2017-10

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皆いなくなった

 1942年の秋 私と妹を連れて日本に帰って来た母の妹 私と12歳違い
 下から二番目の妹が生まれるのを手伝いに青島に来たのです。妹が生まれたあと、暫らく青島の水先協会に事務員として勤めておりました。
 素敵な洋装でハイヒールを履いた叔母の姿 親族は勿論叔母の家族も誰も知りません。
 両親が亡きあと覚えていたのは私だけです。
 
 1943年冬 母方の祖母が急死しました。日本の戦争は深みに嵌っており、戦時体制の生活は様々な形を齎しておりました。祖母の葬儀は祖父がシンガポールにいて帰国出来ませんから、親類縁者を中心に執り行われました。
 仏前に供える物も大したことはなかったと思います。
 
 ブログで何時も学ばせて頂いていますNANTEIさんが「死とNANちゃん」というタイトルで、子どもの頃から向きあった死と言うことに付いて書かれておりました。
 その記事を読み、祖母の葬儀の事を思い出しました。

 町の中心になる辺りの海岸 その岸から100mほど陸に入った、小高い場所に当時避病院がありました。
 病院と言いましても、病院の病室ではありません。和室が幾つかあり、そこに伝染病に罹った人が隔離されると言う場所です。
 その避病院に隣接した火葬場がありました。祖母を火葬にする前 家族や親せきで火葬用の薪を運びました。
 私も手伝いました。
 火葬の日 祖母を薪を積んだ上に寝せました。そして火を付けたのです。
 風は北から吹き寄せそれだけに寒くて、私は叔母の傍で煙が上がるのを待っておりました。
 やがて煙が煙突から出て来ました。風に乗って南へとなびいて行きます。
 母の妹二人と私は抱き合い、「煙はシンガポールへ飛んで行ってるのだ」と号泣しました。
 
 その青島から一緒に帰国した叔母の葬儀は2010年12月23日に執り行われました。
 葬儀は昔ながらの葬送です。

     葬儀1  葬儀2

 叔母の下の叔母 母の一番下の叔母 一緒に抱き合い泣いた叔母も今年亡くなりました。
 両親の弟妹とその連れ合い 全部別れて旅たちました。
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COMMENT

私も両親の兄弟もう誰もいないですね
おじ・おばはすでになく従妹も何人かは鬼籍入ってますね 母が母の兄弟で一番末っ子で齢も叔母・叔父とはかなり離れてますので従妹たちには最後に残っているおばですかね

父と兄のお葬式もこのように隊列を組んで葬送を行いましたね この辺では野べ送りって表現ですが 先頭がお庚申仲間で後に旗がつづき親族でしたね これも持ち物が細かく決まっていて最初の時は焦りましたよ、まあ葬儀は一番ややこしかったの思い出しましたよ、まあ何回も喪主やることもないのでね 普通だと私なんかは次男ですので喪主やらなくて済んだんですが運命は分からんもんです

葬儀は大変ですね

EGUTI YOUSUKE さん  今日は
矢張り野辺送りでしょうね。母の葬儀の時はお寺に行く道中、多くの家で門の外に出て来て送って呉れました。
父の時は献体でしたので、遺体は大学病院に運ばれ、その後解剖が済んだ後、大学で合同慰霊祭をして下さいました。
昔は部落中の人が集まり、仕切って呉れました。今は葬祭場が出来たので、簡単になっています。

相子さん こんばんは~ 私の母は火葬でしたが
『生きている時は1日でも1分でも長生きしてほしいと願うのに、亡くなったとたんにもう火葬の準備。。。なんで2日前まで生きていた人を、もう焼かなあかんのん!』
と悲しかったです。

祖母の時はこのように列を組んでお墓まで行きました。 長い念仏の後、土の下に埋葬しました。

時代により所により風習はちがいますね。

私は自然が好きなんで、草原のお花畑にでも粉にした骨を散骨してほしいです。

海が好きな人も海にと言われますね。 ただ正式には撒く場所がきめられているらしいですが。。。

考えますね

すずらんさん  今晩は
親族特に親の亡くなった時は辛いですね。
ですがけりを付けないといけないので、悲しさを抑えて葬儀をしますね。
今は大きなかたちは避けられて来ています。
仰る通りいろいろな方法が考えられますが、法に従わなくてはなりませんね。
希望が適うと良いですね。

積み上げた薪の上に、ご遺体をのせて火をつけるのですか?そういうのは見たことがありませんので驚いています。火をつける人の心情はどんなものだろうと・・・。少しずつ知り合いや血縁者が旅立つのを見送るのも寂しく辛いものですね。いずれ、皆が行く道ではありますが。

こんばんは。
私も母親を55歳で亡くしましたのであの時はほんとつらかったですね。死期が迫ってきていることを分かっていたのでそれぞれに別れの言葉を伝えてました。そして私に対する言葉はなかったのです。目を見つめて手を握るそれだけでした。でもそれだけで何をいいたいのか不思議とわかりました。私だけがあと一週間くらいだとわかっていたんです。そしてその通りになりました。しかし今でも私の心の中には元気な母親は生きているんです。

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相子さん おばんです。

いつの間にか還暦間近・・・そろそろ準備もしておかねば・・・・・・。笑)

どうしようもないのです

りょうこさん  ようこそ
悲しいことですが、人手もなく皆でする以外になかったのです。非常時ってこういうことですね。
勿論火葬場ですから、野天でするわけではありません。釜はあります。準備をするのが部落の人や、親類縁者です。
薪はリヤカーで運びました。

歳月が要りますね

あかちん さん  今晩は
母親と言うのは特別ですね。私は母亡きあと数年は毎日心の中で母と話しておりました。思わぬ日は一日もありませんでした。

有難うございます

鍵コメさん  私でした。通じて良かった。
宜しくお願い致します。

それは未だ未だ

ひげ さん  今晩は
私は恐ろしくなくなりました。若い時は考えるのも怖かったですね。

僕も親兄弟は皆、亡くなりました。
親の代から親戚付合いをしなかった方ですから
僕が亡くなる時は、家内か子供のみですね

葬式はそんな状態ですから、しごく簡単にと言ってます。
団地の葬式も、シキビを出して葬式する事がここ2、3年殆ど無くなって
家族葬ばかりになり集会場での葬儀は閉め切ったままです。

母親を介護して残りの人生観も変わりました。
誰れかに喜んで貰える事で、周りの方の笑顔が見れたら幸せかな
そんな老後を考えるようになりました。

色々と考えます

メタボ夫婦 さん  お早うございます
此方でも状況は同じです。
いつの間にかご近所の老人の方を見かけなくなり、既に何カ月も経っていたなんて話が多くなって来ました。
家族だけで送るのが一番だと言う方が増えています。
高齢な私たち夫婦は如何に娘たちに負担を掛けずに過ごせるかが問題で、健康に注意して過ごしております。

年をとるというのはこういうことなのですね。
まわりの親しい人たちがだんだんといなくなってしまう。とても悲しいことなのに当たり前なのですし。父が亡くなった時、二度とこの悲しみは嫌だと思い、次は私が逝きたいと言って母にひどく叱られました。そのははもいなくなり、兄弟が皆元気でいる幸せを今感じています。

それが当り前

ofujisan さん  今晩は
歳をとると言うことで周囲の環境が変わって行きます。それは万物同じではないかと思っています。
自然に受けとめるだけですね。
私も弟妹が皆70歳を超えた事で、感謝をしています。

こんにちは。

遅くなりましたが、拙記事を紹介していただきまことに有難うございました。

私よりもっと過酷な経験をなさった方は、多い筈。
相子さんもそのお一人かと思います。

親族を失ったのはまだ物心つかない頃の事。
また変死を目の当たりにしながら、未だにいい加減な日々を送っているのも、
経験が何の役にも立っていなかったのでしょう。
大いに恥入っている次第です。

こちらこそ有難いです

NANTEI さん  今日は
事を話すきっかけを頂き、感謝いたしております。
NANTEIさんのご経験を重ね、子ども心に焼きついている事をあれこれ思い出しました。
その時々の時代なども一緒に考える機会ともなりました。
人は世につれと思っております。

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相子

Author:相子
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相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日86歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

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