夕べのテレビ
2017/06/10 (Sat) 22:25
夕食は8時少し前ですから、7時過ぎに終えればとテレビに背を向けて書いておりますと、何やら懐かしい声や言葉が聞こえてきます。オヤっと思いますと、夫が「八大さんだよ」と声を掛けて呉れました。
アップも終えて直ぐにテレビの前に座り画面に目をやりました。
昭和は輝いていた 第185回 「永六輔3時間スペシャル」と言う番組です。
この番組は時々見ていますが、昨日は3時間ですよ。
食事の準備が未だでしたが、コマーシャルの長いこと。その間を使い急いで作ってテーブルに並べ、食べながら見ました。
懐かしい話や歌、そして歌手の姿が出て参りました。 武田鉄矢さんの舞台回しで番組が進んで参ります。


話は知っていることも多く、懐かしさも一入でした。最後に近くなって来た時、永さんのお嬢様が永さんの日頃使われていたノートを出され、それは永さんの性格を表しているノートでした。

最後は加藤登紀子さんに永さんが送られたと言う詩に加藤さんが曲を付け、ギターを弾きながら歌いました。
番組の中で八大さん作曲の歌や、それにまつわること等、永さんや九ちゃんとのこと等、色々と出て来ましたが、羊会でお聞きしたことも多く、改めてそうそうと頷き見ておりました。
番組はご覧になった方も多いのではと思いますが、チョト「八大さん」のことに触れたいと思います。
下の写真はテレビの中でも出て来ました、ピアノを弾く小学生の八大さんです。

八大さんのお父様は青島第一日本小学校の校長先生で、校長官舎に住まわれていました。これはその家の応接間でしょう。
彼は身体が弱く、虚弱児童のクラスでしたが、ピアノの演奏は有名でした。彼の説明によりますと、ピアノは小学校入学後から習い始めたそうで、バイエルは3か月で終わったと話しておりました。
昨日のテレビでは彼が小学生の時、日本にピアノ留学したことも出ました。その日本に行く時、私達学年の全員で青島ふ頭に見送りに行きました。
その後青島に戻られたのですが、その時には校長先生は居留民団に移られていましたので、第一小学校に戻らず第二小学校に転入したのです。

この家は八大さんが日本から戻られた時から引き揚げて来るまで住んでいた家です。友人から送られて来た2009年2月の写真です。
彼には見せて上げられませんでした。
八大さんが亡くなり、一周忌の集まりが永さんはじめ多くの方のお世話で盛大に開かれました。
昨日のテレビで紹介された方も沢山お見えになりました。

左に私がおりますが、その後ろに石井好子さんの姿があります。この時石井さんのお話しに皆が感心しました。
八大さんは久留米に引揚げ、そこから早稲田に入ったのですね。石井好子さんのお父様が久留米の方で、どういう事情かまではお話しになりませんでしたが、石井さんは「ある時私のピアノを勝手に弾いている人がいるのですよ。失礼だと思って見に行きましたら素晴らし腕の男性が弾いていたの。そこで私は許して上げ、これからも弾いて良いわよと言ってあげたのが八大さんだったのよ」と仰ったのです。
ここには写っておりませんが、水の江瀧子さんがお見えになったのです。水の江さんは若い歌手を圧倒するほど存在感がありました。
多くの方が演奏し歌い賑やかな年忌となったのです。
八大さんの青島のピアノの事ですが、茅ケ崎にお住まいになっていた校長先生を祖父江孝男先生と一緒に訪問をしました。「外地育ち」と言うことを「県民性」と言う本の中に書きたいと言う取材と言いますか、中村先生が実際に経験なさったお話をお聞きしに行ったのです。
その時、あのピアノがあり、中村先生は事情を説明なさいました。
中村先生が民団に移られてから、日本の戦況が悪くなって来ていたのですね。
軍は在留邦人に灯火管制を命じたそうです。
そして中国人にもそれを命じるように中村先生に指示したのですが、中村先生はそれは無理だと言葉を返したのだそうです。
そこで軍は中村先生の即刻帰国命令を出し、先生は帰国されたのだそうです.。
ご家族は戦後引き揚げて来たのですから、先生は単身帰国なさったのでしょう。
その後(多分戦後)中国の方が中村先生の恩を感じたのでしょうか、ピアノや他の物とを送って下さったのだそうです。
八大さんのお兄様は二大さんと言います。八大さんも二大さんも真ん中で線を引くと左右同じになるのはお父様の考えだったそうです。
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