2017-08

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コッぺパン

 私が上京したのは1948年4月 未だ戦災の傷跡を都内至る所で目にしました。 
 風景ばかりではありません。盛り場と言われる所 例えば渋谷・池袋・上野等々では焼け跡にバラックが立ち並んでいたり、銀座や新宿などでは道路の両側にはぎっしりと露店が並んでいました。露店では闇と言う正規ではない品物が並び、人々はその闇の物を買って生活のやり繰りをしていました。そうですね。酷い物では吸いかけのタバコを再生した物も売られていたなどと聞いておりました。モク拾いと言う言葉がある位ですから、タバコのことは深刻だったと思います。
 他方闇成り金なぞという言葉も聞かれ、生活者のレベルも様々でした。

  昨日都内の風景に少し目をやりましたが、立派なビルが立ち並び、その窓から見える多くの品物。
  あの時代の風景は探そうにもありません。有ったら大変です。
 
 一人暮らしが始り、自炊用の米は配給 足りない分は家から送って貰う「旅行者用外食券」がとても有難いものでした。
 ですが、その分親元では配給が減らされるのです。
 外食券一枚で外食券食堂で一食ご飯が食べられます。また一枚で麺類も食べられます。
 パンは外食券一枚ですと食パンは6枚切りの2枚。コッペパンですと一個です。タダではありませんよ。お金を払います。
 でそのパンですが、店頭にジャムとマーガリンの函があり、そのジャムかマーガリンなどを塗って貰えます。
 確かその分は数円プラスになったように記憶しております。
 コッペパンは東京に出て来て初めて目にしました。
 
 コッペパンは戦時中に必要に迫られて作られたものだと知りました。
 
 先日の「ある戦中生活の証言」にコッぺパンのことが描かれておりました。

        戦中のコッぺパン

 著者の説明

         コッぺ物語
 ある時、仕事から帰ると、膳の皿の上にコッペパンがのっている。珍しいな。どこでもらったのだ、というと「いまどき、どこにくれるうちがあるものですか。これは主食代わりの配給です」と妻君が答えた。
 食糧事情の窮迫は、いまに始まったことでもないが、こうしたかたちで目の前に突きつけられると、いっそう味気ない思いがする。「そうか。たまにはパン食もいいが、しかし、これ一個で一食じゃちと足りないな」というと、妻君は無知な夫をあわれむ目つき、「いいえ。それ一個が一食じゃありません。それ二つで一日分です。もう一つ上げときますから、自分で考えて三食に分けて食べて、足りなくとも明日の晩までがまんなすって下さい。食べ過ぎちゃって、どうかしてくれ、何かないかなんていったってわたしは知りませんよ。これっきり、うちにはほんとに何もないのですから~~~」と、も一つコッペパンをでんと置いた。
 でんと置いた~~~とはいっても、コッペパンの大きさは、こぶしの大きさあるかない片々たるものだ。これ二個で明日の晩までとは、ずいぶん辛いことだなと思いながら、ともかくむしって食べてみる。
 もそもそと、味もそっけもないパンだ。が、そもそもパンというものが、幾月振りかで珍しい。第一、腹がすいている。そのまずいパンをも少し、も少しと一個は完全に食べつくし、残る一個も半分食べてしまった。さっきから、そばで心配そうに見ていたアポが、「お父ちゃん、それであしたどうするの」といった。
 まことに、自分が明日の夕方まで、露命をつなぐ食物としては、食べ残しのパン半分しかない。しかし、まさか明日の夕方までは、飢え死をすることもあるまい。水など飲んでがまんしよう。
 それにしても、父親の餓死を案じて呉れたのはアポ一人であった。妻君は冷然としている。亭主が飢え死してくれぬかと、内心待っているのかもしれない。


 コッペパンの話になりますと、我が家共通の話題になります。一つは食べた経験ですね。
 食べ物がなく、苦労した事の中で出て来ます。
 夫はお店の女性がジャムを沢山塗って呉れるので、職場の仲間が夫に買いに行くようにと頼んだと言うのですね。
 (へ~とか言いましてね。ちょとからかいます) 
 私は何も付けずに食べたことが多く、部室で誰かが持って来たバターを皆で分け合い付けて食べたことが思い出されます。その部員の仲間は私ともう一人台東区で教育長を最後に退職した真田重行さんだけ残っています。これが現実です。
 下のスーパーでコッペパンが沢山並んでいます。パンは食パンを偶に買いますが、コッペパンは買ったことがありませんでした。 
     最近のはどんな物かと試しに買ってみました。

     コッぺパン  コッぺ二個

 ソフトな食感と言う言葉が一番でしょうか。ですが特に食べたくなるほどではありませんです。
 私の中のコッぺパンはそっけない所がコッペパンなんです。
 ハンバーガーのように色々挟んで食べると言う方法も有るわけでしょうから、多様な食べ方ができましょう。
 現在の学校給食のコッペパンの味はどうなんでしょう。
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COMMENT

この辺の話になると分りませんよ
戦後食糧事情の酷さを語れる人貴重なんですよ 経験してるから言える事ですよ
農家じゃない人はコメを擦ったフスマを団子にしたって事は小学生の時に教わりましたよ

この飽食の日本で勿体ない精神は何処に行ったかな、人間て贅沢すればキリがないですね 私は分相応って言葉好きなんですよ

コッペパン、聞いたことがあります。そのパンになにか美味しいものをはさんで売っているのでしょう?専門店みたいにしてると聞いたような気がしますが、戦後すぐのはジャムかマーガリンを塗るだけだったんですか。育ち盛りには辛かったかもしれないと感じます。

日本中が貧しかった

EGUTI YOUSUKE さん  今晩は
戦後の食糧難はそれは大変なものでした。
戦時中も物資不足で苦労がありましたが、食糧不足は46年から48年頃まで日本人は東奔西走し、食糧調達。
我が家は引き揚げですから、物々交換する品物がありません。それだけに両親の苦労は並大抵ではありませんでした。

学食も直ぐ売り切れ

りょうこさん  ようこそ
その頃は多くの人がお腹を空かせていました。食堂でも外食券がなければ食べられませんから、闇で外食券を買うのです。確か5円だったと思います。
コッペパンには何も入っておりません。今は色々な物を加味。業界は競っています。
コーヒーにはサッカリンを入れて飲んだりしましたよ。46年頃は都内では雑炊屋が繁盛していたのです。信じられませんでしょ。
それでも畑の物を盗むなんてありませんでしたね。今はそれがどうでしょう。サクランボが盗まれたり、この数日は豚が大量に盗まれたりしています。

相子さま♪
おはようございます^^

コッペパンは給食で時々、出てきました。
不味くはなかったと記憶しています^^;

以前TVでコッペパンにいろんなものを挟んだり、塗ったりして売っている昔ながらのパン屋さんの事をやっていました。
焼きたては美味しそうでした。。。

相子さまの中のコッペパンにはこのような思い出があったんですね・・・

豚を大量にって、どうやったら盗めるのか不思議です。 皆、何もなかった頃がお互いに助け合い信じあっていたのかもしれないですね。アメリカでも、スラムに住む人同士が少ないものを分け合っているという話を聞いたことがあります。

大事な一個でした

Paganiniさん  お早うございます
昔のコッペパンは小麦粉も悪く、今のようなパンのようではありませんでした。
今は菓子パンか調理パンのような感じですね。
配給のお米の代わりに豆や、小麦粉、時には砂糖など配給されるのです。
どこの家でも工夫しておりました。赤ザラメが配給されたので、カルメ焼きが流行りました。カルメ焼きってご存知かしら。

同業者?

りょうこさん  ようこそ
豚は出荷する直前のものばかりが狙われていたそうです。千葉県東部の町ですが、25頭・18頭・13頭と連続して盗まれていたそうです。
トラックで乗り付けていたそうです。
このところ豚の病気があって値が上がっているという背景があるのではと解説されていました。
この機会をとらえ儲けようという、実に不愉快な事件です。
人心の質の低下が起きているのでしょうか。

相子さん こんにちは・・・。

小学校の給食パンを思い出しました・・・つけるのは、ジャムかマーガリン・・・何故か、余分に貰って学校帰りに啜っていました・・・。

パンも味も素っ気も無い物でしたが、長くかんでいると甘~くなってきましたね・・・。

そっけなかったですか

ひげさん  今日は
給食はコッぺパンから始まったと言って良いようですね。
余ったのを貰ったのでしょうね。
そう言う事は覚えているものですね。

最近、空腹を感じる時がありません。目の前にあるから食べてしまう、時間だから食べなくてはと、考えてみるとこれも贅沢ですね。今、食糧難という言葉をよく目にします。
空腹なのに食べ物がないとは、想像できません。不安です。

そう思います

ofujisan さん  今晩は
贅沢ではないでしょうが、毎食キッチンと食べられる事は有難いことです。
戦争末期のこと、また戦後の食糧難時代のことを思いますと、日本は大きく変わっています。
ですが、何時飢饉が来るかも知れません。その時は先人の知恵は途絶えているかも知れません。色々なことを知って置きたいと思います。

こんばんは。

いつも貴重な戦中、戦後のお話し。
膝を正して拝読しております。

私の終戦直後は、米軍から支給された軍用乾パンでした。
私の住んでいたところは進駐軍の住宅地として接収されたものですから、
外れの我が家にも懐柔のためかジープがやってきて、
乾パンを幾缶か落としていきました。
コッペパンは小学校の高学年あたりからだと思います。
給食によく出るようになりました。
野菜だけのミルクシチューがオカズで、私たちはコッペパンをくりぬいて、
シチューを流し込みそれを丸かじりしていました。
私、いまでもバターピーナツを挟んだコッペパン好きです^^

日々変化の時代

NANTEI さん  今晩は
そう言う地域もあったのですね。
戦後多くの人が色々な手立てを使い、食糧確保に奔走しました。
東京で闇米を売る為に担ぎ屋もおりました。
途中駅で一斉取り締まりがあり、没収されたものです。学生は少しですから見逃して呉れました。

コッペパンにシチューを流しこむって美味しそうですね。

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Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
5月1日86歳となりました。何かと物忘れが多く、足腰も弱くなって、杖が手放せません。今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

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