2017-08

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1945年8月16日の朝

 日本が連合国に全面降伏をした日 8月15日の午後からはピタリと爆音が消え、空に陽が輝いておりました。夜になるにつれて、大人たちがいろいろと祖父の所に聞きに来ます。
 電灯の傘に被せている布は外しても良いのか。電気を点けていても大丈夫か。敵は狡いから、今夜も空襲があるんではないか。とかいろいろと相談をしておりました。
 7月18日に町は米軍の艦砲射撃を受けていましたから、また艦砲があるかもしれないとなり、私は妹の手を引き暗い道の中、山の中に作った避難小屋へと泊まりに行きました。
 その小屋は我が家の北側の家と共同で急造した粗末な小屋でした。山の道から少し外れた場所の木を切り、場所作りをし、そこに丸太を並べて人が寝起き出来るようにしました。布団も持ちこみ、蚊帳も置いてありました。
 艦砲射撃を受けた夜、攻撃が終わった後、妹とその小屋へと急ぎました。その後夜中に海上で米艦と日本船との交戦があり、この時も妹と逃げて行きました。 
 山に行くには峠があります。交戦中の船から撃ち出す腹に響く砲弾の音と、飛び交う物凄い閃光。逃げて行きながらも時々立ち止まり、見ました。
 山に行く道では何組もの家族が避難小屋に急いでいます。
 その晩はどういう訳か、小屋では妹と二人だけでした。暗い中で二人は手を繋ぎ眠りました。私は唯只管妹を守らなければと言う気持ちでいっぱいでした。

 今年のこの日は木曜日 あの16日も木曜日 夏休みの出校日だったと思うのです。早朝目が覚めると直ぐに家に戻りました。戻る途中兵隊が山の下から峠に次々登って来ます。そして峠の東側に何やら運びこんでいました。
どうも何かを埋めている様子です。さえぎる物は何もありませんから、良く見えます。それを左手に見ながら峠に立ちました。
 海の綺麗なこと。16日も晴でした。女学校へは行く必要は無くなったと記憶しております。
 授業が開催されたのは9月上旬に入ってからでした。

 当時の女学生の通学時の服装が「千葉県立安房南高校創立100年史」に掲載されておりました。スケッチですが良く分かります。今の若い人が見たらダサイ~と言われるでしょうね。

        戦中の服装

 救急袋には包帯、三角布、消毒薬、メンソレ、赤チン、絆創膏、止血石などを入れております。
 非常食入れには、糒、要り大豆、金平糖、鰹節の小さくなった物などを入れております。その二つの袋を襷がけにし、通学します。
 16日はその服装に着変えるために早く家へと向かったのです。あの朝の空は綺麗だったな~と思いだしますよ。一晩寝て、もう空襲も艦砲もないと分かったせいでしょうね。気分も爽やかな感じでしたね。
 そして16日の夜からは部屋を明るくして過ごせるようになりました。
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COMMENT

後期高齢者のつぶやき

あい子さん
今となれば大昔(?)のことを良く記憶していますね。感心します。
国民小学校2年生で終戦を迎えた昭和20年で憶えているのは、
●大阪から父母の故郷、徳島へ学童疎開
●疎開した途端、空襲に遭ったこと
●重苦しく聞いた玉音放送
●育ち盛りにも拘わらず、十分食事が出来ず
など、今のワールド・トラベラーとは縁遠く、楽しい想いでがありません。
いずれにせよ、平和は良いですね。

戦争に何も良いことはありません

高(ワールド・トラベラー)さん  お早うございます。
学童疎開はとても大変なことでしたね。疎開児童の文を読みますと涙が出ます。
私も苦労をしましたが、何かあると戦争よりはましだと自分に言い聞かせて来ました。
世界を回った高さん同様平和こそ大事で有難いことだと思っております。

中学2年というと13~4歳。健気でしたねぇ。自分の身は自分で守って、当然のように妹の面倒までみる、、、
私も同じ年で、青島の陸軍通信隊にクラスごと入隊していて終戦を迎えました。
敵が上陸したら、僕は死ぬだろうと思っていたけど、怖い実感はなかったですね。
平和は有難いと思います。だけど「健気さ」を失ったら、守れるかどうか。昭和ひとけたの不安はあります。

時代の子です

直さん  今日は
本当に毎日が無事に過ごせるよう願っていました。両親はその頃北京に疎開しており、祖父母は家を離れず、二人で逃げるようにと言うのです。守らなくてはなりませんでした。死にたくは無かったですね。

相子さま。こんにちは。

戦争はほんとにいやですね。
オリンピックを見ていても、競技に参加している選手には
その間の束の間の平和。
祖国に帰れば、また戦争の日々。などというのを聞くと、
たまらなくなってしまいました。

今、日本で、好戦論的な風潮が徐々に高まって来ている気がして心配です。

少女の相子さまの貴重な経験談。
なにか背筋がピンとする感じで、読ませていただきました。


大事に生きたい

彼岸花さん  今日は
老人はこう暑いと体に応えます。若い時の元気な自分が何処かに行って仕舞っています。
それでもいろいろなことが気になり、キョロキョロと眺めまわしております。
最近の新聞やテレビの内容を考えますと、おかしいと思う時が間々あります。
私にはどうもこれは意図的なことかと思うこともありますね。

こんばんは。

ほんとうに貴重なお話しですし、
語って頂ける方もどんどん少なくなります。
相子さんや同じ時代を身を持って体験なさった方のこと、もっともっと知ってもらいたいと思います。
私は残念ながら人徳がないのか、このような話を書くとめっきりアクセス数が減っていってるのが歴然なので、情けないものです。
私の記憶と言えば祖母に背負われた背中から振り向いた、神戸の夜の真昼のように炎上する光景でした。
そしてその炎の中で、実は父が黒こげになっていたとは、中学生になるまで知りませんでした。

元気づけて頂きました

NANTEI さん  今晩は
そのような辛い経験をお持ちなんですね。とても切なく思います。
私はごく普通の人間でしたが、81歳と言う年齢とある時代に生きたと言うことで、出来れば伝えたいと思う事は書いて置きたいと思っております。このようなお言葉を頂き有難うございます。

戦争や戦後のドサクサのことは何も覚えていませんが、戦争の引き起こすむごたらしさや無意味さは今でも続く戦争の為に良くわかります。善良な民が道端で倒れたり、設備の揃わない病院に担架で運ばれたり、ほんの一部しか見ていないのにそれでもやりきれません。いつまで続のか嫌になります。

平和が一番

ofujiさんv-67お早うございます
戦争はとに角悲惨です。大人は戦場に行かなくても苦労の連続でしたが、何も知らない子どもでも酷い生活を強いられていました。
ある時、敵の戦車に爆弾を背負い、体当たりをするという先生の話に「死にたくない」と言ったばかりに非国民呼ばわりされ、以来睨まれました。そのまま戦争が続いたら今の私は生きていなかったと思います。

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相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日86歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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