しますよ」と言う言葉に驚いたそうです。
 前の病院ではなかったことですからね。そこで中に入り治療に立ち会い、アズキに声を掛けたら大人しくして無事に終わったそうです。
 支払になりましたら、治療の方法や使った薬のことも書かれており、更に驚いたのは余りに安い値段だったそうです。
 前の病院は建物も立派、場所も目につく良い場所だそうですが、病の動物への対応はアズキの診て貰った病院と大違い。

       怪我をした猫

 この猫は傷ついております。EGUTIさんが通勤途上で見かけたそうです。
 
 犬・猫でも病に掛かれば心も沈むでしょうし、不安も強くなっているでしょうね。
 ですがアズキの診て貰った病院の待合室にいる犬や猫は怯えてなく、それを見て友人はこれからはこの病院にしようと思ったそうです。
 その病院に来る方は恐らく口コミではないかと言っておりました。それは墨田区横川にある谷澤動物病院と言うのだそうです。検索して見ましたらありました。建物は狭くて立派なものではないそうですが、スタッフは多く、診療の範囲は幅が広く大きいようですよ。

 治療費が安いと飼い主にとっては有難いことですね。この病院には遠くからも見えているそうです。待合室が一杯ですと、車の中で待つ人もいるそうです。見た感じでは猫よりは犬の方が多いのではと友人は話しておりました。
 昨日はこうしてとても良い話を聞いたことでした。

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話題は尽きない

 久しぶりに中国服の仲間と柏でお会いしました。
 以前は霞ヶ関で会っておりましたが、日曜日は休業ですから、柏の鮨店で落ち合いました。
 
 この数日お天気が良く、公園の木々も色づき、初冬の空も澄んでいます。

            鮨・空

 早朝目が覚めましたら、何故か体が素直に動きません。お腹が空っぽのような感じです。
 どうも血糖値が下がったのか、血圧が急に下がったのか分かりません。
 めまいの薬を飲み、朝食の準備を済ませた頃から様子が良くなりました。
 
 柏に出掛ける時、やや不安がありましたが、仲間と会いましたら元気が出て来ました。
 私は先にお店に着き、座っていました。カウンターの中では皆さん忙し気に動いています。

            鮨店

 仲間と揃ったところで食事となりました。お鮨のセットに追加も頼み美味しく頂きました。

   鮨1  鮨2

 話題が多く、いくら時間があっても足りないほどです。前回からの間に起きたそれぞれの生活や様々な問題ですね。
 話題は多く書ききれません。
 楽しくて時間の経つのもなんのその、場所を移してお茶を飲みながら確りとお喋りをして来ました。

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ダブルダッチと卓球と

 下の孫は中学2年生です。部活は卓球部に入っているそうです。
 中学1年生の時はダブルダッチの世界大会に行くので、部活は出来ない日が多かったようです。
 2年生になってから突然のように卓球に熱が入って来たようです。
 頑張っている様子は母親から聞いておりましたが、特に詳しいことは知りませんでした。
 
 ところが先月我孫子市中学校卓球大会に久寺家中学の一人として参加。 
 孫は個人2位。団体戦は優勝したのです。
 聞いて驚きってこう言うことですね。
 
 そして今月3日 第47回市民体育大会(卓球の部)中学女子に出場、ダブルスで優勝。
 シングルスはベスト4になりました。
 応援に行っていた長女一家から連絡が入り、またまた驚きです。

 ダブルダッチでは2013年6月 アメリカサウスカロライナで開催された世界大会で優勝 
 2015年9月にはパリで開催された世界大会で優勝

 この孫はこれと言ったらこれ。卓球は指導を受けに行くようになりました。
 只管前進前進とばかりの生活になって仕舞うのです。
 ダブルダッチは続けています。ですから今はそれと卓球です。
 親は大変です。練習は夜に掛かることが多く、送迎のため家から出たり戻ったりの毎日です。

 笑点が好きでしたが、今はゆっくり見る間はないのではと思っていますよ。
 2008年12月馬琴師匠の会で、小遊三さんに色紙を書いて頂きましたが、小遊三さんは卓球をする落語家として知られているそうですね。孫にピッタリの色紙となりました。

        IMG小遊三色紙08年12月

 孫は今日も卓球やダブルダッチに汗を流しているのかも知れません。このところ体もがっしりとして来ており、背も伸びて来ました。
 食欲も旺盛で、これまた親は毎日食事作りで頑張っております。

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ココアの休日

 明治大学政経学部教授の木谷光宏先生から先日お聞きしていた木谷ゼミと(株)エルビーとの産学連携共同による商品の発売のことを、先月明大のHPのプレスリリースで詳しく知りました。
 発売はローソンでと言うことですので、ローソンのHPで探しました。商品名は「ココアの休日」です。
 今日発売と分かり、二女の運転で近所のローソンに行きました。最初の店にはなく、次に行った店で、1パックだけあり、買って来ました。

      ココアの休日パック  ココアの休日説明

 発売は一カ月限定で10000個と言うのですね。これは焦りましたよ。折角木谷先生からお聞きしていたのに、逃してはいけませんよ。
 大学の売店 明大マートでも販売されているそうです。
 
 木谷先生のゼミ30周年の報告を頂いておりました。そこでは木谷先生の姿勢や木谷ゼミのあり方が良く分かり、流石だなと改めて感じております。

 昔 学生相談室で某学部教授は産業心理学の教授に「あなたの発言には産学共同の匂いがふんぷんとする」と会議の中で見当違いの発言があったことを思い出しています。哲学は心理学より上に立つと言う感じの人間の発言。 
 大学教育は個人の人格形成に役立つばかりではなく、大学は社会に役立ってこそでしょう。
 
 時代は刻刻動いていますね。今大学のHPを見ますと全てが隔世の感そのものです。

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ラーメン

 ラーメンは好きですが、外に食べに行くことは最近滅多にありません。
 今やラーメンは日本食と言っても良い位ですね。
 安藤百福さんの「麺ロードを行く」を眺めましても日本のラーメンのような物は出ていません。
 大体スープが少ないですね。

 昔出張で東京を離れますと、何となくラーメンが恋しくなります。戻って来ますと直ぐに東京駅地下や新宿駅周辺でラーメンを食べたものです。
 熱々のラーメンは家では無理ですね。でも週に一回位は既製品のラーメンを買って来て食べます。

 普通は上に焼き豚、メンマ、ネギなど載せますが、時には変わった物を載せたりします。
 残り物だったり、ある物だったり、適当なものですよ。

      チャーシュー麺に海苔   塩豚・ブロコリースーパースプラウトラーメン

 左は焼き豚に生海苔を載せました。 右は塩豚にブロッコリースーパースプラウトです。

 近所にラーメン屋さんはあるのですが、面倒くさいのですね。

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私的明大昔話 5

 昭和24年 学制改革の6334の最後の4が始まりました。
 新制大学の最初の入学と言うことで、先生方は張り切っておりました。
 予科時代の余波が残ってるような感じの明大和泉校舎 
 学生は予科からの移行組・専門部や女子部からの移行組・それと高校からの入学組の集団でした。

       和泉校舎25年

 私は初めての女子学生として和泉校舎の校門をくぐりました。法・商・政経・文・工・農の六学部の1年生全員が和泉校舎で授業を受け始めました。
 確か学生は4000人余り、内女子は約30人 1%未満です。私のクラスは女子が一番多く、5名でした。
 授業は教養科目が多く、時間は一回が50分 これで月から金まで毎日6時間です。忙しいこと。
 先生方は熱心でしたね。
 入学後最初の授業はドイツ語の園山勇先生でした。
 教室に入って来るなり、学生の方に向き、いきなりドイツ語のローレライを歌い始めたのです。
 度肝を抜かれましたね。そして「皆さん これからドイツ語を習うのですからローレライなんて言わずローレライと言いましょう」と仰るのです。最初のローレライは平坦な言い方です。後のは上がったり下がったり抑揚のある言い方です。

 学校は整備が進んでいなかったのでしょうね。女子トイレもなく、私たちは教職員用のを利用しました。
 予科は女子がいませんでしたから、すべて男性用に出来ていたのです。
 まだ共学の高校が少なかった時代ですから、女子は珍しい存在で、お弁当を食べていますと、廊下から男子学生が覗くのです。それも他学部の学生までですから、食事もおちおちしていられません。
 体育の時間は校庭でボールの打ち合いです。決まった運動をする訳ではありません。
 とに角何もかも急ごしらえのような感じでした。

PS 入学者は正確には5514名と分かりました。

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今日の一品と犬の話

 煮物は毎日ですが、いや毎日どころか毎食ですね。コクを出すために蛋白質の物を少しでも加えたいのですね。
 それでも何もない時は野菜だけで煮ます。出汁が効いていますから、美味しく出来ます。

         コンニャク・人参・牛蒡・隠元

 これは牛蒡・人参・コンニャク・隠元だけです。牛蒡に合わせて他の材料も切りました。
 薄味でも美味しく出来ました。

 今日は犬の日だそうですね。今日は何の日と言いますと、それに合わせた話題があれば良いですね。
 友人に良く話題があるわねと言われますが、何時も80年生きて来ましたからねと答えます。
 
 私が初めて家の犬を意識したのは4歳頃のことです。父がポインターを飼っていました。私は玄関でその犬の背中に乗ろうとして、またがった途端玄関の三和土にに振り落とされて仕舞ったのです。
 小学校の4年生の頃、父の知り合いから雑種の犬を貰ったのです。でその犬を私が自分の犬にし、世話をしておりました。
 ある夜 物凄い風雨と雷です。外で私の犬がヒーヒー鳴いているのです。
 父が私に玄関に入れろというのです。その時の怖さは本当に怖かったですね。びしょ濡れになって犬小屋から玄関に連れて来ました。

 5年生の秋に日本に帰国しました。その犬と別れて来たのです。そして6年生になった時、父が私と妹の様子を見に来ました。
 その父の留守の間、私の犬(デコ)は毎日父の会社に行っていたそうです。
 デコは利口な犬で、父のお弁当を首に掛けると会社に届けに行っていたのです。
 そこでデコは父のいない会社に来る日も来る日も出かけて行ったそうです。
 父は一カ月も日本にいたのでしょうか。デコは父の帰りを待たず、行方が分からなくなって仕舞ったのです。
 そのことを手紙で知らされた私は悲しくて悲しくて、思い出しては涙に暮れました。
 今でもデコの姿は心に浮かんで来ます。

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プロフィール

相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日86歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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