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2020-02

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和泉丘の七十五年

 明治大学の校舎は駿河台校舎・杉並区の和泉校舎・川崎市の生田校舎の三か所に分かれております。
 和泉校舎に予科が移転したのが1934年。思えばその時私は三歳の幼児です。
 1949年その和泉校舎に通うことになりました。丁度60年前になります。戦後日本の学制は敗戦の後、米国の学制に倣い変わりました。当時はその変った制度で開設された大学を新制大学と言い、それ以前の大学を旧制大学と言いました。
 1949年の入学生は新制大学での最初の学生となりました。
 予科校舎だった和泉校舎には新制大学の6学部の学生が入学しました。数は4000名位ではなかったかと思います。

 先日「和泉丘の七十五年」という記念誌を頂きました。1934年からの和泉校舎の歩み、資料、将来への期待。多くの内容が詰まっております。1959年に発足した学生相談室に関わったということで私も記事の協力者の一人として末席を汚しており、そのことで頂戴しました。

                 75年誌

 古い話は出来ませんが、1959年当時の和泉は校舎は3階建て、校庭は狭く体育実技の授業はクラス全員が輪になってボールを投げ合うような程度の物でした。
 授業は殆ど毎日6時間。1時間が50分。予科時代の名残か大学という感じではありませんでした。
 私のクラスは月曜日は6時間全部が語学。実力の無い私は息切れがするような一日でした。
 女子学生は1%に満たなく、先生方から随分優しくして頂きました。
 とに角発足した新制大学の初年度と言うことで、先生方の張り切りようは物凄く、忘れられません。
 明大前の駅周辺には外食券食堂がありましたが、他にはあまり物を売る店舗はありませんでした。 校舎の東側に明雅堂という本屋とその隣に小さな食堂があり、甲州街道を挟み駅側の西角に靴の修理屋さんがあり、その店のご主人は大学の中で商売をしておりました。

 校舎の配置は校門を入るとすぐ右に元の武道館があり、そこは合同授業に使われました。そこでの講義は政治学を若き気鋭の藤原弘達先生が、体育理論はずーずー弁の出口林次郎先生が、また社会学の泉靖一先生などが印象に残っております。
 甲州街道は狭く、今のような歩道橋などなく、駅からの道は雨が降れば泥んこ道。
 学生服は配給の切符がなければ買えません。クラスに10枚ほど割り当てが来ます。お粗末なものです。
 食堂は二か所ありましたが、すぐに売り切れになってしまいます。
 話せばきりがありません。そのような時間を一緒に過ごした仲間の結束は固く、多くの方の消息が分かっております。
 すでに鬼籍に入られている方も多く、60年の時を経て和泉は遠くになって来ております。
        
                         (次回につづく)
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相子

Author:相子
「相子の四方山話」へようこそ。
相子こと持永あい子は見たがり、聞きたがり、知りたがり。
2018年5月1日87歳となりました。物忘れ言い間違いは益々多くなり、足腰も弱くなって、杖が手放せません。気も短くなり今や老化を辿るブログになってきております。
長女夫婦とその娘(上の孫)二女夫婦とその娘(下の孫)が近所にいます。

趣味 旗袍(チャイナドレス) 

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