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2021-05

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さつま芋話

 昨日おまけに貰ったさつま芋 さてどうしようかと考えたのですが、いい知恵が浮かびません。
 そこでとに角蒸して置こうと、今朝全部を蒸しました。

        おまけ芋蒸かし

 蒸し器は大きいので一度で蒸すことが出来ました。
 軟らかい味は老人向きですね。
 多分焼き芋にすれば味に深みも出て良いのかも知れません。

 一遍にこんなに沢山蒸したのは、70年振り位ではないでしょうか。
 戦後我が家では家族が増えましたから、さつま芋を炊き込んだ芋飯だったり、蒸かしたのをそのまま食べたりしましたね。
 竃に蒸かしたさつま芋の入ったお釜が掛けられていましたのですが、その時の量は可成り多くお釜一杯と言う感じでしたよ。

 多くの方が記録していますが、戦後の食糧難はそれはそれは酷いものでした。
 お米の配給は滞りがち。それも充分ではありません。お米の代わりにさつま芋も配給されて来ました。時には小麦粉だったり、砂糖だったりしましたよ。
 配給は無料ではありませんよ。払うのですよ。今の方はタダだと思う方もあるようですがね。
 
 さつま芋は昭和24年(1949年)頃も未だ配給になっていましたね。
 大学の女子寮でもさつま芋を配給で貰いました。寮生活は自炊ですよ。
 当時移動証明と言っておりましたが、今の住民票のようなものですね。
 親元を離れて暮らす者は住む場所の役所に移動証明が出されていないと、お米の配給が受けられません。
 お米は管理人室に受け取りに行きますが、さつま芋は管理人が、それを廊下に一人分づつ並べて置いていましたね。
 それを各自取りに行き色々工夫をして食べたものです。

 チョッと話が変わりますが、今日は体操の日でした。50名程の参加者でしたね。
 体操が終わって外に出ましたら急に強い寒さを感じましたね。寒気が押し寄せて来ているのでしょうか。
 もう買い物もしたくなく急いで家に戻って来ました。

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サツマイモ

我家に、数週間前からサツマイモが1本だけあるります。
どうしようか迷っていたのですが、今日、決心がつきました。
蒸して食べます。

一本ね~

醉華さん  今晩は
蒸すのですか。味噌汁にも良いですよ。

こんばんは。

サツマイモもジャガイモも、戦中そして戦後しばらくは主食でしたね。
男がみな戦死または爆撃で失った我が家では、
祖母や伯母が狭い畑にイモ類を植えて、食料難をしのいでいました。
祖母たちは闇市でリュック一杯の食糧を担いで来たその電車の中で、
警察の臨検を受けてそっくり没収されたそうです。
なんとも痛々しい話でした。
芋、藷、薯・・・。
畑で育てるたびに、思い出していました。

いつも貴重なお話、心に沁みます。

配給は全然知らないですよ、農家だったせいかな
s25年生まれだからだいぶ良くなってきていたのかな
普通配給って言えば国で支給してくれるもんだと思う方多いでしょうね、私だってそうですからね
農家だから自給自足が可能だったのかなとも思いますね ヤギの乳も抵抗なく飲んでいましたよ

過酷な時代

NANTEI さん   お早うございます
田舎でも植えていましたが、都内でも空き地と言う空き地に芋や南瓜を植えていました。
食べることに必死でした。
夫と良く話すのですが、没収された物は役得で彼らが食べていたのではないかと思います。その没収した品物の行方を書かれたものを見たことがありませんからね。

ご存知ないですよね

EGUTI YOUSYKE さん お早うございます
配給制度はは随分長くありましたが、多分純農家はなっかたのかも知れません。
唯食糧難は26,7年頃まででしたね。
私の下の妹などは配給を知りませんね。

配給所

そういえば子供の頃には
米屋さんを配給所って言っていた様な?
今は死語でしょうね。

そうですね

ご隠居プーさん さん  こんにちは!
ハイ お米屋さんで配給米を受け取りました。
実家のある町では米屋は統合されて一か所だけになり、町中の人が其処に買いに行きました。ですから時間が掛かり、時には数時間も待つときもありました。
疎開した夫の田舎(佐賀)でもそうだったと言っております。

繰り返したくない時代ですね。

こんばんは。
配給は未経験ですね〜戦後生まれと云うこともありますが、田舎では「供出」はあっても、食べることに困ることはなかったのではないかと思います。
親の世代の話にも「配給」の話はほとんど無かったような。。。
もし事が起きるような事態になれば、田舎への締め付けは前にも増してきつくなるでしょうね。従兄弟が心配してました。都会の高層住宅では、耕せる庭もないし、プランターではできる事が限られるし、、、
平和が一番ですね!

辛い時代でした

yokoさん ようこそ
ハイ 配給は大きな農家以外は受けていたと思います。
主食は一番大切でしたが、18年から19年頃には子どものお菓子も月に一回だけ。
戦後は東京では、魚もお肉もラジオで放送されて、その区の配給が知らせれていました。
銀シャリとか純米と言う言葉も囁かれ、白いご飯は普段は食べられず、運動会でもおにぎりを持って行けない家もありました。
平和が一番です。

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Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
2018年5月1日87歳となりました。物忘れ言い間違いは益々多くなり、足腰も弱くなって、杖が手放せません。気も短くなり今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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